ゆるゆると意識が覚醒してゆく。ぴくりと指先を動かし、三露は小さく唸った。
部屋の中は明るかった。視線を巡らせると壁にかけてある時計は七時を指している。夜はもう完全にあけてしまっていた。
窓にかかったカーテンの隙間から陽の光が射し込んできている。その眩しさに負けて一旦目を覚ましたものの、まだ睡魔は強烈だった。それは当然のことかもしれない、三露の身体は一晩中鬼に支配されていたのだから。一睡もしていない上に、憑かれるというのは意外に体力を使うのだ。身体が泥のように重く力が入らない。そのうえ節々が痛い。
真田がクッションを貸してくれたとはいえ、フローリングの上で長時間過ごすのは身体に負担をかけたようだ。やはり眠るのは布団の上、もしくはベッドの上に限る。
見たところ家主である真田は留守のようだったから(おそらく鬼を嫌がって出ていってしまったのだろう)、勝手にベッドを拝借してしまおうと思い三露は立ち上がろうとした。そのときになってやっと、足下に五芒星が張ってあったことを思い出す。結界を解こうとかがみこんで、三露は瞠目した。
糸と針で出来た結界。床に刺した針に糸を絡めて作り上げるのだが、その五本の針のうち一つが床板から抜けてしまっていた。そこに絡んでいたはずの糸もへたりと床へ垂れている。五芒星の星形は、その角一つ一つに意味が込められているのだ。すなわち五行の木・火・土・金・水。そのうちどれが欠けても結界は不完全となる。
「……いつ、欠けた?」
今さっき立ち上がろうとした時に足で引っかけてしまっただけだろうか。それならまだ良い、夜、途中で針が抜けてしまったのだとしたら。あるいは初めから欠けてまっていたのだとしたら? ―――鬼を封じられなかったということになる。
三露は慌てて室内を見渡した。キチンと片づけられたそこは、昨夜自分が意識を失う前と何の変わりもないように思える。目を覚ました時にクッションを敷いたまま座っていたのだし、つまり昨夜から少しも身体を動かしていないということだろうか。結界は欠けていたのに、鬼はそこから出なかったというのだろうか。
「―――……」
三露は額を手のひらで押さえ、堅く目をつむった。昨夜、結界の完成を確かめなかった自分の軽率さが嘆かれる。もしかしたら鬼に身体を支配されたまま目を覚ませなくなるかもしれなかったのに。そう思うと背筋がぞっと冷たくなるのと同時に、目を覚ますことができて良かったと安堵した。
そもそも、この結界で鬼を封じることが出来ているのだろうか。いつも新月の日は影が傍について鬼を封じている。総帥が作り出した使い魔の影は、鬼を封じるのが役割なのだ。三露の力と影の力とは反比例していて、三露が最も無力になる新月の日にこそ影は力を発揮する(そのかわり満月の日は力が減少し、人型をとっていることすら難しいらしい)。
「……いい加減、甘えるわけにもいかないのか」
影の存在が鬱陶しいからと逃げ回り、この街にたどり着いた。その後もいろいろと逃げ口実を作っては影を遠ざけていたが、やはり新月の日くらいは影に鬼を封じてもらわねばいけないのかもしれない。身体を取られてしまうくらいなら、そうするべきなのだろう。
「僕は、僕なのに……」
自分の身体に憑いている鬼にいつか乗っ取られてしまうのではないかという恐れが、心の奥にうずいている。仕方ないことはわかっているのだ、鬼は総帥が彼自身の中に封じ込めているために、総帥を宿すということが鬼を宿す事に繋がるのだから。
三露はフローリングに座り込んだまま、上半身だけをベッドへと預けた。眠りたくはないが強烈な睡魔には勝てそうにない。
眠っている間、自分の意識はどこへ行くのだろうか。その間に鬼が身体を乗っ取ってしまうのではないだろうか。
―――あるいは総帥が。


再び目を開けると時計の短針は90度ほど移動していた。午前十時、射し込む陽も高くなり眩しさを増している。眠った間に特に変わったこと、たとえば真田が帰ってくるなど、はなかったようだ。三露はゆっくりと身体を起こす。
鬼―――正確には自分に住居を占領された真田は出ていってしまったままだ。彼が頼る場所となると一つしか思い浮かばない。とりあえず行ってみようと三露は立ち上がった。その前にフローリングに刺した針と糸とは回収しておく。散らかしっぱなしにしておいたら後で真田に何を言われるかわからない。
服は昨日からそのままだし髪もいつだってばさばさのままだ。特に身支度もないので立ち上がるとそのまま玄関まで直行した。鍵をかけていかないといけないのだろうが、肝心の鍵が見あたらない。仕方がないのでそのまま真田の家を後にした。どうせ男一人暮らしのワンルームなどに入り込む物好きもいないだろう。
おそらく真田は一乗寺家にいるだろうと見当をつけていた。果京の駅前まで行けば一晩を明かすことのできるカラオケボックスなどがないこともないが、真田の性格を考えるとそちらに行ったとは思えない。一乗寺家の居間でも借りて寝床にしたのだろう。以前ミサを泊めた一乗寺だから、真田のことも泊めてやるはずだ。
真田のマンションから一乗寺家までは歩いて十数分の距離だった。道中には普通の住宅や空き地、田畑が広がるだけで何も目新しいものがない。退屈だな気持ちがダレる、と心の中で愚痴をこぼしながらダラダラと道を歩いていると、たいしたこともない距離なのにやたら時間がかかってしまった。ようやく一乗寺家の門までたどり着いた時にはもう家に帰って眠りたいという気になってしまっていた。
門をくぐり直進して垣根を越える。ざり、ざり、と足下で砂利の音が鳴る。それを聞きつけたのだろうか、居間から勢いよく人影が飛び出してきた。
「……一乗寺ッ!?」
出てきたのは真田だ。何故かやたらと慌てた様子で目を瞠っている。しかし三露の姿を認めると真田はあからさまに眉根を寄せて嫌そうな顔になった。
「……なんだ、アンタか」
「なんだとは御挨拶だね?」
三露は薄く笑んで腕を組んだ。しかし視線の先の真田は三露の皮肉に応酬しようとはしない。口を引き結んで黙り込み、居間へと引っ込んでいった。
「……真田?」
様子がおかしい。そういえば先ほどちらっと見ただけだが目元が赤かったような気もする。三露の足音を一乗寺のそれと間違えたということは、つまり一乗寺がどこかへ出かけているということだろうか。
「真田、一乗寺はどうしたんだ?」
縁側で靴を脱ぎながら三露は居間のほうへと声をかける。しかし返答はなかった。靴を脱ぎ散らかしたまま屋内へ上がり込むと、真田は居間のテーブルに肘をつき顔を伏せてしまっていた。
「真田?」
三露が再び訊くと、真田はようやく顔をあげた。やはり目の縁が赤い。
「……こっちが訊きてぇよ」
弱々しい声だった。どうやら真田も一乗寺がどこへ行ったのか知らないらしい。三露は真田の向かい側に座り自らの目元を人差し指で指しながら、
「泣いたのか? 目が赤い」
訊いた。すると真田がまた嫌な顔をする。
「寝不足なんだよ。一乗寺が夜帰ってこないかと思って……」
なるほどそれで目が赤いのか。しかし一乗寺が真田にも知らせず家をあけるだなんて珍しいこともあるものだ。しかも一晩帰ってきていないとは。だからこそ真田も心配しているのだろう。
「彼女でもできたか」
くだらないことを胸の内で呟いていると、真田が再度小さな呟きを漏らした。
「だいたいな、泣いたのは俺じゃない。……一乗寺のほうだ」
「……、は?」
泣く、一乗寺、という単語が一瞬頭の中で繋がらずに三露はぽかんと口をあけた。
「……一乗寺が泣いた?」
信じられない思いで訊き返すとやはり真田はこっくりと頷いた。
普段から感情の起伏に乏しい一乗寺なだけに、その事実はなかなかの衝撃だった。リアクションがとれない。どう反応して良いものか全くわからなかった。
「やっぱり、彼女に振られでもしたんじゃないか」
そう言ったのは冗談半分だった。が、真田は伏せていたテーブルからがばりと起きあがり何かに思い当たったように目を大きく開いていた。
「そうか、彼女に……」
「さ、真田?」
まさか真面目に受け取るとは思っていなかっただけに三露は狼狽した。馬鹿だな一乗寺に限ってそんなことあるわけないだろ―――そう返されるのがオチだと思っていたのに。
真田は懐をまさぐった後、テーブルの上に黒いものをのせた。
「一乗寺はこれを見て泣いたんだ。―――俺が呼び出した悪魔を見て」
それはローレライが封じられているという黒玉だった。
「ローレライは歌声で人を惑わすんだ。船乗りにはその声が愛するものの声に聞こえてしまう。……もしかしたら姿も」
真田はジッと黒玉を見つめながら、長い間肺に溜めていた空気をやっと吐き出すように重々しく口を開いた。
「一乗寺はあの日、ローレライの姿に誰かを重ねたのかもしれない」


* * * *


「Ich weiss nicht, was soll es bedeuten, dass ich so traurig bin……」
先ほどから真田は繰り返しローレライの歌ばかりを歌っている。その声は掠れて時々音程がはずれているので、柔らかな長調の旋律のはずなのに三露には物悲しく聞こえた。
真田の歌はある種の呪文のようなものなのだろう、さっきからずっと辺りの空気が湿っぽく感じる。目を凝らすと真田の前の空間あたりにビー玉くらいの水滴がゆらりと漂っていた。
「真田、やめておいたら? 意味もなく悪魔を召喚して、力が減っても知らないよ」
三露は止めたがそれでも真田は歌うのをやめない。旋律が口ずさまれるに従って、水滴は徐々に膨らんでいった。
「……真田」
「平気だ。コイツを召喚したところで俺の力は減らないんだ。そういう契約だから」
とは言っても無闇やたらと喚びだしていいようなものじゃないだろう悪魔ってやつは。三露は密かに嘆息しながら縁側で膝を抱えている真田をそっと見遣った。真田が歌を途中でやめたことによって水滴は霧散し消えてしまっていた。
「コイツをこの黒玉にかくまってやってるんだ。俺のベルゼビュートに喰われたくなければここへ入って起伏しろって」
真田は指先で黒玉を弄びながら呟いた。仕草はビー玉を陽の光に透かす子供のようだが、目がうつろで焦点があっていない。とても正気とは思えなかった。
「…なんだって君はそこまで思い詰めてるんだ?」
たかだか一晩、一乗寺が帰ってこなかっただけじゃないか。彼だってそれなりの人づきあいがあるのだろうし誰かの家に泊まったのかもしれない。男なのだし彼女がいたっておかしくない。まだ若いのだし夜通し飲み明かしたり遊び明かしたりしたのかもしれない。真田は何か最悪な事態でも考えているのかもしれないが、その他にも可能性はいくらだってあるのだ―――考えにくいとは言え。
真田は黙ったまま何も言わなかった。黒玉を手のひらに握り込み、伏せた顔を膝頭に押しつけて座っている。どうやら後悔の念に沈んでいるようだ。固く握られた拳や噛み締められた唇は、真田が自責していることを物語っていた。自らが召喚した悪魔が一乗寺失踪のきっかけになったのではないかと、そう思っているのだろう。確かにそうなのかもしれない、表情に乏しい一乗寺が涙を流すくらいならそれなりの理由があってのことだろう。しかしそれが理由で一晩家をあけることがあっても、このまま帰ってこないつもりということはないはずだ。一乗寺だって一応は組織の人間なのだし、総帥である自分に連絡もせず失踪するということはあり得ない。
なので三露は、二、三日もすれば帰ってくるだろうと楽観的に考えていた。それでも姿を見せない場合は、何か事件に巻き込まれたのではと心配するほうが妥当だ。
極端な出不精である一乗寺が重い腰を上げた理由は一体なんなのだろうか。そんな好奇心が三露の頭から離れない。深刻な真田には悪いが、一乗寺の失踪はどちらかと言えば心配というよりも興味を煽る出来事なのだ。
三露は立ち上がると普段と何か変わったところはないものかと、部屋の中を検分し始めた。ミサによって片づけられた居間は整然としている。変わったところといえばどこを眺めても綺麗に物がまとめられていることくらいで、珍しい代物を発見することはできなかった。
「ねぇ真田。一乗寺が出ていったことに、他の心当たりってないの?」
縁側に座る真田の横にごろりとうつ伏せに寝転がり、三露は真田を見上げた。しかしやはり返答はなかった。もとから期待していたわけではないので、三露はそっと心の中だけでため息をつくと寝返りを打って仰向けになった。
空を見ると太陽はもう中天のあたりまできていた。連日の晴天続きは今日も例外なく、澄み切った青空が広がっている。縁側に寝転がるとその一面の青さに加えて視界の端に庭木の緑が映る。庭に植えられた木々の中でも一番立派な松の木だった。
松は常緑樹というが、一乗寺の家の松は本当に青々としている。手入れが行き届いていて美しいのだが、これ程に完璧だと作りものか何かのように感じてしまうのだ。―――生きている気配がしないとでも言うか。
三露はそんなことを考えながらもう一度寝返りを打った。と、つま先に何か硬い物があたった。起きて確認してみるとそれは、握り拳よりも一回り小さいくらいの紙包みだった。柔らかな和紙でくるまれていて詳しくはわからないが、持ち上げてみるとさほど重くない。
「なんだ、これ?」
呟くと真田がゆっくりと顔を上げた。三露の手の中にある包みを見て目をすがめる。自らの拳を解いて握り込んでいた黒玉を三露に差し出すようにした。
「それ、石だ。……俺の黒玉と同じ」
その時だった。入り口の門から砂利を踏む足音が聞こえてきたのは。


真田は目を丸くした。門をくぐって姿を現したのはこの家の主、一乗寺だった。驚いたのはその一乗寺の格好―――普段見たこともない、シャツとジーンズの姿だった。だらしなく着物を羽織っているイメージしかなかった真田はただただ珍しいその姿を凝視するのみだった。
「おかえり一乗寺。どこへ?」
真田より少し離れた板間の上に座っていた三露が、意地の悪い調子の声をかける。
「京都」
「な、」
一乗寺の答えは三露の想像の範疇を越えていたらしい。声をつまらせ黙り込んでしまった。こういうのを絶句と言うのだろう、そう思いながら真田は地面に揃えてあった靴を履き、一乗寺のところへと歩み寄った。
「……どこ行ってたんだよアンタ。どれだけ心配したと思ってるんだ」
「だから、京都だと……」
「そういうことを聞きたいんじゃない!」
一乗寺の言葉に声をかぶせ、真田は怒鳴りつけた。こっちの気も知らないでという怒りが、いつも通りの一乗寺でよかったという安堵に勝っていた。
「アンタ、俺の悪魔に心を奪われたのかと思った……だからヘンな行動するんじゃないかって」
横から三露が、たとえば泣いたり? と茶々を入れる。すると見る見るうちに一乗寺の眉根が寄り、険しい表情になった。慌てて真田はフォローをする。
「昨日帰ってこなかったのもそのせいかって。……俺が悪魔を喚んだから」
「……いや、あの悪魔には感謝してる。懐かしい姿を見ることができたしな」
一乗寺はそう言ってわずかに表情をゆるめた。そして傍らの松にそっと手をつく。それを目ざとく見咎めた三露が、一乗寺のほうを睨みつけながら口を開いた。
「なるほど、それが君の探していた……?」
「―――ああ、そうだ」
三露の問いも一乗寺の肯定も、真田にとってはわからないやりとりだった。見上げると一乗寺の穏やかな目が手をついた松を見つめている。柔らかい表情に物珍しさを感じて真田はつい一乗寺の顔を凝視してしまった。それに気がついた一乗寺は、真田を見てふっと微笑む。
「お前のせいじゃない。俺は捜し物をしに出かけていたんだ」
「……捜し物」
さっきからの話からすると、つまり一乗寺はローレライに姿を重ねた誰かを探していたということだ。しかしたった一夜にして戻ってきたということは結局見つからなかったのだろうか。
真田が考えにふけっていると、三露が隣へやってきて一乗寺へ右手をさしのべた。
「もしかすると、君の捜し物はこれのことじゃないか?」
三露が一乗寺へ差し出したのは、先ほどの和紙にくるまれた包みだった。おそらくは石、それも真田の黒玉と同じ軽くて異質な感じの。
「……松、珀?」
紙包みを受け取ろうとしている一乗寺の手は、小刻みに小さく震えていた。信じられないとばかりに目が開かれている。やがて震える指先でもたつきながらも、塊をくるんだ和紙を丁寧にはぎ取っていった。
中から出てきたのは飴色の物体だった。陽光をうけてキラリと輝く蜂蜜のような塊だ。中に細い筋のようなものが数本見え隠れしていた。ところどころに水泡が閉じこめられているのが見える。時間を止めた液体のようだ。
「……琥珀」
だとすればあの軽さも納得がいく。鉱石の類に分類されてはいるものの、琥珀はもともと松などの木の樹液である。真田の黒玉も元は木、だから軽くてプラスチックのような感触がするのだ。黒玉は黒琥珀と呼ばれているくらいだから、琥珀と似ているのは当たり前だ。
琥珀を受け取った一乗寺は、大事そうに両手でそれを包み込んだ。頭を垂れて額を押しつけると、目を閉じて何事か呟く。しばらくそうした後、ようやく顔を上げると三露に向けられた視線は厳しかった。
「これをどこで手に入れた?」
しかし当の三露は飄々としていた。くるりと首を傾げて真田を見ると、どこにあったっけ? と質問を振ってくる。傍観を決め込んでいた真田はギョッとして飛び上がった。
「え、え、ええと……」
確か昨夜、その縁側の板の上で紙包みを見つけたのだった。初めからそのように和紙にくるまれ、最初は石であるとわからなかった。その旨を一乗寺に告げると、彼は悲しそうな苦しそうな不思議な表情をして一瞬だけ背後を振り返った。
「本当に? 縁側の板間に?」
「あぁ……うん」
そこにあったことが何か不都合なのだろうか。真田は心配になったが、一乗寺は小さく首を振ると何でもないのだと否定した。それからもう一度、手に包みこんだ琥珀を顔の高さまで持ち上げる。琥珀を見つめる瞳は、真田がかつて見たこともないほどに優しく穏やかだった。
「…おかえり、松珀。ずっとお前を捜していた」
松の木にもたれながらジッと琥珀を見つめる一乗寺の姿を目の前にして、真田はようやく理解した。
あの琥珀に入っていた針のようなものは、松の葉なのだ。そして松の精霊があの琥珀の中に宿っているのだろう、ちょうど真田のローレライが黒玉の中に封じられているのと同じように。そして、一乗寺が松に対して特別な感情を抱いていることもわかった。よりによって精霊かよ、と毒づきたくもなる相手だ。
「捜し物が見つかってよかったじゃないか? 僕の占いは当たったか?」
ニヤニヤと笑っている三露が冷やかすような声音で一乗寺に訊いた。普段なら一乗寺も仏頂面で頷き返すところだが、今日はそこまでつっけんどんではなかった。わずかに頭を下げながら、ありがとうと呟いたのだ。三露は目を丸くした後、小さく肩をすくめた。
「調子狂うよ」
一乗寺は相変わらず松にもたれながら琥珀へ喋りかけていた。見ているだけでは不思議な図だ。笑顔で語る一乗寺というだけでも珍しいが、その上話し相手は琥珀。妙な光景だと真田がそれを見守っていると、不意に一乗寺の表情が曇った。
「…松珀?」
声に焦りの色が混じっている。
「どうしたんだ、一乗寺?」
訊いたが、その声は一乗寺に届いていないらしい。傍らの三露も異変に気がついて眉をひそめている。しかし一乗寺は何度も「松珀」と繰り返すばかりだった。
―――不穏だ。そう、真田は思った。


「きさら?」
かすかに名前を呼ばれる声がして、武政はゆっくりと視線を上げた。視界にまず入ったのはひらひらとゆれる紺色のスカート。そして腰のあたりまで伸びた長い金髪。白いレースの肩掛けなんかして、まるで修道女だ。
武政が一乗寺家の門前で鉢合わせた少女は逆居の術者であるミサだった。少し離れた場所で足を止めている。
「…ミサ」
思いがけない人物に出会い武政はわずかに目を開く。逆居の術者であるミサがなぜ。
「どうしてこんなところにいるんだ?」
訊ねると、ミサは一度は止めた歩みを再び進め、こちらへと近づいてきた。
「きさらこそ」
ミサにそう言われ、武政は横目に表札を見やった。ここで出会うとすれば当然、赴いた用事は一乗寺にかかわることだ。ここは果京、一乗寺家の門前なのだから。
ミサの目的はこの間の礼、といったところだろう。しっかり者の彼女のことだから、自分が片づけた部屋を再び散らかさないようにという釘差しの意味も込められているのかもしれない。
武政が黙りこくっているうちにミサは門前までやってきて、そのまま家の中へ入ろうとする。しかし武政が動こうとしないのを見て怪訝に思ったのか、くぐりかけた門からひょこりと顔を出した。
「……入らないの?」
見上げてくるミサを、武政は黒ずんだ木製の門にもたれかかりながらチラリと一瞥する。口元には自然と皮肉めいた笑みがこみ上げていた。
別段ここに用事があって来たというわけではない。今日の朝までは西の地、京都にいた。それが早起きしての強行軍、電車を乗り継ぎとんぼ返りでこの果京まで戻ってきたのだ。
そして同行者だったこの家の主はさっさと家の中へと帰ってしまった。武政は取り残されたというわけだ。
「入りたいわけじゃない」
武政が返答すると、ミサは不思議そうに首を傾げた。当然の反応だろう。
しかし武政には、もうこの場所から動こうという意志がなかった。口を開くだけでひどく億劫で、おそらく門にもたれかかっていなければその場に座り込んでいたかもしれない。
武政を見上げるようにしながら、ミサはつん、と顎を突き出して、
「じゃあそんなところにいるなんてよくないんじゃない? 迷惑がられて、いつか相手にされなくなるんだから」
言い放った。武政はそれを鼻で笑う。しかし実際には力無く息が漏れただけで、上手く唇を上げることができなかった。笑えたのかどうか自分でもわからない。
「そうだな……」
独白めいた言葉を零すと、ミサは一瞬瞠目した後、困惑したような表情を浮かべた。武政は俯いて視線を伏せる。
「……きさら?」
ミサの声のトーンがにわかに下がった。青い瞳が困ったように細められて自分を窺っているのがわかる。いつもならすぐに笑顔を貼り付けるところだが今日はその仮面を被る気力さえなかった。心の一番底に冷たい塊が凝っていて、武政の心身を重たくしている。
ここまで堪えるものなのか。あんな一言で。
『お前は必要ない』
それは存在自体を拒絶する言葉だ。
あれきり一乗寺とは何も話していない。武政に向けられていた怒りは消えてしまったようだった。というよりもうどんな感情も向けられていなかった。喋りもしなければ視線すらあわせない。まるで空気のような扱いだった。
―――これならいっそ憎まれているほうがよかった。
武政が目を伏せた、その時だった。唐突に門の向こうから騒がしい声が響く。


閉ざされた木製の門扉を開け、武政は庭へと駆け込んでいた。背後からミサも後を追ってくる。つま先が砂利の中にめり込んで足をとられそうになる。肝心な時に物事が思い通りにならないことがひどくもどかしかった。武政は忌々しい思いで舌打ちをする。
駆けつけると、垣根の向こうに悪魔使いの少年が地面に座り込んでいた。松の根本のあたりだ。まさかと思い武政が垣根の向こうへと回り込むと、その根本には一乗寺が横たわっていた。倒れていた、と言うべきだろうか。その脇に真田が膝をついて一乗寺の身体を揺すっている。少し離れたところには三露が、呆然といった様子で立ちつくしていた。
「……どけ!」
武政は松の根本へ駆け寄ると真田の身体を押しのける。一乗寺の身体を仰向けにして呼吸の気道を確保し、その首筋と手首とに指を当てた。そして武政は愕然とする。
―――脈が、ない。
顔を近づけると呼吸もしていなかった。そのくせ一乗寺の表情は不思議なほどに穏やかだった。よく見ると微笑んでいるようにさえ見える。
「……何があった?」
武政が低く唸ると、三露がやってきて傍らにしゃがみ込んだ。そして地面に横たわった一乗寺の手を取り、その手のひらを武政へと向ける。そこにしっかりと握られていたのは飴色をした琥珀だった。紛れもない一乗寺の松珀。
「……ここに封じられているはずの松珀が、でてこなかった」
ぽつり、と三露が呟く。武政は顔をしかめた。まさか、そんなはずはない。あれは間違いなく松珀だった。確かに自分の目で確かめたのだから。昨日、一乗寺を京都へと連れ出すときにわざと縁側へ置きっぱなしにしたのだ。もとより見つけた松珀は一乗寺に渡すつもりだった。
確かに精霊の封じられた松珀だったはずだ。それなのに出てこないとはどういうことだ?
隣にしゃがみ込んだ三露が一乗寺の手を地面に下ろしながら、そっと松の木を見上げる。
「眠っているのかもと、一乗寺が。……わかるか武政、眠っている相手が起きない場合、どうすればいいか」
「……」
倒れている一乗寺を見た時から薄々は勘づいていた。医学部生だった自分は知っている、こういう状態を何と呼ぶのか。
武政はそっと、一乗寺の手の琥珀へと視線をやる。
「……久幸は、この中へ行ってしまったんだろう?」
相手が眠っているのならば、自分も相手のところへ行けばいいのだ。そこで相手を起こしてくるか、それとも自分も共に眠ってしまうか。一乗寺は後者を選んだらしい。力をなくした一乗寺の身体はぐったりとして動かない。
真田が驚きに眼を瞠っている。背後のミサが息を呑んだのが気配でわかった。三露は相変わらず松の木を見上げたままだ。
「……一乗寺は石の中だ。彼女と二人、眠ることを選んだんだ」
謡うような三露の言葉に、武政は思わず唇の端を上げた。全くどこまで一乗寺"らしい"のだろうと。
「……お前は本当に、昔からそうだよ。目的のためなら…手段を選ばない」
愛しい精霊と共に、一乗寺は永遠の眠りについてしまったのだった。




           

 





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