ものごころついたころからずっと一人きりだった。両親は自分が産まれてすぐに死んだ、らしい。
親戚らしい親戚もいない一乗寺は孤児院で育った。田舎の片隅にあるお世辞にも広いとは言い難い小規模な孤児院だ。
そこで共に育った仲間や先生がいるにはいるのだが、一乗寺にとって他人も同然だった。なので家族というものが一向に理解できない。
独りでいるのは当たり前のことだった。
「うそつき。お前、本当は寂しがり屋だろう」
武政がそう言ったのはいつ頃だったか。
小綺麗な服装を着崩して、悪ぶった笑顔を作る男の子。少年期からすでに喰えない人間であった武政は孤児院の仲間でもなければ学校さえ違う。ほとんど道端で偶然に出会っただけなのだが―――独りきりの一乗寺を憐れんだのか、いつしかつきまとわれるようになった。武政はいつも人の輪の中心にいて、本人は胸を張ってそれを人徳だと言ってのける―――、一乗寺にはそれが人徳とは思えないし、うらやましいという気にもならない。
高校受験前の進路指導のとき、中学の担任がパンフレットを差し出した。
人気のないガランとした教室に並んだ机の上に置かれたのは、難関私立校のパンフレットだった。ここへ進学してはどうかという担任の勧めだった。
その学校は偏差値としては問題ないものの、私立校となると学費が高い。当時まだ孤児院から学校へと通っていた一乗寺はそう言って断ったのだが、外なことに孤児院側からもその私立校の受験を勧められたのだ。
「そこに合格することを条件にね、貴方を引き取りたいって方がいるんだよ」
いつの間にか引き取り手と孤児院、さらには中学までもが結託していたのだった。
何年いようと心を開こうとしないある意味問題児を、孤児院側がずっと手放したがっていたのを一乗寺は知っている。。そして引き取り手側がほしいのは"優秀な"子供だった。学校側は有名校へ進学した生徒がいるという名目がほしい。三者の利害が一致していたのだ。
しかし一乗寺にとっても悪い話ではない。素直に担任に従いその高校を受けることになった。養子の話はむしろ良い縁だったと言え。受験に合格し、その後も成績さえ保っていれば保護を得ることができるのだから。
そうして一乗寺は養子にはいることとなり、名字が"一乗寺"に変わった。
その時を境にして一乗寺の存在は二つに分断されている。
私立高校へ通い始め、孤児院から果京の北西にある養親達の一軒家へと移り住んだ。そうすると今まで関わっていた人間とは縁が切れ、以前の一乗寺を知る者はもういない。家族、友達、思い出、それらを持たない一乗寺は、全く新しい人間に生まれ変わったも同然だった。ただ武政だけが、昔と今の自分をつなぐ楔とも言える。
「同じ学校だな。これからもよろしく」
武政とは驚いたことに高校、そして大学までもが同じだった。何という偶然なのだろうと思ったものの、進む道が同じなのだろうと当時は納得していた。一乗寺は引き取られてからというもの医者を志すようになっていた―――もちろん個人の意志ではなく養親たちの要望によって。
養父は個人病院をやっており、一乗寺にその跡を継がせたいらしい。別段将来の目標などがないのでレールを敷かれようとも構わなかった。学生の間は金に困らず暮らせるのだから、その代価として病院くらい継いでやってもいい。
「お前は将来どうするんだ?」
医療系の大学にまで来ておいて、武政はこんな質問を何度か繰り返した。どうするも何も。大学にいる者は「医者になる」つもりで学校に来ているのだ。一乗寺だって例外ではない。武政だってそうだろうに。
「……そう言うお前こそ」
眉を顰めて、訊ね返す。と、武政は腕を組んで笑った。
「俺は毎日おもしろく暮らせればいい」
そんなことを大学の者が聞いたら卒倒だ。皆が必死になって勉強をしても合格できるかどうか、という大学に余裕で受かった武政だからそ言えるのかもしれなかった。成績優秀者には大学受験さえ茶番でしかなく、明確な目的を持って進学したわけではないということか。
「医者になる気はないのか」
「お前こそ、まさか医者になる気か? 本当は望んでいないくせに。命を救いたいとか、金を儲けたいとか、ご大層な目標を持ってるわけでもないのに? 馬鹿げてる」
「……俺は家を継ぐんだ」
それが目的だ。一乗寺がそう告げると武政は大げさに息をついて首を横に振った。不満であるらしく顔を歪めているのだが、それきり口を噤んでもう何も言わなくなってしまった。
武政とは頻繁に将来についてのやりとりをしたが、大抵が沈黙に終わった。饒舌な武政が口を閉ざすと、あたりには静けさばかりが広がる。どうやら武政は一乗寺が家を継ぐのが面白くないらしい。
しかし就職が現実味を帯びてくると武政の戯言をとりあってはいられなくなった。養親たちの期待も日増しに感じる。
しかし相変わらず養親のことを家族とも思えない一乗寺だったから(まず家族というものが理解できていない)、相変わらず彼らは"他人"でしかなかった。利害関係で結ばれた人間の住む家は、居心地が良いとは思えない。こんな家が一乗寺はあまり好きではなかったが、しかし庭だけは唯一気に入っていた。
一乗寺家は古い。年月を感じさせる日本家屋の内部には、狭いながらもまるで絵に描いたような庭園がある。門をくぐって右側に折れると玄関、まっすぐ行くと縁側へと出るが、途中を垣根に遮られている。その垣根の一部分と化しているのが立派な松の木だった。その松の木が、一乗寺は好きだ。
次第に家での一乗寺の定位置は、松の見える縁側となっていった。何故かそこにいると落ち着くような感じがする。松の木に触れると不思議と心が静まるような気がした。
この庭が好きだからこそ家を継ごうという気にもなったのかもしれない。将来この庭を手に入れられるのなら病院を次いでも構わない、と。
医者になることに後悔はなかった。他に夢でもあれば別だが、趣味や特技を持つこともなかったのだ。取り柄といえば勤勉くらいなもの。
だが、そんな一乗寺にも好きなものはあった。古くて歴史を感じさせるようなものや風景に無性に惹かれるのだ。庭や松が好きなのもそのせいなのかもしれなかった。
ずっと昔からその地に立っている大木や、何万年もかけて形成された地層、そこから取られた石の欠片など自然なものから、アンティークの時計や古くからの技術がつめこまれた工芸品など人工的なものまで、惹かれるものは多種多様だ。しかしそのことを特に誰に対して打ち明けるでもなかったし、積極的に物品収集をしているわけでもない。ただ好きだと漠然と感じているだけだ。
一番つきあいの長い武政にさえ話していなかったのに、ある日突然に武政は大きな琥珀を持ってきた。拳ほどもある透明度の高い琥珀だ。
「俺が持ってても意味ないからな。お前が持っていればいい」
「……どうしてこんなものを?」
宝石についてそこまで詳しくない一乗寺でもわかる、これ程の琥珀は随分と高価だろうに。それを何故わざわざ自分に差し出すのかがわからずに一乗寺が首をひねると、武政は無理矢理にその琥珀を押しつけてきた。
「俺はお前を待ってるんだ」
待ってるとはどういうことなんだ、それとこれとどういう関係が。一乗寺が言おうと息を吸い込んだところに、武政は言葉をかぶせる。
「目を覚ませよ、久幸」


* * * *


料亭から外に出ると雨が降り出していた。辺りが暗いのは夜の闇のせいだけではない、空一面に広がった雲が星々の光を押し込めているせいだ。ネオンの灯りだけが道沿いに綺麗に並んでいる。
人通りはアーケードだけに集中していて傘を差している人はまばらだ。突然の雨だったのだろう。
「濡れても構わないだろ」
そう言って武政は人混みをそれて階段を降りていった。一乗寺も黙ってその後に続く。
石造りの階段は降りきると河原に繋がっていた。砂地に雑草のような芝が生えた河原が長く続いている。堤防の段差の下には幅広の川が北から南へと向かってゆるやかに流れていた。
雄大な川だ。この地に松珀がずっといたのだと思うと一乗寺は無性に不思議な気分になる。そして一刻も早い再会を心から望んでいた。
塗れた草を踏みつけるときゅっと湿った音が鳴る。暗闇の中で足を取られないようにしながら武政について行くと、ふと堤防沿いで歩みが止まった。
「―――……このへんでいいか。ここなら他人に話を聞かれることもない」
「……、」
雨は強くないものの、しとしとと身体にまとわりつくように鬱陶しい。細い糸のような軌跡を残しながら上空から降ってきていた。さながら水のカーテンのようだ。他人に話を聞かれるようなことなどこの雨の中ほとんどないだろうに。しかしなお人気のない河原に移動するだなんて、一体どんな話を始めようというのだ。一乗寺は眉をひそめた。
「そんな顔するな、ただの昔話だよ。―――松珀のことを語られるのはそんなに嫌か」
一乗寺の眉間の皺がますます深くなる。それを見て武政は喉をならすようにして笑った。忍び笑いは雨音にかき消され、声までは聞こえなかったが。
「……無駄話なら聞く気はない」
「そう言うな。……まぁわかるよ、お前の気持ちも。綺麗な精霊だったものなぁ、松珀は」
弧を描くように細められた武政の目を見て、一乗寺は頭の中が白くなりそうだった。今日だけで何回目の怒りだろう、しかし松珀が武政の手にあるとわかった以上それをストレートにぶつけるわけにはいかなかった。拳を握りしめるだけにとどめる。
そんな一乗寺の葛藤などお見通しという風に、武政はさも余裕そうに唇に笑みを浮かべている。武政の手のひらの上で遊ばれているのだと思うと悔しかった。せめてここが果京であったならば、いくら武政が松珀を隠そうと、周囲に満ちた精霊を使って探す出来るだろうに。しかし今の一乗寺は全くの無力だ。
全てが武政の思惑通りだ。ぎりと歯ぎしりした一乗寺は、ふと武政の言葉に引っかかりを感じて握った拳をゆるめた。
―――綺麗な精霊、そう言ったか。
精霊・松珀を見たことがない武政が、何故そんなことを言うのだ?


松珀というのは琥珀である。高価な琥珀だったが、一乗寺にとっての価値はそこにはない。
石とは、一乗寺にとっての依代だった。いつも右手にしている数珠も、精霊を呼び寄せるための依代なのだ。精霊に助力を請うて、その石に宿らせる。力を借りた後は精霊を還す。
しかし松珀には精霊を還さずに封じ込めてあった。ただいつでも傍に置きたかっただけだ。なんせその精霊はどこにでもいるといった類の精霊ではなかったから。
一乗寺が愛していた庭の松の木が、松珀に宿っているのだ。琥珀に封じ込めた松の精霊を一乗寺は持ち歩いていた。しかし少しの間手放したすきにそのまま行方不明になってしまった。庭の松は生長を止めてもう六年にもなる。その松の行方、つまり松を封じ込めた松珀の行方を一乗寺は六年間ただ探し続けてきたのだ。


一乗寺の能力は初めから花開いていたわけではない。だから精霊の存在なんて信じていなかったし、見たこともなかった。
初めに能力が発動したのは松珀がいなくなる少し前、これも六年前のことだった。
あれは大学の頃。気に入っていた庭の縁側で、いつものように腰掛けて本をめくっていた時のことだった。
引き取り親が突然あらたまって、話があるからと言ってきたのだった。それはとても珍しいことだったように思う。家にいてもまるで他人のようにお互いには干渉せず、会話もほとんどない家庭だったのだから。驚いたものの、一乗寺は読んでいた本を閉じてその続きを促した。すると父親が口を開く。
―――お前、三、四年くらい留学してみてはどうだ。いずれは医院をついでもらうが、今はまだ早いだろう。若いのだから、留学なんてするなら今のうちだ。
養父の言葉が一乗寺には一瞬理解できなかった。
つまりこの家から数年の間離れて、経験を積んでこいというのだ。
「……出ていけと、そう言うんですか」
この家にいられるならと、そう甘んじて医院を継いでもいいという気になっていたというのに。一瞬で拠り所を奪われたような気持ちだった。実際その頃の一乗寺は庭で過ごすことによって安定をはかっていたと言ってもいいくらいだったのだ。しかし唯一愛した場所でさえ、奪われようとしている。
頭が眩んだ。立ち上がりながら一乗寺は咄嗟に、縁側に近いところにあった松の木に片手をついた。―――この庭を、この松を、奪われたくない。
すると不意に懐がじんわりと温かくなった。優しく穏やかな温かさだ。
手で触れてみるとそれは武政から押しつけられたまま入れっぱなしになっていた琥珀だった。一乗寺が手をついている松と琥珀とが共鳴するかのように、熱を発しているのだ。

そして、松珀は現れたのだ。それが初めて一乗寺が精霊を召還した時だった。

松珀が現れてから去るまで、時間にするとほんの数日だった。実際、松珀と過ごした時間はとてつもなく短いのだ。しかし一乗寺は松珀のことを鮮明に覚えている。失ったからこそ美しいのかもしれないが、それでも松珀と二人きりで過ごしたあの数日ほど幸せだった時はなかった。邪魔をするものなど一切なかったのだから。
留学を勧めてきた両親は、急性心不全で二人とも亡くなってしまった。―――松珀が去ったのはちょうど二人の葬儀の日だ。

通夜の日、喪主である一乗寺はとにかく多い弔問客の挨拶に半ばうんざりしていた。養父が医院を経営していたせいだろう、知りもしない人間が次から次へと訪れてくる。その途中には親族も訪れていたのだろうが、一乗寺には全くわからなかった。養親の人間関係などほとんど知らないから当然だろう。
ただ一人知っている客は、幼なじみである武政だ。
「お力を落とすことなく。心よりお悔やみ申し上げます」
形通りの挨拶をして、武政は一乗寺へと頭を下げた。しかしその声のトーンは通常と少しもかわらず、むしろ通常よりもわずかに浮ついているくらいだ。人の不幸を喜ぶような一種の無邪気さが武政にはある、一乗寺はそう思っていた。
武政はきょろきょろと辺りを見渡した後、わずかに顔を近づけて声を潜めた。
「災難だったな。お前、他のやつらになんて言われてるか知ってるか? 養子に入って遺産相続できるなんて、上手いことやったもんだってさ」
「言わせておけばいい。別にどう思われようと構わない」
他の弔問客達が、養子である自分に対してあまり良く思っていないことは勘づいていた。いわば横から入ってきて、遺産だけをさらっていく形になってしまったのだから仕方がない。
しかし養親は二人とも人為的に死に至らされたのでなく、発作による心不全が死因であることは明らかなのだ。なので誰も表だって一乗寺のことを疑うことはしないが、誰しもが心の中で思っているに違いない。
「……ふぅん。意外だな、もう少し参ってると思ってたのに」
片方の眉だけを上げる器用な表情を見せて、武政はそっと肩をすくめた。おどけるような仕草だ。
「仮にも両親を亡くした可哀想な子供なんだから、もう少し悲愴な顔でもしたらどうだ」
完全に状況を楽しんでいる言い草に一乗寺はむっと眉を寄せた。しかし武政の言うことももっともなのかもしれなかった。養親が二人とも死んだといっても、別に何の感慨もないのだ。他人が死んだのと同じような感じだった。
「可哀想、か。よくわからないな」
それが一乗寺の正直な気持ちだった。すると武政は口元を歪めるように皮肉気な笑みを浮かべる。
「それはそうだろうな」
「……ひとりきりなんて、当たり前だ」
ぽつりと一乗寺が呟く。今まで一人でなかったことなど、ないのだ。物心ついたころから親はいなかったし、引き取られたといっても養親は他人のような感じだった。なので家族もいない、友達と呼べる友達もいない(武政はただ自分のまわりをウロチョロしているだけだ)、それが当たり前の状態だった。
だからご愁傷様と言われようが可哀想と言われようが、一乗寺には理解できないのだ。そう告げると、武政は吐息のような笑いを漏らしながらゆるく首を振った。
「馬鹿だな、お前が一人きりだって? よく言う」
武政の笑みはまるで嘲笑だった。歪められた唇は笑っているはずなのに何故か悲しそうにも見える。武政がいつもするような、人を小馬鹿にした笑顔とは少し違った笑い方だった。


「松珀は通夜の日に消えたんだったか。理由は結局わからず仕舞だったな」
頬を流れる雨の滴を手のひらでぬぐいながら、武政はそう言った。
「あのときのお前の取り乱しようは見物だったな。葬儀に来てた奴等みんな、お前に同情してた。おかわいそうに、さぞおつらいのでしょう……てな」
過去の話を持ち出され、一乗寺の頬がカッと熱を帯びた。―――確かに取り乱したかもしれない。葬儀の間は持ち歩くわけにもいかなかった松珀を置いておいたはずなのに、次に様子を見た時には綺麗さっぱり消え去っていたのだから。しかしそれはもう過去の話だ。今更どうこう言うことではないだろうに。
「……何が言いたい」
「俺は、後から教えてもらったんだったっけな。あの石を通して松の気配を実体化させたんだ、て。琥珀を通した松の気配だから、松珀と呼んでいた……松珀は唯一自分を理解してくれるって」
「ッ、うるさい!」
一度はゆるめた拳を一乗寺は再び握りしめた。しかし殴りつけるわけにもいかない。力を押し殺した拳は小刻みに震えた。
「あんまり怒鳴るなよ。俺はあのとき、お前がどれだけ松珀のことが好きなのかって延々聞かされたんだ」
「……」
松珀がいなくなってからしばらくの記憶は不鮮明にしかない。だから自分がどんな風に武政に松珀のことを語って聞かせたのかは覚えていない、反論のしようがなかった。
一乗寺は確かに武政に言ったのだ。松珀が自分にとってどれだけ大切か、どんなに想っているかということを。
松の入った琥珀という珍しい石だから、調べれば行方はわかると思っていた。だから骨董品類に精通し、その流通ルートを探り、いくつものパイプラインを張り巡らせていたのだ。一乗寺が組織に入った理由にしても、武政がきっと情報が入りやすいからと勧誘してきたからだった。
―――石に精霊が入っているだなんてことを説明しても、どの古美術商も首を傾げるだけだ。蛇の道は蛇、って言うだろ?
懸命に松珀を探す一乗寺に、武政はそんな風に言った。協力してくれた部分もあったのだ。なので武政は一乗寺が必死になって松珀を探してきたことを、全て知っている。それなのに。
「俺の気持ちを知っていて……」
どうして松珀が見つかった今になって、嫌がらせめいた真似ばかりする?
その問いは喉に引っかかって最後まで言うことが出来なかった。かわりに一乗寺は小さく息を呑んだ。武政が腕を組み、嘲るように薄く笑っているのだ。
「そう、知っていて俺は笑っていたんだ。そうやって必死になるお前のことをな」
武政の声は大きくもないくせに、やけに耳へと響いた。雨の音がどこか遠くなった感じがする。それだけ現実味がないのかもしれない。
「ずっと、お前に力があることに気がついてた。早く目覚めろとずっと思ってたさ。お前はよく一人でも平気だなんてことを言ってたけど、そんなの全くの嘘だった。お前の周りにはいつも、風とか雨とか、木や草や…そんな精霊がいた。それが羨ましかった」
初耳だった。武政が自分を羨むだなんてそんなことは有り得ないと思っていたのに。武政こそいつも大勢の友人に囲まれていたのではなかったか。
淡々と告げる武政のことをジッと見つめながら、一乗寺は動けないでいた。髪から雨の滴が垂れて頬を伝ったが、拭う気すら起きなかった。
力があることにずっと気づいていたと言うが、それはいつからの話だ? しかし考えてみると納得のいく話だった。武政が異様に自分に対して執着するのは、それが原因だったのか。
まさか自身を必要とされているなどとは考えなかったが、力があるからというだけの理由で友達面をしていただけだと言われてしまえば、物悲しい空虚な気分になった。
「力が目覚めたら、お前だって俺と同じ苦しみを味わうと思ってたんだ。けれど違った。お前は松珀と意識を通わせられるようになって、むしろ幸せだったんだろう? ……許せなかった」
「…………それは、」
「そうだ、俺はお前が言う前から知ってたんだ。お前が能力を使えるようになったことも、松珀のことも。……松珀をなくしたらお前が悲しむだろうことも」
今や雨の音は完全に意識から取り払われていた。武政の言葉以外の音は無意識のうちに除外され遠くへと押しやられてしまっている。雨は降り続けているはずなのに、もう肌を打たれる感触も感じなくなってしまっていた。
「だから、俺は松珀に言った。久幸にはお前は必要ない、って」
武政の告げた言葉に、一乗寺の意識は全て奪われてしまっていた。思考すらも奪われて一瞬何も考えることができなかった。ただ大きく瞳を開くのみだ。
「………」
何か言わなくては、そう思って一乗寺は口を開いたが、結局言葉が見つからずに息を吐き出すのみに終わる。鼓動が早くなってその息を吐き出す行為すら上手くいかなくなる。心臓が苦しくなって思わず胸の辺りの服をきつく握りしめた。
「葬儀の日、俺は松珀に会ったんだ。そしてその日、松珀は消えた。……自分から姿を消したんだろうな」
「……馬鹿な」
「モノには魂が宿るんだ。失せモノは大概、そのモノを大切にしていないせいでモノが逃げ出したのさ。松珀の場合は……」
松珀を大切にしていなかったせいで逃げ出したのだというのなら、その理由は一つだ。
「お前が、そう言ったから?」
「……そうだろうな」
武政の呟きに一乗寺の肌がざわりと粟だった。今まで途切れていた雨の音が不意に大きく響いた。それだけではなく傍の堤防の下に流れている川も流れが強くなっている。ざあざあという水音は川の流れかそれとも雨の音なのか、いまいち判別ができなかった。時々ゴボリと大きな水音が聞こえる。
「…お前は、許さない」
雨の向こうに見える武政の表情はぼやけてはっきりとは見えなかった。ただ雨の闇の中にぼんやりと浮かぶネオンの灯りだけがひどく印象的だった。雨はまるで一乗寺にまとわりつくように降りしきっている。うまく息ができなかった。
ゴボリとまた耳元で水泡の弾けるような音が聞こえた。いつの間にか雨は玉となって一乗寺のまわりを取り囲むように宙へ浮かんでいる。その水ごしにぼやけた武政が、唇を歪めて笑うのが見えた。
「そうやって、俺のことも殺すのか? 久幸」


糸のように細い雨が空から降り注いでいる。間断なくさあさあと続いていた水音は、不意に武政から遠くなった。見ると周囲の雨は地面に落ちるのではなく全てが一乗寺の方へと向かって降り注いでいた。半径にして三、四メートルくらいだろうか。そこだけ傘をさしたように雨がやんで水音が遠ざかっている。かわりに足下が、足首の下あたりまで水浸しになっていた。川を流れていた水が静かに堤防を逆流しているのだった。
一乗寺へと集まった水は空中で玉となって浮かんでいたり、身体にまとわりついて薄いヴェールのようになっている。苦しそうに表情を歪めているのを見ると、どうやら呼吸ができていないようだった。水が一乗寺に呼応しているようだが、自分の息も止めてしまうくらいだから力が暴走しているのは傍目にも明らかだった。
武政の告白に感情が臨界を越え、一乗寺は無意識のうちに水の精霊を召喚してしまったのだろう。そうなることを予測しなかったわけではない。むしろ一乗寺が怒ることはあらかじめ想定していたことだ。だからこそこうして、一乗寺のテリトリーから遠く離れた地までわざわざ連れ出したのだ。その甲斐むなしく一乗寺の力は暴走してしまったわけだが。
それほどまでに武政が与えた衝撃は一乗寺にとって大きかったということか―――それほどに松珀が大切だということか。
こみ上げてくる笑いを武政は止めることができなかった。どこまでも一乗寺"らしい"と思う。
「そうやって、俺のことも殺すのか? 久幸」
大切なもののためなら、ちゃんと怒ることができるんだな。その怒りで人のことを殺してしまえるほどに。
目を細める武政と対照的に、一乗寺の目は大きく見開かれていた。
一乗寺のまとっていた水が重力を取り戻してばしゃりと地面へ落ちた。雨も正常に戻り再び武政の上にも降り注ぐ。足下の水かさは減ったが大きな水たまりが残った。そこに街のネオンが映って水鏡のようだ。視線を合わせると一乗寺の瞳もネオンの光を反射してぎらぎらと光っていた。まるで動物のように息を殺してこちらの様子を窺っている。警戒している、というのが正しいか。
武政はそっと微笑んだ。
「知らないと思ってたか? お前が松珀のために義理の両親を殺したこと。お前は目的のために手段を選ばないものな?」
「……」
一乗寺が能力を開花させた時のことだ。目覚めた一乗寺は怒りにまかせて精霊・松珀を召喚し両親を殺した。おそらくその時の一乗寺も今のように感情が暴走したのだろう、その暴走が覚醒へと繋がった。
武政がそれを知った時どれだけ嬉しかったことか。他人と異質であることを自覚し、その能力で人まで殺してしまった一乗寺はどれほど苦悩しているのだろうと期待したのだ。しかし通夜の席で一乗寺は平然としていた。それどころか精霊と心を通わせて幸せそうですらあったのだ―――それが武政には許せなかった。
「俺は全て知ってる。久幸、お前は俺を殺したいくらい憎んでるだろう?」
当然だ、松珀を追いやったのは他でもない武政なのだから。武政の望んだとおり一乗寺は打ちひしがれ、その後しばらくはまるで抜け殻だった。そんな彼を組織へと引き入れたのも武政自身だ。
一乗寺は立ちつくしたまま呆然としていた。
「今更もう一人殺したところで変わらない、どうせ足もつかないしな。―――殺せよ。そうしたら全てが終わるんだ。お前はしがらみをなくして自由になって、松珀の行方は永遠に失われる」
これは一種の呪いだ。死によって武政は一乗寺から全てを奪うことができる。精霊に殺されるなどくだらない死に方かもしれないが、生きる目的があるわけでもないので殺されてやってもいい。武政はゆっくりと微笑した。
しかし一乗寺は動こうとしない。しばらくジッと立ちつくした後、やっと小さく首を振った。
「…そうだな。お前は全て知っているのかもしれない。昔の俺を知るのはお前だけだ」
低い声で言って、一乗寺は一歩踏み出すと武政との距離をつめた。武政よりもわずかに背の高い身体からはなんとなく威圧を感じる。すでに暴走はおさまって、表情は毅然としていた。
「お前は俺の存在証明みたなものだ。―――けれど過去のことはもういいんだ。俺には松珀がいる。松珀との今を大切にしたいから、過去の存在証明は必要ない」
「―――……」
今や一乗寺の声音は鋭かった。武政はやり場のない腕をもてあまして身体の前で組んだ。そういえばいつだったか、腕組みは相手から自分を隠す行為だと聞いたことがある。相手への威圧へと同時に自分の防御。
「きさら、俺にはお前は必要ない」
一乗寺の言葉に武政はわずかに口角を上げた。何か言おうとしたが上手い言葉が咄嗟に見つからなかった。
ああこれが言葉の力か、と武政は改めて思う。
この力に傷つけられて、松珀は姿を消したのだ。
言葉の暴力ほど手ひどいものはない。精神を深くえぐって、どこかへ持っていってしまうのだから。傷口はきっとふさがらず、いつまでも血を流し続けるのだろう。
雨はまだ音を立てながら頭上から降り注いでいる。武政は見えない傷口をかばうように腕組みをしながらそっと瞳を閉じた。痛みが、まるで毒のようにじわじわと身体の中へ広がってゆく。






           

 





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