出遅れた真田は一乗寺の家の門を出たところですでに右とも左ともつかぬ状況だった。閑散とした日本家屋が並んでいるだけで、道に人影ひとつ見えやしない。
真田はすっかり撒かれてしまったのだろう。この広い果京地区のどこを探すか、考えただけでも身震いしそうだ。逆居地区に帰ろうとしているならば尚広い。一歩も足を踏み出せなくなり、アスファルトを踏みにじった。じっとしていては落胆の気持ちばかりが積もり積もってしまう。
しかたがない。
真田は深く息を吸ってから瞼を下ろした。こんな方法しか思い浮かばないのが悲しい。心を静めて、小さな糸口を探した。
―――俺にだって見つけられる。
…かもしれない。自信はないが、真田はミサが近寄るたび触れるたびに不快感を覚えていたのだから、あの気持ち悪さを探して辿ればきっと行き着くはず。ミサの元まで。
ミサの間近でしか感じなかった第六感をたぐるのは一苦労で、はたまたそれを頼りに進む道を決めても「この道でいいのだろうか」という疑念は拭えない。
何度か右折左折を繰り返しながら真田は、不快感を追うなんてなかなか不吉なことをしているもんだと思ったものだった。

いた、と。
猟犬のように尖鋭な視線の先に真田は標的を見つけた。
長すぎる金髪、小柄な身体。ミサはひらひらとスカートを揺らしながら歩いていた。あのゆらゆらはためくスカートは歩き辛そうで、よくもあんな格好で俺を追ってきたものだと真田は感服した。
「おい、ミサッ!」
よくわかるほどに、びくりと肩を震わせたミサ。もしかしたらほんとうにわずかながらも飛びあがったのかもしれなかった。けれど途端にふり向くこと一つせずに全力疾走してしまう。唐突すぎる事態にさすがに真田も唖然というより、わずかにショックを覚えたほどだ。
「な!? …なんなんだよ!」
思えば彼女の背後に回るのは初めてのことで、追いかけるってこんな気持ちなんだなと場違いにも感慨深く感じた。
慌てて追いかけはじめた真田に、逃げられてたまるかと小さな闘争心が宿ったこと、彼自身気づいていない。

もともとコンパスが違う。小柄なミサはさほど背が高いと言えない真田とでも、その身長差20センチ近い。今までミサの探知機並のアンテナが真田を追い詰めることを成功させてきたが、その逆となれば明らかに不利だった。
逃げ切れないのならば隠れるしかない。ミサが最終的に駆け込んだのは建設工事中の一角だった。分厚いフェンスが外界をシャットアウトしている。わずかな狭さの入り口に身を滑り込ませて、どこか隠れるところはないかときょろきょろと辺りを見回した。
すぐ後ろで均された土を踏む、微かな音が耳に届いて、間もなく。
「あれだけ逃げれるなら元気なんじゃねーか…」
真田はあがった息を整えながら言う。二度も逃げられてたまるかとばかりに手首を捉えられ、だがミサは一向にふり返ろうとしなかった。ただ動揺に身体が震えてしまい、小刻みの振動が伝わってしまいそうだ。必死で喰いとめるのだが、努力空しく、ミサの食い縛る奥歯はちっとも噛み合わずにガタガタと鳴るばかり。
ミサが狼狽していることなど、どうせ真田は察知している。現に真田は手首をきつく捉えて離そうとしない。もう逃げることなどできまい。
どうやら工事現場は休憩中なのか、時折音が聞こえるだけで思った以上に静かだった。無人ではないらしいがもしかしたら骨組みばかりの建物の反対面にこぞって取りかかっているのかもしれない。2人の侵入を咎める者すらいなかった。
しばらく沈黙ばかりがたちこめた。とうとう、言うしかないのかもしれない。
「……どこまで、知ってるの?」
不意に投げた声は、しっかりと震えが刻み込まれてしまった。毅然ぶるつもりが―――。
「どこまで…て」
躊躇いがちに真田は答える。
「130年生きてる、とか…。俺のGroβmutterグロース・ムッター(祖母)に会った…とか。なんで…? アンタ、天使使いだからそんなに長く生きるのか?」
「ふふ、130歳にはまだなってなかったと思うけど。数えるのが面倒で曖昧なの」
ほんとうは数えたくないだけ。
「じゃあ―――本当に…?」
真田が指したのが、天使使いになったから長寿になったことか彼の祖母に会ったことだったのか。それとも130歳という年齢のことだったのかわからないが、ミサは全てひっくるめて頷いた。肯定した。すべてすべて、ほんとうのこと。
「別に天使使いになったらそうなるってわけじゃないの。単に私とウリエルさまの契約がそうだっただけ。ねぇ、私何歳に見えるかな?」
思いがけない疑問だったろうに、真田は律儀にも幾ばくかの時間思案して12、3くらいと回答した。
「うん。すごいね、真田。私の13歳の誕生日にウリエルさまと契約したの。寒い雪の日よ、私フランスにいたの」
フランスで教会に従事していた。
ミサの吐露の始まりに、真田は黙することを決めたらしい。穏やかな風が2人の髪をゆっくりと揺らしている。相変わらずミサは真田に背中を向けていて、真田はじっと腰ほどまで伸びて金色に光を反射しているのを眺め続けていた。
「私シスターに育てて貰ったから、私も教会に一生を捧げるつもりで毎日過ごしてたの」
それこそミサは12歳のときだ。容姿に見合った年齢だった頃のこと。清らかというに相応しいほど清純に育ちつつあったミサが13になる誕生日を迎えた聖夜だった。冬生まれのミサの誕生日は、毎年雪が積もった。夜だというのに白い印象ばかりが残る。
今でも信じられないが、そのときウリエルが降臨した。いくら教会に勤めていようとミサが目を丸くして呆気にとられてしまったのは当然のこと。
夢を見ているのだろうか、そんな疑問すら涌かなかった。
そして神々しい御使いは契約を持ちかける。
「それで―――選ばせてくださったの、契約を結ぶか否かを」
背後で真田が息を呑んでいた。
6枚の御翼を持った天使は、信仰心の厚かったミサでも寒気が走るほど冷たい瞳を持っていた。神々しすぎて、何故一介の人間の元に降りてくるのがわからなくて、だから寒気が過ぎったのかもしれなかった。
熾天使ウリエルは言った。口は動いているのに、まるで映画の音声吹き込みのように不思議な違和感があった。空から降ってくるように響く声が言う。我は天の使いウリエル。
現れたウリエルはこれから800年間人間の住む世界に居ることになった旨を言う。だから降臨した。ただしその媒体がなければならない。そしてミサを選んだ、と。残忍とも表現できそうな眼差しで、選ばせてやろう、契約をするか否かを、と選択権を提示した。ウリエルのために800年その身体に憑かせるか、拒んでこの場で死して身体を明け渡すか。冬の日が凍えそうな温度を運んできていた。
さすがにミサは真田に打ち明けなかった。だから私はウリエル様の言う通りに生きることを選んだの、とだけ言うと怪訝そうな生返事が返ってきた。
「契約して、私は800年間ウリエル様に仕えることを決めた。それから…130年、くらいたったかなぁ」
仕えると言っても、ウリエルは目的も何も語らず、指示も命令も運んでこない。ミサは今まで通り自由に生きることができた。
ただし変わらぬ容姿を持っていては長く同じ場所に留まることができなない。教会からはすぐに出ることを決め、遠い孤島の日本にやって来た。以来その中を点々としている。
真田は、解せはしなかったがミサが語ることは嘘ではないと感じていた。いまだに繋いでいる手は熱を帯びている。熱い。
このときミサはぽつりと零してしまった、本音を。
「悪魔より天使の方が性質悪いなんて、馬鹿みたいでしょ…?」
声が震えてしまうのは、自分の信仰心を嘲笑うせいか。
「……。アンタは今までさんざんベルゼビュートを祓おうとしてきたよな」
真田の深みのある声音に、ミサは恐る恐るふり返った。涙を浮かべた赤い目と嗚咽を零さないように結んだ桃色の唇。そんなミサの紅潮した顔を見て、真田はやっぱり、とでも言いたげな顔を作った。
「ついでに訊くけど、今でも祓おうとするか?」
迷ったが、ミサは祓うと呟いた。
真田は静かに見据えてくるだけで、感情を示さない。ただ声だけは重く、たいそう重大そうに話すのだ。
「ここしばらく来てなかったくせにそれでも祓うって言うんだな」
「…は、祓うわ」
「悪魔は祓うって?」
「そうよ…」
なのに頼りない声音はどうしたことか。
「"悪魔"だったら祓うって?」
「だって! 力なんて持つから…、悪魔と契約なんて結ぶから…。貴方はその力を持ったばっかりに苦しんだこと…ないの?」
今は思ってない。そう答えられるとミサの頬に紅が指す。
「そう見えたもの!」
「見えようが俺は思ってない。それに、俺の悪魔を祓うのなら」
真田は一呼吸ついてミサを睨む。
「それならアンタも天使を手放す。じゃないと平等じゃない。」
と、言いのけた。
ミサはひどい衝撃にうちのめされる。
「え―――?」
頬に涙の跡が一筋増えゆく。

「おい、あそこ子供が入り込んでないか?」
鉄筋工事の骨組みパイプの足場の高くでは、何人かの作業員がようやくミサと真田の存在に気づいた。作業員たちは火花を散らせて、金属を削ったり、熱加工している最中だった。まるで2人の叫びも聞こえなかったし、彼等の視線は作業物に釘付けでちっとも注意を払えなかったのだ。
「な!? 本当だ…おぉい、きみたち! 危ないだろう、ここは立ち入り禁止だよ!」
パイプの上を歩く職人たちが、2人の頭上から注意を投げかけた。
すると真田は見上げたが、青空に浮かんだ太陽が眩しくて目を細めつつでないと見えやしない。いつしか工事にとりかかっている人数が増えていたのを確認し、
「おい、行くぞ。アンタがこんなとこ逃げ込むから怒られたじゃ、ねー…か…、」
と言いかけた。言い終わらないうちに今だ見上げつづけている真田の表情が凍りつく。
「え?」
「危ない!」
火花が散った。花火のように火が飛び散る。上部で加工中の金属が火花を噴いたのだ。
まるで狙ったかのように2人の頭上へ火の粉が降り注ぐ。
真田は掴んでいたミサの手首を力いっぱい引いて、自分の身体をミサと火花の間に滑り込ませた。唐突に起こった出来事に、泣き腫らしたミサの目は瞬きを忘れていた。
余すことなく見てしまった。ミサを抱きすくめるように庇った真田が、痛みに顔を歪めるその瞬間を。
「熱っ!!」
苦痛に歪めた真田は、その後も声にならない悲鳴をかみ殺す。
「さ、真田!」
どうやら庇った真田は背中からもろに火の粉を浴びたらしい。漂った匂いが焦げ臭いもので、ミサは慌てて真田の背中を見ようともがく。だが、庇われたミサはしっかりと肩を抑えられていて動けない。苦痛を訴え、ずるずるとうずくまっていく真田に、ミサは何も出来ず狼狽した。
「だ、だいじょうぶ? ね、ねえ、真田…っ」
じわじわと目尻に涙が溜まる。
「……痛ぅ…」
喉に熱が込み上げてくる。
ようやくミサが背後に回りこむと、そこには煤けた真田の服。思った以上に降ってきた火の粉は多く、真田の服は焦げて擦り切れていた。そしてわずかに剥き出しになった背中。火傷と、そして黒い契約印。
「………ぁ」
ミサは口元を覆った。刻まれた契約印にか、火傷の跡にか、ミサは打ちのめされたように動けなくなってしまう。
混乱したミサは止め処なく溢れてくる涙を拭うこともできなかった。
「…いやぁ、真田ぁ…ッ!!」
心配かけまいとしているのか、真田は顔を歪め、奥歯を噛み締めるばかり。痛みを堪えたまま動こうとはしない。あまりの痛覚に動けないだけなのか。
かわりにミサが悲痛そうに泣きじゃくった。

ミサは悪魔を持った少年に、これで2度、助けられた。
どこまで自惚れているのだろう。誰も救うことができなかったのに。
救ってもらってばかりなのに―――どこまでいい気になっていたのだろう。
涙が幾筋も零れてミサは子供のように泣き続けた。


* * * *


一乗寺の縁側にうつ伏せで寝かされている真田。
「ねえ、―――真田は大丈夫?」
一乗寺の庭に全員が勢ぞろいして、怪我人を取り囲んだ。あのあと2人を探していた武政が駆けつけて苦痛に気を失いかけている真田を運んだ。今では意識もあって落ち着いているが、真田はずっと沈黙のままだ。時折意識を手放しているのではないかと心配になるほどおとなしい。
手当てをしているのは一乗寺だった。水を張った洗面器と冷やしたタオルはもう用済みとなって、傍らに避けられている。一乗寺は火傷にすり込む塗り薬、ガーゼ、包帯を手に取り器用に扱い出した。手持ち無沙汰な三露は板の間に腰を下ろし、おとなしい真田の鼻先や銀の髪を脇からつついてはふりはらわれるのを楽しげに笑っていた。ちょっかいを出されると真田は噛みつきそうな勢いで怒る。ミサはそれを見て元気そうだとほんの少し安心するのだが、三露にしてみればちょっかいの出し甲斐があるらしく、楽しい限りらしい。
武政はというと真田の背中にある契約印を興味もなく眺めているだけ。もっぱら心配に気を揉んでいたのはミサくらいだった。
心配しなくていい、と一乗寺は言った。
「さほどたいした火傷ではない。跡も残らずに済む」
ミサはそれでも安堵できないまま、こちらを見ようともしない真田に「ごめんなさい」と幾度か謝った。

しばらくすると、帰ります、とミサは言った。
一通り手当てが済んで真田に包帯を巻きつけていたときだ。ミサはすっくと立って、ならばと武政もその場を辞す挨拶を二言、三言いった。
ミサも三露や一乗寺にひとつお辞儀をする。
「乗寺、泊めてくれてありがとう。お世話になりました」
三露の顔が唐突に真剣味を帯びる。
「…帰るのか」
「うん。三露、いろいろお世話かけたよね。もう―――真田の悪魔のことはいいの。それじゃあ」
三露はそう、とだけ返事をした。
そんな簡単な儀式でこのところの騒がしい日常に幕が下りようとしていた。武政に引き連れられるようにしてミサは縁側に背を向けた。
「それじゃあ…真田、本当にごめんなさい。…ありがとう」
真田の機嫌はどちらかといえば悪かった。怪我をしたせいもあったからかもしれない。不機嫌が祟ったのか、ミサが簡単に諦めて帰ろうとすることさえ悔しく思えてしまうのだから不思議なことこの上ない。
「―――ミサ」
真田はミサに顔を向けることはしなかった。だが呼び止めた。
「ミサ、アンタは…俺より長く生きるんだろう」
ミサの目はあれほど泣き腫らしたのにさらに真田の怪我を見ては涙したせいで、うさぎのように赤い。その目を見開いて息を呑む。
何度もしゃくりあげたせいか、そんな行為すらやっとだ。
「俺より先には死なないでいてくれるんだろ」
「……」
「じゃあ、生きてろよ。…俺がいつかこの契約印を重荷と感じたら―――ベルゼビュートを要らないと思ったときには」
辺り一面穏やかな春が漂っているばかり。
「必ず、アンタに祓ってもらうから」
つっけんどんに言うが―――けれど真田の優しさが伝わる。
「この先アンタ以外のエクソシストに会っても、アンタに祓ってもらう。そのためにも頑張って生きてろよ」
真田は自分でも口にするのが気恥ずかしくて、口を尖らせるようにしか言えなかった。先ほどまでちょっかい出してきた三露が大きく目を見張っているのが気まずくて、縁側の板の目ばかり見て言った。
「いつか、アンタを必要とする人間がいるかもしれない、から」
きゅっと真田は唇を一文字に引き結ぶ。
いてもたってもいられず最後に「でもそれまで勝手に祓おうとするなよ! そんなことするならアンタにも天使捨ててもらうからな!」と喚いた。口走ってしまった直後に別に取り繕うところじゃないのに何を言ってるのだと後悔の念が押し寄せてきたが。
だがしばらく続いた沈黙のあと返ってきたのは、ありがとう、と心底嬉しそうな声だった。


* * * *


小さな手を引く武政は道行くさなか、「もういいのか」と訊ねた。
平日の昼下がりはおそろしく穏やかだった。残念ながら花見の季節は逃してしまったらしい。ミサは桜に目もくれず真田を追いかけていた日々を思い起こして小さく笑った。
「よくないように、見えるの?」
「俺が思うに、こんな結果になってもお前の信念は変わらないんだろう?」
だから、本当にもういいのか?
よくわかっている。この男には手を取るようにミサの思考回路がわかってしまうのかもしれなかった。
「あら、妥協するところは自分で決めたわ。あなたがそう言ったのよ?」
武政は口角を歪めて笑う。
「私だけじゃないわ、真田も私も妥協した。それでいい…と、思わない?」
「そうか。お前が決めたならそれでいい」
ミサの泣き腫らした目も、赤いといえどすっきりしている。それを眺めて武政は小さく呟いた。
「覚えてろ、あの悪魔少年」
え、何?
ミサは首を傾げたが、刹那武政が見せた人の悪い表情には気づいていないようだった。


「ああもういい加減にしろ! 三露!」
手当てをうけている間、身動きできない真田をつついたり髪を弄った三露だ。ミサが帰宅したあとも突ついてきたりはしないが、しきりににこにこと笑っていて、かといって何なんだ一体と問いただしたところで返答はない。何がそんなに面白いのか、真田はだんだんと腹立たしくなてきた。ただでさえ今回の一件でこいつには苛立っていたというのに。
「一乗寺もなんとか言えよ!」
一乗寺は横目を向け、呆れたように、
「…嬉しいんだろう」
とため息をつく。
「はぁ?」
わけがわからない真田に、しかし一乗寺は説明もせず一言忠告するだけ。
「安静にしてろ」
ああだからもうどうやって安静にしろというのだ。一乗寺の素っ気無さに見捨てられたような心地で、ふり切るように三露を振り返った。
「なんだんだよもうッ!」


三露はその通り、嬉しかった。
真田は組織を辞めることなく、けれど大食公に喰い殺される可能性も格段に減った。まずいと思えば真田はミサに祓ってほしいと頼むはずだ。
万事うまくいった、そう言うのだろう。




           

 





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