水音がしている。
さあさあと緩い水の音だ。まるで雨のような、川が流れるような、そんな音。時々ゴボリと水泡が弾ける。水の中にいるかのように、うまく息ができなかった。
目の前には、塗れたガラスを通したかのように歪んだ景色が広がっている。夜の闇の中、蛍のようにぼんやりと浮かぶ明かりはネオンだろうか。
相変わらず聞こえるのは水の音だけだ。しかし、不意に声が響いた。
「そうやって、俺のことも殺すのか?」
息が、できない。


「―――……!」
目を開けると見慣れない景色が飛び込んできた。腰掛けている椅子がガタン、と揺れる。一乗寺は無意識のうちに詰めていた息を、大きく吐き出した。
電車の中だった。それは西へ向かう新幹線、到着まで時間があるからと本を開いていたところ、どうやら眠ってしまっていたらしい。隣から武政の興味深そうな視線を感じた。
「どうした、うなされてたみたいだな?」
窓枠のところに頬杖をついて、武政はにやりと笑っている。一乗寺は軽く頭を振って目をそらした。
「……気のせいだろう」
当然だが眠っていた時の記憶はないので、実際どうだかまで知らない。
車内の時計を見ると、到着まであとわずかだった。
一乗寺は背もたれに身を預け、瞳を閉じる。もしかしたら本当にうなされていたのかもしれず、眠ったというのに身体がどこか怠い感じがする。絶えず落ち着かないのは、松珀が見つかったという知らせに対する期待と不安だろう。それを伝えてきたのが武政なだけに、期待も大きければ不安だって大きい。
松珀、という名は一乗寺がつけた。松の葉が入った琥珀だ。その石のことを一乗寺はこの六年間ずっと探し続けていたのだ。
今まではただ待つだけだった。何の手がかりもないまま、情報が入らないかとわずかな望みを抱きながら待つ。しかし今は違う、松珀が見つかったという知らせを受け、そしてその松珀のもとへと向かっている。
新幹線は確実に松珀へ近づいているはずなのだ。それなのに、どうしてこんなに怖いのだろう。
今まで手探りで探してきたぶん、確かな手応えを感じると不安になる。そんな感じだ。
「……ほんとうに、松珀だったのか」
「お前も疑り深いな。言っただろう、間違いないって」
それは、もう何度となく繰り返されたやりとりだった。武政もうんざりといった表情を浮かべている。
松珀の居場所を問いただし、それからすぐに家を出た。果京の南にある駅までバスで三十分、いくつか電車を乗り継ぎ、やっと新幹線に乗り込むともう辺りは暗くなっていた。なので窓の外を流れていく景色はすべて黒く塗りつぶされてしまっている。
「ほんとうに、松珀がこの手に戻るなら……」
密色をした松珀を思い浮かべながら、一乗寺は呟く。
「俺は、他に何もいらない」


自分勝手は相変わらずだな。そう、皮肉ってやりたくなるのを武政はかろうじて押さえた。そのかわりに口元を緩い弧の形にする。薄笑いの表情は常なる自分のスタンスなのだ。
一乗寺はもう黙ってしまって何も言わない。こうなってしまうと、その口は貝よりも堅い。何を言ったところで反応が返ってくる望みは薄かった。だから武政も、肘をついた窓枠のほうを見やった。
外は真っ暗だった。新幹線に乗り込もうという時にはすでに日が暮れていたのだ。果京から都会へと出るのは容易ではない。バスに乗り、電車を乗り継がなければいけないのだから。つくづく田舎だと武政は思う。自分が担当する小松地区はなおさらだ。
これほど時間がかかってしまったのは、他にも理由がある。松珀を見つけた場所を教えてやると、取るものも取り敢えずという勢いで家を出ようとした一乗寺を、押しとどめたのだった。いつも通り着物を一枚身につけただけの彼を、果京の田舎町ならともかく都会まで連れて行くわけにはいかない。
着替えろ、とそう言ったが、洋服がなかなか見つからなかった。なにしろ一乗寺が洋服を着なくなってしまってから随分と経つ。大学に通っていたのがもう六年前、卒業を契機に彼はほとんど出かけなくなってしまった。同時に骨董品など価値のあるものを集めはじめ、自宅で店を開くようになる。
とにかく一乗寺は果京を離れなくなった。それは彼自身が出不精であったことも原因ではある。が、もう一つ大きな原因としては、その能力にあった。
一乗寺は精霊の力を借りることができる。いつも右手首に巻いている数珠の、石一粒ずつが精霊を降ろす依代だった。精霊というのはあらゆる自然のことだ、つまりどこにでもある。
しかし、一乗寺はあらかじめ石を通して精霊に語りかけ、助けを請わなければその力を使うことが出来なかった。だから果京地区以外で精霊の力を借りる場合、まず対話から行わなければならないのだ。つまり、自分の地区以外ではほとんど無力。そのため果京からあまり出ようとしない。
強い術者ではない。しかし護りに入るとこれ以上心強いものはない。自然はいつでも、誰にとっても、驚異なのだ。―――武政にとっても。
武政は肺に溜めていた息をゆっくりと吐き出し、眉間に指を当てた。
一乗寺がうなされて瞼をあけるほんの数分前、武政もまた、うなされるようにして覚醒したのだった。夢にうなされるのは随分と久しぶりかもしれない。起きると背中に嫌な汗をかいていた。
どんな夢だったろうか、思い起こそうとしても曖昧なイメージしか浮かんでこなかった。確か、水の音を聞いた。―――それともただ電車の揺れる音だったろうか。
「……ただの夢、だ」
武政がため息をついて瞳を閉じた頃、車内アナウンスが流れ始めた。
まもなく、京都。


* * * *


腹が減っては戦は出来ぬ、って言うだろう?
そんな武政の屁理屈など聞いてやる謂われはなかったのだが、情報を握っているのは他でもない武政なのだ。なので、一乗寺は仕方なく付き合ってやった。
新幹線から降りた後、再び電車を乗り継ぐ。駅から降りてしばらく歩き、やってきたのは料亭や飲み屋の連なる細い通りだった。道の両側に立ち並ぶ店々から漏れてくる光や、通りに灯された提灯のせいで夜を感じさせないほどに明るい。
武政は迷いのない足取りで進んでいく。一乗寺も後からそれに続くと、ある店の前で歩みが止まった。
「ここにしよう」
はじめから武政の中ではこの店で食事をすることが決まっていたようだ。他の店には目もくれずに店内へと入っていく。入り口には白いのれんがかかっていて、しばらく奥まで石畳の道が続いていた。両脇には灰色をした小振りの石が敷き詰められている。その上に等間隔で灯籠が置かれまるで道しるべだ。京都特有の、奥に長い敷地だった。
「お前、こういう雰囲気は嫌いじゃないだろう?」
前を行く武政が、振り返りながら訊く。確かに嫌いではない。だがしかし、今はそれどころではないのだ。長年探し続けた失せ物が近くにあるかもしれないという時に、のんきに食事をする気分になどなれない。
自分一人で行くから、松珀をどこで見つけたのか教えてくれないか。
そう頼んだが、武政は首を縦には振らなかった。
「まぁ、まぁ、松珀は逃げない。腹ごしらえをするくらい、いいだろ」
そうして結局、店の奥の座敷へと通されてしまう。笑顔を浮かべている武政は、まるで楽しんでいるふうだった。
店の者といくらかやりとりをした後、武政は座敷に用意された座椅子へと腰を降ろす。数寄屋造りふうのこの部屋は、簡素だが細部にまで手が込んでいて、店の格式の高さを思わせた。しかし武政は物怖じする様子もなく、座椅子に座ってくつろいでいる。
「どうした? お前も座れよ。料理ならもう、俺が頼んでおいた」
「……ああ」
堂々とした居ずまいは昔からのものだ。武政はいつでも、どこでも、誰が相手だろうと怯んだり気後れしたりしない。今は定職にも就かずフリーターとしてあっちへふらふら、こっちへふらふらという生活を送っている得体も素性も知れない彼だが、実は御曹司だったりするのだ。本人はそのことをひどく嫌がり、今では家族と絶縁しているらしいが。
一乗寺は座椅子を座りやすいように手で引きながら、武政のことをちらりと見やった。
「……ここの店の者と、親しいのか?」
「どうしてそう思うんだ?」
「さっき、話してただろう。先日はどうも、とか何か」
店の者と武政とのやりとりは詳しくは聞こえなかったが、確かにそんなことを言っていた。
「ただの知り合いさ、前に少し世話になった」
つまらなさそうに言って、武政は背もたれに身をあずけて腕を組んだ。
沈黙が流れた。特に居心地の悪い静寂ではないが、気の急いている一乗寺にとっては長い時間に感じられる。苛立って足を揺すり始めた時、部屋の扉が開いて料理が運び込まれてきた。
会席膳だった。漆塗りの膳の上に汁物や小鉢など、多種な品々が乗せられている。
「お前、京料理なんて初めてじゃないのか。果京からちっとも出てないんだし」
「出ないと、不都合でもあるのか」
一乗寺は低い声でうなったが、武政は曖昧な笑みを浮かべるだけでそれには答えようとしなかった。料理を運んできた店の者はすでに退出している。冷めないうちに、と武政は箸を取り、汁物の器をあけた。
「もう少し暑くなってから来ればよかったな。そうしたら美味い鱧料理を食えた」
「……それまで、待っていられるわけがないだろう」
「お前は気が短いからな」
漆塗りの器に口をつけながら、武政はちらりと一乗寺のことを見上げる。
「食べないのか?」
言われて、一乗寺はとりあえず箸を取ってはみた。が、食欲などあろうはずもない。目の前で小鉢に入った料理を次々と片づけていく武政をただ黙視していた。
「しかし、微妙な時期に来たもんだな。春なら桜が綺麗だし、夏なら祭りや送り火がある。もう少ししたらまた来ようか? 秋の紅葉を見に来てもいい」
「……俺は、松珀が手に戻ったらもうどうでもいい」
と、いくら訴えてみたところで武政は簡単に松珀の在処を言おうとはしないのだろうが。半ば諦め半分で一乗寺が呟くと、武政は目を細めて笑った。
「松珀が六年間いた街の景色を、少しは共有してみようって気にならないのか?」
「……」
「お前、本当に鈍いな。……なにも感じない?」
挑発的に笑う武政の表情を見て、一乗寺は手に持った箸を置いた。こういう表情をするときは、ろくなことがない。それは長年の経験から来る勘だ。
「……なにが言いたい?」
「この部屋に、ずっと松珀は飾られていたんだぞ」
一瞬、耳を疑った。
突然のことで、言葉の意味がすんなりと入ってこなかった。一乗寺は口元に手をあてる。つまりは、
「松珀が……ここに?」
思わず一乗寺は立ち上がり、部屋の内部を見回していた。しかしせわしく走らせる視線のどこにも、琥珀のようなものは引っかからない。気を集中させてみても、その気配は感じられなかった。いや、気を集中させることなどほとんど出来ていない。松珀が見つかったという知らせを聞いてからずっと、気を静めろというのが無茶なくらいにたかぶっている。
「俺が前に来たときは、ここに飾られてた。買い取れないかと訊くと笑われたな。並のお値段ではお譲り出来ませんとかな。……まぁそりゃそうだ。価値のある琥珀なんだから」
武政は何でもないふうに言って、料理を口に運んでいる。
立ち上がったままの一乗寺は、部屋の扉へと手をかけた。
「……どこへ行く気だ?」
「松珀を渡してもらう」
部屋を出て、店の者を問いつめるつもりだった。この部屋になくとも、どこか他の部屋にあるのかもしれない。もしくは、他の店へと運ばれてしまったのかもしれない。とにかくどうであろうと、無理矢理にでも聞き出す。一乗寺はもう冷静ではいられなかった。
「お前なんか、相手にされないな」
そんなことをわざわざ言ってくる武政に腹が立った。確かに相手にされないかもしれないが、そんなことは関係ない。
「どうあっても、渡してもらう。……殺してでも」
買い取れないというのならば、そうするしかない。
一乗寺の不穏な言葉に、しかし武政は動じずに笑顔を浮かべた。
「お前ならそう言うと、思った」
首を傾げるようにして、まるで一乗寺のことを見透かすように目をすがめる。
「だから俺が買い取っておいた」


気がつくと武政の顔が間近にあった。いや、無意識のうちに掴みかかっていた。武政の襟首を掴む一乗寺の手にぎりぎりと力が入る。それでも武政は薄く浮かべた笑みを崩さなかった。
「金だけで話がついたから、楽と言えば楽だったよ。まぁそのぶんの出費は痛くないと言えば嘘になるけど」
「……、」
あまりに衝撃が強く、咄嗟に言葉が出てこない。
「松珀は、」
やっと言えたのはそれだけだった。武政が松珀を買い取ったということは、現在は武政が所有しているということだ。どういうことだと力を強めた一乗寺の手を、武政は軽く払った。
「欲しい? …でも駄目だ」
一乗寺は、自分の頭にカッと血が上るのを自覚した。それを、わずかに残った理性でもって押さえつける。言っただろう、殺してでも渡してもらうと。そう言おうとすると、武政のほうが先に口を開いた。
「今、手元にないんだ」
「な……」
一乗寺は心中で悲鳴をあげる。ならばどこにあると言うんだ。松珀を放って、こんなところで食事をしている場合か。
そんな胸中を知ってか知らずか、武政は服の襟元を正しながら一乗寺のことを見る。
「わざわざここまで連れ出したのは、松珀がいた場所を見せたかったのと……話を聞いてほしかったからだ。松珀を渡してしまったら、お前、俺の話なんて聞かないだろう」
武政の発言は脅しめいている。つまり、話を聞かなければ松珀は渡さないと、そう言いたいのか。一乗寺はごくりと喉をならした。
「……何の話だ」
しかしその問いに武政は答えなかった。かわりにぐるりと部屋の中を見渡す。
「場所を変えないか。人の気配がするところでは、話しにくい」
一乗寺も辺りを見た。おそらく掴みかかった時に机を揺らしてしまったのだろう、会席盆に乗せられた料理は皿からこぼれているものもある。倒れた湯飲みからは水たまりが細く続き、机の端から水滴となって畳へとこぼれ落ちていた。確かに、場所を変えたほうがいいのかもしれない。
喉のところまで出かかった言葉を無理矢理に呑み込んで、一乗寺は小さくうなずいた。

店を出る間際、店の者にひととおり謝った後に、武政が突然問いかけてきた。
「……松珀がいなくなった日のことを、覚えているか」
一乗寺は一瞬目をしばたいた。どうしてそんな当然のことを訊くのかと、不思議にさえ思った。
忘れるはずがない。あれは、六年前のことだった。




           

 





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