「なんだったんだ、あの女は……」
がくりと項垂れた真田の頬を、ぬるい風が撫でていく。
真田は疲れ果てていた。ミサとの攻防戦は肉体的にも精神的にも大打撃を与えていった。彼女が残した唯一のプラスになる影響は、一乗寺家の居間が綺麗に片づいたことぐらいだろうか。片づく、といっても元々多かった骨董品類は一乗寺が捨てることを許さなかったので、未だに居間に残されている。
なので綺麗さっぱり、というよりは、整理整頓されたという感じだ。本は本棚に、石や皿は飾り棚に、絵や時計は等間隔で壁にかけられている。居間から繋がる台所や寝室への通り道が確保されていて、いつものように物を掻き分けたり踏みつけたりしなくても移動できるのは奇跡的と言えた。
ミサは少なくとも一乗寺にとって害ではなかったのだろう。しかし。
「アンタが追い返してくれりゃよかったのに…」
一乗寺家を拠点としていたミサを家の主人が追い出してさえくれれば、あれほど苦労することもなかったはずだ。真田は恨みがましく一乗寺を睨めつける。それでも一乗寺は涼しい顔だ。
「三露が、彼女の好きにさせてやれと言ったんだ。どうせいつか起こってくる問題だと」
「あのヤロ…」
ミサのことについて、三露は我関せずの態度をつらぬいていた。しかし裏ではやはりミサ側についていたということか! 真田の苦しむのをほくそ笑んで見ていたに違いない。アイツこそが悪魔だ、アイツこそ成敗すべきだ。真田は心の中で文句を並べ立てる。
「……それにしても一乗寺。アンタ、やけに三露に素直じゃないか? やっぱりアイツが総帥だから?」
でも三露はそういうの嫌がるだろう? 真田が訊くと一乗寺はわずかに眉を寄せた。
「別に、ただ少し手を貸しただけだ」
口早に言い切り、一乗寺は立ち上がると台所へと消えていってしまった。 どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。何か触れてはいけないことでも言ってしまっただろうか。真田は首を捻る。
手持ち無沙汰になってしまい、見慣れない思いで整頓された室内をぐるりと見回した。この状態がいつまで保つか見物かもしれない。三年前、日本に来て間もない頃にしばらく一乗寺のところで世話になったが、真田がいくら片付けたところで一週間もしないうちに元の樹海へと戻ってしまっていた。今回はどうだろうか。
「……三年、か」
日本に来てもうそんなにもなるのかと、真田はあらためて驚いた。三年という短い月日にしては馴染めたほうだと思う。言葉や文化に不自由することは今やほとんどなくなった。それも全て一乗寺のおかげだろう。小難しい日本語を話す彼は決して真田を甘やかそうとはしなかった。彼のスタンスなのだろうが、こちらへやってきたばかりの真田に対しても日本語で話し続けたし、気を遣って言葉を教えてくれることもなかった。後から知ったことだが、一乗寺はドイツ語が理解出来るらしい。それなら初めのうちだけでもドイツ語で話してくれれば良かったのに、と憎らしくも思ったが、今の自分がこれだけ不自由なく暮らせるのは一乗寺のおかげだと思う。感謝していた。
物思いにふけっていると、台所から一乗寺が帰ってきた。手に乗せた盆にはいつものように急須と湯飲み、そして珍しいことにケーキのようなものが載せられていた。いつもならば季節をかたどった和菓子だとか高級な香の物だとか、真田が思わず顔をしかめてしまうようなものしか出されないのに。
「甘い物は嫌いか?」
一乗寺は慣れた手つきでテーブルに盆を置き、手にした急須をくるりとゆらしながら訊いた。慌てて真田は首を振る。
「餡とか、黄粉とか、苦手だけど……洋菓子なら」
しどろもどろ答えると、そうかと言って一乗寺は真田の前へケーキの皿を滑らせた。
「もらい物だから美味いかどうかは知らないが」
「あ、ありがとう……」
意外だった。今まで真田がどんなに言ってもお茶請けに洋菓子がでてきたことなどなかったのだから。どういう風の吹き回しかと探りを入れたくなったが、とりあえず素直に頂くことにした。
もしかしたらこれは一乗寺なりのわびなのかもしれない、と真田はふと思った。ミサを止めなかったこと、さらに遡るなら三露が総帥だと黙っていたこと、など。
一乗寺はいつでも中立の立場をつらぬき誰の味方にもならない。自分の味方はしてくれないがしかし、こうして精神的なフォローを入れてくれることがしばしばあった。それはよく気をつけていないと見落としてしまいそうなさりげないものではあったが。
ケーキはバウムクーヘンだった。BaumKuchen(木の菓子)。 人にもらったと言うが、こんなにタイミングよくドイツの菓子が贈られるものだろうか。もしかすると一乗寺が自分で取り寄せてくれたのかもしれない。もちろん本人はそんなことを言わないし、真田も訊いたりはしない。
「ありがとう、本当に」
日本での真田の保護者は一乗寺だ。しかし身のまわりの世話は逆に、真田が一乗寺の面倒を見ていると言ったほうが正しい。むしろ一乗寺は、こういった精神的な面でこそ保護者と言えた。
「アンタは、父親みたいだな」
バウムクーヘンにフォークを刺しながら、真田はぽつりと漏らした。すると湯飲みに茶を注いでいた一乗寺は手をとめて、まじまじとこちらを見つめた。真田はおもわずたじろぐ。
「な、なんだよ?」
「いや…俺みたいなのでも、父親になれるものかと思ってな」
心底、一乗寺は不思議そうだった。急須を置くと顎に手を当てて黙り込んでしまった。
「……そんなに真剣に考えなくても。ちょっとそう思っただけだって」
しどろもどろフォローを入れるが、一乗寺は視線を伏せたままチラとも動かない。
「父親みたい…か」
「一乗寺?」
えらくしみじみとしたその声に、真田は狼狽した。顔を覗き込むと視線が合う。何故か少しだけ口の端を上げて笑っていた。
「俺には両親がいないんだ。だから、親というのがあまり……理解できない」
意外な告白だった。そして真田には初耳だ。そういえば一乗寺の家族や親族の話は全く聞いたことがない。それどころか彼の過去や生い立ちに関することを一切知らなかった。話してくれなかったのもあるし、訊かなかったのもある。
「……そうだったのか」
それなりの過去があるとは予想していた。しかしまさか、こんなことを教えてもらう日が来るとは。
「俺も…母親がいない。俺を産んで死んだ、って。だから俺も母親を知らないんだ」
自分の家族のことは以前話してあった。自分は産まれながらの殺人者なのだ、と。この世に誕生するのと同時に親殺しの大罪を背負い―――だからこそ悪魔を宿すのに適していたのだと。そしてそのために家族から疎まれ、嫌われていた。ドイツを逃げるように日本へやってきたのだということを、一乗寺には話してあった。
「……アンタもそうなのか?」
「多分、似たようなものだろうな。親戚がいなかったものだから、よくは知らないんだ」
「…え、」
「孤児だったから」
淡々としたその口調に真田は言葉を失ってしまった。何て無神経なことを訊いたのだろうと後悔する。
「……ごめん」
短慮な自分が恥ずかしく、真田は思わず顔を伏せた。テーブルに乗せられたバウムクーヘンをじっと見つめ沈黙に耐える。しばらくして、ため息のような苦笑が頭上から聞こえてきた。
「お前が謝る必要はない。気を遣う必要もない。……正直、俺自身なにも感じないしな。知らない人間が死ぬのと同じだ」
「……でも」
一乗寺の言うことは一見もっともだ。けれど何か違うと真田は思う。親のことが全く記憶になくても、知らない人間と一緒ではない。血の繋がった、自分を産んでくれた、まぎれもない親だ。
「少しは悲しいし、一人きりは辛いだろ」
真田が言うと、一乗寺は首を振った。 親がいないのが普通だったから、なぜ悲しいのかわからない、と。


* * * *


フォークを刺したバウムクーヘンは、ほろほろとほぐれて何層もの薄い生地へと戻った。菓子くずのようになってしまったそれは、もはやケーキとは言い難い。一固体としてそこに存在しているのではなく、ただの甘い生地が重なっているだけだ。
真田はなんだか悲しくなってしまう。食べるために、元あった美しい姿をこんなに壊してしまった。そのことが悲しく、おそろしい。
特に最近、"喰べる"ということに関して拒絶気味だった。もちろん悪魔が魂を喰うのと、自分が食物を喰うのとは原理として違うことを理解している。それでも以前からずっと肉を食べることができなくなっていた。肉はヒトを連想させ、自分がいつかヒトを喰ってしまうのではないかという意識を鮮明にさせる。
もう喰べたくない。母親喰いだけで十分だ。
しかし悪魔を宿していることで自分は自分でいられる。例えば組織にいられるのも悪魔使いとしての能力のおかげだ。なので悪魔を疎ましく思う一方、手放すこともできない。
ぼろぼろに崩れたバウムクーヘンを、真田は口に押し込む。


緑茶と共にバウムクーヘンを出すのは間違っていると思う。やはり洋菓子を出すならば、飲み物だってコーヒーか紅茶であるべきではないか。
一乗寺の台所にコーヒーミルがあることなんて、真田は元から期待していない。だからコーヒーを出せなどとかつて一度も言ったことがなかった。しかし紅茶に関しては、以前からずっと提案し続けている。
ティーバッグなら湯を注ぐだけだし、手軽でいいんじゃないか、と。しかし未だその要望は受け入れられていなかった。なのでやはり、バウムクーヘンをつつく真田の横には当然のように緑茶が置かれている。
その向かい側で、一乗寺は相変わらず茶を啜っていた。
二人の間、テーブルの上には小さな黒いものがが置かれていた。角砂糖ほどの塊だ。一乗寺が唐突に持ち出して来たのだった。
「これは?」
いびつな形をしたその塊を指さしながら真田は問いかけた。すると一乗寺は顔を上げる。
「鉱石(ジェム)だ」
「……鉱石?」
見た目にはそう見えないこともない。しかし先程一乗寺がテーブルの上に置いた時、それは実に軽やかな音を立てていた。まるでプラスチックのような感じだった。 怪訝に思って真田がそれを手に取ると、やはり石とは思えないほどに軽かった。どこか乾いたような感触がする。石ならばひんやりと冷たく、もっと肌に馴染むだけの重さがあるだけではないだろうか。 納得のいかないまま石を握りしめると、一乗寺が補足を入れた。
「黒玉(ジェット)といって、木が化石になったものだ」
「木が?」
「そう。だから軽い」
なるほどと納得する。つまり琥珀が軽いのと同じ原理か。訊くと黒玉は黒琥珀と呼ばれることもあるのだという説明が返ってきた。
「それで、この黒玉がどうしたんだ?」
黒玉がここにあること自体は何の不思議もない。一乗寺の家にはいつも無数の石が置かれていた。ほとんどが自分で収集したものだろう。原石の状態のものが多く、研磨された宝石類は少ない。唯一、彼が右手にしている数珠玉だけが、丸く研磨された鉱石だった。数珠は一粒ずつ種類の違う鉱石で、色も大きさも不揃いの不格好なものだ。他にも門にかけられている表札や、庭に敷き詰められた白い砂利、御影石のタイルも全て、一乗寺がこだわりをもって置いているものらしい。
しかし今問題なのは、何故この黒玉が自分に差し出されたかだ。真田には一乗寺のように石を手首につける気もないし、部屋に飾っておこうとも思わない。
心の底から疑問に思いつつ訊ねると、一乗寺は右手を自分の顔の高さにまで上げた。着物の袖がすとんと落ちて手首の数珠玉が露わになる。
「俺の石は、依代だ。知っているな?」
鉱石の数珠玉を見せながら言う一乗寺に、真田は頷いて見せる。三露が式神を召喚する時に和紙を切って人の形にする、あれと一乗寺の数珠玉とは同じ働きをするのだ。召喚された式神は人の形をした和紙に宿る。その和紙と同じ役割を数珠玉の鉱石ひとつひとつが担っていた。つまり式神などを宿すことが出来る。
「……じゃあこの黒玉は、アンタの新しい依代?」
「そうすることも、出来る」
質問と回答とがいまいち一致しない。要領を得ない会話に真田はかすかな苛立ちを感じはじめる。要するに何が言いたいんだ? と、そう怒鳴りつけたいのを押さえられたのは、一乗寺の目が険しい色をしていたからだ。ほとんど睨むようにして真田を見ている。
「……なんだよ?」
「わからないか。……お前が依代として使ってみてはどうか、と言ってるんだ」
「は?」
まったく意味がわからなくて思わず瞬く。すると一乗寺はこれ見よがしに大きく息をついてみせた。
「お前も、大食公より他のものを召喚してみてはどうだ」
あまりに突然の提案だった。大食公とはつまり真田の契約している悪魔・ベルゼビュートのことだ。一乗寺は決まって大食公と呼んでいた。
ベルゼビュートは真田が祖母から引き継いで契約している悪魔だ。今までにこのベルゼビュート以外の悪魔など召喚したことがなかった。だいたい他の悪魔なんて見たこともない。ましてや召喚するだなんて。
「俺はベルゼビュートだけで手一杯なんだ。他を召喚する気なんて、ない」
ベルゼビュートを召喚するためには、契約者である真田自身の力をエサにして呼び出さなければならない。そのたびに膨大な力を喰われ、そして憔悴してしまう。そうすると、力の回復を待たなければ次に召喚を行うことすら出来なくなってしまう―――そんな厄介な契約魔なのだ。 しかし一乗寺は頑なだった。
「手一杯だからこそだろう。……効率が悪いと言うんだ。アリに対して戦車で突っ込んでいくような真似ばかりして、結局は肝心な時に燃料が切れる」
「……悪かったな」
随分な言われようだが、事実だから反論のしようがない。真田は口を噤むと持っていた黒玉をテーブルの上に置いた。庭から差し込む日光を受けて黒玉は鈍く光る。
「この石は、水中で出来たものだ。水圧に押し込められた木が、化石になった。……つまり、水の気配が閉じこめられている」
唐突に一乗寺が切り出す。何を言いたいのかよくわからないので、真田は口を挟まないでおいた。黙ったまま続きをうながす。
「お前は水と相性がいいのだと思う。大食公も水星に属する悪魔だ。だから水の気配を含んでいるこの石なら、扱いやすいだろう?」
テーブルに置かれた黒玉を一乗寺は視線で指す。何やら難しいことをさらりと言ってのけるその様子に、真田は感心してしまった。ベルゼビュートがどの星に属する悪魔だなんて、今の今までちっとも知らなかったのだ。水と相性がいいなどと考えたこともない。
「それに、黒玉には邪気を封じる力もある。ロザリオなんかに使われていて、柔らかいから加工もしやすい。だからそこに五芒星の模様でも彫れば、お前の力次第で悪魔の一つ二つ閉じこめておけるはずだ。どうだ、悪い話ではないと思うが」
「……この石に?」
こんな小さな石ころに。真田は信じられない思いだ。
「大食公を閉じこめるのは流石に無理だろうが、もっと下級の悪魔なら平気なはずだ。石に入れておけば、召喚もしやすいし使い勝手がいい。水の悪魔ならさらに良い。……やってみる気はないか?」
一乗寺の言葉の内容が、まるで現実感の伴わないものとして感じられる。そんなこと本当に出来るのか? 召喚しやすい悪魔だって? いちいち力を喰われて憔悴せずに済むというのなら―――そのほうが良いに決まっている。
「……やる」
わずかに顎を引いて短く答えると、一乗寺は唇の端を上げた。
「サポートしてやろう」


太陽がちょうど空の真上にきている。庭に敷き詰められた白い砂利が光り輝いていた。風はゆるやかで、あたたかい。春が過ぎていこうとしている。そして夏が来る―――いやその前に梅雨か。ドイツには梅雨がないので、日本の梅雨の鬱陶しさには辟易してしまった。いつまでも雨が降り続けると、気持ちまで暗く押し込められてしまう。
そんな季節の境目でもある、五月の初旬。
「良い風だな」
庭に出た一乗寺が小さく呟いた。砂利を踏みしめる彼の足は裸足だ。自分の庭だからガラスで切ったりするようなこともないのだろうが、それにしても無頓着な。
「草履くらい履けば?」
無駄と知りつつ訊いてみたが、一乗寺は答えない。
いつだってそうだ、彼は着る物や履く物には一切こだわらなかった。今だって薄い生地の着物を一枚羽織っただけ。夏ならばこれでも良いのだろうが、いつの季節でもこれで貫き通そうとするのだから困る。冬なんて見ているこちらが寒いくらいだ。
一乗寺いわく、自然に晒されているほうが自然を感じやすい、のだとか。
縁側に揃えておいた靴を履き、真田も庭へと降りた。歩くたびに音を立てる砂利を踏みしめるのは好きだ。足の裏に感じる石粒の感触が良い。 その砂利の隙間からは四角い御影石のタイルがのぞいている。近寄って、平らになったその上へ角砂糖のような黒玉を置いた。白御影の上に黒い石はよく映える。
「今日は風が気持ち良いな。この風に、協力してもらうとしよう」
そう言うと、一乗寺は右手の数珠玉を口元へと近づける。そして玉を繋ぐ細い糸を噛みきってしまった。しかし石は飛び散らない。実は石と石の間には小さな留め具がついていて、糸がどこで切れても外れるのは数珠玉のうち一つだけだ。
ころりと外れた丸い石を握り込み、一乗寺はその手を額の高さへとかざす。目を閉じると口の中でなにごとかを呟き始めた。
「……いいぞ」
しばらくして、一乗寺は手を下ろす。
「風に庭を覆ってもらった。結界の役目をしてくれるだろう」
そう言われみてても、真田には先程との変化がまったくわからなかった。空を見上げてはみるが、どこに風の結界があるのかもわからない。
一乗寺はこうして、石を通して語りかけて自然の助けを借りることが出来る。
あらゆるところに自然の気配は漂っているらしい。たとえばこの庭ならば、風や太陽の光、足下の砂利、空気中に含まれる水蒸気、植えられている様々な植物、など。それらの気配を、石を通すことで一つに選別して(今ならば風の気配)凝縮し、気配の塊を作り出すのだ。一乗寺はそれを"精霊"と呼んでいる。
風の精霊が庭を護ってくれるのならば、多少荒っぽいことをしても平気だろう。真田は改めて黒玉に向き直った。これから初めてベルゼビュート以外の悪魔を召喚しようとしている。出来るのだろうか、という不安。出来たならば、という期待。相反する気持ちがないまぜになって、気持ちを高ぶらせていた。
「準備はいいか?」
「その前に、ひとつだけ訊きたい」
「なんだ」
「この黒玉は、水中で出来たんだろう? どこの水の中だ?」
真田の質問に、一乗寺はわずかに笑った。
「ライン川、だ」
ああどうりで。胸を高ぶらせるのは何も不安と期待だけではない。郷愁までもが一緒になって真田を駆り立てているのだ。
真田は深く息を吸い込んだ。
呼び出す悪魔はもう決まっている。この石がライン川の水を秘めているというのならば、召喚できるはずだ。
真田の口から、ゆるやかな旋律が響く。


―――Ich weiss nicht, was soll es bedeuten,
―――dass ich so traurig bin;
―――Ein Maerchen aus alten Zeiten,
―――Das kommt mir nicht aus dem Sinn.
―――(なじかは知らねど 心わびて 昔の伝えは そぞろ身にしむ)



歌い出すと、それはあまりにも馴染み深いメロディと言葉だった。子供の頃によく歌ったそれは、ここ何年も全く口ずさむことさえしなかったのに、違和感なく口から滑り出していく。 ドイツの歌、ライン川を舞台とした歌だ。


―――Die Luft ist kuehl und es dunkelt,
―――Und ruhig fliesst der Rhein;
―――Der Gipfel des Berges funkelt
―――Im Abendsonnenschein.
―――(さびしく暮れゆく ラインの流れ 入日に山々 赤くはゆる )



更に歌い続けていると、不意に小さな水音が響いた。タイルの上に置いた黒玉から、まるで湧き出るようにして水が溢れているのだ。次第に水の勢いは強くなっていく。


―――Die schoenste Jungfrau sitzet
―――Dort oben wunderbar,
―――Ihr gold'nes Geschmeide blitzet,
―――Sie kaemmt ihr goldenes Haar.
―――(うるわしおとめの いわおに立ちて こがねのくしとり 髪の乱れを)



水はまるで無重力の空間にあるかのように宙へ浮いていた。旋律にあわせるようにゆったりとした動きで、次第に形を変えていく。それは美しい女の顔となり、あるいは身体となり、手足となり、一人の人間の姿になった。まるで薄い透明なビニルの人形型に水を注ぎ込んだような感じ。 すらりと伸びた肢体には長い髪が絡まるばかりで、他には何も纏われていない。身体の全てが美しい曲線を描き、見るものを魅了する造形物のようだった。

―――Sie kaemmt es mit goldenem Kamme,
―――Und singt ein Lied dabei;
―――Das hat eine wundersame,
―――Gewaltige Melodei.
―――(すきつつ口ずさむ 歌の声の くすしき力に たまも迷う)



―――Den Schiffer im kleinen Schiffe
―――Ergreift es mit wildem Weh;
―――Er schaut nicht die Felsenriffe,
―――Er schaut nur hinauf in die Hoeh'.
―――(こぎゆく舟人 歌にあこがれ いわねも見やらず 仰げばやがて)



真田は更に歌う。最後まで歌いきらなければいけない。術は途中でやめるわけにはいかないのだ。最後まで完成させてこそ、召喚の儀式は成り立つ。


―――Ich glaube, die Wellen verschlingen
―――Am Ende Schiffer und Kahn;
―――Und das hat mit ihrem Singen
―――(波間に沈むる 人も舟も くすしき魔が歌)



水の女が口を開こうとした。しかしそれよりも一瞬早く、真田は声に出して歌う。


―――Die Lore-Ley getan.
―――(歌うローレライ )



* * * *


ドイツ・ライン川に棲むといわれている魔物、ローレライ。
美しい女の姿をしたそれは、歌で人を惑わせては川底へと引き込む。難破した舟は数しれず、舟人は皆ローレライに魅入られ陸へと帰ることはない。
そのラインの水を封じた黒玉を使って、真田は彼の地からローレライを召喚したのだった。
美しい水の魔女は、置かれた黒玉の上に漂っている。今からこの悪魔に、契約を取り付けなければいけない。お互いの合意によってのみ悪魔の契約は完成する。
真田はすばやく腕を伸ばし、手のひらを女の方へ突きだした。女に口を開かせるわけにはいかない。歌わせるのはまずい―――何せその歌声は人を惑わせるのだから。
召喚Laden!」
唱えると同時に、真田の手のひらに力が集中する。ベルゼビュートを呼び出すだけの力は十分にあった。召喚のエサにするための力を練りながら、真田は女に向かって叫んだ。
「大食の大罪を負う七大悪魔・ベルゼビュート公を召喚する! 喰われたくなければ帰伏しろ!」
しかし女は全く表情を変えない。いや、表情と呼べるだけのものを持たない。彫刻のように整った顔からは、どんな意図も読みとられなかった。水で構成された身体は日光を受けて眩しく光っている。
「契約内容はアンタの命の保証だ。その黒玉に宿れ。そうすればアンタのことは喰わない……ただし、こちらに協力してもらう。それが条件だ!」
言い放った真田の言葉に、まるで反論するかのように女の身体がゆらりと揺れた。すると陽の光が反射して、ちょうど真田の眼窩を照らした。まぶしさに思わず手で顔を庇う。 次の瞬間、まるで空気に調和するように優しく、ゆるやかな歌声が流れてきた。
「……Mistちっ! 交渉は決裂…ってわけか!」
突きだした右腕はそのまま、左手で歌を遮断するように片方の耳を塞ぎながら、真田は力を集中させる。
姿成せErscheinen大食公Vielfrassベルゼビュート!」
全身の毛穴が一気に開くような感じがした。急速にエネルギーが奪われていくのが自分でも感じられた。そのかわりに、自らの背後に巨大な気配が凝り固まるのも。
「好きなだけ喰え!!!」
真田がベルゼビュートに言うのと、目の前の女悪魔が消え失せるのとは同時だった。女を形作っていたはずの水は、思いだしたかのように重力を取り戻してその場にばしゃりと落ちた。敷き詰められた白砂利が濡れてきらきらと光る。 そして何よりも、真下に置かれていた黒玉。
恐る恐るそれに近づき、水に濡れた黒玉を指先でつまみ上げる。先程と変わらずプラスチックのような感触をしているくせに、それは何故か重くなったような気がした。鈍い輝きを放っていた表面も、今は水に濡れているせいだろうか美しく輝いている。
「……逃げ込んだ、か」
七大罪の悪魔が本当に召喚されるとは思ってもいなかったのだろう。ベルゼビュートを出した途端にカタがついてしまった。彼女は唯一身を隠せる場所である黒玉の中に、逃げ込んでしまったのだ。
つまりは契約成立、だ。これでこの黒玉の中のローレライをいつでも召喚することができる。それもベルゼビュートの時のように力を喰われる心配もなく。
喰うべき対象が消えてしまったせいだろうか、背後にいたはずのベルゼビュートの気配もいつの間にか消えてしまっていた。 思っていたよりもずっと簡単に契約は済んでしまった。いや確かに手順としては簡単だったが、心労は並大抵ではない。何しろベルゼビュートを呼び出すだけでもおおごとなのに、遠くドイツの地からローレライまで呼び寄せたのだから。
疲れた。どっと疲労感に襲われた真田は、その場にかがみ込んでしまった。ほっと一息をつく。その時ふと、一乗寺がずっと何も言ってこないことが気にかかった。
「……一乗寺。契約、したぜ。見てただろう?」
振り返ると、一乗寺は庭の松にもたれかかるようにしながら立っていた。俯いて、片手で顔を覆っている。話しかけても全く反応がなかった。
「一乗寺?」
怪訝に思い、真田は重い腰を上げると一乗寺へと近づいた。じゃり、じゃり、と足下で靴が音を立てる。 顔を覆っている一乗寺の手は、よく見ると小さく震えている。どうしたのだろうと、真田はその手首に触れた。そっと顔から手をのけさせる。すると、一乗寺は松の木に体重をあずけるようにして座り込んでしまった。
一乗寺が力をなくした途端、頭上でびゅうと風が渦巻く。庭を覆っていた風が解けてしまったのだろう。風切り音を響かせながら、庭の周囲へと霧散していく。 耳元をかすめた風が、ひゅうと音を立てた。それはさっきのローレライの歌声のような、美しい音色だ。


「……一乗寺、アンタ、泣いてるのか?」




           

 





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