アンタは嫌ってるのかもしれないけど。
こういうのが、俺の力だ。

ミサの蒼い眼に戸惑いがゆらめいた。
身を竦ませた少女は今だ動き出せないようで、真田は先立って起き上がると彼女に手を差し伸べてやった。それでも反応できていないミサの手を引いて「それほどにも吃驚したのだろうか」と訝しみながら強引に立ち上がらせる。まだ視点が定まらない。いよいよ真田は心配になった。
もしかしたら覆い被さったときに頭を打ったのかもしれない。咄嗟のことで真田が押し倒すはめになってしまったものの、どれほど地面衝突の衝撃を和らげてやれたか今になって不安になる。立たせたミサの腕を支えながら、真田は全身を観察した。ミサに怪我らしい怪我はない。ただ土が服や足につきまとっているだけだった。
「…アンタ、本当に大丈夫か?」
「……う…ん。ねえ。あなたの悪魔は、他人も」
―――他人も救う"力"なのね。
ミサは全てを口にすることができなかった。忍び寄っていた危険に今さらながら察知して動けなくなってしまった。
真田の背後。落ちきれなかった積載物が震えている。幌にかろうじてひっかかっている木材は、あ、とミサが息を呑むと同時に、糸がふつりと途切れるように木材が転げ出す。どっと、真田の背中に蔭が舞い降りた。
「あ―――」
どうして木材が降りおりる音が聞こえなかったのか。無音ばかりが辺りに広まっていた。だから真田は一瞬間遅れるまで反応できなかった。
「危ない…真田っ!」
真田が振り返ると、間近に大木。
ベルゼビュートを呼ぶ時間もない。あまりに急な事態に真田の口は開きもせず、思考さえ追いつくことができなかった。
代わりに叫びをあげたのは、悲痛に反響するミサの声。
「いや…―――ウリエル様ぁっ…!!」

光のシャワーのようだった。
真田は映写機が映し出すコマ送りのような光景を眺めた。瞬きひとつできやしない。ミサの背後に純白の御翼が広がったかと思うと、そこから1人の天使の姿を弾き出しされた。大地の色をした髪色、白い肌。凛々しい身姿の天使。白い羽が舞ったが、真田に触れるとひんやりとした感覚を残して消える。雪の結晶のように儚かった。
その神々しさは、造作もなく、音も叩きださず、木材をなぎ払った。
―――途端に、真田の聴覚が大破される木材の轟音を捉えた。
「―――うわッ!」
暴風が駆け抜ける。真田は目もあけらていられない、目に沁み入る強風にしばらく瞼の向こうで輝く光を追った。光の前に立つミサを。
何もかも収まるとあたりに沈黙が降りた。無音の世界にかすかに混じっていたのは、どうしたことか、ミサの漏らす嗚咽だった。
「…ひ…く…、平気? 怪我は、ない…?」
泣きじゃくるミサの方が何かあったのではと不安になる。確かに木材の鋭い破片は真田の肌を幾部分か掠めたが、ひりひりする、その程度。堪えられないほどでもなかった。
「平気、だ」
平気でいられないもの1つがある。真田は胸を抑えた。ミサの背後に翼をはためかせ浮かんでいるの姿。翼は6枚あった。間違いなく天使。男よりは華奢で、女よりは逞しい容姿の天使は、鋭い視線を真田に向け、いまだ還していないベルゼビュートに向けていた。静かすぎる眼差しだった。
―――ミサが近寄るたび、不快だったはずだ。
得体の知れない力に、真田は無意識のうちに足を竦ませていたのだろう。野生の勘にも近しい感覚が、悪魔とは対の存在に慄いていたのだろう。そして、恐怖したのだろう。
ミサは嗚咽を堪えようとしては、しゃっくりのような喉の引きつった音を出している。
服の袖で何度も涙を拭う。問うても声を出せるかわからなかったが、無心のうちに真田は訊ねてしまっていた。
「…アンタ、"天使使い"だったのか?」
数度すんすんと鼻をすするしぐさを繰り返したあと、この方は四大天使の地の天使、ウリエルさまです、と小さく言った。
ウリエルといえば天使の第一階級に位置する熾天使。再度その大天使に一瞥をくれると、何の感情も宿していないと思われる冷たい瞳に真田は寒気を覚えた。
このとき沸き起こった予感。そんなまさかと鼻で笑いたくなるのに、真田は身震いをして、声に出してしまっていた。
「もしかしてアンタ…俺と同じ…?」
悪魔使いである自分。天使を宿したミサ。彼女は、だって、言ったじゃないか。悪魔を持つそのことが不幸、と。
もしかして、アンタは不幸なのか。
ところがミサは赤い目尻をぐいと拭って、何も言わず背を向けてその場を走り去って行ってしまう。おい、待てよ。真田の声はさほどボリュームが出ずに虚空に解けて消えた。ミサは、立ち止まらない。ふり返ることさえなかった。

* * * *


真田はそのあと公衆電話まで走って赤い緊急連絡用のボタンを押して通話した。救急車を1台頼み、どうやら気絶したままのトラックの運転手のことを話し、あとは何も言わずに切った。木材もこっぱ微塵にしてしまった光景を見て今さら取り繕うことなど何ひとつできそうにないとため息を零す。ならば逃げるしかない。
ミサが去ってしまった道をしばらく眺めてから、真田もその場を立ち去った。


その日はとにかく疲労困憊し、床へ入ったのも早かった。
十時を回る前だが瞼は自然に落ちてくる。眠気に身を任せたまま、真田はなんなんだあの女、とぼやいた。白いシーツに顔をうずめる。
―――なんだったんだ。"天使"だって?
俺と同じじゃないのだろうか。同じ境遇なのではないだろうか。いや、天使と悪魔では天と地ほど差異があるはず。真田は自分の命を餌に悪魔と契約している。まさか善良な天使と結ぶ契約がそんなことなどないだろう、そう思うのに。
なのに、もしかしたら俺と―――悪魔使いと似たような状況にいるのかもしれない。気づくと真田はそんな疑念に駆られて振り払うことができない。何せミサは信じられないほど悲痛な顔を見せてその場を走り去ってしまったのだから。
―――何て、言ってたんだっ…け…?
真田はほとほと眠気に勝てそうにない。ぼんやりとした頭でミサがかつて自分を追いまわした挙句言った言葉を思い起こす。
『そんなにまで、悪魔が大事なの!』
そう、彼女はどんな正義を振りかざして真田の悪魔を祓おうとしていた?
『あなたが悪魔を持っていて利点があるというの?』
『…それは凶器なのよ。貴方をも殺す、悪魔なのよ』
『"それ"が何だかわかっているの?』
『あなた、は、何も…何もわかってない!』
ふと脳裏を掠めたのは叫ぶ少女。
『あなた悪魔のことを甘く見てる! 何もわかってない! 本気で言ってるの!?』
赤らんだ顔が思い起こされる。一乗寺宅の庭先でだったか。真田の住むマンション先でだったか。ミサは激昂に興奮しながら叫んでいた。
『悪魔と契約した、そのことが不幸って言ってるのよ!!』
真田はベッドの上で何度も反芻した。
不幸。不幸だから祓う。じゃな何故、何故不幸だと言えるのだ。
真田は白いリネンを軽く握って、指を皺にうずめ込む。
なんでアンタにそんなことがわかるんだ。あのときの真田も、わかったような口を利くなと声を荒げて言ったはず。アンタに何がわかるんだ、と。悔しさにまなじりを滲ませそうになりながら、何故不幸だと言い張るのだと。
真田はついに睡魔に意識を手放した。
―――アンタが不幸だったからか。
ミサ自身が感じていたとでもいうのか、不幸せだと。つらいと。天使を召喚する力を持ったことに。
―――天使を降ろしたこと、後悔しているのか。
彼女にそれを問いただしたい。

けれども真田が翌朝朝日に目を細めながら起きて夜とっぷりと日が暮れるまで、ミサの姿は一度として見なかった。闇に星々がきらめきはじめても、納得いかず窓から玄関先を眺めた。その甲斐むなしく、ミサは現れなかった。

* * * *



三露はいい加減相手をしてくれなくなったその家の家主に向かって仰々しいため息をついてみせた。それでも一乗寺は振り返らない。空が晴れ晴れとしているのに、縁側にも出てこない。もちろん外にも出歩かない。一乗寺はミサが片づけた物品を取り出して無心に磨いていた。そんな作業空間が開けたことは素晴らしいが、手持ち無沙汰な三露は暇でたまらない。やはり茶も出してくれない。
仕方がなしに三露はポケットから財布を取り出した。中から式盤(ちょくばん)と呼ばれる、四角いプレート、丸いプレートを1枚ずつ取り出した。陰陽師が使う品だ。陰陽師である三露が、占いをするときに使う。
「ねえ一乗寺。きみってさ、今回いやに協力的だよね?」
一乗寺の視線の届くところで、三露はわざとらしくそれらを広げてみせる。一方で三露は整然とした部屋を舐めまわすように見回してみせる。
ミサを泊めるように言ったのは三露。それに何も言わず従ったのは一乗寺だった。
揶揄する響きを込めて三露が言うと、一乗寺は居心地悪そうに視線を逸らした。そして、わずかな沈黙の後、黒髪を掻き上げながら億劫そうに口を開く。
「……占いは本当だろうな?」
「え?」
三露は瞬いた。間を置いて、あぁ、と思いだしたように手を打った。
「あぁ、本当だよ。君の失くしたモノは見つかる。……鬼門からやってくる」
「不吉なことだな」
言って、一乗寺は陶芸品を磨く手を休めなかった。が、三露の広げた式盤には一瞥をくれていた。
「…占うのか」
ようやく話相手が出来たらしい。三露はにっこりと笑って喜ぶと、そうだよと返事する。
「式占(ちょくせん)さ。ほとんどこれが陰陽師の仕事だからね」
そう言って三露は先ほど取り出した手の平に乗るくらいのプレート2枚を持ち直した。一乗寺の前にそれを置く。更にその上に丸い形のプレートを重ね、財布に仕込んである針で中心を止めた。手際の良い一連の作業に一乗寺もそっと目を奪われていた。
「……何を占うんだ?」
三露はくるくると上に重ねた丸いプレートを回しながら「これからを、さ」と答えた。

占いの結果は出たらしかった。
だが、回転を止めたプレートをしげしげと眺めていた三露は唐突に広げた品を片づけ始めた。財布の小銭を収納する部分にしまいこんでしまう。一乗寺がどうしたことかと思っていると、不意に立ち上がった少年は「じゃあ、帰らせてもらうよ」と言った。
唐突すぎて一乗寺は首を傾げた。どうしたと言うのか。
「…一乗寺、今日は玄関から帰らせてもらう」
なおも意味がわからなかった。いつも縁側に直行する庭を行き来するのに、何ゆえ玄関にまわろうと言うのか。しかし、縁側の先の垣根が揺れて一乗寺は納得した。
歩を踏み出そうとする三露は緑の葉が揺れたことに気づいていなかったらしい。垣根の向こうから真田が来た、そんなことに。
「……占いとは便利なものだな、逃げるときに。…もう遅い、三露。真田ならそこにいる」
一足遅かったか。三露は小さく顔をしかめた。

「! 三露!!」
いつものどたばたに比べればほとんど湖面の静けさのように真田は現れた。三露の姿を見つけた少年が小走りに垣根の横から寄ってくる。
「………」
しかたないね、ひとりごちた三露の声にも気づいていない様子だ。三露は、ミサと引き合わせて以来何とはなしに彼を避けてしまっていたが、本音はどんな顔をしていいのか戸惑いがあったせい。ここで帰るには不自然すぎる。仕方がなしにもう一度縁側に座りなおした。
真田も、あたりまえのようにその横へ腰を下ろしていた。

真田は隣に座ってしまったものの、不躾に視線を向けられず、かといって三露の出方が図り知れず、けれども気になってどうしようもなかった。気がつけば2人でまともに話せる機会は久しぶりで、真田が気負ってしまうのも仕方がないことだった。
あれこれと困り果てた矢先、縁側の床を踏み締める音が響く。
「茶だ」
何かと思うと一乗寺がすっかり片づいた居間を抜け、片手に湯のみ2つが載った盆を持ってこちらにやってきた。
「ちょっとどういうことだい一乗寺。真田が来た途端、お茶を出すんだね?」
「……お前は、入り浸りすぎる」
「はいはい、そーですか」
けれど茶を出して一乗寺はさっさと引き上げてしまった。出された茶は真田が日本に来て3年、一度も舌に合ったことのない緑茶。真田は湯のみを眺めては苦い面持ちになった。三露はさっそく口をつけているが、真田はどうにも手が出ない。再び沈黙が降りてしまう。綺麗に片付いた部屋が見え、何故か寒々と感じられた。
真田は文句が言いたかった。三露に。今までの憤懣を向ける先は他でもない、三露だ。そう思うと口からぽろりと零れ落ちた。
「何で、アンタはあの女を俺に会わせたりなんてしたんだ」
三露は身動きを止めた。やがて湯のみを置く。
「アンタが言えば、あの女だって黙らせれたはずだろっ…なのに、なんで」
「…。それは僕じゃない。"総帥"が言えば、だろう?」
しまった、と真田は慌てて口を噤む。三露はときどき冷めた眼差しを浮かべる。たいがい、総帥と扱われたときだ。つんけんとして、三露は隣に座る話し相手を見ようともしなかった。
いたたまれない沈黙が再度漂った。しぶしぶ話題を流すしかなかった。
「今日あの女―――ミサは?」
すると、三露は呆れるほど豹変した顔つきに変わり、くすりと笑みを零した。

「さあ。見かけないなら逆居じゃないかな」
「帰ったのか…? あの女が?」
「心配しなくてもすぐ戻ってくるよ」
「そんな心配するかよっ!」
戻ってきて欲しいわけじゃない。
「…じゃあ、一時帰宅か? 一体なにしに帰ってるんだ」
三露はもう一度湯のみをとったが、両手でつつんでいるだけ。飲もうとはしない。
「別に何かというわけじゃないと思うけれどね。定期的に帰ってるみたいだから」
「……は?」
耳にした事実を、真田はしばらく噛み砕けないでいた。
「逆居は彼女の担当だから。あの地区には1人しか配属されていないしね。そう空けていられない。ちょくちょく帰っていたよ。一乗寺の家に泊まっているのかと聞きたくなる程度にはね」
…配属された役割を放り出して、ではなかったのか。
「心配しなくても、いつものようにすぐに来るさ」


だが三露の目論見ははずれ、ミサは以来顔を出していない。


* * * *



それから何日か、真田は胃のあたりに未消化物が漂う居心地の悪さを味わっていた。
せっかく安穏な日々に戻ったのにこの未練がましさは一体何なのか。道端を歩いているときに高らかな声が聞こえてふり返ることが幾度かあったが、その先にはセーラー服の学生がきゃいきゃいと騒いでいるだけだった。決まって追いかけてきた姿は、もう見ない。
声域の高い声に反応してしまうと、己が何に苛立っているか自覚してしまう。真田は極力この感情に目を瞑り続けた。
考えることに没頭したせいだろう。その数歩先で真田は何かにぶつかって小さくよろめいてしまった。
真田が歩いていたのは左右に民家の広がる道だ。何本も電柱が立ち並ぶ。が、それにぶつかったわけではないのが救いだった。真田が額にこぶをつくることはなくて済んだ。
ああごめんね。不意に声が降ってくる。
謝ってきたのは背も高めの青年。一乗寺ほどはあるだろう。歳もその頃合。この人にぶつかったのか、と改めて把握しながら真田も謝罪した。けれど男は軽く会釈した真田の顔をわざわざ覗き込んでくる。
「―――あの?」
なんなのだこの男…。
「あれ?」
そして男は笑みを深くする。
「ふぅん? 君、か? …いや、君だな」
真田は怪訝そうに男を見上げた。
彼は顎に手を添え、ひとり納得したように何度も頷いている。見れば見るほど一向に不可解なしぐさだと思われた。記憶の書棚をあたってみても、記憶する限りその男は見知った顔ぶりではなかった。なのに向こうは知ったような口をきくのだ。人違いをしてるのだろうか、と考えた。すると男はこう訊ねてきたのである。
「ところできみ。訊ねたいことがあるんだけど構わない?」
なんだ道を聞きたいのか。真田はそう思い、男のくつくつと笑うように話す声が癇に障ったものの頷いてみせた。何ですか、と。
「君はどこまで知っている―――違うな、"気づいた"? 彼女が赤裸々に話すとは思えないし。そうだなぁ、とりあえず天使は見た?」
「!?」
男は笑顔を崩さない。だからとりつく島もないように思われた。
「アンタ、あの女のこと―――」
「聞いてるのは俺だろう?」
笑っているのにその威圧は何か。真田は身を竦めた。気まずいものがあったが、頓着している場合ではない。真田は少しでも情報を引きずり出したい一心で、素直に返事をした。
「…ああ、見た。アンタあいつの知り合いか?」
「せっかくだからきみに昔話をしてやろうか」
むかしばなし? おうむ返しもできないままに男は語り出す。
「戦時中の話さ。俺は何年かなんて詳しいことまでは知らない。そのころの1人の女性の話だ」
第二次世界大戦の頃だと言う。男はつらつらと語った。はじめこそ訝しんだ真田だが、しばらくすると男の語りにしっかりと耳を傾けていた。
「1人のドイツ人女性がとある事情で日本に渡ったんだとさ、」
そこで出会った日本人の男と結婚。その男と一緒にドイツへ向かう―――が、その前に1人の女の子と会った。
「女の子は小柄で、長い金髪、深い蒼の瞳。ちなみに出身はフランス」
「……それって…」
「少女はそのドイツ人女性が悪魔を宿していることをとても厭った。その子には祓う力もあったんだけどね、ドイツ人女性の方が一枚上手でねぇ。颯爽と海外に逃げおおせた」
それは、その女性は―――真田の祖母のことか。いつか聞いた祖父母の馴れ初めにそっくりだ。じゃあその少女は?
ミサの血縁者だろうか、と思ったが、真田の胸中にかかった靄(もや)がいっそう不可解だとうごめいた。かつて言われなかっただろうか。ひとりだけ祓えなかった人間がいる、それが真田の祖母だと。
「混乱してるねぇ。順序立ててあげよう。1つ、ドイツ人女性はきみのおばあさん」
どうして男が真田のことを知っていたのかなんてこの際問題でも何でもない。
「2つ、戦時中の出来事だ。かれこれ50年ほど前か…」
男は1つ、2つと指を立てている。
「そして3つ目、50年、そんなわけで当時の少女もだいぶお年を召した」
3本目の指を加え立てて。
「お年を召したはずなんだけどね、なかなか若作りでそうは見えない」
「………?」
「見た目は老婆どころか、十代の女の子でね」
―――うそだ。
「名前はミサ。きみも知ってる女の子のことさ」
信じられるわけがない!
「…………そ、」
そんな馬鹿なことあるか。真田は震えた声音でなんとか絞りだした言葉だった。当然の反応だ。信じられるはずがない。50年前の少女? それがミサ? 馬鹿な。男も了承しているとばかりに「そう言いたくもなるだろう」とささいた。
「人の大脳を絶することも、世の中には多々ある。あの子が130歳だと聞いて、本気で信じる奴はいない」
「130 ―――」
そんなに?
「……。なんだ、信じられないと言う割に納得顔だな?」
「ち、ちが」
「違うと言うなら彼女がきみのおばあさんに会ったという事実は? どう説明する? きみがおばあさんから悪魔を譲り受けたこと、何で彼女は知っていた?」
「それは…」
まだ5月を目前にした春なのに、真田の額を冷ややかな雫が流れ落ちる。嫌な汗だ。
わけがわからない。認めざるを得ないのかもしれない、しれないが。だが…長寿の少女だって? 真田の大脳もすぐには理解することができない。
すると彼は真田の狼狽する顔から何かを探りとったらしく、世の中には想像を絶することなんて掃いて捨てるほどあるさ、とせせら笑った。世間一般からすればきみだってたいそう常識はずれだ。悪魔なんて本当にいる言われたところで鼻で笑う人間ばかりだ。せつせつと語られても、真田は嚥下できない。
「アンタが言うこと…そう、なのかもしれない。でも、だからって、急に納得なんか…っ。できるわけないだろ! 何で130年も生きるっていうんだ! 理解できない!」
「きみには"そういう不幸"はなかったのかい?」
衝撃を投げつけられた気分だった。強張った顔が表情を変化できない。
「聞くに悪魔は契約者の命を糧に契約するんだったかな? そんなことでお陀仏するなら、一種不幸だな、きみの契約も」
彼女の契約も。
みるみる青ざめる真田を突き動かしたのは、男の発した次の句。
「まぁ、長年生きることが幸か不幸か、俺は知らないけどね」

真田は突如走り出した。踵を返して、一乗寺の家へ向かうのだ。走り出す。
おやまぁ。素早いことだな。その姿を見送った青年はしばし面白そうに口笛を吹いた。真田は後になって知るが、男の名前は武政。
すっかり真田の姿が見えなくなると武政もくるりと翻した。ところがふり返ると少女が1人、とぼとぼと俯き加減にこちら歩いてくるのではないか。
「おや?」
武政は目を瞠った。


いつも抜ける道、門。そんな視界が目にも止まらぬ速さで光景を塗り替えていく。
「一乗寺! 三露いるか!?」
慌しく縁側に続く石盤を踏み飛ばして駆け抜けた。
「…いるよ、なんだい。…走ってきたみたいだけど?」
迎え出たのは縁側に座る三露だった。真田は足を止めると肩で息をして、しばらく信じられないとばかりに微動だにできなかった。かと思うと「はっ、本当に入り浸ってばっかだな、アンタ!」と暴言を吐いた。
「悪かったね。なんなんだい、文句をわざわざ言いに?」
「…頼みが、あるんだ」
荒々しい息を吐いて立ち尽くしている真田だが、拳がきつく握り締められていたのを三露は気づいた。小刻みに震えさえする。
「……ふぅん?」
「―――あの女、に…と、取り次いでもらいたいんだ」
思いもよらなかった発言。三露は息を呑んだ。
「アンタは…、最初にあの女を俺に引き合わせただろ」
もはや引き合わせたというよりは真田が奇遇に訪れてしまったわけだが。
「だったら、俺だって取り次いでもらってもいいだろ…? アンタならミサの居場所…住所も、わかるんじゃないのか?」
「真田…? きみの方からミサに?」
真田はしっかり頷いてみせた。

真田の気迫を見て、三露はため息をこぼした。
「……。まったく、僕は窓口じゃないよ。おしえてあげるけどね、今後いちいち僕を通さないでくれると助かる」
「…悪い」
「住所を言えばわかる? 何なら影に案内させてもいいけれど」
「………」
日本の住所はストリートに名前がなくて真田にはいまいちよくわからない。読めない漢字もちらほらあるので前者は好ましくないのだが、影を疎ましいと感じている真田にとって後者はもっと好ましくない。どうしたものだろう。

「そんな必要ない、です」
不意に庭先の空気を貫いたのは、紛れもなく聞きなれた少女の声。ここしばらく耳にしていなかった声だ。ミサは、さきほどの男に手を引かれてゆっくりと庭へ足を踏み入れてきた。
「ミサ、―――武政…」
呟いたのは三露だったか。誰もが唐突な訪問に驚いていた。
真田はミサを凝視した。久しく見なかった姿はいつもの覇気がない。威勢を削ぎ取ってしまったかのようなミサは、頼りなく、弱々しくさえあった。そっと握る隣の男の手に寄りかかっているようにも感じた。
ミサも意を決したように真田を見つめ返す。
互いの眼差しばかりに喰い入っていたせいか、真田は傍らの者々が漂わせた異様な空気に気がつかない。三露と一乗寺が、ミサを連れ立った男を目撃するなり顔を顰めたこと、その2人の反応を楽しげに覗き返していた武政。真田は気づかなかった。3人が交わした不穏なアイコンタクトに。
最後にとぼけるように青年が肩を竦めてみせたことも、一心にミサへ注意を払ていたた真田は知らない。
ミサは視線を彷徨わせた。
「…真田。あなたに一応、言っておこうと思って」
「何を?」
すがるように隣にいる男の手を握っている。
「私…。も、―――もう、いい。ベルゼビュートのこと、もういい」
「………え?」
ミサの口から出るには少々意外で、真田は驚いた。
「それだけ!」
「待てよ! 何で」
「私は、あなたばっかりに構っていられないもの。いそ…がしいの! これ以上逆居を離れるわけにはいかないしっ」
そう言ったミサの声が上ずり調子。真田は翻そうとしたミサの片手を取り押えていた。
「なんだよ? ベルゼビュートのこと諦めるってことか?」
「………。そうよ」
肯定されたものの、その顔が虚勢と困惑を混ぜ合わせて気まずい顔色ばかりをつくっていたことに真田だって気づいた。ミサは今までにないほど戸惑いを見せるのだ。
「それが納得してる顔なのかよ」
「………っ」
痛いところを突かれた、というのはこんな表情をつくることを言うのかもしれない。
「急に逃げ腰になるんだな。アンタが天使を持ってるって知られた途端に、それかよ」
違う、そんなことではないだろう。少女はそれ以上に負い目を感じているものがある。
「それとも―――130年も生きてたって知られたから?」
真田の一言で、応酬は途絶えた。ミサ以外それは静かなもので、庭木と同じだけ人も物も動かない。ここに居る誰も彼も知っていたのだろう。真田は自分だけが踊らされていたことに小さなショックを覚えながらも、目の前の少女を見つめ続けた。
「は、離し…」
「………」
「離して!」
ミサは真田の手を勢いよく振り解くと、一目散に駆け出した。
「…おいッ! ミサ!!」

二度目だ。彼女に名前で呼びかけたのは。



嵐のあと。それとも後の祭りと言おうか。
ミサが逃げ去るあいだ、真田を筆頭に男共は呆然と立ち尽くすしかできなかった。気がつくと一乗寺家の庭先に沈黙が広がっている始末。その静けさに、武政が首の後ろをさすって呆れ果てる。
「さて、誰も追わないのなら俺が追うしかないか」
緊張感の欠片もなく言った。彼が言い出すまで一同は動きを凍りつかせていたのだ。だがふと途切れた緊迫感に、三露がすかさず口を開いた。
「武政。…今回の件にきみも噛んでたんだね」
「噛んでた、ね。"きみも"と言うからには他にいるんだろうねぇ」
「―――……」
はじめからミサに荷担した人間が多すぎた。
ミサの行動をたしなめる者などいなかったうえに、三露は果京に留まれる宿まで探した。その宿は一乗寺家の一室。ほとんど言いなりに一乗寺は部屋を明け渡している。
三露は舌打ちした。
「…きみは、何をした?」
「俺は協力というほどじゃない。ミサの留守中に逆居を少し見守っていてやっただけだ。風邪に倒れたミサの看病も少し」
どうせ武政は完全にミサの味方であったはずだ。そこに来て三露まで荷担。逆居へ帰れとは一言たりとも言わず、真田に引き合わせてやり、最後には一乗寺の家に泊まればいいと勧めてやった。こうなってしまえば一乗寺までミサの手助けをしたことになる。
「納得したかい、総帥?」
それじゃあ、とばかり武政は軽く片手をあげる。
ところが、歩き出した武政の服の裾が何かに引かれた。ふり返ってみれば、顔を顰めた少年―――真田が掴んでいる。
「俺が行く…」
「………」
追いたくないが追ってやらないと、という気持ちでもあるのか。真田は複雑そうに俯いてしまう。
「………どうぞ?」
武政は笑った。



           






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