「武政…?」
三露が本堂の床板を軋ませたとき、周囲の空気は凍り付いていた。座り込んだミサ、その傍に倒れ込んでいる武政。二人を前に、皆揃って瞬きさえ出来ずにいる。
「武政!」
三露が駆け寄っても、傍に膝をついても、武政は呻き声ひとつ漏らさない。静かなものだった。静かすぎるくらいだ。耳を澄ませても呼吸ひとつ聞こえてこない。三露は息を詰めた。
「どうしよう」
三露の思考を読み上げるように、横から声がした。震えるようなミサの声だった。
「ミサ?」
「私が何も考えずに飛び出したから、だから…!」
ミサは動揺しきって震えている。三露が言葉に詰まっているうちに、縋るように三露の服を掴んできた。
「お願い、きさらを助けて…!」
三露は武政を見やる。どれだけ待っても動かない。喉を震わせない。震えているのはミサであり、自分だ。三露だって武政を助けてくれと誰かに縋りたい。何も出来ない自分に代わって誰かに助けて貰いたい。
―――今ここに、一乗寺が居てくれればよかった。
彼は武政と共に医大を出ていた。医師免許も持っていたはず。手当てなり介抱なり、いくらでも手を尽くせる。しかし一乗寺はすでに居ない。三露の父の手にかかり、この世の人でなくなった。
―――そうでなくとも、京が居れば。
彼女は治癒が出来る稀少な術者だった。京がここに居てくれさえすれば手の施しようもあった。そう思って浮かべた京の表情が、笑顔に始まり、終いに能力をなくして涙している姿になる。喉奥から熱いものがせり上がり、三露はさっと思考を打ち切った。胸の奥が苦しい。いつもそうだ。いつも気づいたときにはすべてが遅く、今も武政を助ける術を知らない。
「僕がもっと早く…早く来ていれば」
後悔が堰を切って溢れる中で、三露は影に引き留められた数十秒を憎んだ。それどころか影にのこのことついて行った己が憎い。何故素直に二手に分かれてしまったのだろう。自分なら何とかできると意気込んだのか。その結果がこれなのか。なんとも情けないことだった。
「僕がもう少し早く来ていれば…、」
だが、三露は言葉半ばに口を噤んだ。
早く来ても、どうせ自分には何も出来ない。何が出来たというのか。今でさえ何も出来ないというのに、と思い至ってしまったからだ。
まるで三露の非力さに相槌を打つように、耳慣れない声が本堂に響いた。
「そう、君が来たところで何も変わらない」
三露は瞬く。顔を上げると、不敵に笑った男と目が合う。自分と同じ顔を睨みつけながら、父か、と思った。だが違和感があり、睨んでいるうちに金色の光に気がつく。男の髪は光を灯したような金色だった。
「まさか…総帥」
三露の喉が大きく鳴った。


総帥は笑う。数時間前に見た父と同じ服、同じ容姿、同じ顔。
違うとすれば光る金髪と、優しそうでいて腹の奥に一物抱えていそうな深い笑みだ。
「宿主、せっかく君を後回しにしてあげたのにどうしてここにいるのだろうね」
「後回し?」
総帥が三露から視線を外し、ちらりと戸口を見やる。鋭く冷たい色をした目は、影に注がれていた。目線を逸らされたはずの三露でさえ竦み上がる目線の先で、影は片膝をつき、叩頭していた。申し訳ありませんと、ただただ総帥に頭を垂れている。
「構わない。はじめから期待などしていないのだから」
総帥は影に微笑んだ。しかし影は顔を上げない。そんなやりとり割って入るかのようにして三露は声を荒げた。おそらく自分は聞きたくないのだ。いずれ影が男のことを何と呼ぶのかを。総帥、と今にも言い出しそうな唇が許せない。
「何故あなたは僕と」、三露は口早に言い放ち、ちらと顔を覆ったままのミサを見る。「僕と彼女を呼び出したのか」
総帥は呆れたように肩を竦めていた。
「言っただろう。後回しにしてあげたのだよ。私はそこの天使がとても嫌いでね。私が長生きをするのが許せないそうで、けれど自分はその娘を長生きさせている。贔屓だと思わないかい。だから天使も、その娘も、私は嫌いなのだよ。君も、ね」
細められた総帥の目には、僅かに嫌悪が滲んでいる。しかしそれも刹那のこと。三露が瞬き一つすると、すっかり元の笑顔に戻っていた。
「それに比べてこの身体の持ち主は単純でとても好きだったよ」
「……彼は?」
問うのもおかしいかもしれない。三露自身、満月でもない夜に総帥が現れている意味はわかっていた。おそらく父は身体を乗っ取られたのだ。
「彼はもういない。あの男は時を逆行していたから、取り込むのは造作もなかったよ。おかげで私だけの身体を手に入れられたところなんだ」
そうか―――三露はそんな感想しか浮かばない。父親が死んでも、何の感慨もない。
「僕の中に宿していたもう一人…鬼は、本当は鬼ではないというのは?」
「さてね」
三露が総帥を宿したとき、同時に鬼という人格も降ろした。総帥が遥か昔悪い鬼を退治しきれず、体内に取り込んで浄化しようとした人格。今なお浄化しているから、総帥と切り離せず、三露が一手に体内へ宿すことになった。
それが本当は鬼ではなく、悪でもなく、ただの一人の男だったと知ったのは昨晩のこと。鬼本人から聞かされた。今その真偽を総帥に訊ねても、総帥は否定しなかった。それどころか悪びれることなく、「そもそも鬼とは?」と訊ね返す。
「鬼が化け物だと言うなら、私もあいつもとっくに人ではないだろうよ。人ではこんなに長く生きられない」
「人の枠を超えてまで生きて、あなたは何をしたいんだ」
「…永遠を求めて何が悪いと?」
悪びれない様子に、三露はゾッとした。総帥はそれが当然だとばかりに語る。傲慢だ。摂理を覆してまで生きようとするのは強欲すぎる。三露には、他人の生気を吸い取ってまで生きるなんて間違っているとしか思えない。
「……あなたが京を殺したというのは…?」
しばらく返事がない。ようやく応えがあったと思うと、総帥は涼しい顔で言う。
「ああ、あの子のことかい」
やっと思い出したと言わんばかりの態度だ。京のことを殊更覚えていたわけではない。首を捻っている総帥は、おそらく顔もろくに覚えていないのだろう。三露の頭にいっぺんに血が上る。
「あなたが京を殺した」
「それは違うよ宿主。私は彼女が"疲れを取り除いて欲しい"と言うから能力を奪っただけ。その後の衰弱や死は、私の関知しないこと。それに、悪いのは本当に私かい?」
「何…?」
「君は?」
三露が瞬いているうちに、総帥はまたも問う。「君こそ悪くないかい」、三露は不意に喉が苦しくなる。あの満月の日、三露が京を総帥と二人きりにしてしまった。だから京は死んだ。
「それは…」
「言い訳かい?」
―――本当に何もかも、僕のせいなんだ。
憔悴していく三露の耳に、高らかな総帥の声が響いていた。
「本当なら、君も私の糧となっていたのに」
三露は力強く首を横に振る。三露はそんなことのために生まれてきたわけではない。目の前の総帥を身体に宿したのも、影にしつこく総帥と呼ばれてきたのも、三露が望んだことではなかった。「僕は…」、萎縮しきった三露の喉が勢いまかせに声を絞り出す。
「僕はそんなことのために生まれてきたんじゃない!」
ポケットから手早く紙片を掴み出す。符だ。普段財布に忍ばせているものを、影に連れられる前に衣服へ直に突っ込んでおいた。それを総帥に投げ付け、呪を唱える。三露は決して糧になるために生まれてきたのではない。そして、三露の仲間もだ。
ただの薄紙はまるで矢や金属プレートのように風を切り総帥目がけて飛んでいく。符は総帥を真二つにせんばかりの勢いだ。しかし結局、鼓膜を弾く軽い音をたてただけ。見ると符は総帥の指の間で力なくしなだれている。
人差し指と中指に摘まれ、それまでの勢いが嘘のように風にはためいていた。
「ならば私を倒すためとでも? 君に何が出来ると?」
尋常でない術のいなし方に、三露の頭からサッと血の気が引いた。反射的に口と指を動かし、再び攻撃に出る。
「ナウマク サンマンダ バサラダン カン」
総帥目がけた第二撃は先にも増して勢い良く、あっと言う間に総帥の顔面に迫った。避ける時間もないはずだ。しかし総帥は避けようともせず、指先で弄んでいた紙片を前に突き出しただけだった。
それだけなのに。
「そんな…」
儚く霧散していく術。総帥は符を己の前に突き出しただけ。口をろくに動かさず、ただ呼吸をしていただけ。何を言う暇もない。そのうえ総帥の指に挟まれているのは、三露の符で、攻撃用の呪文をしたためてあったものだ。それがどうして三露の第二撃を物ともせず、掻き消してしまうのか。
三露が驚愕しているうちに、白い符が総帥の指先から放り出された。風に乗り、左右に往復しながらひらり、ひらり、と三露の足元へ舞い落ちる。おのずと符に目が奪われる。
「…白紙」
見ると白い符は本当に真っ白だった。しかとしたためてあった筆の跡がまるでない。
―――人間技じゃない。
思い知る。総帥は組織の頂点であり、対する三露は総帥の"器"でしかなかったのだ。敵わない。
総帥が、おや、と眉を持ち上げる。
「もう攻撃は終わったのかい?」
高笑いでも始めそうな総帥を相手に、三露は項垂れるしかない。
「では今度は私からいこう」
総帥が人型の和紙を取り出した。それを薄い唇に寄せ、息吹を吹き込む。総帥の周囲には次々に、二十四の蔭が現れていった。
朧気に浮かんだ蔭が輪郭を象りだす。三露の口内に苦いものが広がっていく。
「貴人、騰蛇、朱雀、六合、勾陣、青龍…」
式神だ。神仏と人間の間の霊的存在。神霊。それも強力な力を持つ式神だ。強靱な彼らは全て、三露が総帥の魂を降ろしたときに得た力だった。中には三露に反応しない式神もいて、総帥にしか反応しない眷族でもあった。
「…小吉、勝先、太一…」
中に、太一という式神がいた。三露にも協力的な神だ。たいいつ、という名前でなく、たいち、と愛称をつけてまで馴染んだ式神。彼らは総帥が合図するとともに、一斉に三露へと飛び掛かる。今や彼らは三露の敵だった。
かつて自分のものだった式神に目を奪われ、三露は刹那、動作が遅れた。真言で応戦しようか。符か、結界を使うか。逡巡する間に、式神がすぐそこまで迫っている。とっさに術を繕いはしたものの、攻撃は上っ面で、何とも生半可なものになった。
三露は力無く笑う。諦めてはいけない。いけないのはわかるけれど、彼らの力が強大なのもよくわかっていた。
―――とても太刀打ちできない。
だから三露は、目蓋を降ろした。


小気味よい音が鳴った。頬に鋭い痛みが走る。
三露は無感動に衝撃を受けとめていた。幸い、あまり痛くない。感覚が鈍い。頬に衝撃があったなと、それくらいにしか思わなかった。
「ふざけないでください」
三露は目を瞬いた。目の前に蓮が仁王立ちし、忌々しそうに睨みつけてくる。実感が湧かなかったが、おそらく三露は彼に頬を張られたのだろう。
三露はうまく事態を飲み込めず、ぼんやりと周囲を見渡した。ここへきてはじめて、仲間たちの顔を直視した気がする。
真田が悪魔を使い、式神と応戦している。いつしか三露の前に飛び出していた忍と、忍を庇うレラ。ミサもまた泣き腫らした目で、総帥へと向かっている。―――彼らに助けられたのか。
そして三露の前には蓮が佇んでいた。一人だけ三露へ向かい、飛びかかる式神には管狐を差し向けている。
騒々しく応酬している周囲から、三露は一人取り残されている気分だった。ぽつねんと置いて行かれたように、そんなはずもないのに静寂が立ちこめている気がする。
静けさの中で、三露は呆けたように指に腹で頬をなぞった。蓮に張られた左頬だ。
「俺は前にも言いましたけど、貴方が許せない」
何を言っているのだろう。蓮の話題は唐突すぎてついていけない。
「京が死んだというなら、貴方が許せないし、憎い」
「京…」
でも、京が死んだのは本当だ。三露は自覚もないまま声に出していた。蓮が眉を吊り上げる。
「だから貴方を許さないし、貴方なんか殴り殺したい。それでも俺は貴方以上にあの人が憎い」
京を殺した張本人は総帥だが、蓮は三露も憎いと言う。けれどどちらかと言えば総帥の方がより憎いのだと。
「だからあの人を倒すためなら、貴方に協力する。勝手に諦めるなんて許しませんよ、総帥」
「諦めてなんか…」 三露は口を噤んだ。あまり説得力がない言葉だ。
三露は確かに「敵わない」と思ったし、攻撃するのを躊躇った。そう思うと唐突に感覚が戻ってきたのか、頬がズキズキと痛み出す。「痛い」と呻く。頬が痛い。胸も、痛い。―――誰も失いたくないと思っておいて、逃げ出したことが痛い。
三露は改めて蓮に向かう。しかと頷いてみせた。もう諦めたりしない。すると鼻で嗤うような嘲笑が耳に飛び込んできて、見ると、総帥がくすくすと嗤っている。
「おやおや、長いこと"総帥"と呼ばれてきたのは私なのだけれど。いつから宿主の方が"総帥"に?」
先程、蓮は三露を「総帥」と呼んだ。おそらく慣れた言い方だったからで、単なる呼称に過ぎない。今になって急に「三露」と呼ぶような蓮ではないのだが、それは総帥の鼻についたようだった。
三露は口を引き結ぶ。総帥の問いかけに、再度怯みそうになる自分がいた。けれど頬の痛みがそれを許さない。見守る蓮や仲間達の目が許さなかった。
「確かに僕は"総帥"じゃない。あなたを宿してたから"総帥"だっただけで、貴方ほど強くもないし、一介の術者でしかない」
「身の程がわかったようで何よりだ、宿主」
「けれど僕はあなたを降ろす"器"に認められたから、あなたを降ろしていたんだ」
三露は自分でも不敵な笑みを浮かべているのがわかった。総帥に負けないほど、深い笑みが込み上げる。
「みんな、僕を信じて力を貸して欲しい」
それだけの"器"に相応しいはずだから。言って、三露は指を組む。攻撃の姿勢だ。
「小賢しい」
総帥は顔を曇らせた。三露の指の組み方で攻撃を察したのだろう。自分もまた指を組み始めた。三露も見慣れた指の動きを見せつけられ、あれは九字だ、と気づく。「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」―――「臨める兵、闘う者、皆陣をはり列をつくって、前に在り」、そんな意味の強い攻撃呪文。
けれど三露もまた、手元で九字を切っていた。印(いん)を結ぶ。
最後にさっと見渡すと、真田と目が合った。傍に立つミサと忍も確かに頷いた。いつしか戦闘に戻っていた蓮だけは、振り返ろうとしなかったが。
三露は苦笑しながら、術を続ける。
―――いつだったかこんな話を聞いた。
確か、人は死ぬと山へ帰るのだと言う。乙羽の寺の墓地はすぐそこだし、ここは小高い山だ。ならば死者となった彼らもいるだろうか。彼らも力を貸してくれるだろうか。懇願するような思いで、一続きに言い切る。
「"久しかれば 真の夜 誠なる心 伊(これ)織にして 武く露む"」
―――三露が三露だけの身体になって久しぶりに迎えたこの夜。誠実で偽りのない心が、この時を切欠に、猛々しく現れんことを。
「久、真、夜 誠、心 伊、織、武、露」
皆の名前を一文字ずつ借りて三露たちだけの「九字」を結ぶ。言葉には言霊が宿る。三露が結んだ九字には、皆の力が込められていた。
全ての言葉を言い切ったとき、総帥もまた九字の術を完成させていた。
互いの手元から光が放たれる。一際強く輝いて、三露の視界を真っ白に染め上げる。白濁する世界の中で、三露は確かな手応えと共に満足感を噛みしめていた。
おそらく三露は助からない。仕方がないことなのだ―――紡ぐだけで精一杯だった。
総帥の術も完成した以上、これだけの距離しかないのに何が出来ようか。防げないな、と小さく笑う。皆も式神たちの攻撃に手一杯だったから三露に構う余裕などないだろう。しかしこれで総帥が倒せる。皆が助かるなら、それでいい。
術の轟音だけが耳元で響いていた。轟く音の中で、名前を呼ばれたような気がする。
三露、と。


* * * *


赤。飛び散る飛沫。
そんなものを想像した真田は、本堂一面、視界一面に広がった光が掻き消えると同時に、血眼になって三露の姿を探した。三露、三露、と何度も呼びかけようとするが、驚愕からか喉に力が入らない。
まず目の前の式神が消え失せていた。いくつもあった式神の姿は一つとして残らず、総帥が居た場所からは燐光が細く長く、空へ立ち上っていた。それもじきに、風に掻き消されてしまう。
もの寂しい感覚が胸にあったが、それよりも焦りが大きい。真田はさらに視線を巡らせ、ようやく三露が居た位置のはるか後方に人影を見い出した。横たわる人影。さらに目を凝らし、真田は大きく息を呑んだ。
「あれは…」
三露に覆い被さるようにして、黒い人影がくたりとうつ伏せていた。あれは。
「…影」

ぬるりとした感触。
身を刻むような痛烈な痛み。
そういうものがあると、三露は思っていた。それどころか感覚など一切消えて、なくなってしまうのだとばかり。ただ黒か白かわからない暗幕が三露の中に降りる、そうだとばかり思っていた。
「……どうして」
どうして生きている。もしかしてまた助けられたのか。有り難いのに、まず三露の口から漏れたのが失笑だった。目を擦って、霞む視界を確かなものにする。すると視界に飛び込んできたのは黒い色だった。
「な……」
真っ黒だ。三露の胸に頭を預けて横たわる人影が黒い。
「影…!」
黒装束の影が、いつしか腰を落としていた三露へと覆い被さるよう横たわっている。ぐったりとした姿を見て、不意に気にもしていなかった使い魔の重みが三露へのしかかった。胸に預けられた影の頭が三露を地面に縫いつけるほど重い。―――だってこれは、重傷じゃないか。
「影! 何やってるんだ! お前の"総帥"はこっちじゃない! あっちだ…間違えるな!」
三露は攻撃を放った方角を指さす。そこには空へ立ち上る一筋の光があるだけで、総帥の姿もなければ、式神の姿もない。総帥に作り出された幻影は塵ひとつ残さず消えてしまった。まるで居なかったかのように、跡形もなく居なくなってしまった。
そして影も消え入りそうに弱っていた。黒装束はあちこちが痛み、肌には傷が幾重にも刻まれている。
「総、帥…。無事で何よりです」
違う。三露は総帥ではない。影の総帥ではない。影は庇う相手を間違え、そんなこともわかっていない。言葉になりきらない感情のままに、三露は影を睨みつけた。
影は頼りなく微笑んでいる。―――何故いつもそうやって笑うんだ、お前は。
「影は間違えておりません」
三露は眉を潜める。三露の胸に預けられた影の頬がひどく冷たい。
「影の総帥は貴方です」
「…喋るな」
塵芥で作られた影に温度などないのだったか、それとも命が途絶えようとしているのか。冷たい。乾いた砂のような感触だ。
「影の総帥は貴方だけです」
三露は影を支えている手に力を込める。すると、パッと砂が散った。
「影?」
三露の手元からするり、するりと、塵芥が零れていく。影の身体が砂となり、風に舞っていく。
「影!」
「貴方だけが影の総帥です、……三露」
三露の喉が鳴る。息ができない。目頭に熱が溜まり、ぼろりと雫がこぼれた。―――そう、言ってもらいたかった。ずっと、ずっと。名前で呼べと、ずっと。
穏やかな風が本堂の埃を攫って吹き抜けると、三露の指の間から、全ての砂がこぼれて舞い去った。
―――「貴方だけが影の総帥です、……三露」
ずっとそう言って欲しかったんだ。


微かに残っていた塵芥の感触すらも、掌から消えてしまった。三露は歯を食い縛る。周囲には残された仲間たちが口数少なく佇んでいた。
「三露」
「…うん」
こうして三露は、本当に組織の総帥となった。
新月から二日目の日だった。


(完)




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