それはむしろ悪魔というより精霊なんじゃないか―――そんな風に三露が言うのを、真田はボンヤリと聞いていた。
話の内容自体はごく真面目なのだ。当人も真剣な表情をしている。しかしその真面目くさった話でさえ言い訳じみて聞こえてしまうのは、多分真田の気のせいではないと思う。
今宵は新月、三露の力の波がもっとも落ち込む日だ。
全く力を無くしてしまったその三露を、忠僕である影が放っておくはずがない。子供の世話を焼く親のごとく「お護り申し上げます」の姿勢で三露の後をついてまわるのだ。
それが鬱陶しい気持ちはわからないでもないが、しかし。
「……俺を逃げ口実にするなよ」
真田に護ってもらうから! とかなんとか、そんな風なことを影に告げて逃げてきたらしい。ワンルームのマンションを訪ねてきた三露は、満面の笑みでケーキなんかを手土産にやってきた。
追い返すのには相当なエネルギーを必要とすることは想像がついたので、仕方なく部屋に上げてやったのだ。
「ねえ、ケーキ食べてもいい?」
「……勝手にしろよ」
自分で持ってきたものなんだからわざわざ訊かなくてもいいだろう。そんな意図を込めて言ったのだが、三露は呆れたようにふうと息を吐いた。
「お茶くらい淹れてよ」
そこで初めて、ああそれが言いたかったのかとようやく納得した。こんなふうにいつも、三露の言葉には何かしら裏の意味が秘められているのだ。
「一乗寺のところみたいに緑茶はないぜ」
真田の家には紅茶しかない。しかも今は葉をきらしてしまっていて、ティーバッグしかなかった。それでも構うものか、どうせ客は三露だ。台所へ向かおうと真田は立ち上がったが、背後から三露に引き留められた。
「なんだい、これ」
その手のひらに載せられた黒い角砂糖のような塊。それを見て、真田は目を閉じて嘆息した。そういえば三露にはまだ黙ったままだったか。
「……悪魔、だ」
そうして、真田は黒玉の中身について話すこととなったのだった。


ローレライはその歌声で人を惑わす。美しい歌声でライン川の舟人を魅了し、舟を難破させてしまうのだ。―――その魂を喰う。
「でも真田。それはむしろ悪魔というより精霊なんじゃないか」
真田の話が終わると、三露はそんな風に言った。
既に赤みがかった太陽の光が窓から差し込むのを見ながら、真田はボンヤリとそれを聞いていた。心を占めるのは三露の言葉ではなく、もうすぐ陽が暮れるというのにまだ居座る気かという苛立ちだ。陽が暮れてしまったら三露は三露でなくなるのに。
からっぽの抜け殻を支配するのは、凄味のある笑い方をするあの鬼だ。
真田は以前それに会っている。そしてもう、二度と会いたくないとも思っているのだ。
「ローレライは、元をただせば自然環境だろう。舟が座礁しやすいところでその伝承ができた。つまり岩だとか水の流れだとか、そういうものの融合じゃないのか」
「っていうかアンタ、いい加減帰れ!」
もっともらしいことを長々と並べ立てる三露に、真田はついに怒鳴りつけた。放っておくといつまでもべらべらと喋り続けかねない。
「陽が暮れるだろう!? はやく帰って影にでも護って頂いとけ!」
しかし三露は、きょとんと目を丸くしているだけだ。それからしばらくして、にこりと微笑んだ。
「そう言うと思ってね、実は持ってきておいたんだ」
嬉しそうに笑いながら取り出してきたのは、三つ折りの財布と折り畳み式のナイフだ。
「セーマンをよろしく。君、得意だろう?」
「得意なものかっ!」
真田は知っている。あの財布には細い針が数本と朱で書かれた札が入っているのだ。ナイフに巻かれた黒い糸と合わせて、結界を作る道具だった。
「アンタがここに居座る気なら、俺がここを出る!」
鬼と一晩すごすだなんてごめんだ、おちおち寝てもいられない。そう言って立ち上がった真田の手首を、三露が緩く掴んだ。
「まあ、そう言わず。……せめて手伝ってよ。陽が暮れては大変だから」
確かに、三露の言うことももっともだ。陽が落ちるまでに結界(セーマン)を張らなければ、鬼を野放しにしてしまうことになる。
「……わかったよ」
しぶしぶ、真田は財布とナイフを受け取った。ありがとうと言って三露はフローリングの上へと正座する。しかし板張りの床で一晩そうしているのはさぞ辛いだろう。そう思い、ベッドの上にあったクッションをほとんど投げつけるようにして渡した。すると三露は一瞬目を開いたあと、首を傾げて笑った。
「ありがとう。助かる」
普段は図々しいくせに、変なところで謙虚だから調子が狂う。三露の礼を無視しながら真田は財布を開いて針を抜き出した。手に取ったのは全部で五本、ペンほどの長さで針金のように細い。しかし板張りのフローリングにさせる程度の硬さはあった。
「ねぇところでさっきの続きだけど」
「……黒玉のことか」
何をそこまでこだわるのだろう。別に黒玉の悪魔の正体が何であろうと、三露には関係などないはずなのに。
「そう、やっぱり僕はあれが悪魔だとは思わないよ」
三露の傍らに膝をつきながら、真田はその言葉に口を歪めた。
「精霊だって言うんだろう? …は、アレがそんな綺麗なものかよ」
嘲笑を浮かべつつ真田は三露のまわりを囲むようにして針を床へと沈めていく。
「アレはもっとキタナい……人の怨念さ。水に呑み込まれた人間が、生きた人間を羨んで水中に引きずり込もうとする」
「……怨念」
「それとも生きた人間が、死んだ人間を偲ぶ思いか。死んだ怨念と生きた怨念……人間のエゴのかたまりだ」
だから、ローレライは厳密に言えば悪魔などではないのだ。
「でも俺は、使えるものなら使わせてもらうさ。コイツを使役して……それから、ミサに祓ってもらおうと思ってる」
ナイフの柄をもてあそびながら、真田はそう静かに呟いた。
「塵は塵に、灰は灰に……還るべきなんだ」
「……そうだね」
ずっと沈黙を守っていた三露がポツリと乾いた呟きを漏らした。そして真田の手からナイフを取り上げる。絵に幾重にも巻かれた黒い糸をくるくると外し始めた。
「その通りだ。還るべきものたちは、留まってはいけないんだよ」
三露の声は静かで、それでいてやけに深く真田の胸に響いた。
流れるような手つきで黒い糸を針へと絡めていく三露からは、全く表情が読みとれない。一体何を思いながらそんな風に言うのだろうか。―――悪魔を還してしまうべきだと、そう言うのだろうか。そうすると真田はこの組織にいられなくなるというのに。
「……三露、」
呼びかけるのと、結界が完成するのとが同時だった。三露はその結界の中心にクッションを置き、その上へと座り込む。薄く笑いながら、くいと顎で真田の手元を指した。
「その財布の中に札が入ってる。その札を、鬼が来たら貼ってほしいんだけど」
「…………」
やられた、と真田は思った。せめて術を手伝え、と三露はそう言ったが、手伝う以上は鬼と対面しなければいけないんじゃないか! しかし文句を言おうにも既に手遅れだ。術の途中放棄は許されない。
薄暗くなりつつある中、窓から差し込むわずかな太陽の光を頼りに真田は財布から札を抜き取った。朱で書かれたそれは柔らかい和紙でできている。これを鬼に貼らなければいけない、なんて。
「アンタは俺の気持ちなんて考えないんだな」
まるで弱音だが、つい口をついて出てしまった。そうするともう止めることができない。堰を切ったように言葉があふれ出してしまう。
「いいよな、アンタみたいに……絶対の力を持ったヤツは」
悪魔がいなければ何もできない自分に比べて、三露は違う。総帥を宿しているとはいうが、三露自身が札を使ったり式神を召還したりすることができるのだから。力にサイクルはあるものの、それは一定であり自分のように感情に左右されるわけではない。
うらやましい。そう言うと、三露は目を細めて笑った。
「そう思うか? …僕と君は似たようなものじゃないか。僕はいつか、還すべきだと思ってるよ。君の悪魔も、僕の鬼も……」
三露の言葉は途中でふつと途切れた。いつの間にか部屋中に闇が満ちていた。日が暮れたのだ。


ごくりと、自ら鳴らした喉の音が聞こえるかと思うほどの静寂。
薄闇の中、結界として張られた黒い糸がわずかな燐光を発している。しかしそれだけの明かりでは三露の表情を伺うことはできなかった。そもそも俯いてしまっているから、真田からは顔が見えない。
「……三露」
呼びかけても、きっと答えないだろうことはわかっていた。かわりに凄惨な笑みが向けられることも。顔を上げた三露―――鬼―――は、目を細め口の両端をあげて、検閲するかのような視線を真田によこす。
「また、お前か。前に会ったな」
前、というのは三露と初めて会った日のことだ。その時、真田は鬼を封じる手伝いをした。今日のように鬼と対峙し、札を貼り付けたのだ。しかしまさか顔を覚えられていようとは。
さっさと札を貼り付けてしまって、この場を離れるに限る。そう自分に言い聞かせながら、真田は手の中の札を強く握った。
「いつものあいつは、どうしたんだ?」
唐突に切り出され、たじろぐ。
「……いつもの?」
鬼がいつも、どうしているかなんて知らない。新月の日、三露はたいていマンションに引きこもっている。そこでもこんな風に星形の結界を貼っているのだろうか。そしてやってきた鬼に札を貼っているのだろうか。―――誰が貼る?
「使い魔だ。塵芥をかためた、あいつ」
「……影?」
使い魔といえば影しかいない。そうか、やはり新月の日は影がずっと傍にいるのか。
「いつもならそれが、一晩中俺を封じてる」
一晩ずっと影と一緒だなんて、それは鬼も可哀想なことだな、などと真田は一瞬思う。もしかしたら鬼と一緒にいるよりも真田には辛いかもしれない。いや鬼でも辛いか。さっきから鼓動が早くなって浅くしか呼吸が出来ない。胸の奥まで酸素を吸い込めないせいで息苦しさに押しつぶされそうだった。これも全て、鬼の放つ威圧感のせいだろうか。
早く札を貼らなければ。そう思うのに、札を握る手は真田の思う通りにうまくは動いてくれなかった。
ふ、と鬼が笑う。
「あの使い魔は、奴の言うことを忠実に守ってるのさ。だから俺を封じ込める」
「……?」
皮肉気に口を歪めて鬼が笑った。その表情に一瞬いつもの三露の表情が重なる。口の片端だけを上げるその笑い方を、三露もよくしていた。言葉までが重なる。「影は、総帥の言うことを忠実に守ってるのさ。だから僕につきまとう」―――。
「……アンタ、一体……何、なんだ?」
どうしてアンタが三露と重なる? 三露に憑いているアンタが?
「お前は鬼だと聞いているんだろう。ならそれでいい」
その言い方は、さも妥協したという風だった。どういう意味だと問いつめたくなる。それはいつも真田が三露に抱く感情と似ていた。本当に大切なことは決して口にしない三露に対して、真田はいつももどかしさを覚えている。そんな三露と、今目の前にいる鬼との物言いは何故か同じように思えるのだ。鬼のくせに、と真田は胸の内で吐き捨てた。
そもそも鬼とは何なのだろうと思う。簡単な日本語で書かれた絵本を読んだことがあるが、そこに出てきていた鬼と目の前の鬼とでは全く別物だ。日本での悪魔のようなもの、そう理解していた。しかし鬼という定義があまりにも曖昧なのだ。
「アンタは総帥が封じた鬼……じゃないのか?」
声を絞り出すようにして訊くと、鬼は可笑しそうに笑った。まるで無知な子供を哀れむようなその目が、闇の中で黒光りしている。
「お前、誰の味方だ?」
低い声で発せられたその言葉の意味を、真田は計りかねた。黙っているとさらに、
「この身体の主か、それとも"総帥"か」
そう、訊かれた。
三露か、それとも総帥か? そんなの決まっているなじゃいかと真田は胸中で呟き、そして、どう決まっているんだと自問した。
「……でも、総帥の味方をすれば、すなわち三露の味方だということだろう?」
その二つは同義なのだ。そう言うと三露は怒るかもしれないが。
真田の回答に、鬼は何も答えようとはしなかった。淡く光る黒糸に囲まれ、床の上に座りながらごく薄く笑んでいる。
とにかく鬼との会話を終わらせてしまいたくて、真田は一心に札を握った腕を伸ばした。
「……角は、封じた」
それでも、鬼は何も言わない。


宵の口だが一乗寺家の明かりは灯っていない。まわりの家々の窓からは光が漏れてきているのに、一乗寺家の一角だけが暗い。
それは別に不思議なことではなかった。一乗寺は日が暮れると共に眠ってしまうことも珍しくないらしい。そんな時、彼は大抵縁側に腰掛けている。そこで本を読みながらつい居眠りしてしまって、そのまま朝になっているのだとか。
それは居眠りなんて可愛いものじゃないだろう、と真田は思う。暖かくなってきている最近ならまだしも、冬など風邪を引いてしまうではないか。しかし一乗寺はわりと丈夫なほうで、健康に気を遣わないくせに病気をしたり怪我をしたりということがなかった。もしかしたら風邪くらい引いているのかもしれないが、持ち前の無頓着さで自分の体調の悪いことに気がついていないのかもしれない。そのまま自然に治癒してしまい、だから「風邪なんて全く引かなかった」ということになるのかも。
とにかく、宵闇の中にひっそりとたたずんでいるその日本家屋が、明かりを灯していないことに真田は疑問を感じなかったのだ。
もう眠ってしまったのだろうか。だとしてもとにかく叩き起こして、今晩の寝床をわけてもらわなければ。真田のマンションは鬼に占拠されてしまい、他に眠れる場所がない。
門をくぐり中の庭へ足を踏み入れ、真田はその場に立ち止まった。いつもとは何か雰囲気が違った。人の気配がなく閑散としている。砂利を踏みつけながら垣根をこえ、縁側に顔を出してみても一乗寺の姿を捉えることはできなかった。
「……一乗寺?」
声に出して呼んではみたが、返事を期待したわけではなかった。何かがおかしいという気が真田の胸中に渦巻いている。こんな風に、何の前触れもなく一乗寺がいなくなることなんてかつてあっただろうか。
靴を脱ぎ捨てるようにして居間に上がっても、もちろんそこは無人だった。出かけたのかもしれない。しかし戸締まりもせず? いや、少しの間どこかへ出かけただけでは。
そうやって自分をなんとか納得させようとしている一方で、絶対に何かが起こったのだという確信めいた直感を真田は感じていた。
「……ッ、」
たまらず縁側へと駆け戻る。すると、つま先にこつんと何かがあたった。夜の闇のせいでそれが何かはわからない。かがみ込んで拾い上げる。それは柔らかな白い和紙に包まれた、拳ほどの塊だった。
「……石?」
咄嗟にそう思ったが、しかし手にした感じは石にしてはずいぶんと軽い。むしろプラスチックのような感じだ。いまいち手に馴染まないその塊を見て、真田はハッとした。あわてて自らの悪魔を封じてある黒玉を懐から取り出す。
和紙に包まれた塊は、手に持った感触が真田の黒玉と同じだった。闇に溶けていきそうな色をしたその黒玉を、真田は手のひらの中で軽く転がす。爪に軽くあたるたびに乾いたかつんという音が小さくする。
そうだ、前触れならばあったではないか。この黒玉の中にいる悪魔・ローレライと契約したあの日。
いつだって感情の抑揚を押さえているはずの一乗寺が―――涙を流したのではなかったか、ローレライの歌声を聞いて。
あの尋常じゃないできごとは、一乗寺が急に家をあけるという非常事態の前触れだったとでもいうのだろうか。
途方に暮れて真田は石を握ったまま上空を見上げた。しかしどんなに探してみても、新月のため月明かりを望むことはできない。


* * * *


それは数時間前のこと。


桜はとうに散り、今や青々とした若葉を茂らせている。日を追うごとに空は高くなり、春は深まってゆくばかりだ。
五月も半ばを過ぎ、暦の上ではすでに夏である。端午の節句あたりを節目として春から夏へと変わる。しかし立夏をむかえてもまだまだ風は柔らかな暖かさをはらむのみ、実際にはまだ夏は遠い。
一乗寺はいつものように縁側に腰掛けていた。左膝を立てその上に肘をつき、手のひらに顎をのせる。右足の上にはハードカバーの本をのせ、あいた手で時々ページを繰った。
今時分の季節が一乗寺は好きだ。空気が柔らかく穏やかで、優しい。風が徒にページをめくっては吹き抜けていく。本の中から意識を引き戻された一乗寺は、また元のところまでページを戻しながらそっと嘆息した。
こうやって本を読んではいるが、実は気が散って仕方がないのだ。心を占めるのは苛立ちや後悔といった負の感情ばかり。それを忘れようとすればするほど、よりいっそう大きく膨れていく。
何とか意識を逸らせようと、強制的に自らの視線をページの上の文字へと縫い止める。そこに綴られた単語を拾っていると、ふとページに蔭がかかった。
顔を上げると、すぐそこに青年が腕組みをしていた。茶色い髪が風に弄ばれて揺れる。誰かが訪ねてきたことなど全く気がつかなかった。砂利を踏む音さえも聞こえなかったのは、おそらく青年がおもしろがって気配を消していたからだろう。
その姿を認めるや否や、一乗寺の心臓が血液を逆流させそうに強く波打つ。どくり、と耳元で不穏な音を聞いた。
「何を熱心に読んでるんだ?」
揶揄するような調子で、目の前の青年―――武政は首を傾げた。今、おそらく一乗寺が最も会いたくなかった人間だ。顔さえ見たくなかった。不快感に胸が悪くなる。武政のその一挙一動、表情から声にいたるまでの全てが、一乗寺の神経を逆撫でするのだ。せめて視界から追い出そうと一乗寺は本を抱えたままくるりと居間のほうを向いた。
しかし武政はそんなことでめげる性格ではない。それは一乗寺とて承知していた。けれど無視を決め込む以上の得策が他に見つからない。すると、背後から突然するりと手が伸びて膝の上の本をさらっていってしまった。
「ドイツ語だろ? 医学書だな。お前、まだこんなもの読んでるのか」
ぱらぱら、と軽くページをめくる音が聞こえる。それは一乗寺が大学の時―――つまり数年前に読んでいた本だった。ミサの片づけの甲斐あって、居間の片隅から出てきた代物だ。大学を卒業してからこの六年間、行方不明になったままだった。
特に他に読むものがなかったから読んでいただけだ、別にずっと愛読していたわけではない。そう言ってやりたいような気もしたが、しかし会話を交わすくらいなら何も弁解しないほうがずっとましだ。そう判断して一乗寺は背中を向けたまま無言を貫いた。
すると分厚いハードカバーの本が一乗寺のすぐ横の板張りに音を立てて投げ置かれる。ばん、と大きな音がした。
「それで? この家では、客をもてなそうって気はないのか?」
不遜なその物言いは、一乗寺の感情をいちいち逆撫でしてゆく。血液がずっと耳元でどくどくとうるさく、このまま沸騰するのではないかと思った。身体の中を巡る力が行き場をなくして蓄積されていく。右手の拳を、思わずきつく握った。しかし武政はそんな一乗寺に気づく気配もない。
「八十八夜は過ぎただろう? じゃぁそろそろ良い一番茶を仕入れてるはずだ。出し惜しみするなよ」
言いながら武政は鼻歌まじりだ。夏も近づく八十八夜ー、野にも山にも若葉が茂るー……その八十八夜はつい二週間ほど前に過ぎた。極上の一番茶が摘み取られたのだった。
確かに今年の一番茶なら既に仕入れた。しかし高価だったのだ、武政などに淹れてやる気はない。
それでも一乗寺は何とか感情を自制して立ち上がった。これ以上、その場にいて苛立ちを押さえる自信がなかったのだ。武政から離れるためにそのまま無言で台所へと向かう。
武政はいつもそうだ、一乗寺の心などおかまいなしに負の感情ばかりをえぐる。


一番茶の最上級玉露は、甘みの成分が多い。これならばいつも文句の多い真田だって黙って飲むのではないだろうか、そう思って購入した茶葉だった。しかしどうして、武政などに出してやる羽目になってしまったのか。
一乗寺は盆の上に茶器を並べながらも、複雑な思いだった。その元凶である武政はというと、片づいた居間へと勝手に上がり込んでいる。畳の上へ置かれたテーブルの表面を、指でコツ、コツと鳴らす音が間断なく響いていた。秒針のようなその音が武政の指によって生み出されているというだけで、一乗寺の気分は悪くなる。
漆塗りの盆に急須と小さめの湯飲みを一つ置くと、一乗寺は台所を出た。
「遅いな。いつまで待たせる気なんだ?」
いちいち口うるさい客人のことは無視する。テーブルの上に盆を置いてしまうと、一乗寺は少し離れたところに腰を下ろした。湯飲みは武政のぶんしか用意していない、飲みたいなら勝手に急須から注いで飲めばいい。そういう、無言のメッセージだ。
しかし武政は気にとめる様子もなく急須から自分で茶を注ぐと、小さな湯飲みへ口をつけた。その唇にはうっすらとした笑みさえ浮かんでいる。一乗寺の無言の抗議など全く効いていないようだった。
「久しぶりに会ったっていうのに、ずいぶんと冷たいじゃないか?」
「久しぶり……だと?」
今まで無視を徹底していた一乗寺だが、聞き捨てならない言葉に思わず柳眉を逆立てる。何か言おうと口を開いたが感情に思考がついていかず、結局何も言えないまま口を噤んで言葉を呑み込んだ。どこが久しぶりだと言うのだ、この間逆居の少女を連れてこの家へやってきたのは誰だ。そんな風に実際には心中穏やかではない。
「……何か用があるのか。ないならば、さっさと失せろ。気分が悪い」
こんな男をいつまでも相手にしていたら、憤懣が鬱積するばかりだ。無理にでも閉め出してやりたいぐらいだった。しかし武政は一乗寺の真意を知ってか知らずか、見た目だけは人の良さそうな笑みを浮かべる。
「それは大変だ、風邪か何かじゃないか? 季節の変わり目は体調を崩しやすいって言うしな」
「……失せろ、と、言っているんだ」
まるで子供に言い聞かせるみたいにして一言ずつ区切る。いや、まだ子供に言い聞かせるほうが簡単なのかもしれない。武政は一乗寺の言うことなど聞こうともせず、手のひらの中で湯飲みを回している。一乗寺の苛立ちを煽るとわかっていてやっているのだろうから、タチが悪い。
今の自分はちょっとしたことでさえ気に障り、怒りに繋がるのだ―――それが武政に関することである限り。だからできることならばせめてあと半年、姿を見せないでほしかった。
「帰れ。……俺が、冷静でいられるうちに」
「珍しく感情的じゃないか? あぁ、何か嫌なことでもあったんだろう?」
おどけるように肩をすくめ、武政は可笑しそうに笑い声をあげた。その声があまりにも明るいので、一乗寺は言葉を失ってしまった。一体、誰のせいだと思っている。
「……お前が、三露を……」
「あぁ、総帥様のことか?」
「三露を怒らせた、から」
一度口を開いてしまうと、もう止められない。
「お前がミサに協力したせいで、三露は怒ったんだ。お前のせいで」
「……へぇ? お前だってミサに協力してやったんじゃないのか。泊めてやっただろう」
「それは三露の要請だった、でもお前は違う!」
僕に協力すれば、と。そう三露は言ったのではなかったか。そうすれば、失せ物はじきに見つかると。それが一乗寺が告げられた占いの内容だったのだ。だから、一乗寺は三露の要望を出来るだけ受け入れた。ミサを泊めることに関しても何も言わなかった。しかし三露を怒らせてしまっては元も子もない。
「お前が関わったせいで、全て狂ったんだ……」
武政がミサに協力したのは、それこそ一乗寺の行動を阻害する目的が含まれていたのではないか。理由などない道楽のように見えて実は意図するところがあるのではと疑ってしまう。武政と三露が敵対することによって、一乗寺の立場が悪くなるとわかっていたのではないのだろうか。
歯噛みしながら武政のことを睨みつけると、薄笑いを浮かべたまま武政は目を細めた。
「お前がそこまで怒るんだから、どうせ"失せ物"のことだろう」
まるで全てを見透かしているかのように、さらりと言ってのける。
一乗寺は眩暈のような怒りを感じ、一瞬身体が震えた。噛み締めたはずの歯がカチリと音を立てる。血液が再び、どくりと大きな音をたてて耳元を通り過ぎていった。
失せ物のことは、武政だって知っているはずなのだ。一乗寺がずっと失せ物だけを探し続けていることも、情報網確保のために骨董品や珍しい物を集めては売るような仕事をしていることだって。
「……もう永久に見つからなくなった、てほどに落ち込んでるように見える」
「そうなった時は覚悟しておけ。お前だけは許さない」
もはや藁にも縋りたい気持ちの一乗寺は、三露の言葉に過大な期待をよせていたのだ。たかが占い、と笑い飛ばすことができなかった。
「ふぅん。俺のせいにしてるようだが……そんな風に言っていいとでも?」
そんな風に、も何も、お前のせいじゃないか。
そう言ってやりたいのに言えなかったのは、怒りによる震えが身体中に広がっていたからだった。わななく唇は上手く言葉を紡ぐことすら出来ない。
その沈黙を利用して、武政はさらりと話題を転換してしまった。
「そういえば、こうやってゆっくり話すのも久しぶりだな。半年ぶりくらい、かな?」
一乗寺は何とか震えを押さえようと、唇を噛み締める。すると一乗寺が何も言わないのをいいことに、更に武政は続けた。
「半年間の土産話、聞きたいだろう? ……今、お前が一番知りたいはずの話だ」
聞きたくなどない。一乗寺は射殺す思いで武政を睨み据えた。噛んだ唇からはじんわりと血の味がしている。
「聞きたい、って言えよ。そうじゃないと後悔することになる」
「……誰、が。聞きたいなどと」
「素直じゃないな。―――"松珀"を見つけたんだ」
頭を鈍器で殴られたかのような衝撃だった。
「松の葉の入った琥珀だ。折れることなく入った松の葉が珍しくて、一級の値段がついてる。今はとある人間が所有してるそうだ。…どこかで聞いたことある話だなぁ、と俺は取り急ぎ足を運んださ」
完全に武政のペースだった。絶句した一乗寺は口を挟むことはおろか、反応らしい反応を返すこともできない。出来たことといえばただ目を見開いたくらいだ。
「…確認してきた。間違いない、お前の失せ物だ」
失せ物。そう聞いて、ようやく指先に力が戻ってくる。にっこりと笑った武政の胸倉に一乗寺は掴みかかった。
「…ど…こに。松珀はどこに…!?」


「君の失くしたモノは見つかる。……鬼門からやってくる」
やって来た。果京の鬼門の方角、小松地区から武政という男が。




           

 





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