真田はうんざりだった。あれほど怒鳴り散らしたミサは懲りずに翌日も、その明くる翌日も、連日真田を追いかけ回してきた。出会った日にマンションまでくっついて回る少女を追い払わなかったことを、真田は今さらながらに失態だと嘆くしかない。家がばれてしまってはおちおち出かけるわけにも、気安く帰宅するわけにもいかないのだから。
必死に遭遇率を下げたくて、会遇の地、一乗寺宅にも寄りつかないでいたのだがそれでも毎日出遭ってしまうのはどうしたことか。
こいつ発信機でも仕込んでるんじゃ…? 疑いたくなるほどミサは真田に執拗だった。
そして、それだけで終わらない。

「ちょっと、用事があるのだけれど」
「いい加減にしろよアンタは!」
現れたミサはぐいと真田の腕を掴んで歩き出した。その日鉢合わせたのは開発されてきた南の都心部寄りにある交差点。人通りもそれなりにある。そこで立ち往生する2人に、通行人の視線は自然と吸い寄せられていた。2人して目立つ容姿だと自覚がないことも手伝っていたことだろう。
ミサが引っ張る腕に、さっそく真田は嫌悪感を覚えていた。
侵食というにふさわしいほどどろどろと広がっていく感情を、力いっぱい小さな手と一緒にふり払う。ところが更なる人目を引いて気まずくなって、真田は身を竦めた。
ミサの方はといえばふり払われた腕を幾度かさすっている。
そんな2人に注目していた観衆だったが、青信号に切り替わった途端に横断歩道を渡りはじめた。まるで目もくれずに歩き出していく。
「…そんなに力いっぱいふり払わなくたっていいじゃない。人目につくから場所を替えようと思っただけよ」
ごもっともなようで、違う。
「そうか、と言ってついていくとでも思ってるのかよっ。人目につくってわかってるなら俺に話しかけんな!」
「わがまま」
「どっちがだ!!」
主張しておいて難だが、真田本人でさえこれが"わがまま"の範疇に入るのかどうかわからない。けれど叫ばずには居られなかった。車道を追従していた大型自動車の音が間断なく轟くせいで、先ほどより振り返った人間が少なかったのだけが幸いだ。
幾人かの通行人の進路に立ちはだかっていた真田だったが断固として1歩も動かなかった。迷惑そうな視線が当然集中する。それでもミサ一点を睨む真田にしてみれば、構うどころか気づこうともしない。
不意にミサが「仕方ないわ…」と諦め顔をつくった。
どうしたことだろう。真田は嫌な予感が急激に胸中でとどろきざわめいていることに気がついた。
2人の間を1台のマウンテンバイクが駆け抜けたが、その間にも目の前の少女は両の手を組んで瞼を下ろす。まるで祈るような面持ちに、真田は背筋が寒くなった。
「聖霊の神よ、慰めたもう主よ…」
電気が全身を駆け抜けるとしたらこんな感じかもしれない。そんな悪寒を背筋に感じ、真田は本能が危険信号を瞬かせていることに息を詰めた。危ない。このままではきっと嫌な予感が的中してしまう。飛び跳ねるように真田はミサへ向かって腕を伸ばして走り出していた。
「迫り来る悪を打ち砕…っぐ…」
真田が咄嗟にできたのは、ミサの口を抑えることだった。他に解決の糸口は見出せず、正面から彼女の口を塞ぎにかかった。あたりは張りつめた空気が漂っている。
ミサは襲ってきた状況に目を丸くしていた。しばらくの間、真田が「どうやらひとまず成功しらたしい」と胸を撫で下ろすまで、抗うこともなく呆然としている。首筋の動脈で大きな鼓動が早鐘のごとく鳴っている真田にしてみれば、そんなしぐさまで怒りの対象になった。
少女を沈黙させた手のひらから、やはり嫌気が広がってくる。いつも思う。ミサに触れると途方もない嫌悪に襲われてしまうこと。今もまた、そうだった。そんな事実に奇妙なものを覚えたものの、そうも言ってられまい。
思うに、あれは"呪文"。祓うための文句だったのかもしれない。
真田は肩から力が抜けていくのを止めることもできなかった。
「はぁ。アンタ…なぁ、こんなところで何仕出かすつもりだよ…」
ゆっくりと手を退けてやる。ミサは辱めを受けたかのように、憎々しげに真田を睨み返していた。
「なによ。あなたが悪いんじゃない」
「悪いのは俺なのかよ…」
それは違うと訴えようとも、まだ落ち着かない鼓動に真田はぐったりとするばかりだ。
「それに、力を使ったってどうせ周りには何も見えないわ」
常人には見えない悪魔を祓う、それは確かに視界に捉えることも出来ないのかもしれなかった。
「これに懲りたら場所くらい選んだら? 私は別にいいけど。…聖霊の神よ、慰めたもう…」
「なっ、オイ! 馬鹿ッ!」
油断も隙もない。慌てて再びミサの口元を手で覆うと、もごもごと抗議の声が手のひらにぶつけられた。ますます通行人の目の色がうろんなものへと変わって、真田は心底居たたまれなくなった。
真田だってミサから離れたい。けれど手を離して何か攻撃されてはたまったものではない。途方に暮れそうになったところに、視界の隅でちかちかと光るものがあった。
―――青信号が点滅している。
真田はすぐさまミサから手を離すと一目散に横断歩道を縦断した。あっという間の出来事で、跳ぶように真田の足は道路に描かれた白ボーダーを踏み越していく。ミサが駆け出そうとしたときには信号機は赤色を灯し、踏み出した足元すれすれに自動車が駆け抜けていった。クラクションを響かせながら。
「……ッ!」
真田が路地裏に駆け込む前、振り返ると声にならない叫びを堪えるミサがひた走る自動車と自動車の合間から垣間見える。
「…助かった…」

この頃の少女はなんと、武力行使に出る始末だ。


* * * *



たまらず、肩で息をする。大きく胸を上下しても肺のあたりが酸素を欲しがっているらしい。真田の喉はぜいぜいと苦しげな呼吸に喘いでいた。真田のマンションにはエレベーターとは別に奥にひっそりと階段があった。白いコンクリートの階段に腰を下ろして、まるで陽の目から逃れるように身を潜めている。さもなければミサに捕まってしまう。
桜は満開から散りはじめた頃だった。そんな桜並木を優雅に堪能するでもなく、真田はミサを背後に疾走してしまっている日常だ。思えばミサに追われて、武力行使に出られ、すかさず逃げる、こんなサイクルをすでに5日は繰り返している。
今まで寸でのところで逃げ切ってきた。真田は自分を賞賛したい。日に1度で済めばいいが2度3度追い回されたときは本当によく逃げ切ったものだ。真田はミサがその力を発動する前に姿をくらますことに、今だ成功し続けていた。
階段には踊り場ですら窓がなく、ひんやりとした空気が流れている。瞬発運動と持久戦を繰り返してあげてしまった体温をゆっくりと冷ましていく。
「…帰った、か?」
真田は脳を絞り、ある日外出しなければいいのだと考えて篭城を決め込んだ。しかし、するとミサは1日中マンションの前を張っていて、家から出るに出られない。朝早くにやってきて夜遅くに帰っていくミサ。それならば、と最近はミサが来るより早く家を出る。さもなくばその日一日引き篭もりになるしかない。究極の二択のうち、真田はたいてい外へ出ることを選んだ。
しかし家に居ても出先でも決まってミサが出没するので、頭が痛い。
本日もミサから逃れてきた。やっと撒いたかと肩で息をしながら帰宅すると、今日に限って胸に黒い染みが出来たように不安があった。何故? 案じて、特に用心を払って、常ならばエレベーターに乗るところを奥にある階段でゆっくりと上る。そこから自分の部屋を覗き見ると、ドアの前で少女が小さくうずくまっているではないか。真田は階下まで一気に駆け下った。
「最悪だあの女…」
どこまで執拗なのだ。どうしてここまで真田の悪魔に固執するのか、信じられない気持ちでいっぱいになる。真田の呼吸と体温がおさまるまでに考えあぐねいて、彼女がエレベーターに乗った隙に部屋へ向かうか、対峙しにいくか、決断しなければならない。
「! いたわね。こんなとこに隠れたってすぐわかるんだから」
階段を踏む靴音が響く。
「ちっ…! ああもうなんなんだよ!!」
選択権などなかった。逃げるしかないのだ。
「待ちなさいよ!」
「待つわけないだろ! しつこいんだよアンタ!」
再びアスファルト道路に舞い降りた2人は、追いかけっこを再開させる。風情のある桜並木に目もくれず、ときには行き交う車のない車道へ飛び出して、ときにはかくれんぼのように逃げ隠れ、それを探されて。鬼役適任者なのかミサはすぐさま真田を見つけ出す。どれくらい走った頃か、真田は泣き出したいほど疲れていた。
「ああもういい加減にしてくれ…何なんだよアンタは」
すると、背中から投げられたミサの声はどこか蔭を帯びているのだ。
「だって…だって……もう、もう二度と逃さないんだから…っ、ベルゼビュート!」
「―――?」
その時分は、真田もさほど気にとめず逃げつづけたのだった。

日もだいぶ暮れてきた。空は夕暮れを終えて紫色から群青色へとグラデーションを作る。いくつかの星がかすかに瞬いた。
「…帰れよ」
やや酸欠状態だ。真田に限らず、ミサももう立ち止まって呼吸を荒げている。帰れ。真田が念押すように突き放す。
「アンタ、家族が心配してるんじゃないのか。さっさと帰れ。もう暗くなる。だいたい、いつも学校どうしてるんだ…?」
ミサは大いに不快顔をつくった。何か言いたそうに口を開いて、けれども閉ざし、くるりと服の裾を翻して踵を返す。憤懣を押し堪えるような歩きでバス停をも通り過ぎてしまう。真田は思わず呼び止めてしまった。逆居に帰るにはバスを使わなければ遠いのを百も承知だったからだ。
「おい? どこ行くんだよ」
「帰るのよ。…乗寺(ジョージ)の家に」
「…ジョージ…? ―――Wasヴァス!?」
"ジョージ"と呼ばれたニックネームで、思い至った可能性。気がつけば身震い1つしていた。
「待てよ! もしかして………、一乗寺の家…?」
「帰れとか待てとかうるさいわね。そうよ。わるい?」
「なんで!」
「だって私あの家に住んでるんだもの」
それこそ何故、と言う間もなくミサは歩き去ってしまった。


明くる日。しばらく迷っていたが、最後には一乗寺の家へ行ってみようと決心していた。
真田は気づいたのだ。ミサがやってきた当初、武力行使に出ようとしたことがあった。蒼い目をぎらつかせて。今にも発動せんばかりの面持ちを、1人止め得た人間がいたではないか。一乗寺が「困る」と言うとミサは押し留まった。一乗寺は日がな一日家にいる。ともすれば、一乗寺の視界のうちではミサは攻撃してこないかもしれなかった。
わずかな望みをかけて、真田はもしかしたらミサも一緒に住んでいるやもしれない一軒の家へと向かった。

出迎えた一乗寺はわずかに気まずそうな視線を落とした。けれど真田がそれどころではなく、その小さな反応も見逃してしまう。
「…何、なんだ。この居間…」
そこにはミサが住んでいる―――いや、一乗寺ではない人間が住んでいることを証明するかのようだった。物品の海と言わんばかりで足の踏み場もなかった居間は、今やすっかり整理整頓されて整然ですらあった。さすがに骨董店の品を粗大ごみにして片づけるわけにはいかないのだろう。箱に収納されて積まれていたりもした。
真田は改めて納得した。誰か住んでいるのだろう―――それは、ミサ。
「ここ…あの女がいるん、」
「来たわね! 真田!!」
台所から駆け出してきたのは紛れもなく当の少女だった。
真田はさほど大きな声で話しかけたつもりもなかった。そこまで真田という人間を察知できるミサにあらためて舌を巻くほどだ。
「なんでこいつ俺の居場所がすぐにわかるんだ…」
これに、ため息交じりの解答を用意してくれたのは一乗寺だった。
「……。悪魔の気配に敏感なのだろう」

ミサは金網ケージの中の猫のようだった。
ミサという娘は、息巻いていると失念してしまうらしかったが常識は持ち合わせているらしい。民家の庭先、それもお世話になっている一乗寺宅では決して手を出そうとはしなかった。代わりに不満気な視線を送るか、「場所を替えましょう」と口を尖らせるばかり。金網の外に見える獲物に手を伸ばしても届かない。まるでそんな猫だ。真田は久しぶりに爽快感を覚えていた。
けれども、もちろん長く続くものではない。
真田は帰るに帰れなくなったことに、ようやく気づいたのだった。
次第に青ざめていく顔。いつしか真田は喉の奥に何か詰まる切迫感まで覚えた。ミサの方も真田の葛藤に気づいているらしい。帰りたいが、帰ろうと一乗寺家を離れてしまえば必ずミサという追っ手がかかる。それを考えると腰をあげるわけにもいかないと顔色を悪くする少年を、嘲っている。
いい加減時間も経過した頃、あらまだ帰宅なさらないのかしら?とミサが鼻で笑ったのが封切りだった。
「―――クソッ!」
こうなったら逃げるしかない。足元の砂利を踏みしめ、真田は一気に駆け出した。あっと背後で叫ぶ少女の姿にも目を向けている暇などない。真田は猛進で垣根の脇を走った。だが、運悪くも垣根からひょっこりと顔を表した人影に驚いて急ブレーキをかけなければならなかった。
何日ぶりかの三露だった。彼は風にいじられたらしく、明るく色が抜け落ちた髪の毛先を無造作に散らしている。その下に、ぎくりとした表情があった。一瞬でなりを潜めた顔色だったが。
「…真田」
急には人は止まれない。事実勢いあまった真田は三露にぶつかってしまった。勢いが制したのか、押されて一歩足を引き踏みとどまったのは三露だった。互いにしばらく呆けた様相を見つめ合ったが、そのうちすぐ気短かにまくし立てたのは真田の方。
「三露、やっと会えた!」
「…はあ?」
「アイツ何なんだよ! あんなののさばらせて何―――ああもうクソッ!」
待ちなさい、と背後から声が飛んでくると、真田は三露を問いただしたい気持ちを殴り捨てるしかなかった。とにかく走り出して追っ手から逃げる。
置き去りにされた三露の横を、剣幕なミサが通り過ぎていくと、三露は2人を舐めまわすような視線で追いかけているしかなかった。
「…よくやるね」
「やらせているのはお前だ」
一乗寺も言うものである。

「ところでどうしたんだい、この整頓されている部屋は」
「………」
「ミサが泊まるのも、なかなか悪くない提案だったみたいだね?」
三露はすっと目を細めて笑う。

―――だが。あの2人がどちらに転ぶか。
剣呑な思いが三露の胸に広がっていく。2人が走り去った門の向こうは、夕日色が滲み出していた。闇に侵食されて、春に似つかわしい重たげな光景が広がっている。



* * * *



「―――嘘だろ…ッ!」
見回しても、今しがた駆け込んだ公園は出入り口一体。出口は今抜けたばかりの入り口しかない。真田は失望した。
ある日、2人が立ったのは公園と言うより空き地といった方がしっくりくる、そんな場所だった。遊具がブランコ1つ。長らく使っていないだろうと思われる程度に錆びれている。もっぱら使えそうなのは砂場くらいだろうか。民家の並ぶ一角にある公園は小さな一軒家と変わらぬ土地幅でしかない。あまり出入りもなさそうなのは一目瞭然だった。芝が伸び放題でないだけの、空き地。
真田はそのとき絶望に近い面持ちだった。ミサから逃げてうっかり狭い公園に入ってしまった。出入り口は1つ。柵とは言い難い、腰より低い柵がぐるりと土地を取り囲んでいるものの、如何せん飛び越え先が民家では意味もない。しまった、と思った。
「大地よ、星々よ…主に向かって歌え」
ミサが何事か呟きながら、足を踏み入れる。
慌てて振り返ったのだが、どうやら一呼吸遅かったらしい。ミサの位置から真田に向かって、地面が一直線に盛り上がってくる。見たことはないが、もぐらが駆け抜けたような跡。ひびのようにも見える大地の歪みはあっという間に真田の両足を土の中へと埋めてしまった。
「なっ!」
「…あなた、逃げるんだもの。…こうでもしないと」
真田の足首までを埋めた地面。これではまるで足枷だと思った。
「アンタが追いかけてくるからだ!」
「そうよ、あなたが渡さないから。でももう逃さない」
ミサは力を発動しようとするたび指を組む。祈るように伏目がちになる。いつもならばその瞬間に一目散に逃げる真田だが、今は拘束された足が微動だにもできない状態。うんともすんとも言わない。背筋に悪寒が這い上がってくる。野生の勘のようなものだろうか。真田は先ほどより何倍もの力を両足に込めた。
土を蹴り上げるだけの力が、しかし、なかった。
「ああ救霊のいけにえ、天つ御国の門を開き給う御者よ。われらの敵は戦いをいどむが故に、…われに力と助けを与え給え」
もう後がなかった。
いつしか、真田は噛み締めすぎた奥歯をゆっくりと圧迫から解放していった。
「召喚(Laden)…」
ゆっくりと右手を前にかざす。
「姿成せ(Erscheinen)―――」
見ると、ミサの組んだ手から神々しい光が砲を作り出している。それは、放たれる。
「…大食公(Vielfrass)ベルゼビュート!」
力の砲撃のうねりは轟音をあげる。真田へ向かってくる砲は、今しがた召喚されたベルゼビュートに正面衝突して、雷にも似た弾ける光がせめぎ合う。ミサの弾きだした強大な激流のまぶしさに、自分に取りついている悪魔の黒影が溶け出してしまいそうな光景。
「く…っ!」
真田は息を呑んで、この状況が明けるのを待った。

「―――はぁ…」
胸を撫でおろした。ベルゼビュートは居る。ミサの力を喰い殺したのだ。もしやその光砲に飲み込まれるのではとはらはらしていた真田は、今、全身の力が抜け落ちるほどの安堵を感じていた。
どうやらミサの放った光の砲は"悪魔を祓う"たぐいのものではなかったのだろう。真田は考えた。単なる攻撃用。もしかしたら真田を弱らせないことには悪魔を祓えなかったのかもしれない、と小さな憶測をたてる。
それにしても驚いたことにミサの"力"は相当だったらしい。ベルゼビュートが満腹を求めて真田の力を喰らう様子はない。今だ切迫している状況なので悪魔を還らせるつもりはなかったが、それでもベルゼビュートはいつもに比べておとなしい。
やっと出てきたわね、とミサは言った。
「………」
そうなのだ。ベルゼビュートを召喚してしまったら最後。ミサの攻撃の的になるのは確かだった。悪魔を祓う術の仔細を、真田は知らない。避けれるものだろうかという気がかりが胸中を巣食う。
だからこのとき真田が少女に話かけたのは少しでも状況回避を望んだからかもしれない。
「なあアンタは、こうやって、いつも…?」
「なによ」
ミサはつんけんと答える。真田が無傷だったことが納得できないのか、何なのか。
「………。アンタはいつもこうやって祓ってきたのか、と思っただけだ」
「そうよ」
「全部?」
2人の間に十歩の距離もない。そこをそよそよと風が駆け抜ける。
「…何が言いたいの?」
常緑樹に囲まれた公園だったが、どこから舞い込んだのか、薄紅色の桜が1枚、2人の間に静かに落ちた。
「祓われて迷惑って考える奴もいたんじゃないかって言ってるんだ。それを無理矢理、アンタは!」
真田は少し早鳴る心臓をを整えながら、呼吸する。
「…どうせ聞く耳なんて持ってないんだろうけどなっ」
「―――そうね」
ミサの長い髪もわずかに風に揺らされる。
「祓われるのを厭った人間…確かに、そんな人もいたわよ。ええ、そうよ、いたわ、あなた以外に一人だけ」
再びミサはいつもの構えをとった。
「―――Elfエルフっていう女の人が、1人ね!」
―――なんだって?
よく聞いた名だった。耳を疑う猶予もなくミサは再び何事か唱え始める。
「天にまします全能永遠の主よ、願わくば主に対しては愛を、おのが悪徳に対しては憎しみを、他人に対しては熱意を、悪しきこの世に対してはさげすみを与え給え。願わくば慰め主なる聖霊の御降臨によりて…」
「…ベルゼビュートッ!!」

ベルゼビュートがわずかに受け喰らい損ねた力は、真田の頬を掠める。真田は半眼を眇めた。
「……んで…?」
またしても力を抑えられたことにミサは納得がいかないようだった。
「なんで、アンタが、俺のGroβmutterグロース・ムッター(祖母)を!?」


一台のトラックが走ってきたのを、真田は視界に捉えていた。ミサの姿のその先に。
この公園は、宅地の一角にあった。民家の区画の、その角にある。決して広い道沿いではないがさらに西へ進んだところに木材工務店があって、あたりに不似合いなほど大きなトラックの往来がある。公園にすっかり人の出入りがないのは、もしかしたら子供がうっかり車道に出るのを懸念した母親たちが原因かもしれない。
トラックはカーブをきるが、慣れた道だという甘い目論みのせいかスピードを落としきれていない。こんな民家の居並ぶ道で、と真田は信じられなかった。トラックは猛進というに相応しい走りっぷりで曲線をとろうとして―――ゆっくりと横転していく。
横転する先といえばこの小さな公園だった。
トラックは積荷の載った後部からバランスを崩していく。
「…危ない!! ―――ミサ!」
はじめて呼んだ名は、危険に気づかせる警告だった。
幌を突き破った丸太が勢いよくミサへ降り注いでいく。

みるみるうちに自分にかかる蔭が大きくなる。ミサは堅く目を瞑った。丸太が迫ってきても瞼と口をきゅっと結ぶしか出来ず、歯を食いしばっている自分に対して「何をしているのよ」とどこかで思った。その間にミサを襲ったのは真田の叫び声と、重力を失って横転する感覚。気がつけば背にある土の感触…。
ミサがきつく閉ざした瞼を開いたのは、真田の声が間近から降ってきてからだ。
「おい、大丈夫か?」
ゆっくりと瞼を押しあげる。
見えたのは、真田の顔。翳った真田の顔。伸びた両腕。自分に覆いかぶさる真田自身を支えている腕だ。ミサの視界はそれだけでいっぱいだったが、片隅に、桜のようなものが―――大破した木屑が降り落ちていた。ゆっくりと、ただゆっくりと。
目の前に広がる、真田が守ってくれた、歴然の事実。
ミサは頷くので精一杯で、瞬きもできない。ただ測りきれない状況に放心状態だった。それでも、しばらくして弾かれるように叫んだ。
「だ、だいじょうぶ…!?」
「はぁ…。それはアンタだ。俺は平気…別に怪我もしてない、と思う」
ミサはそのいきさつをゆっくりと語ってもらい、ようやく飲み込めた。
どうやら真田は危ないと叫ぶや否や足元の土をベルゼビュートに攻撃させ、息をつく間もなく木材を大破させたらしい。拘束から解放された真田はミサを庇うように押し倒した。平気だ、怪我は無いと訴える真田だが、喋っている合間合間に数度苦い表情をつくっている。舞い散る木屑が刺さる小さな痛みのせいかもしれなかった。
真田が転がるようにミサの上から退く。2人とは遠いところで半壊の丸木が横たわっている。トラックは横転。2、3本の木材が震えながらもかろうじて幌にひっかかっている。道路には轍が黒い曲線になってこびりついていた。
不意に頭に"ガソリン"、"引火"という文字が浮かんだが、真田が遠目にあれなら大丈夫だろうと呟いていた。

今だ粉々の破片が舞う、その中。
真田はミサを見つめていた。
「…アンタは嫌ってるのかもしれないけど」
2人は地べたに今だ寝転んでまま。片耳に冷たい土の感触、わずかに芝の感触があった。
「こういうのが、俺の力だ」
俺を助けてくれる。悪魔でも、俺の力なんだ。
真田の声は空気を振動させたのか、頬が貼りついている地面から響き伝わったのか。ミサに大きな波紋で響いていた。




           

 





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