空が白み始めたのを見て初めて、真田はもうそんな時間なのだと知った。
マンションはまだ黒い影にしか見えない。空は暗いのか明るいのか定かではなく、地上にあるものもただぼんやりと輪郭が見えるだけだ。
東天紅。そんな言葉を真田は思いだした。
「神々が天へと帰る時間だ。それだけじゃない、鬼も、魔も……昔からいつだって、夜は魔物の領域だ」
いつも小難しい日本語ばかりを並べ立てる彼に、今回のことを相談するべきだろうか。真田の保護者とも言える彼は、真田よりもずっと知識があるし経験も豊富だ。鬼についても何か知っているのかもしれない。
相談するべきなのだろう、しかし真田はどうしても意地を張ってしまう。本来なら昨日、鬼が出た時点で対処すべきだったのだ。それなのに真田は逃げた。符を貼るのが精一杯だった。あの鬼を封じるために術をほどこしているというのに、あの鬼を逃がしてはいけないのだとわかっているのに、真田はその場にいることさえ恐ろしくて逃げた。ただその場から逃げて、気がついたらもう夜明けだ。
力さえ安定していれば、と真田は思う。自分が万全の状態ならば、あの鬼に敵うかはともかく逃げ出すなどしなくても良かったはずだ。三露が星形で鬼を封じていたのだし、更に符を貼って鬼の力までを奪ったのだから、本来なら恐れる相手ではなかった。そのことに真田は余計にさいなまされた。
悪魔を呼び出すのにかなりのエネルギーを"喰われる"真田は、力を安定して使うことが出来ない。特に最近は不安定で、召喚は行わないようにと重々注意されていた。
不安定な要因など自分でわかっている。しかしそれをどうすることも出来ないのが現実だった。保護者の彼に相談などしたところで、まだ力を安定させることもできないのかと呆れられるのは目に見えていた。
「……でも、どうしろって言うんだ」
生まれのドイツから、日本へ渡ってきたのが三年前だ。それからずっと見知らぬ土地、慣れない環境で暮らしてきたストレスはかなりのものになる。しかし自分を日本へと招いてくれた人がいるから、真田はドイツへ帰ろうとは思わないのだった。その人が「悪魔使いとしての自分」だけを必要としたのでも、ここへ呼んでくれた人だ。
名前は知らない。総帥と呼べばいい、と本人にそう言われた。
ドイツから日本へ来たその日、迎えてくれたのは総帥だった。その日のことを、真田はもうおぼろげにしか思い出すことが出来ない。ただイメージだけが妙に頭に残って焼きついている。それは満月の夜、まばゆいばかりの光―――ただそんなイメージ。
総帥にはそれきり会っていない。望んでも会えない、というのが正しかった。真田のように不思議な力を持った"術者"と呼ばれる人間を統括する存在が総帥だった。言うならば雲の上の人。しかしその総帥に真田は憧れ焦がれ、会えないことに苛立ち、特にここのところ情緒不安定ぎみになっている。
マンションの前にある小さな公園のベンチに座り、真田は土を蹴りながらぼんやり空を眺めていた。東の空はもう青く輝き、夜明けが完全なものであることを告げる。東天紅は過ぎてしまった。とすれば、あの鬼も帰っていっただろうか。
部屋に戻らなければいけない、と真田は思う。その一方で戻りたくないという気持ちが膨れるのを無視できないでいた。得体の知れない"鬼"と顔をあわせたくないのはもちろん、三露と名乗った少年とも会いたくない。彼は新しく配属された術者だと自分で言っていた。術者を配属できるのは総帥ただ一人であり、つまるところ真田はあの少年に嫉妬しているのだ。ここ何ヶ月ものあいだ真田は総帥から連絡さえもらっていないというのに、あの少年は総帥の命を受けてここへ来たということになる、その事実に。
ふと真田が視線を上げると、明けた空に舞う黒い紙片が目に入った。風に吹かれるようにして上下するそれは少しずつ近づいてくる。鮮明に見えるようになってやっと、それが紙片ではなく蝶であることに気がついた。真田の目の前までやってきた揚羽は、溶けるようにフォルムを歪ませ影の塊となる。そして次の瞬間には人型をしていた。蝶の時と同じ漆黒の髪と抜けるように白い肌。
真田は蝶が人へと姿を変えても、全く驚かなかった。何故ならこの蝶をずっと真田は待ちわびていたからだ。"影"という名を与えられた総帥の使い魔だった。この数ヶ月、総帥からの連絡を影が運んでくることをどれほど待ち望んだか。
しかし同時に、影は真田の最も嫌いな存在でもあった。いつだって影は総帥の傍にいて、その言葉を真田ら術者に運んでくる。総帥から名を与えられ、総帥に仕え、総帥の言葉を運ぶ、その役割を真田がどれほど恨めしく思っているか。
馬鹿馬鹿しいということは真田自身わかっている。影は人ではないのだし、自分と比べること自体が間違っているのだ。総帥の都合で作られた総帥だけの使い魔なのだから、真田が代わりをはたせようはずもない。十分に頭では理解しているのだが、それでも影を見るたびに苛立ちと嫉妬が心にわき起こる。そう、真田は影が嫌いだ。
「お久しぶりです」
完全に人へと姿を変えると、影は真田に膝を折ってそう挨拶した。頭頂で結んだ黒髪がさらりと落ちて、影の白い頬にかかる。伏せられた睫毛が作る陰影と肌とのコントラストは見事なまでに美しかった。無彩色に彩られた影は調和が整いすぎて、この世のものでないことを思わず納得してしまう程だ。黒い装束に包まれた身体は女性でも男性でもなく、声もまたどちらのものでもない。完全なる中立、釣り合った均衡、人の手の及ばない存在だった。
「久しぶりだな、本当に」
ベンチから立ち上がり、わずかに口の端を上げながら真田は皮肉を口にした。真田がここ最近ずっと不安定になっているのは、唯一真田と総帥とを繋ぐ影でさえ久しく姿を見せないせいだ。こんな使い魔ごときに感情が左右されることを情けなく思う。
待ちわびたはずだった影の来訪は、意外にも真田には苦々しい感情しか感じさせなかった。
「何か、総帥からの伝令でも?」
「いいえ、違います。お伺いしたいことがあって参りました」
「お伺いだって?」
影が伝令以外の用事でやってくるのは初めてだった。真田は盛大に眉をひそめる。膝を折ったまま影は顔を上げた。
「はい。実は総帥が……消えました。見当たらないのです」
Wasはぁ!?」
それは大変なことだ、と一瞬考えてから、真田はふと我に返る。いいやちっとも大変なことなどではない。
「……アンタが総帥を見失っただけだろう?」
下らなさすぎて真田は呆れかえってしまった。総帥が消えただなんて大袈裟なことを言っているが、つまりは影が総帥を見つけられないだけではないか。使い魔が迷子になっているだけの話だ。
しかし影は真剣な表情を崩さないままに、
「あり得ません。影が総帥を見失うなど」
大真面目に言い放った。その自信に溢れた物言いに真田は思わずムッとする。
「言い切れるのか? 現にアンタは総帥を探し出せないんじゃないか。意外と、総帥のほうから姿を消したんじゃないのか?」
「総帥は影を必要としておられるのです。御自分から姿を消されるなんて、あるはずがない。何か、悪いことが起こったとしか……」
影の言葉は最後まで続かなかった。真田が影の喉に手の平をあて力を込めたからだ。柔らかな感触が手の平の中で潰れる。影は霧散して再び元の蝶へと姿を変えた。
「総帥がアンタを必要としている、だって!」
空中へ舞い上がった影に真田は怒鳴りつける。
「思い上がるな、ただの使い魔が! アンタは総帥に捨てられたんだ、それならもう二度と俺の前に現れるな!」
揚羽は反論するかのようにひらひらと羽を動かす。そのさまが目障りで真田は舌打ちをした。何もかもが気に障る。
Verschwindeき え う せ ろ!」
真田の恫喝を後に、影は吸い込まれるようにして上空へと消えた。いい気味だと笑いながら真田は再びベンチへと腰を降ろした。影は総帥に捨てられたのだ、つまり真田は総帥との繋がりを全く無くしてしまったということになる。
嘲りと喪失感とがないまぜになって、真田は途方に暮れてしまった。
「……どうしようもないじゃないか」


* * * *


真田が部屋に戻ったのは昼前だった。ワンルームのマンションは玄関をあけるともう部屋の様子が窺えてしまう。廊下の向こう、フローリングの部屋を見て真田はわずかに息を呑んだ。星形がない、そして三露の姿が見えない。
靴を脱ぐのももどかしく真田が慌てて部屋へ駆け上がると、玄関からは死角となったベッドの上に三露は座っていた。
「おはよう、お出かけだったみたいだね」
首を傾げて微笑む三露には、昨夜のような圧倒的な存在感はなかった。昨日初めて会った時と同じで全く何も感じない。―――そう、術者だと名乗るのが可笑しいくらいに何の力も感じなかった。
鬼は消えたということだろう。星形に使われていた道具類は既に仕舞われたのか見当たらない。星形がないのを見た時、もしかしたら鬼が逃げ出したのではと焦ったが、いらぬ心配だったようだ。真田は深く息をつく。
「……で? 何だったんだ、昨日のあれは?」
単刀直入に真田が訊くと、三露はゆるく首を振った。
「言っただろ、鬼だよ」
「鬼、なんてそんな説明でわかるわけないだろ」
「じゃあこう言えばわかる? 君と同じようなものだ」
三露を問いつめようとしていた真田は、はた、と動きを止める。
「……鬼使い?」
「どうだろうね」
曖昧な三露の答え方が真田には気にくわなかった。苛立ち、力任せに積み上げてあった雑誌を蹴りつける。崩れた雑誌がフローリングの上に広がってばさばさと音を立てた。
「自分で制御も出来ないくせに、鬼なんか使うんじゃねぇよ。俺が鬼封じを手伝わなきゃどうなってたかわかってんのか!」
「別に、一人でも術は行えたさ。まぁ苦労しただろうけどね、だから君に手伝ってもらえて感謝はしてるよ」
ふんと真田は鼻を鳴らす。三露の物言いはいちいち気に障るので、真田の態度にも自然と敵意が滲む。それに元から三露のことは気にくわないのだ。
「力も何もないアンタが、一人で術を行うって? 信じられないね、第一アンタみたいなのが術者っていうのが信用ならないんだ。全くの無力なくせに」
「だから君と同じようなものだって。僕の力はそのうち回復する。君のほうこそ、随分と力を消耗してるようだけど?」
「誰のせいで…ッ!」
真田は雑誌を踏みつけベッドへ寄ると、三露の胸ぐらを掴んだ。
こんな奴など助けるのではなかった、と真田は今更ながら後悔した。車に潰されて死んでしまえば良かったのだ。三露を助けるために悪魔を呼んだせいで、力を喰われるハメになったのだから。
しばらく睨みあった後、三露が静かに胸ぐらを掴む真田の腕を外した。そして皺になったシャツを伸ばしながらベッドから立ち上がった。
「……この地区の術者は、君だけじゃないだろう? もう一人のところへ案内してくれないか」
「どうして」
「配属手続きをしたい。それにこの地区へ住むことになるから、いろいろ手配してもらいたいしね」
もう一人はそういうのに長けてるだろう? と三露は言った。
術者は総帥によって集められ、そして地区ごとに振り分けられる。真田の担当する地区には三露の言う通り、もう一人の術者がいる。ドイツから単身渡ってきた真田の保護者とも言える彼は、真田とは違い成人で社会的地位があった。十六になる真田は部屋一つを借りるにしても一人ではできない、それは三露だって同じだろう。
それに彼は何かを手続きしたり手配したりといったことに長けている。特に表立っては扱えない事柄に関してはパイプラインが張り巡らされているらしい。十三歳で日本へ来てから中学の三年間、真田は数える程にしか学校へ通わなかったがそれでも担任からは文句の一つさえもらわなかった。それに関しても、裏で何か手が回されたのだと思っている。
でも、と真田は瞳を細める。
「だからって、どうして俺が案内してやらなきゃいけないんだ?」
そこまでしてやる義理はない、とばかりに真田が言い放つと、三露は答えを予想していたかのようににっこりと微笑んだ。
「だって僕がここに居座っていたら、君に迷惑がかかるんじゃないか? 今日も泊まっていいってわけじゃないだろ?」
「当然だッ!」
怒鳴ってから真田はハッと息を呑んだ。三露が笑みを深くする。
「じゃあ、行こう。案内を頼むよ」
嵌められたのだ。ムシャクシャしながらも反論できないまま、真田はクロゼットから適当に上着を取り出すと乱暴に肩へかけた。既に玄関を出てしまった三露の後に続いて部屋を出ると上着に入っていた鍵で施錠する。
外は陽射しがあるものの、風が冷たく冷え込んでいた。慌てて肩にかけていた上着を着込み、真田はふと前を行く三露を見やる。三露は黒いパーカーを着ているために、風に揺れる金髪がやけに目に付いた。
地毛ではないらしい、先程近くで見ると痛んで水分が抜けていたし、色もまだらで茶色に近い所もあった。色素が全く抜け落ちてしまったようなパサパサした髪は、しかし昨夜は真っ黒に染まったのだ。鬼に憑かれることによって三露の身体が何らかの影響を受けてそうなるのだろう。
鬼を宿す程の力が三露のどこにあるのかはわからない。三露の身体へ鬼が憑いたなどと未だに信じられないが、それは真田の目の前で起こった事実なのだ。三露は普通の人間とは明らかに違う。術者と認めるべきなのかもしれなかった。もしくは。
「……抜け殻」
そう呼ぶのが正しいのかもしれない。

真田のマンションからいくらか歩くと、車の入り込むことも出来ないような細い道へと出る。道は入り組みながら住宅街を形成し、昔ながらの風景の中を変わることなく通っている。この辺りの住宅街は昔からここにあるもので、道の両側に建つ家々は古い日本家屋だ。
真田は迷路のような道を先導するようにして歩き、しばらくして一軒の家の前で足を止めた。背後から三露が真田に追いついたのを確認して口を開く。
「ここがソイツの家だ。一人で暮らしてる」
「へえ、これはまた風流な」
にっと三露が皮肉っぽく笑う。扉がきっちりと閉ざされた玄関の門は木製のため黒ずみ、長い年月を雨風に晒されてきただろうことを思わせる。門の右に取り付けられている黒御影石の表札は見事だったが、文字が彫られた部分に色入れがされていないため読みとることが出来なかった。色がはげたというよりも元から色が塗られていないようで、これだけでも居住者の特異さが伺える。三露はその表札が気に入ったらしく、近づいて表面を指でなぞっていた。文字は色がついていないだけで彫り込まれてはいるので、近寄ると読めるようになっている。
「一・乗・寺?」
「ああ……入るぜ」
変わり者の名前は一乗寺という。真田は初めて名乗られた時に"乗寺"の部分しか聞き取られなかった。その後「ジョージ」と呼ぶと盛大に嫌な顔をされたのは今でも鮮明に覚えている。男はジョージの名には全く不似合いな黒髪黒目、どこから見ても日本人そのものだった。
真田が門を開くと中には日本庭園を絵に描いたような庭が姿を見せた。一面に砂利が敷き詰められ、そこに道をつくるようにして御影石のタイルが埋め込まれている。タイル沿いに奥へと進むと少しスペースが拓けた縁側へと出る。いつものごとく一乗寺はその縁側に腰掛けていた。真田達が砂利を踏む音を聞きつけ彼は顔を上げる。
「めずらしいな、客か」
「商売しようなんて考えるなよ。コイツは別に客じゃない」
呟いて立ち上がった一乗寺に真田は釘を刺す。しかし一乗寺はやっとわかるほどに眉をひそめ、知っている、と言った。
「術者だろう。何の用かは知らないが、とりあえず座れ」
「……!? 一乗寺、アンタ何を」
どうして一乗寺は三露を一目見て術者だと見抜いたのだろうか、真田は問いつめようとしたが一乗寺はそれを無視して部屋の中へと入って行ってしまった。
縁側から続く部屋は畳張りの居間だ。しかしその居間は、もはや足の踏み場もないほどに物で埋め尽くされてしまっている。例えば古い本の束、何が記されているのかわからない巻物、下らない木彫り、動かない時計、等々。部屋の空間を占拠したそれらに共通するのは古いということだった。
一乗寺は自宅で骨董品を売買している。いや骨董品とは名ばかりで、事実なんでもござれなのだ。居間に集められた多々のがらくたの中には非常に高価なものもあるらしい。しかし真田には全てただの古ぼけた品々にしか見えなかった。
Mistくそ! 寒いってのに縁側に座ってろってか」
真田は舌打ちして不満ながらも腰を降ろす。三露は呆気にとられたように居間の様子を見つめ、庭に突っ立っていた。
「……凄いなこれは」
瞬き、三露は掠れた声で呟いた。真剣な表情は感心しているのだか呆れているのだかわからない。そうこうしているうちに、居間の奥から一乗寺が現れた。手に臙脂色の盆を乗せている。
「生憎、茶菓子はなくてな。客が来るとは聞いていなかったものだから」
一乗寺は慣れた手つきで急須や湯飲みの乗った盆を縁側に置く。その態度は先程の言葉を裏切って平然としていて、まるであらかじめ真田と三露の来訪を予測していたかのようだった。元々感情の起伏に乏しい男ではあるが、こうも平然としていられるものだろうか。それに先程、三露のことを術者だと言い当てたのも問いつめねばならない。真田は口を開いた。
「一乗寺、どうしてコイツが術者だってわかったんだ? コイツ、全く力なんて感じないのに。それに術者がここにいて、どうして驚かないんだ?」
「……それは―――」
わずかな沈黙の後、何かを言いかけた一乗寺を遮ったのは砂利を踏みつける音だった。真田が振り返ると、すぐ傍まで三露が近寄ってきていた。黒い目を細めながら三露は頭を下げる。
「昨日からこの地区に配属されてきた、三露です。どうぞよろしく」
三露はそう言ってズボンの後ろポケットから財布を取りだした。そこから折り畳んだ紙片を抜き取り一乗寺へと差し出す。
「邪魔するなよ、今は俺が一乗寺と喋って……」
会話に割り込んできた三露に噛み付いて真田は立ち上がりかけたが、一乗寺に肩を掴まれ押しとどめられてしまった。仕方なく真田は再び縁側に腰を降ろす。一乗寺も隣へ座りながら、三露の差し出した紙片を受け取った。
「三露、ね。お前がここへ配属されてきただと?」
「そう。それは正式な配属書類だ」
折り畳まれた用紙を一乗寺が広げる。真田が覗き込むと、そこには上段に三露の顔写真、その横には名前や年齢、後は細かい字で何かが綴られているようだった。経歴か何かだろう。
それよりも真田の目に付いたのは、最下段の朱色のサインだった。達筆な文字で「術者総帥」と。それを見て真田は今朝、影の言っていたことを思いだした。
総帥が消えてしまった、と影は言ったのではなかったか。
「どうした?」
顔色を変えた真田に気がついたのだろう、一乗寺が訝しげに真田を覗き込んだ。真田はギッと歯ぎしりをする。そして一乗寺から書類を奪い取った。
「何が正式な書類、だ。よく言う! 総帥は今、姿を隠しているんだ。お前がサインを貰えるわけないだろう!」
真田が三露の目前に突き付けるようにして書類を見せると、三露は目を丸くした。
「姿を隠してる?」
「ニセモノめ。 それともずっと前に貰ったサインだとでも言うか?」
真田の問いに三露は首を振る。
「いいや、そうは言わない」
「じゃあ認めるのか、ニセモノの術者だと」
「いや。……真田、これは確かに総帥のサインだ。紛れもなく」
「この期に及んで……ッ! いいか、総帥は影からも姿を隠してるくらいなんだ、それなのにアンタが総帥に会えるわけないだろう!!」
落ち着き払っている三露に対して真田は怒りを抑えることが出来ない。まるで総帥自体を侮辱されたような気分だった。今にも殴りかかろうとした真田を、一乗寺が声だけで制した。
Warmどうして! なんで止めるんだよッ!」
「落ち着け、真田。……彼の言ってることは本当だ」
一乗寺の信じられない言葉に真田は目を開いた。一乗寺は三露の肩を持つというのだろうか、それとも真田のことをからかっているだけか。しかし一乗寺の目は真剣だった。とても嘘をついているようには見えない。
「……総帥がアンタに会うはずない」
「真田、このサインはニセモノじゃない」
今度は三露が、真田を諭すようにそう言った。
「僕はこの地区の術者になったんだ。それより、真田。君は影に会って―――」
「うるさい!」
三露の声を遮って真田は叫んだ。一乗寺の制止も三露の弁論も、ただ耳障りなばかりだ。
「おい、真田―――」
何か言いかけた一乗寺の手を振り払って、真田は勢いよく立ち上がった。
「うるさい、総帥がアンタなんかに会うはずがないんだ! うぬぼれるな!」
そう吐き捨てて、真田は一目散に駆けだした。総帥に会って書類を貰ったなどと言う三露も、総帥の使い魔である影も大嫌いだ。自分は会うことはおろか、連絡を貰うことさえ出来ないというのに。
うぬぼれるな、とは影にも言った台詞だったか。真田は走りながら頭の隅でどこかぼんやりと考えていた。
日本に来てからはずっと、総帥に会いたいとただそれだけ思っていた。だからこそ、総帥の傍にいるものは何だって許せなかった。それが使い魔であろうと憎んだ。
自分だって総帥の傍にいられるはずではないのかと、自分だって総帥の役に立つため働くのにと、そう強く嫉妬した。
ただ一度、総帥に出迎えてもらったというだけだ。それでも真田は自分と総帥との繋がりをずっと信じていたのだ。

うぬぼれているのは誰だ?

* * * *


割れた湯飲みを見て一乗寺は眉間に指を当てていた。三露はそれをちらりと見やる。
安くない品なのだろう、急須とセットになった陶器は素人目にも素晴らしいものであることがよくわかった。それだけに破片と化したそれらが偲ばれる。
真田が立ち上がって走り出した時、翻った上着の裾が凶器となったのだった。
地響きのような低いため息を吐きながら、一乗寺が腰を屈めて破片を拾い出した。
「手伝った方が?」
「余計なことはするな」
無愛想に言って、一乗寺は縁側を顎でしゃくった。
「客人は客人らしく、座れ。いつまでも立っていられるとこちらが落ち着かない」
そう言ってまた破片集めを再開してしまう。三露は仕方なく破片の散らなかったところへ腰を降ろし、災難を免れた湯飲みを引き寄せた。
落ち着かない、と一乗寺は言うが、落ち着けというほうが無理だろう。この地域へやってくる前に資料で術者達の情報を確認したが、真田がこれ程までに騒がしい性格だとは思っていなかった。資料の顔写真では白い肌に銀糸の髪、澄んだブルーアイをした綺麗な少年だった。
ドイツ人だというから、慣れない日本で辿々しい日本語を操る可愛い少年だと思っていたのに。残念だ、と三露はうそぶく。
ずず、と三露が茶を啜っていると、片付けを終えたらしい一乗寺が隣へやってきた。
「……あまり真田を怒らせるな」
「怒らせるつもりなんて毛頭ないけれどね。彼が怒りっぽいだけじゃないかな?」
「真田は今、上手く力を使うことが出来ないんだ」
一乗寺の真剣な声音に、三露は肩をすくめる。
「たいした親馬鹿だ、だから彼に優しくしてやれと?」
「……そうは言わない」
三露が揶揄すると、一乗寺はそれきり黙ってしまった。見たところ普段から饒舌なほうではないのだろうが、さすがにこの沈黙は気まずい。三露は湯飲みの縁に歯を立てながらちびちびと茶を舐める。
居心地の悪い間を破ったのは一乗寺だった。
「……三露。何故本当のことを言わないんだ」
その言葉に責める響きはない。本当に疑問に思っているようだった。しかし三露はそっぽを向いて唇を尖らせた。突かれたくないところを突かれた。
「別に、嘘は言ってないだろ。……それよりも」
三露は無理矢理話題を転換させる。
「真田の話によれば、影が来ているそうじゃないか。あの使い魔の影が? お笑いだね、そこまで総帥が愛しいか」
「真田と同じようなことを言うんだな」
意外そうな顔をした一乗寺に、三露はふふっと微笑む。内心はひどく投げやりな気分だった。
「真田だってそうじゃないか、そんなに総帥が好きか? 僕は嫌いだね、ウンザリだ」
「……三露」
呼びかける一乗寺の声はため息のように小さい。三露は空を見上げて目を閉じた。
「いいことを教えてあげるよ、一乗寺。君の失せ物はもうすぐ出てくる」
傍で一乗寺が息を呑むのが気配でわかった。三露は尚も続ける。
「……僕に協力すれば、ね」
「……それは占いか?」
「占いだよ。でも、僕の占いは当たるんだ」
得意気に三露が言うと、一乗寺はふっと小さく笑った。
「まるで三流神社の神籤のような内容だな」
「不満?」
一乗寺はそれには答えず、放置されたままだった三露の配属書類を手に取ると、元のように小さく折り畳んだ。
「俺は金で仕事を請け負う。それで、何が希望だ?」
色好い答えに三露は安心して息を吐いた。さすが、一乗寺は真田と違って話がわかるし大人だ。金次第で話はつくらしい。
「頼もしいね。じゃあお願いするよ、僕がこの街で暮らすために必要なもの全て、取りそろえて貰えないか」
一乗寺は高くつくぞ、とだけ答えた。




           

 





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