空には太陽が浮かんでいる。

雲一つなく、澄み切った一枚の板のような青空だった。磨かれたガラス、それとも波の立たない水面。いずれにしろ陽光を遮るものは一つもない。
風さえも穏やかだった。時折やわらかな羽根のように三露(みつ)の頬を撫でていく風は、濃密に花の気配を秘めている。街角にまだ姿はないが、そのうち梅が花開くはずだ。その後に桜が続く。
冬はまだ過ぎ去ったとは言い難く、しかし春が遠いわけでもない。太陽の光が遮られずに届くぶん、特に今日は温かかった。
「……このぶんだと、夜も晴れそうだ」
しかし今夜、月は出ないはずだ。夜空はただの暗黒、散りばめられた星々は都会のネオンに消されてしまうだろう。

新月の日だった。


* * * *



三露は街の中心部から少し外れた場所を歩いていた。人通りはなく、道の左右にも人の寄りつくような店はない。住宅かマンション、駐車場か空き地、そうでなければ建設中の土地ばかりだ。
近年になって都会化が進み始め、南から街が開かれ始めた。なので最南端が繁華街、北へ行くにつれて住宅街へと変わる。この辺りになると建設中の物件が多く目につき、更に北は元々あった道や家々が広がる。最も北は林に囲まれ、山があった。
とはいえ、三露はそれらの情報を資料でしか知らない。つい先程この街についたばかりだった。まだ何の手続きもしていないので家も宿もない。目下のところ、夜をどう過ごすかが問題となりそうだった。
三露は十六、金の髪に黒い目をしている。もちろん歴とした日本人であるから、髪は色を抜いてある。痛んで水分の抜けた髪は最近切っていないので、目にかかるくらいにまで伸びてしまっていた。
両手をパーカーのポケットへと突っ込み、三露は品定めをするように辺りを見回しながら住宅路地を歩いた。持ち物はなく、ズボンの後ろポケットに財布、ベルトに小型のナイフが刺してあるだけだ。残りの持ち物はこの街での拠点が決まってから運び込むつもりだった。
三露の目に付く家は洋風のものばかりだった。これでもかという程古い日本家屋に幼い頃から住んでいたため、あこがれがあるのかもしれない。確かに庭の砂利を踏みしめる感触や畳独特のいぐさの匂いなどは好きだったが、ノブを回して開けるドアやレンガの積まれた塀に興味があった。
やはりこの街に拠点を作るなら洋風の家がいいな、と考えながら三露が歩いていると、ふと視界の端に何かが引っかかった。不思議に思ってもう一度そちらへ目をやったが、たいしておかしなものはない。そこは駐車場で、何台かの車が停められていた。おかしなものはないのに、この違和感はなんだろうか。三露は目を細める。
一台、エンジンのかかっている車があった。黒の普通車、車体は陽光を反射して眩しい。その他に何も変わったところはない、閑静な住宅街にある月極の駐車場だ。おそらくエンジン音が違和感の正体だろう、と三露は自分を納得させてまた歩き出した。
そこから十メートルほど歩いた時、再びエンジン音が大きくなった。三露が振り返ると例の車が駐車場から出てくるところだった。車はこちらへと曲がって来たので三露は邪魔にならないようよう道の端へ避けたが、車は駐車場を出たところでぴたりと止まってしまう。今度は先程の何倍もの違和感が三露を襲った。
「……!」
目を凝らしてやっと違和感の正体に気がついた。運転席にも助手席にも人の姿がないのだ。車は無人で動いていた。かわりに車全体に何か嫌な空気が凝っている。三露がそれに気がついたのとほとんど同時に、車は猛スピードで三露の方へと走り出した。
「くっ、そ!」
咄嗟に腰のナイフを抜いたが、こんなもの何の役にも立たないことを思いだした。となると逃げるしか方法はないが、既にそれも不可能なくらい車との距離は近い。ああもう手はない、と三露はその場に立ちつくした。
次の瞬間には耳の裂けるような破裂音がした。

目の前で車が大破するのを見るのは初めてだった。三露が呆然としていると、どこからか叱咤の声が飛んで三露の腕を引いた。その感触でやっと我に返る。
Mistミスト! ……おい、大丈夫か?」
声の主は銀髪の少年だった。肌が白く目が青い。どこか違う国の血が流れているのが一目で明らかだった。それよりもずっと珍しいのは少年の背中、何か強烈な気配がする。三露はその気配を見ることが出来ないが、かろうじて感じることは出来る。まるで誰かが少年の背後に存在しているような気配。しかしそれは次の瞬間に消えてしまった。三露は首を傾げる。
「……今の?」
「……あぁ、心配ない。もう危険はなくなったから」
少年は自分の服の埃を払うような仕草をしながら答えた。三露はそう言われて車を一瞥する。何か硬いものがめり込んだ痕のように前方部分がくぼんでいた。衝撃で全てのガラスが砕け、アスファルトの上に散らばっている。しかし何故か三露達の方には破片が飛んできてはいなかった。何か壁のようなものが三露達と車との間に存在したかのように、散らばったガラス片はアスファルトの上で綺麗に境界線を作っている。
不思議なのはそれだけではない、いつの間にか車を取り巻いていた嫌な空気が消えてしまっていた。というよりも、少年の背後に存在した気配に取り込まれてしまったように思えた。三露はふと一つの推測にいきあたる。
「君、"喰った"のか」
「……WarumヴァルムwissenヴィッセンSieズィーdasダス(何故そのことを知ってる)?」
ドイツ語だった。やはり推測通り、この少年が資料に載っていた彼か、と三露は思う。なるほどそれなら背中に現れた気配も、車をくぼませた威力も説明がつく。
「君は、」
三露が言葉を継ごうとしたとき、少年は背後を振り返った。
「人が来る……あれだけの音がしたから当然だな。場所を変えよう」


* * * *



この世界には科学や理論だけでは説明のつかないことがいくつもある。
例えばそれは奇跡であったり運命であったりする。占いであったりまじないであったり、そして術であったり魔法であったりする。
それらを専門に扱う人々は古来から術者、魔女など様々な名前で呼ばれ、時に尊重され、時に迫害を受けた。科学が発達したこの時代、それらは全て絶えたように思われているがそうではない。血や力は継承され、この世界のあらゆるところに残されているのだった。

三露は少年に連れられるままにして、住宅マンションの一室にいた。その際にプレートを確認すると、やはり資料と同じように「真田」と記されていた。
ワンルームの部屋は一人暮らしには十分なほど広い。ベッドと机の他はほとんど物がなく、シンプルな印象だった。真田は部屋に入ると上着を脱いで、壁と一体になったクロゼットにしまった。
「……それで、アンタは誰なんだ? 何故俺が"喰った"とわかった?」
「知ってたからだよ、"真田"。立ち話も何だから、座らないか?」
三露が床を指さすと真田は不愉快そうに眉をひそめた。
「俺の名前を知ってるのか」
「外のプレートで見たからね。……いや、もう少し詳しく知ってるかな、君の背中にあるもののことも」
座らないかという提案に真田が頷いてくれそうもないので、三露は勝手に床へと腰を降ろすことにした。日本の生活が習慣付いているらしく、確か真田は靴を玄関で脱ぎ揃えていたはずだ。
「アンタ……」
「君の背中には契約印があるんだろ。そしてさっきは君が契約した悪魔に助けられた。……車に憑いていた気配を"喰って"くれたからね」
微笑みながら三露が言うと、真田の青い目は底光りする冷たさをもって三露のことを見下ろしてきた。部屋の空気が張りつめたように重くなる。静寂の中、口を開いたのは真田の方だった。
「……見えてたのか」
「いや、感覚でわかるんだ」
真田は悪魔と契約した悪魔使いだ、それは既に資料で見てしっていた。先程の車に憑いていた嫌な気配を消したのも、そして車の飛び散ったガラス片から三露達を守ったのも真田が呼び出した悪魔だ。
しかし、悪魔が"気配"を喰うとは知らなかったので、三露はいささか驚いてしまった。わずかに眉をひそめながら三露は真田の青い目を見つめる。
「けれど、さっき車に憑いてたのは生きた気配だろう。……どうして喰ったんだ、もしかしたら人間の魂かもしれなかったのに」
「! うるさいな、アンタ一体なんなんだ?」
図星をさされたのか、真田は突然怒鳴りかかってきた。三露はそれを聞きながら窓の外を確かめる。マンションの四階に位置するこの部屋には、既に赤く染まった陽の光が差し込んでいた。もう日暮れまで時間がないのだ。
「……まずいな」
三露は口の中で呟き、口元へと指をあてた。
夜が来るまでにどこか安全な場所を探し、今夜はそこで過ごすつもりだったのだ。あくまでも日暮れまでにそうしなければいけない。それは絶対だった。
こうなれば、真田に助けを借りるしかない。そのためには早く真田を納得させて話を終わらせてしまわなければならない。もう太陽は沈みかけている。
黙り込んだ三露を、真田は怪訝そうに見ていた。どう言えば真田を納得させることが出来るだろうかと考えたが、ここはありのままを話してしまうのがいいだろうと三露は考える。そして口を開いた。
「僕は術者だ、今日この区域に配属されてきた」
「…Wasヴァス!? 聞いてないぞ!」
「急な話だったからね。僕も下見が出来ないまま、資料だけの知識でこの街に来た」
三露が早口に言ってのけると、真田はそれを見下ろしながら首を振った。
「嘘だ。術者ならあの車の暴走を止められたはずだろ」
痛いところをつく。真田はやはり三露のことを信用しないようだ。この相手を納得させるのは相当やっかいだろう。三露が口を噤むと、真田はさらに続ける。
「それに、アンタから全く力を感じない。術者だなんて有り得ない。だいたいアンタ……さっきから名乗りもしないくせに、話を信じろという方が無理だ」
真田の言い分はもっともだった。その日本語は流暢で上手い。とても日本に来て三年とは思えなかった。確か資料で見たデータによれば、肉親に誰か日本人がいたはずだ。これだけの文句をさらりと言ってのけることが出来るのはそのせいだろう。三露は微かに笑んだ。
「いいよ……僕を名前で呼ぶなら。僕は"三露"だ」
「……?」
「三露。覚えておいて」
"三露"という名前は自分にとって大きな意味を持つ。名前で呼んでもらうことは三露にとって重要なことだった。
しかし真田にはその重要さが理解できないようだった。眉根を寄せて怪訝そうにしている。
三露は再び、窓の外へと視線を走らせる。太陽を確認すると先程よりも傾いた位置にあった。もう沈みかけていると言える。一刻も早く真田に助けを借りることを了承させなければならなかった。
「真田。頼みがあるんだ……日の暮れる前に」
「頼み?」
「おそらく君にしか頼めない」
三露はベッドから立ち上がって真田と向かい合った。
「何だ?」
真田は嫌そうな顔をしたものの、話は聞いてくれそうだった。時間のない今、こうなったら力ずくでも納得させるしかない。
「まず、今夜だけ僕をこの部屋に置いてほしい。それから、術に協力してほしい」
>Keinenカイネン Scherzシェルツ! ジュツだって? この部屋で? 何をする気なんだ!?」
夕日のせいで赤く染まった空を一瞥し、三露はゆっくりと微笑んだ。どうやら日暮れには間に合いそうだ。

真田は心の中で舌打ちをした。はめられた気分だった。
昼間、暇だからと散歩に出かけたのがそもそもの間違いだった。妙な気配に導かれるようにして住宅地を歩いて行くと、案の定"何か"が車に憑いて暴走している。しかも誰かが襲われているから真田はとっさに悪魔を召還して助けてやったというのに、返された言葉が「何故喰った」だ。
正直、真田だって喰いたくなどなかった。真田の契約した悪魔は暴食が過ぎるふしがあり、昼間もやはり車の気配だけでは足らずに真田の力を喰って帰った。悪魔が喰った気配が生きたものか死んだものかなど、どちらでも関係ないし興味もなかった。重要なのは自分の力が喰われてしまい、回復を待たなければしばらく召還を行えないことだ。
しかし、力を喰われた真田でさえ、目の前の少年――三露といったか――よりはましだ。三露からは力のかけらも感じることが出来ず、とても術者だとは信じがたい。それが、今から術を行うだと。
「何をする気なんだ」
「しばらくは見ていてほしい。とりあえずは、これを」
三露はズボンの後ろポケットから財布を取り出すと、そこから何枚か紙片を抜いた。真田は差し出されたそれをまじまじと見つめる。全部で三枚、文字のような模様のようなものが描かれたそれは、おそらく符というやつだろう。
同じように財布から、三露は針のようなものを取りだした。それを自分のまわりの床に、まるで自分を囲むかのようにして等間隔に刺していく。細い針なのでフローリングに残る傷はわずかなものだろう、そう思い真田は口を挟まなかった。いや挟めなかったが正しいか。儀式の最中は無駄口を叩かないのが鉄則だ。それを思うと、真田が文句を言わないうちに作業を始めてしまった三露は案外計算高いのかもしれない。
針刺しが終わると、今度はベルトからナイフを抜き取る。その柄に幾重にも巻き付けてある黒い糸を、三露はほどき始めた。そしてそれを先程刺した針へ絡ませていく。ランダムに巻いているのかと真田は思ったが、違った。出来上がったそれは星形をしていた。中心部分には三露が入り込んだままだ。
「……結界、か?」
「セーマンだよ。魔除けの力がある」
「魔除け……」
真田はわずかに喉を鳴らした。真田自身が魔のようなものだから、この星形は危険かもしれない。陽が暮れていく中、薄暗い室内で黒い糸がわずかに発光しているように見えた。
「これで術は終わりか?」
「いや、まだだ。これから鬼が来る」
「鬼?」
三露は頷いて星形の中心に腰を降ろした。そして真田を、正確には真田の手にした符を見やる。
「鬼が来たらそれを鬼の身体へ貼り付けて、こう言ってくれないか。角は封じた、と」
三露の言葉に真田は背筋が冷たくなるのを感じた。鬼が来るだなんて、聞いていない。
>Warte malま て よ! 俺は鬼なんて……」
力が足りないので真田は召還を行うことが出来ないのだ。それを無理にやれば、今度は本当に真田本人が喰われてしまう。抗議しようと声を荒げたが、三露は全く聞いていなかった。それどころか顔を伏せ、その表情さえ伺えない。
いつの間にか陽は落ちきっていた。室内は真っ暗で、窓からわずかに光が差し込むだけだ。いや、それすら期待できない。何故なら今夜は新月の日だ、月明かりは望めない。
闇が満たされたせいか、部屋の雰囲気が変わったような気がした。真田は神経を張りつめ、注意深く辺りを見回した。
もう既に鬼が来ているのかもしれない。しかしこの暗闇の中ではその姿を見つけることなど出来ない。それに来ると言ってもどこから来るのか、真田にわかるはずがない。日本の"鬼"は話に聞いたことはあるものの、姿など見たことがなかった。
「おい、一体どういう…」
怒鳴りつけ、真田はハッとした。顔を上げた三露と目線があったからだ。三露の目は初めからあんな色をしていただろうか。確かに黒目ではあったが、今は空洞のあいたように虚ろな暗黒にしか見えない。闇に覆われたせいか髪さえも黒く見える。いや、実際に黒い。
先程までは違う、圧倒的な存在感。これが三露の気配であるはずがない。
真田は悟った、鬼がやって来たのだ。
三露だったものは、真田を見るとにぃと笑った。
「初めて見る顔だな」
声も三露とは違っていた。もっと低く、もっと野性味のある。真田はその場から逃げ出したくなる衝動を抑え、気丈に振る舞おうと精一杯だった。
「……アンタ、誰だ?」
「答えてどうなる」
「鬼、か?」
手に持った符を真田は握りしめた。これを鬼の身体に貼り付けるだなんて、とうてい出来そうにない。星形の結界が効いているのだろうか、鬼はまだ動こうとはしなかった。
「そうだな、鬼と呼ばれている。お前、その符を貼る気なんだろ? やれよ」
「……」
「どのみちセーマンに封じられてる」
罠だろうか、という思いが真田の頭をかすめる。迷う真田を後目に、闇を纏った鬼はくつくつと笑った。
「動かないでいてやると言ってるんだ、さぁ」
疑いがないわけではなかったが、真田は決心して一歩踏み出した。鬼が何を言ったにしろ、真田はこの符を貼らなければいけないことに変わりないのだから。その時点でおそらく儀式は完成する、途中放棄は許されない。
真田は符を鬼の両肩口、そして喉元へと押しつけた。
「……角は封じた」
おかしそうに鬼が笑った。
「見りゃわかるさ」




           

 





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