午後から天気が崩れる、と春の昼下がりに不似合いな天気予報を聞いたものの、真田は窓ガラスの向こうの快晴に「そんな馬鹿な」と悪態づいた。
桜の花蕾が散らなければいいと懸念していたブラウン管のお天気キャスターを鼻で笑いたいほどおだやかな春陽が降り注いでいた。真田のマンションでここまで心地よいと、一乗寺宅の縁側にでも足を運べばうってつけの日向ぼっこができそうなものだ。そのうえ今は手持ち無沙汰。やらないといけない家事諸用はとっくに済ませていたので出かけてみようか、―――そう思った矢先だった。
戸締りをしようと窓へ伸ばした指先が動きを止める。
「…え、影?」
気がつけば、黒い揚羽蝶がこの一角目指してひらひらと舞い降りてくるところだった。


「総帥がお待ちし申し上げています」
「…俺を?」
真田は目を丸くした。舞い降りた黒揚羽は予想通り総帥の使い魔の"影"だった。まさか日中のベランダで人の容に変化されても困りものだ。真田は仕方が無しに網戸を開けてその黒蝶を招き入れてやった。それでもいざ通すとなると、自然と眉間に皺が寄ってしまう。
空気に溶け出すように人型をとっていくさまを苦々しく見つめ、何の用事だ、と用件を急いだのは自分の部屋に影と2人でいる、そんなことに慣れない居心地を感じたからだった。
すると影はこう言った。総帥がお待ちし申し上げています。
真田が目を瞬いたのも当然だ。今だかつて影がこのマンションを訪れたこともないのに、そのうえ"お呼び出し"だって? すぐには理解できなかった。
「ご用意ください。…いつもの縁側におられます」
三露が? そう訊ねると影はさも無論とばかりに静かに頷いた。
「お急ぎください」
「…あ…、ああ。でも…三露に何かあったのか? だってこんな呼び出し…はじめてだ」
不安が過ぎった。まるで危篤の知らせのようではないか。早鐘のように心臓が打ちはじめるのを抑えようと、真田は己の胸元を握り締める。
「いいえ。ご心配には及びません」
影の調子はいつものように、まるで静寂だ。
「は…、じゃあ一体」
「総帥は貴方にお引き合わせしたい方がいるのです。その方も一緒にお待ちしております」
そこまで言うと影は黒い髪をさらりと揺らし膝を折って一礼をした。玄関でお待ちしておりますゆえ、お早く降りて来てください。そう言って再び黒揚羽に姿を変えてしまった。するりと窓から抜けていってしまう。
Warte malちょっと待てよ! 誰だよ"引き合わせたい方"って!」
とっさにベランダへ駆け出すが黒揚羽は一階へと舞い降りていく最中だ。
思わず舌打ちをして手摺りを握りしめる。
「…っ。別に一乗寺の家なんか1人で行ける! 待ってなくていい!!」
だが影はひらひらとマンションの玄関先から飛び去る気配もない。どうせ三露が『真田を呼んできて』と言い、『しっかり総帥の元へ送り届けるのが影の使命です』とでも義務づけているのだろう。言い募りたい反論を押しとどめて真田は踵を返す。薄手の羽織る服を乱暴に掴みとって、玄関へと急いだ。
そんな"方"に、心当たりもなかった。


* * * *



縁側に、足を投げ出して座っているのは三露。その向かいには、歳刻みに色濃くなる木目に細い膝を揃えて少女が正座していた。
三露の、少女を―――ミサを見つめる瞳は険しい。ゆったりした棚引く裾の服。腰ほどまである金色髪。どちらも勿体無く床に擦って、ミサはそれに頓着した様子もなく座っている。どちらも小柄な姿を埋めてしまいそうな印象を与える。そんな姿を瞳にうつして、三露はゆっくりと口を開いた。低いトーンの声が這う。
「きみは逆居の人間だよ。…もちろん配属も替えない」
果京の北の『逆居地区』から、その客人はやってきた。
「きみに、…荷担する気もない。頼まれたところでしてあげられることも少ないはずだよ」
三露は小さなため息を押し留めた。

その日は穏やかな春の日。昼下がりに思いがけない訪問者が現れた。
連れてきたのは黒揚羽だった。暇を持て余した三露は一乗寺の家に入り浸っていたのだが、ついと顔を上げると見慣れぬ少女が「ごめんください」とささやいた。黒揚羽は彼女の傍を離れ三露の元へと飛んできた。
どこかで見た顔だったか。少女は穏やかな金の髪、真田より幾分かくすんだアイスブルーの瞳をしている。三露は何度かぱちぱちと瞬くと、そういえば彼女には何度か会っていることを思い出していた。そのあどけない顔には何度か直接対面していたではないか。脳裏に白い紙が掠め、書類でも確認していたのだったと納得した。
ミサという名の、逆居地区に配属した少女。
どうやら動向調査に出向いていた使い魔の『影』に出会ったものだから連れてきてもらったらしい。なんて客人を連れてきたんだ。三露は内心、影に舌打ちしたくて仕方がない。
苛立たしさをミサに気取られないよう、投槍に影を視界から追い払ったのはつい先刻のことだ。忠実な使い魔は膝を折って礼をとると、黒い揚羽蝶に姿を変え、虚空へ舞い上がると溶け出すように上昇していった。

「けれど、」
三露はなおも続けた。
「僕にはきみを制限することもできない。もちろん、ね」
ミサはただ静かに耳を向けているだけだ。
「だからきみの好きにするといい。僕は何も言わない。…真田に取り次いで欲しいのなら、それくらいはしよう。さっき影を呼びに行かせたからじきに来るよ。…一乗寺、」
茶菓(さか)を載せた盆を持って奥に佇んでいた一乗寺の眼が、少しだけ見開かれた。どうやら三露とミサの会話が殊のほか真剣になってしまったせいだろう。一乗寺は長いこと間を挟まないでいてくれたようだ。もう茶から湯気は立ち込めていない。
「僕はもう行く。真田に彼女を紹介しておいて」
「…わかった」
そう言った一乗寺は踵を返す。茶でも煎れなおすのだろうか。
「けれど真田なら、三露、もうそこにいる」
顔が凍てついてしまった三露に、一乗寺は「今来たところだ」と声を投げた。


一乗寺の家の門をくぐり、玄関へは行かず道を逸れて縁側へ向かう。常緑の庭木の茂みから垣間見て、真田はすぐに気がついた。三露の隣に座った少女。彼女が"引き合わせたいお方"なのだろう。
正直見覚えもなかったが、淡い金色の髪、白い肌、日本人を意識させない容貌にわずかな親近感を感じたのは確かだ。真田には4分の1だけ日本人の血が流れている。ふと、彼女はどうなのかと思ったところだった。
三露も彼女も、ふいにこちらへ振り返った。
「…真田」
三露の堅い声が響いた。しかし、さして気がかりにもならなかった。代わりに癇に障ったのは隣の少女だ。小柄で、真田より2、3…もしくはもっと若年に見える。そんな彼女が纏った空気にぎくりとたじろいでしまった。嫌悪感が降り積もる。少女ときたら、たいそう剣幕な面持ちなのだ。
Was何なんだ?」
ひとりごちると、三露が立ち上がった。少女に視線を落とす。
「…ミサ。あれがきみが訪ねてきた相手―――"真田"だ」
ミサと呼ばれた娘はこちらを見据えて身動きひとつしない。避けたくなるほどに痛烈な視線を投げてくるばかりだ。
「真田、彼女はミサ。『逆居』に配属されてる。きみに用があるみたいだよ」
―――逆居? ということは術者か。
"力"は感じる。いや、力というより嫌悪感だったが、ミサから何かしら発されるものがあった。
その術者が、なんで。訊ねようと三露を仰ぎ見たのだが、すたすたと真田の脇を逸れて門へと歩を進めていってしまう。ちょっと待てよ、と大慌てで声を投げた。
「おい! 帰るのかよ?」
「ああ、うんそうだよ。僕の用事は済んだからね」
「横暴だ!!」
三露は目を見開いた。
「…そうかな。きみに伝えなければいけないことはちゃんと伝えたよ。僕の用事も終わった。そのあと僕が何をしようと勝手だよ」
「何、を! いきなり呼び出されて、何があったのかと思ったのに来てみれば変な女が睨みを利かせてくる! 呼んだアンタはとっとと帰る! そんなの横暴だ!!」
「思ったよりはやく来てくれてありがとう。でも、じゃあ、きみが僕に文句をつけ終わってせいせいするのを待たなくちゃいけないってこともないだろう?」
早口で捲くし立ててくる。三露はどこか忙しなかった。さっさと行かせてくれとでも言っているようで、見ているこちらが落ち着かなくなる。
「―――でも…。じゃあ、…」
「それに、客人を待たせちゃいけないよ」
口篭もる真田を、もはや三露は待つ気などないようだった。
「彼女が誰だって訊きたそうな目だね。でもそれは僕が答えることじゃない。本人に訊いて。…もういいかな? 僕は行くよ」
「………」
じゃあ一乗寺、邪魔したね。挨拶を投げて背中をみせる。すたすたとすり抜けてしまう三露に、すっかり視界から忘れ去っていた黒揚羽がつき纏うように舞っていく。とうとう去ってしまっても、真田はしばらく動けずにいた。
のらりくらりと人をかわすきらいのある三露が、強引に去っていくのをただ呆然としか眺めることができなかった。


再び嫌悪感がせり上がってきた。
真田が振り向くと、縁側で正座をしていたミサがすぐ傍まで歩み寄ってきていて、真田の眉間に自ずと皺が寄る。全くもって理解できない。見たことも無い女に呼び出され、挙句睨まれる。三露には体よくあしらわれてしまって、踏んだり蹴ったりとはまさしく今この状況ではないだろうか。
少女のいでたちはどこか教会の修道女を彷彿とさせるゆったりとした服装だった。ふわふわとした姿に似つかわしくない険しい表情を相も変わらず貼りつけている。
「…何だよ、アンタは」
彼女の爪先から脳天までまじまじと眺めやる。思案したところでこんな女見覚えがない、と断言できた。
「見つけた」
「―――Wasはぁ?」
「あなたが"真田"なんでしょう。―――あなたの大食公を出しなさい」
真田は息を呑んだ。流暢な日本語に驚いたのではない。尊大な物言いにもカチンときたが、心臓を鷲掴みにされたのは"大食公"という単語だった。何故知ってる? 術者ということ自体露呈しない生活をしてきたのに能力の仔細まで知っているミサ。信じられない思いで真田は凝視した。
「…何で…三露にでも訊いたのか」
三露もペラペラ話す性質ではないだろうに。だが、違和感ばかりを感じている真田なんてお構いなしにミサはまくし立てた。
「ベルゼビュート…7大罪の悪魔。貴方が宿しているんでしょう? 出して。すぐに。私が用があるのはそっちなんだから」
「―――?」
「そんなものに魅入られたの? 悪魔と契約して、それで何になるっていうのよ。…正直、許せない」
憎々しそうに、最後の方は聞き取れないほど小さく囁かれた。
「………は、」
真田だって、積もり積もったものが、あったのだ。
何せここ小1時間、理不尽すぎたのだから。
「Was sagen Sie seit einiger Zeit? (さっきから何言っている!)」
感情が爆発すると、馴染み深いドイツ語がとめどなくせり上がってきた。
「Wer sind Sie?  (アンタ誰だよ!)
 Warum muss ich den Vielfrass laden?  (何でベルゼビュートを呼ばなきゃいけないんだ!)
 Ich kann nicht sich der ladung leicht tun,
 dann der Vielfrass isst meine kraft!! 」
(呼んだら力喰われるんだから
 ホイホイ出せるものじゃない!!)
「…な…」
「Selbstgefaellig! Sie sind vorlaut! (えらそーに! 生意気なんだよガキッ!!)」
どうせ聞き取れやしない。感情が噴き出すままに、真田は罵声を投げた。ミサは固唾を飲む。が、すぐに眉間に刻々と皺を刻み出す。不満だらけの顔で小さく反論した。
Je vous pense des abus de parole. (今、悪口言ったように聞こえる)
「……え」
肝が冷えた。
あらん限りの罵声をこれから吐くつもりだったのだ。堰きとめられた単語をごくりと溜飲下して、ミサの物言いを反芻した。こいつドイツ語を…? いや、何て言った? わからない。ドイツ語じゃない…。
彼女の言った言葉は思い返しても母語ではなかった。真田にはっきりと言えないが、意味がわからなかったのだから懐かしいドイツ語ではない。
「――Wie bitte? (何…? ずるいぞ!)
 Ich verstehe keine Ihr Wort. (人の知らない言葉を話すなんて!!)」
「ああもう! Vous devriez parler japonais! (日本語喋りなさいよ!)
2人して掴みかからん形相だった。そこに割り込んだ腕―――2人をべりっと引き剥がした手は、一乗寺のものだった。あまりに唐突だったせいか、牽制のし合っていたことも忘れて真田は一乗寺が世話を焼くという珍しい所業を喰い入るように見つめた。
ミサだって似たような反応だったようだ。
「…うるさい」
不機嫌な響きが込められている。
「近所迷惑だ。…話をするなら落ち着いてしろ。―――もう冷めたが、茶が入ってる」
だから飲めとか何とか言えばいいのに。
真田の口には合わない苦い緑茶という液体が、縁側の盆の上にこじんまりと載せられていた。

茶を飲んだところで落ち着けるはずもなかったが、渋々真田は縁側に腰を下ろした。湯のみは持つだけ持ったものの、飲む気にもなれなかった。今は腹立たしさを諌めることに必死だ。押し込めても押し込めても、隣で暢気に茶をすするミサを見るだけで再燃してくる怒りが、それはもう手に余った。
ミサは言う。
「…大食公を出して。あなた、悪魔を宿しているんでしょう」
「…いやだ。なんで言う通りにしなきゃならない?」
「私が祓うからよ」
祓う? と鸚鵡返して湯のみを置く。意味を図りかねて部屋の奥にいた一乗寺へと目配せを送ると、長い沈黙のあと、ようやく助け舟が出された。「真田、彼女はエクソシストだ」
"エクソシスト"―――悪魔祓いか!
悪魔祓いだけをやっているわけではない、と一乗寺は簡素な説明をつけ加えたが真田には大した違いではない。もちろん悪魔ばかりが逆居にはびこるはずもなく、他の現象も対処できる能力があっておかしくない。悪魔祓い、それは彼女の能力のひとつでしかない。ただ、そんな説明も目下悪魔と契約中の真田には関係がないことだった。
「…ベルゼビュートを奪いに来た、ということか?」
「奪う? あなたはその悪魔を何だと思っているの? 悪魔はね、お友達じゃないんだから」
ベルゼビュートをお友達なんて思ったこともない。真田は鼻で笑った。
「契約してまでお友達が欲しいとは思わないね」
「だったら出しなさい。抵抗されて貴方まで傷つけるのは面倒だわ」
「―――いやだね」
ミサは湯のみを置く。彼女の両手が空いたことに真田はどうしようもない不安に駆られたが、まさか一乗寺の庭先で仕掛けてくることもあるまい、と胸を落ち着かせる。
ねえ、とミサの声が寒々しいほど響いた。春風が暖かく感じられない。
「"それ"が何だかわかっているの?」
「何が。ベルゼビュートは俺の力だ。口出される筋合いはない」
「…悪魔なのよ。精霊でも何でもない。貴方が主人に不満だというのなら、"それ"は貴方をも食うわ」
今さらすぎる御託を並べられたところで、真田は不快になるばかりだ。
「…それは凶器なのよ。貴方をも殺す、悪魔なのよ」
アンタにに何がわかる。
「知ってるさ、そんなこと」
2人が平行線なことなど、明らかだった。

「………ッ」
唐突に立ち上がったミサの勢いに、縁側の湯のみたちがカタカタと振動した。真田はたじろいだ。激昂したらしく、顔は赤くなり、細い肩が戦慄いている少女。真田はミサに手をあげる気はないが、かと言って応戦しないわけにもいかない。奥歯をぎりりと鳴らした。
けれどもミサの細い肩を押し留めた者がいた。再び間に入った一乗寺は今度こそその顔を強張らせている。
「ミサ、ここで何か仕出かされても困る」
「あ…」
何せ民家の庭先だ。
ごめんなさい、と素直に謝っている。しゅんと萎んだ威勢がすっかり姿を隠してしまうと、ミサは歳相応に見えた。意気込んでくる様はまるで闘牛か猪だったが、こうなってしまうとうさぎよりも大人しい。よほど申し訳なかったのだろう。
真田の指先からふっと力が抜けていく。
やってられない。ミサとはどう腹を割ったところで、相容れない。喧嘩にならない方が可笑しい。着込んでいた薄手の羽織のポケットに手を突っ込み、真田は横目に捉えた2人には声の1つもかけずに、庭を後にした。
ふと、空気が冷たいことにようやく雲行きを危ぶんだ。
なるほど天気予報はまんざらではないらしく、今や曇天が青い空を侵食していた。ちらほらと民家の桜が風で舞い落ちていく。春の日に珍しく、ほんとうに一雨くるかもしれない。真田は傘を持たず家を出たことを早くも後悔しながら足を速めたのだが―――まさか背後から悪寒を感じようとは。
「ちょっと! 逃げるの?」
Wasはぁ!?」
呆れたことにミサは一乗寺を振り切ってまで、後を追ってきたらしい。
自分も噛みつく性質だと思っていたが、ミサほどではない。まさか張り合えるほどのしつこさなど持ち合わせていまい。いいかげんにしてくれ、とぼやいた後は背後のミサを振り切るように駆け出した。背後を取られては困るので、実に気を配りながら。

ポツリ、と頬に水滴が滴る。
「…そんなにまで、悪魔が大事なの!」
「あなたが悪魔を持っていて利点があるというの?」
「ねえ、ちょっと、聞いてる――?」
ミサの口から溢れ出す戯言。真田は何ひとつとして聞かなかった。答えない真田に苛立たしい声を投げてくるのだが、どうやら歩くペースの速さに必死らしい。息こそ切れないところは驚嘆だったが、その音量には耳を塞ぎたくなるものがある。
雨、か――。真田はさらに足を速めた。
「…まったく、全部アイツのせいだ」
影がマンションにやってきたからこんな目に遭ったのだ、と今日の昼下がりを思い出して苦虫を噛み潰したように顔を顰めた。元凶は三露が呼んだせいだ。後ろできゃんきゃん吠える仔犬娘を三露が引き合わせるからこんなことになったんだ。
「アイツはこんな組織内のいざこざには我関せず、なのかよ…」
それどころか…。そこまで思い至って真田は、ぷるぷると首を振って雨を吹き飛ばした。
雨はほとんど、驟雨(しゅうう)といっていいほど降りはじめた。慌てて片腕を頭上に翳してみたものの、雨を凌げるほどでもなく、仕方が無しに真田は全力で走った。アスファルトはすでに水が降り募ってその色を濃くしている。
真田の靴が踏み出すたびに水しぶきをあげたが、気にせずに走った。
走らなければ気づいてしまいそうで、真田は堅く目を瞑る。再び瞼をこじ開けたときには、とにかく帰ることが先決、と思いを改めていた。
―――それどころか…三露がミサに協力的、だなんて考えてしまわないように。

雫は床に弾け飛ぶ。その音はどこまでも廊下にこだました。
真田が自分のマンションに駆け込むとすっかり雲で覆われた空は大泣き状態。ずぶ濡れになっていた。せっかく磨かれていた廊下に水溜りをこしらえながら歩いた。
とにかく驚いたことは、ミサを連れてきてしまったことだ。
勝手についてきたのだが真田の足についてきた根性は…感服だった。周囲の地理もわかるまい。雨まで降ってしまったのだから、ミサには引き返すかついていくかの二択しかなかったのだろう。だからと言ってここまで追いかけられても真田は困る。それどころか、背後に立って肩で息をする少女は怒りの対象でしかなかった。
「ねえ、ちょっ…」
ミサの発言もままならないままちっとも降りてこないエレベーターのボタンを苛立たしげに打って、階段へと踵を返す。早く部屋に戻って着替えたい。
「ねえ、真田!」
名前を呼ばれる筋合いもない。ポケットをまさぐって鍵を取り出しながら部屋の扉まで歩く。
「ねえ、ねえ、ねえってば!!」
「なんだようるさいな!」
ようやく返ってきた返答が怒声ではミサも甲斐がない。急で驚いたのか、声の大きさに反応できなかったのか、丸い目をぱちぱちと瞬いた。
その隙にドアに身体を滑り込ませ、真田は言った。
「これ以上追いかけてくるな! ここは俺の家で俺の領域だ!」
扉と壁との一筋の隙間越しに2人は睨み合った。ミサは幸いその狭間に無理矢理指を押し込むことはしなかった。単に呆然としていただけかも知れない。けれど強行突破を考えようものなら多少指を挟んででも真田は彼女の侵入を許さないつもりだった。
「帰れよ!」
こいつが雨に濡れようと知ったことじゃない。
「もう俺に関わるな!」
強く引き閉めた扉が、最後にミサの赤らんだ目尻と頬を映し出してから、大きな音とともに外部と部屋を切り離した。シャットアウトされた扉を真田は睨む。そこにまだ、ミサはいることだろう。
「…うるさい。…今更だろ…」
降りしきる雨の騒音が、鼓膜を打ち響いて止まない。




           

 





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