ミサはもういなかった。
廊下には誰が作ったともわからない水溜り、そこをずり歩いた泥水の足跡、点々と零れついた水滴。真田はドアチェーンを外して今度こそはっきりと確認した。マンションの廊下には人気がない。静寂だけが漂っているのを見て、安堵とも落胆とも取れぬ息を吐き出した。
「帰った、よな…」
部屋に舞い戻って薄暗い曇天を見ても、真田は時間がわからなかった。かといって時計を見る気も起きない。先刻、ミサを締め出して部屋へ帰るなりタオルで乱雑に水分を拭きとって、そのままタオルに包まる猫のように寝入ったことまでは覚えている。どれほど眠ったのかも判然としなかった。
ぶるっと身震いをして、風邪をひいたら困る、と熱いシャワーを浴びに浴室へと向かった。
最後に見た赤らんだ少女の顔を振り切るように。
半乾きの衣服を脱ぎ捨てたその背中には悪魔の契約印が黒い染みのように刻まれていた。


神のおぼし召しか、神に見捨てられたのか、その日の締めくくりまで最悪だった。真田はベッドからむくりと起き上がり、今しがた見た悪夢を省みて唸った。最悪の、夢見心地だ。
シャワーを浴びてぬくぬくと温まったところで真田は就寝にしてしまったのだ。規則正しい彼が夕食も食べず、不貞くされるように眠るなんて珍しい。深層心理が今日という日をさっさと終了させたいのかも、とぼそぼそひとりごちながら布団の中に身体を滑り込ませた、のがおそらく数時間前。何にせよ、起きて何かをしていれば自然と意識が今日の出来事に向かってしまうのだから寝てしまった方が得策のはずだ。―――そのはずだった。
まさか、夢にまで見るとは思いも寄らない。
寝起きにしてはすっかり覚醒してしまった瞼を何度かぱちくりと瞬いた。
あたりはまだ暗い。夢の中でも、暗幕の内の闇みたいに暗かった。いや、過ぎる光景はまばゆい家の中の様子で、父や、姉たちが出てきて何か言いた気な視線を送っては消えていく。その消失感が闇のイメージだったのだろう。最後には祖父母も出てきた。まるで3年前までのドイツでの暮らしが走馬灯のように駆けていく夢だった。
『日本に、行ってみてはどう?』
祖母が優しげな瞳を向ける。
『貴方のことも、その力も受け入れてくれるところがあるのよ』
3年前、見かねて差し出してくれた祖母の助け船に、真田は乗った。勢い半分だったと思う。それでも日本にある『組織』に入るという祖母の勧めは功を奏した。今、真田はここの暮らしが気に入っている。
余談になるが真田の祖母はなかなかやり手で、ベルゼビュートにしたってこの祖母から受け継いだもの。この悪魔の元主人は彼女だ。年々歳とともに『力』をすり減らしていた祖母をいつ喰らおうかとベルゼビュートが舌なめずりをした頃、「孫に譲り渡すわ。あらだって契約には誰かにあげたらいけないだなんてなかったもの」と強かに笑った、という逸話もあるほどだ。真田は知る由もないが。
それが、数年前。
悪魔を貰ったときはその奇異の力に途方に暮れたくなった。
今はベルゼビュートを自分の『力』だ、と断言できる。強くなった。―――いや、心の余裕が出来たのか。
今しがたまで映写されていた夢は懐かしすぎて心地悪かった。どう考えてもミサが現れたせいだ。ミサのせいでこんな夢を見たに違いなかった。しかし、不快感の一方である決意を覚えたのも確かだった。
"それ"が何だかわかっているの? と小さな来訪者は文句をつけた。
それ。…ベルゼビュートさ。俺が契約している悪魔だ。こいつに俺が喰われるか、俺が死んでこいつに喰われるか、はたまた誰かに明け渡す。それまでこの手から離れることのない悪魔だ。
真田はベッドの中で横になったまま、己の手の平を眺めた。
―――正直、誰かに明け渡す未来図なんて想像できない。今も、きっとこれからも。
「…だから。俺はいつかベルゼビュートに喰われて死ぬ」
心に宿ったささやかな決意。死んで喰われるか、喰われて死ぬか、そこまではわからない。
「きっと、な」
拳を握る。
こんな覚悟は日本に来てから心の奥底で考えていた。真田に宿った決意は揺るがない。腹を据えてしまった今、ミサに現れられたところで逆に―――。
「手放せるわけないだろ…」
俺の、この力を。


* * * *



「やっと、出てきたわね」
翌日真田が買い物にでも出ようとマンションに出ると、玄関先の駐車場に置かれたブロックに座り込む小柄な人影がひとつ。真田は目を瞠ることとなった。見覚えのある姿。めげずにミサはやって来たのだ。風邪をひかなかっただろうかなんて心配は杞憂に終わった。ちょっとでも心配した自分は何なんだと思うほど元気ないでたちでそこにいる。2人の間に乾いた空気が駆け抜けた。
「アンタ、まさか一晩中居たわけじゃないよな…?」
声も紡ぎ出せなくなるほど驚いたが、無理矢理ひねり出すと真田の声はひどく呆然としたものになった。今や昼間。陽も高々とてっぺんで輝いている。まさか、とは思ったが訊かずにはいられなかったのだ。
ミサは立ち上がって腰に手を当てる。
「いくら春だって言ったって昨今の日本で野宿するように見えるのかしら、ねっ!」
ミサの悪態に自然と口元が引きつったが、一方で昨日と何ら変わらない減らず口がどこか上ずった声に聞こえて、…妙だ、と思った。その姿が、真田には不思議なことに虚勢に見えた。
「当、然、そんなわけないでしょう? 服だって昨日と違うわよ。よく見なさいよ」
ミサは淡いベージュの柔らかいドレープをあしらった服装をふわりと揺らす。けれども眺めたところでピンとこなかった。昨日の服装もふんわりゆったりした服だった印象こそあるようなないような…。所詮ミサの服装まで記憶にとどめていない。
「そんなこと覚えてるわけないだろ」
「あらそう。とにかく一度は帰ったわよ。それで、また来たの。…貴方の悪魔に用事があるって言ったでしょ? 出して」
まるでおねだりするように手を差し出される。
その手の平に「ハイ、どうぞ」なんて乗せてやれるはずもない。ひとひらの紅葉のような手を、真田は睨みつけて最後には小さな舌打ちを響かせた。
「用事? よく言う! アンタ、エクソシストなんだろ。用事も何も…悪魔をとり祓うんだろ!」
「…そうよ」
「は、御免だな!」
ミサは盛大に顔を顰める。と、思ったのだが、どうしたことか俯いて小さな肩を小刻みに揺らし始めるではないか。はじめは泣いているように見えた。けれども。
「私…貴方に訊きたいことがある…もう一度、ちゃんと」
泣いているどころか、ミサの声は怒りに震えているのだった。
「……何だよ」
「―――貴方、悪魔を何だと思ってるの?」
「………」
真田にとってベルゼビュートは悪魔だろうと何だろうと"力"だ。ただほんの少しコントロールの危うい、それでも"力"だった。世間一般が"悪魔"を不幸の象徴にしようとも、ミサが因縁の敵のように見ても―――真田にとっては違う。
「俺には、ベルゼビュートは…」
だが、神妙な声音もふいに顔をあげたミサに遮られてしまう。
「あなた、は、何も…何もわかってない!」
呆気にとられた真田は、質問しておいて何だとかこちらの意見も聞かないでこいつは…とかどこか遠くで嘆息ものの感想を持った。耳奥でからすの鳴き声でも聞こえるんじゃなかろうかというほど呆然と目を見開いて。…まだ何も質疑に応答できていないのに。
激昂に顔を赤くするミサが、髪をふり乱す勢いで一歩距離を詰めてくる。
「あなた悪魔のことを甘く見てる! 何もわかってない! 本気で言ってるの!?」
言うもなにも口出させてもらってすらいないこと。呆れかえった真田は忘れていたほど。
「悪魔は―――貴方が思っているほどかわいいものじゃない。お友達かペットか、そんな範疇に入ってるとでも考えてるの? 悪の誘惑者だなんて世界もよく言ったものだと思うわ。その通りだもの!」
「な…俺は悪魔に憑かれたわけじゃない。だいたい、悪魔と契約した人間が全員不幸になるなんて勝手に決めるな!」
ミサは息をつめた。そして叫ぶ。
「悪魔と契約した、そのことが不幸って言ってるのよ!!」


* * * *



「本気で言っているのか」
三露にたむけられた一乗寺の声に胡乱な響きがあったのは確かだ。それどころか批判かもしれない。何だかんだと衝突するもののお前たちは友達同士ではなかったのか。言外にそんな声が囁きかける。
三露はその日も一乗寺の家に足を運んでいた。気が向いたというよりは他に時間を潰す場所が浮かばなかっただけだ。けれどやってきた一乗寺は茶も出さず、ろくに喋らず、ようやく口を開いたときにはそんな言葉だった。
唐突過ぎる話題でも、三露はすぐに思い至った。
ミサが真田にちょっかいを出すこと。ミサが大食公を祓うつもりであること。三露は昨日「好きにするといい」と言って、ミサの申し出に傍観を決めた。総帥の立場で頭ごなしに逆居に戻れと言うことも出来たのに、黙認を宣言した。一乗寺はそれを批難したいのだろう。
「…本気だよ。真田のことだよね? 実際、悪魔を使うことは甘くないからね」
「………」
「遅かれ早かれ、衝突したさ。ミサはああいう性格だから。真田にしたってあの悪魔をコントロールできなければ、事態は切迫する。いつか起こる問題だったんだよ」
まるで自分を納得させるような物言いに、三露自身、自嘲の笑みを零した。
いつか起こる問題だから仕方なかったんだ。―――そう言いたいのだろうか、自分という人間は。
「そうか」
一乗寺の返答はあまりにもそっけないものだった。
「案外簡単に納得するんだね」
「………」
「きみこそ真田の保護者代わりとしてはどうなんだい? ミサが真田の悪魔をとりあげたら、きみだって…――」
きみだって。―――"だって"?
ふと間を挟んでしまったのは失態だった。
三露は苦々しい表情を作る。まるで「僕だって」と言ってしまったようなもの。
「……。…まあ、いいや」
濁した言葉に気づいただろうが一乗寺もまったく二の句を結ぶことはせず、しばらく居心地の悪さだけが辺りを彷徨った。庭の常緑樹がそよそよと風に揺れる音だけが響く。
三露はそっと細く長い嘆息を漏らした。
「…もう、行くよ」
来て10分と経っていないだろうが、今日はこの極上日向ぼっこテリトリーでさえ居心地が悪いらしい。帰って自分の部屋でだらだらする方がいいのかもしれない。三露は重くなりかけた腰を持ち上げた。
「邪魔したね。次来たときはお茶くらい出してよね」
「…しょっちゅう出すことになる」
「だから嫌だって言うのかい? まったく!」
帰る。そう言ったものの、三露の足は1歩前に出すにも億劫だった。
足元の砂利を踏みしめる音だけが感じられる。一乗寺は、ちっとも動き出さない三露の背中を、今だ縁側に座って静かに眺めていた。天に昇った陽が差し込んで作る少年の蔭は暗い。
そして、ぽつりと漏れ出ずる三露の本音。
「…きみに言っても仕方ないんだろうね」
何が、と応答しないのが一乗寺らしい。
「わかってるよ。僕だってね。―――でも、だからってミサに頭ごなしに自分の地区へ帰れなんて言えない。それで納得するような性質じゃなかった。…だけどね、一乗寺?」
唇が薄く笑う。
「僕がミサの肩を持ったなんていつ言った?」
「…言ってないとも」
その嘲笑が一体誰に向けたものかなんて、三露自身もわかっていた。真田のことを信頼しているからミサという少女がやってきても意にも返さなかったんだ。声に出そうと必死に心中で復唱するのだが、最後にはため息を零してしまう。…そんな、なんて、白々しいことか。
「僕は真田に、選択肢を提示しただけだよ」
弱々しい吐露にも、一乗寺の視線は相変わらずそっけない。
「真田は悪魔を持ってるんだ。コントロール出来るうちはいい。僕だって何も言わない。でも出来なかったら、―――死ぬんだよ。死ぬくらいなら、力を捨てる。死を取るか力を捨てるか、真田が選べばいい。それも…それだってひとつの手だろう?」
三露の声は程なく掠れていき、最後の方は震えてしまって情けなかった。
真田の力のカバーくらい三露は買って出る(もちろん口になどしないが)。喜んでする(もちろん口にしたりなどしないが)。ただ自分の知らないところで何かあっては…残される道は"悪魔に食われて"さようなら、だ。知らないところでなくたっていい。もしも新月の日だったら―――思えば己はあまりに不甲斐ない。
ふと脳裏を過ぎるのは、満月のあの日崖から転落した真田だ。
赤い記憶を呼び起こす、ただそれだけなのに三露を滅入らせるには十分だった。"力を捨てる"ことが"組織から抜ける"ことに繋がったとしても…それでも。
「…三露」
一乗寺の呼び声をよそに、三露は俯いた。
頬の筋肉はもう薄く笑うこともできないほど緩慢な働きを繰り返す。正味なところ、せっかく友達になった真田が死ぬのは勘弁してもらいたいというエゴなのだ。
そんな、なんて、傲慢なことか。
「三、」
「いいさ。周りにどう見えようと僕はミサの肩を持ったつもりなんてない。ただ真田が選ぶだけだよ。それを待ってる」
いい加減地べたに貼りついた両の足を持ち上げて、三露は振り返りもせず一乗寺の家を後にした。


* * * *



―――悪魔と契約した、そのことが不幸って言ってるのよ!!
ミサの悪辣な主張に真田はしばらく反応を見せなかった。数度、平生(へいぜい)とかわらない瞬きを繰り返しただけ。だが最後には凄みの効いた睨みをミサへ向けてお見舞いしていた。
「不幸、だって? 何を、勝手なことばっかり。アンタに何がわかる!?」
胸倉につかみかかりたい衝動を必死に堪えたくらいだ。
「憐れんでるつもりか? 悪魔を持ってる俺が不幸でかわいそうとでも言ってる? …アンタ何様のつもりだ!」
「違…」
「違わないだろ! わかったような口利くなよ! 正義の味方ぶってるならいい加減にしろ!」
怒鳴り散らすとミサはわずかに怯えたふうだった。それでも怯臆を顔に出すまいと唇を一文字に引き締めている。そんなところは一種感嘆したいくらいだな。真田は脳裏のどこかで嘲る気分を味わいながら、止め処なく溢れる怒りを吐露し続けた。
「不幸だって? アンタみたいにヘラヘラ生きてきましたって顔のガキに何がわかるんだよ!」
何も自分から悪魔が欲しいと言ったわけではない。
「"悪魔なんか持っちゃってかわいそうだから私がなんとかしてあげなくちゃ"とでも思ってる? はっ、馬鹿らしい!!」
かつて、何度、この悪魔を憎いと思ったことか。
「正義でも語って、聖女か何かのつもりなんだろうな―――アンタは!」
それでも仕方がないと諦めるしかなかった。ベルゼビュートを持って四半期(2、3ヶ月)もした頃には、親や姉に気味悪がれることすら慣れた、そんな自分が彷彿とする。
「…そんな偽善、俺には迷惑なんだ!」
ミサはついに、顔を強張らせた。
「俺はベルゼビュートを祓って欲しいなんて思ってない。覚えておけ! 俺はアンタが迷惑なんだよ」
それが最後の投げ言。
真田は吐き捨てた激情を何ひとつ取り繕うことなく、ミサに背を向けて駆け出した。今度こそ、ミサは追いかけてはこなかった。

ふと、暗い路地に人影が動く。
細いというより狭いといった道に身体を滑り込ませていた少年の姿に、真田もミサも気づくことがなかった。通りからは自動販売機が邪魔で死角になったのだろう。人蔭はしばらく躊躇ったようだが沈黙を決めた。そう、三露は暇だからと適当に果京をふらつくのはよくない、こんな場面に遭遇するなんて冗談じゃないな、と頭を抱えたのだ。
真田が走り去ってしばらくすると、ミサもとぼとぼと踵を返して去ってしまう。
―――拒否、か。
真田は悪魔祓いを拒絶した。手ひどいまでに拒絶してみせた。そうか、と三露はほっと息を吐いた。だが束の間をおいて驚いたように口元を抑える。その手のひらで隠された頬は、暗い蔭のもとでじわじわと歪められていったのだった。
噛締めた奥歯が、鳴る。
三露は人通りのなくなった通りに這い出て、財布から取り出した小銭を乱暴に投入口に押し込んだ。ガコン、と大きな音を立てて自動販売機は缶ジュースをはき出す。プルトップを開け、流し込めるだけの水分を押し込んで、ようやく長い一息をつくことができた。
「僕は、どっちになることを望んでいたんだろうね…」
自分でもわからないなんて、お笑い草だ。


* * * *



瞼を持ち上げる。白い天井に、白いライトが灯っている。ミサの住み慣れた寝室。ベッドの上なのだと気づいたのはそれからしばらく経った後だった。
額から生ぬるい感触がずり落ち、拾い上げてみると濡れタオルがくたりと力のない姿で手の平の上にある。億劫ながらも視線を横にずらして一人の青年を捉えたとき、ようやく意味がわかった。
真田と別れて逆居に戻ってみると居高に構えた彼にさんざんと文句をつけられ、ベッドに寝かしつけられたのだった。まるで母親のように口うるさかった。
「ミサ、起きたか?」
うん、と返事をすることも乾ききった喉は許さない。
「…風邪薬を飲んだ方がいい。食べるもの作ってある。今持ってくるが…他に欲しいものは? りんごでも剥いてやろうか?」
ミサは首を振った。
「…何? 俺がせっかくむいてやるっていうのにりんごは嫌?」
「く、―――くすり、要らない」
青年―――武政如(たけまさ きさら)は盛大なため息を零した。
「子供か、お前は…」
ミサは口を尖らせている。

ミサの知る武政という男は"小松地区の術者"だった。面識こそあれど、昨夜豪雨の中"果京"地区で声をかけられたときはにわかには信じられなかった。雨が降りしきる音。それが途絶えたかと思うと、傘を差し出した武政が立っていた。
彼も、生真面目な少女が逆居を留守にするなんて、放浪癖のある自分ならともかく、と考えたに違いない。暗がりでは表情までは読めなかったが「ミサ?」と訊ねてきた声は、確かに自信なさ気に響いていた。
薄暗い空模様。鏡のごとく道路も闇色だった。傘を持った青年の顔が近づいてようやく判別がつくほどになると、ミサは安心してしまい、
「なんで如がここに…?」
と訊くや否や倒れこむように全身の力を抜いていった。
そこから先はミサ自身の知るところではなかった。武政は傾いていく少女を抱きとめるとすぐ、熱があると理解した。意識まで飛ばしてはいなかったようだが、朦朧として危うい足取りをするミサ。彼は面倒見が良い性質ではないが、この少女1人を置いていくには忍びない。仕方がなしに逆居のミサ宅まで送り、看病に勤しんでやった。―――といったことのあらましを、ミサは次に目覚めたときに自分がベッドに横たわる理由を訊ねて、ようやく知った次第だ。
ミサはそのあと暖かい部屋で一晩寝入った。昨夜のことだ。
明くる日、咎める武政を黙殺して意気揚々と出かけた。他人を家に残していくわけにいかないので、ミサの出かけに合わせて武政にも退散願った。追い出したのである。ところが、真田と口論の末に打ちのめされたミサが帰宅するとどういうわけか彼は家の中から出迎えてくれた。
腕を組んで立ちはばかる武政。
「やっぱり悪化させたな」
本格的に風邪を引いたらしいミサは、熱に火照って、そして涙目を隠せずに―――。

ベッドの上でミサは身をよじった。
「ねえ、きさら…?」
武政がコップ1杯の水を勧めてきたが、半分ほども少女は飲み干せなかった。水さえも腫れた喉には痛かった。
熱に浮かされた声に、何か食べ物を運んでこようと腰を上げていた武政が動きを止める。
「悪魔が必要なひとって、いる…?」
目尻に滲むものがあった。
「なんだ。会ったのか? そういう人間に」
「……。いるのかな、と思っただけよっ」
掛け布団を口元まで引き上げ、ミサはもごもごと喋る。武政はそっと笑った。
「いるんじゃないか。世の中いろんな人間がいる」
「そう…、そうね」
「それで? おめおめと帰ってきたのか?」
鼻で笑いながら、武政は颯爽とドアをすり抜けキッチンへ向かってしまう。ミサは思わず反論が口をついて出そうになったが、すでに退室していってしまった存在に喘ぐしかない。タイミングを失ったせいで彼が舞い戻っても先ほどどんな反論を言おうとしたのかさえわからず、口の中で声にならない息を転がすしかなかった。
武政はというと鍋やら茶碗ののった盆を持ってあっけらかんとしていた。こういう男なのだ、武政は。人を手玉に取る。ミサは口惜しそうに言った。
「…馬鹿にしてるんでしょ」
「さぁな。してないつもりだが? 自分と違う考えを持った人間に会ってハイそうですかって帰ってきた子を俺が馬鹿にするとでも?」
「してるじゃない!」
してるかもな、と武政が笑う。どこまでふざけた男なのだ、この輩は。
「それで? 悪魔が必要だって考える人間がいることにショックって顔してる」
ミサは思わず両手で己の頬を挟んだ。
「…そいつの言い分、納得できたのか?」
「………。できる、わけ、…ないじゃない」
だって。だって、とミサは独白をはじめる。悪魔を持ってることはその人を苦しめるわ。それは、不幸なことよ。…とっても苦しいんだから。私、それを祓おうと思ったのよ。―――それだけなのに。
武政に勧められ食欲の欠いたミサがじっくり物を食べる間も、ミサは思いに耽る。武政は暗い蔭を落とす様相を口咎めるわけでもない。気づけば林檎を剥き出しているほどで、そっけない。
長きに渡って降りていた沈黙を最初に破ったのは武政だ。
静かに声が響き渡る。武政はこちらを見ることなく、まるでひとりごちているようだった。
「世の中同じ考えをする奴はいない。当然だろ。……それで? 悪魔を必要としている人間がいたら、聖女ミサとしてわかりましたって言えるんだか、どうだか?」
真田の言い分を納得できたとは、口が裂けても言えなかった。
「…ミサにも譲れないものがあるなら多少衝突してもも仕方がない。妥協するなら自分で決めて、しろ」
「………」
「さて、林檎だ。どうぞ」
武政が白い皿の上に並べたのはウサギをかたどって切られた林檎たちだ。器用だったらしい、どれもかわいらしく赤い耳を伸ばしていた。
「留守が気になるなら、俺がここに残ってやろう」
逆居のことは心配しなくてもいいぞ、暗にそう訴えているのだろうか。武政はにっと満面の笑みを浮かべている武政。心底、どこまで知っているんだとその地獄耳を掴んで問いただしてやりたいものだ。
ミサは、いただきます、と呟いて林檎を頬張った。どこか晴れ晴れとした気分が広がっていた。
「…ミサ、それを食べたら風邪薬だ」
「……いや」


寝入った少女に細心の注意を祓いながら、蛍光灯の灯りを消す。結局食後3錠の但し書きを甘んじて、1錠だけ飲ませることに成功した風邪薬の副作用が睡眠を誘ったのだろう。小さな寝息が続く。
そんなミサの髪を一房、武政はゆるやかに手櫛した。
「悪魔とミサ、ね」
低い声が漏れ出ずる。
「難儀なことだよ、まったく」




           

 





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