顔も見知らぬ性別も知らぬ、会ったことなど一度とてない。組織に入るときですら、その名前だって聞かされなかった。京にすれば彼に会うことこそ至難の技だと思えた。そう、思っていたのだ。

「総、帥?」
馬鹿な、そんなこと、あるわけない。京は口走ってしまったその場で後悔した。よくもそんな奇特な思いつきを、と我ながら思う。組織の総帥という存在がこの辺境の東果地区に足を運び、あまつさえ京の通う高校の制服を身に纏っている。そんな連想は―――いくらなんでも突飛すぎやしないか。
授業が開始した廊下は、ひどく静かなものだった。遠くに喧噪が聴こえ、チョークが黒板を叩く音、教師の講義がかすかに耳まで届く。階段の一段目に足を置いたままじっと身動きを止めてしまった京には、まるでここだけ時が止まっているような錯覚を覚えるほど、光景に変化がない。
踊り場にいる二人の少年は、動きを凍りつかせていた。
瞬きすらしない。何もそこまでと思うほど、二人の反応は凝固していた。
―――あれ?
京はどうしてこんな反応が返ってくるのかと思い、小首を傾げた。"総帥"、そんな現実離れした言葉を普通の人に対して口にすれば、鼻で笑われるか、白い目で見られるか。そうでなければ京と目が合わないようにしてそそくさと通りすぎていくと思えたのだけれど、そう考えると二人の反応は意外なほど大きなリアクションだった。
次の瞬間、京の背筋をゾクゾクと這うものがあった。
「もしかして、ほんとうに…?」
衝動的に京は頭を下げた。
「あの! 総帥とお見受けします…! そう、ですよね?」
途端に腕の中で積まれた本が一斉にぶちまけられていた。しまったと思ったが、拾わねばと動き出すより先に、堰を切ったように言葉が溢れ出る。
「わ、わたし東果の伊織京です。お初にお目にかかります!」
「………本」
わずかに呟きが聞こえた気がしたが、身体を二つ折りにしたままの京は、高揚感に胸がいっぱいで聞き取れていなかった。
「もしかして手紙を読んで来てくださった―――え?」
礼をとった京の視界の隅に、黒い人影が滑り込む。
屈んだ男子生徒は黒い髪に表情が隠れてしまっている。すっと伸びた紺地の袖が一冊、また一冊と本を拾う淡々とした仕草が見えた。京が総帥と訊ねた相手が、いつしか階下に下って来ていたのだった。仰天した京が謝ろうと口を切りかけたところ、重々しいトーンの声が響く。
「―――そう。僕は総帥という立場の人間だよ。何で、わかった?」
冷静沈着な声音。思わず眉を八の字に下げたくなるほど京には素っ気無いものに感じられた。
「あの、私…つい…!」
つい、何だと言うつもりだったのか。つい呼んでしまった、そう言うつもりだったのか、と京は自問する。
「何で?」
「…ただ、なんとなく…そう思ったの。ごめんなさい」
「術者だけあって勘が鋭いのかな」
独りごちるような言葉も、悉く冷ややかなものだった。
「訊いただけだから、謝ることじゃない」
京は総帥という人間に一度たりとも会ったことはないが、もっと年上で孤高の人だと思っていた。けれど蓋を開ければ目の前にいる総帥は少年。身勝手に想像した人物像はもう少しだけ応対が礼儀正しかったけれど―――本を拾ってくれる姿は、親しみが込みあげてくる。
素っ気無さに少々のショックを受ける程度に、京はすでに親近感を覚えていたのだった。だから軽い落胆を覚えそうになる。
場の空気を持ち直すように、ついと京は顔をあげた。
「じゃあ、名前!」
「……え?」
さすがに話題が急過ぎたせいで、本を拾う姿は怪訝に眉根を寄せていた。
けれど元より持ち合わせた人見知りしない性格が功を奏し、京は構わず笑顔をふりまく。
「名前訊いてもいいですか?」
最後の一冊を拾った男子生徒はしばらくぱちぱちと瞬きを繰り返した。さっきまでの伏目がちに眇められていた黒い瞳は、うってかわってきょとんとしている。
京はついクスリと頬を綻ばせた。
「な・ま・え。名前をおしえてくださいって言ったの。だって『総帥』じゃないでしょう、名前は。役職名っていうか」
彼はじわじわとさらに眼を丸くしていった。
「だから、ね。…あらためまして、わたしは伊織京。あなたは?」
「……」
みつ、とひとしきり視線が宙を彷徨ったあと呟かれた。
拾った数冊の本を突き出しながら、名乗った彼の口元は感情を押し隠すかのように引き結ばれていた。けれど確かに嬉しそうな色が零れ落ちていて、京が目を瞬かせたほどだった。
「みつ?」
京が首を傾げると、"三"に"露"だとおしえてもらい、耳慣れぬ名前に京は目を輝かせた。
「じゃあ、三露って呼んでいい?」
「…………うん」
三露がこくりと首を縦に振る。
当初の冷たい反応からすれば、夢を見ているほど素直な反応が返ってきたのだった。

風が吹き込んだ。階段の踊り場に取り残された真田は一部始終をあますことなく眺めていた。途中起爆装置を踏むのではないかとはらはらしたが、それも杞憂だったらしい。髪の毛を掻きあげながら「なんか手玉に取られてる…」と小言めいた呟きを零すが、一陣の風に攫われ、誰の耳にも届かなかった。


* * * *


教室の喧噪がわずかながらに耳へと届いてくる。
授業開始5分と言った頃だろうか、廊下は静まり返って三人は小声ですら喋ることを躊躇い、場所を換えることにしたのだった。
三露と真田は率先して歩く京につき従い、図書室へ向かう。どうして図書室かと問うと、雑用ついでに鍵を託されたのだと言って京は鈍い銀色の光を零すそれを目の前にかざした。誰も来なくて丁度いい話し場所だという。
「三露、ところでそっちの子は…?」
鈴の鳴るような声が、物怖じすることなく"三露"と呼ぶ。
悪くない心地に三露は微笑を浮かべ、図書室への道すがら、自己紹介と東果の近状報告をしてもらった。
「こっちは真田。果京の術者なんだ」
カラーリングで黒く塗りつぶされた髪の友人を真田だと教え、書類の青写真より垢抜けていた京から「ヒメ」というあだ名を聞き出した。
ヒメ? 訊き返すと京は心苦しそうに「わたしのあだ名」と答える。
「みんなはそう呼ぶけど、でも"京"でいい…て、ねぇ三露聴いてる?」
「ふぅん、ヒメ、ねぇ」
対面した京は、書類の印象から緊張が剥ぎ取られて大人びた雰囲気があった。けれど喋りだすと人見知りせず、声を心底出して笑い、無邪気に表情をころころと換えた。三露を総帥と知っても一線を引こうとしない。そんな子だった。その子の呼称が"ヒメ"。やたら愛嬌のあるあだ名に、三露には驚くほどしっくりきたのだった。
「ねえ、ヒメ? ヒメ、ヒメ、ヒメ」
京が顔を顰める中、ヒメ、ヒメと繰り返し呼ぶと、案の定「もうっ、なんなのよ三露!」と叱咤を受けてしまった。真田は呆れた眼差しを向けて、それでも言葉を選びながら「声が響く」とだけ伝え、図書室へと急かしたのだった。
ついに図書室にたどり着いたらしく、京が足を止め、二人も倣って立ち止まった。
「それで、東果の現状は? 何か良くないことでも?」
ガチャリと重々しい開扉の音がする。するりと通り抜け図書室に滑り込む最中、京はため息を零す調子で、げんなりと語った。
「―――今、うちの学校で"コックリさん"が流行ってるの」
「コックリさん?」
三露が小学生くらいのときに、学校で流行ったあの遊びのことか。思わず鸚鵡返しをしてしまった。
「…高校生にもなって?」
京は、うんと頷くと、ひどく肩を落としながら閉めかけの扉を壁に押し込んでいた。

「コックリさんって何だ?」
と首を傾げた真田に、三露は思わず小さく吹いてしまった。
「そんなことも知らないの、真田?」
人気が一切ない図書室は静かで、うってつけの即席会議室と相成った。どん、と運んできた本をカウンタに置き、三人は適当にパイプ椅子を引っ張り出す。その間にも真田は文句に口を尖らせた。
「知るわけないだろ、説明しろよ!」
外国人である真田がコックリさんを知らないのは確かに当然のことだった。
「十円玉と紙を使う…なんていうか占い遊びなんだけど」
三露はカウンタ脇からプリントを一枚ひっぱりだし、ここにあいうえお表が書いてあると思って、と真田に言い聞かせる。ついでに財布から十円玉を引っ張り出し、紙の上に置いた。
"コックリさん"なる遊びは、何人かの人間がその紙を囲んで、紙の上に載せた十円玉に指を載せて行う。三露は京に目配せして実演を促した。すると京は気が引けるとばかりに、おずおずと指を赤銅色の硬貨の上に載せた。
「三露、ほんとうにやらないでよ?」
そんな心配をよそに、三露は言った。
「こうやったら準備オッケー。『コックリさんコックリさん、おいでましたら…』」
京はそれ以上聞きたくないと言うように、目をきゅっと瞑った。耳を抑えるには片手が不自由していたので仕方がない。三露は全てを言う前に口切り、「―――まぁ、そんな感じの決まり文句を言うわけだけど」とあっけらかんと語る。
真田はふぅん、とひとつ頷いた。
この遊びは"コックリさん"を呼んで、未来を占ってもらおうというもの。お告げを請うようなものだ。巷で流行るコックリさんは、"動物霊"を呼ぶ―――たいていが狐の霊と言った。でも確か妖怪の狐狗狸(コクリ)に由来してついた名前ではなかったか、と三露は首を捻った。
始終聞かされた内容に、真田は「それで?」と小首を傾げる。
「うん、そうすると"コックリさん"が来るんだ」
「コックリさん…」
「狐の霊だっていうよ。そうすると勝手に十円玉が動いて、この五十音表を辿ったりする。要はコックリさんが動かしてる」
「え、本当に動くのか?」
「まさか」
三露は苦笑した。さすがに迷信だ、そんなこと。
「コックリさんがやって来てその十円玉を動かすっていう遊びだけど、実際指を置いてる人間がこっそり力を入れて動かしてるんだ」
説明すると、真田はその感情を如実に物語ると思わせるほどはっきりと顔を顰めた。
「…そんなの、楽しいか?」
素朴な疑問に違いない。三露は「うーん、楽しいんじゃない?」と京に視線を渡す。
「…楽しくないもん」
と肩を竦ませているところを見ると、京は相当コックリさんという遊びに嫌悪があるようだった。
「まあ、神がかりな遊びだよ。元はといえば確か…三本の竹と盆を使って行う占いの一種だったはず…」
吉凶占いが転じたのだったか、世俗化したか、と三露は顎に指を添え思案していた。だがふと思い出して、顔をあげる。
「で、わかった? 真田」
だいたいは、と納得した真田を確認し、三露は京に尋ねた。
「それで―――そのコックリさんがどうかしたの、ヒメ?」


京はわずかに顔を引きつらせた。
「あ、うん、それで…。今…ていうか二ヶ月くらい前からだけどうちの学校で流行り出して」
「コックリさんが?」
お時代な学校だね、という三露の呟きを、掻き消すように京が強く頷いた。
「…それで、ほんとうにコックリさんが出てきて」
三露も真田も目を丸くした。今しがた真田に本当に十円玉が動くのかと質問され、否、と答えたばかりではないか。コクリの仕業でなく、人為的な操作だと。
「コックリさんは呼び出したら最後にお還ししないといけないでしょ。『コックリさんコックリさんどうぞお還りくださいませ』って言って」
お礼を言って、元の場所に還ってもらうための儀式だ。でないと、コクリは還ってくれない。時折この儀式をやってもコクリは還らない。すると、コクリは人に憑くのだ。
「で…、あっちこっちで呼び出されたコックリさん…還ってくれなくて」
「まさか」
「校内があっちこっちコックリさんだらけなの!!」
京は悲痛な声をあげたが、三露はしばらく「まさか」としか言えなかった。
「そりゃあ…」
ようやく口開き、頭を抱えた。
「確かに、昔コックリさんを呼べたから今でもこの遊びがあるって考えていいんだろうけど…ほんとうに? だって遊んでるのはただの生徒なんだろう? 術者ならともかく、そんなことで出てくる? コクリが?」
「…そうなの」
京はそっと肩を震わせた。
真田も三露も、一様に俯いた京の顔を覗き込もうと―――だが。
「そうなのよ!」
拳を強く握ってあがった叫喚じみた声。二人は仰け反った。
「やってるのはただの生徒なんだよ! なのにどうしてこんなに校内はコクリコクリコクリ…ッ! もう無理っ。祓っても祓っても憑かれた人たちが奇行に出ちゃって、わたしもう唐突に叫ぶ人とか、お弁当食べ荒らされる不祥事とか見たくない!」
わっと喚く…てこんなことだろう、と思う。
お弁当盗まれ事件なんてかわいいものなのだと、京は言う。中には窓の桟に足をかけた生徒、授業中に奇声をあげた生徒、近寄ろうものなら手当たり次第に物を投げた生徒。もうあんなこと思い出したくもないと京は顔を蒼くした。たいがいコックリさんなんて遊び、その信憑性のなさに都市伝説化していくのだが、どういうわけか東果ではコクリ召喚が数多成功しているという。
こういうことに限って呼び出した生徒より周囲の人間が憑かれたりして、面白がる生徒が輪をかけたように増えたのも、京の悩みの種だった。
「だいたい高校生にもなってコックリさんだなんて! 子供じみてるよ!」
確かに、と思いはすれど、興奮気味の京を落ち着かせるのはいささか骨を折った。
正しく言うと三露にも真田にも手に余って、ただ呆然と嘆きに耳を傾けているしかないのだった。京はしばらくしてぐずぐずと鼻にかかったような声で語る。癇癪が沸点に達した次は、ずいぶんと気落ちしてしまったらしい。
「…でも最近は、まだマシ…。前に比べたら退治しなきゃいけない数が減ったもん…」
京は起しかけていた癇癪もどこへやらという調子で、すっかり肩の力を落とした。三露は怪訝になった。
「減った?」
「うん。これも頭が痛いんだけど…」
京はそう言うと、最近欠席者が増えてコクリ遊びに興じる人間が減ったせいだと項垂れた。
「この季節に病気?」
夏風邪には早くインフルエンザには遅すぎる。三露が思いつくこの時期の病気といえば五月病くらいだなと冗談めいたが、その間にも京は盛大なため息を零す。
「どうせ出席してきたらまた流行るんだもん、根本解決じゃないから頭痛くなっちゃうよ。もうキリがないもん…」
そんな長期的な流行がコックリさんというのも嬉しくないだろうな。三露は呆れ半分に頭を掻いた。京がだいぶ落ち着きを払ったようなので、「それで?」と促す。言葉を省きすぎたらしく、京はぱちくりと瞬きをした。
「…だから、要するに?」
「え?」
「僕たちを呼んだ理由」
手紙にはさほど詳しく書かれていなかった。簡素に、手に負えない事態になっていることと助力を頼む内容。白い便箋に這った文字を思い起こしているうちに、京が居ずまいを正していた。顔にかしこまった色が滲み出す。
「果京の術者にお願いしたいのは、この学校で跋扈してるコクリ退治。東果担当のわたしたちだけじゃ荷が重過ぎます。こんな弱音につき合わされて傍迷惑だと思うけど…頼めると―――助かります」
京は頭を下げて、感謝と申し訳なさがない交ぜになって萎んでいく声を出した。
ため息がこぼれ出た。
「東果東果って、たしかに任せてるけどこれで収拾できなくて近隣に及ぶようになったら困る。きみたちだけじゃなくて、組織の問題だしね」
咄嗟に顔をあげるた京を、三露も真田も呆れたように見つめ返した。
「もちろん、引き受けるよ」
後押しのように、文句はないよね真田?と訊ねた三露に、
「……当然だろ」
と、腕組みした真田が呟いた。

良好な返答をもらって気安さでも生まれたのか、京はサボタージュしてしまった授業の残り時間をおしゃべりに興じてきた。三露や真田の目からみてもころころ変わる表情は面白かったし、ほっと胸をなで下ろしたような笑顔を見せられると―――もしかしたら、と思う。今回の件を頼むにあたって、京は心の底では懸念していたのかもしれない。「なんてくだらない」と一蹴されたならば、と。
しかしながら会話しているだけなのにやたら嬉しそうだった。
「そういえば真田ってハーフか何か?」
「ねえ、なんでうちの制服持ってるの?」
「髪…染めてるんだよね? すっごい真っ黒だよ?」
とか、ナントカ。


終礼の挨拶と同時に、蓮は誰よりも早く教室を駆け出した。かけていた黒縁眼鏡を外し、露になった瞳には焦りが色濃く映っている。勢いよく飛び出したせいで教師が驚いていたのを横目に捉える。後で咎められるに違いなかったが、事態が事態、軽く黙殺させていただいた。
普段優等生をたっぷり演じている蓮には些細な注意など痛くも痒くもない。
蓮の頭の中にあるのは今やたいせつな妹のことばかりだった。授業開始直前に、ギクリとしたのだ。こんなことならあのとき授業放棄して駆けつければよかった。
私立進学校の受験生と名乗るには申し訳ない思考回路だが、蓮がそんなことに構うわけもない。後悔先に立たずってやつか、と奥歯を軋ませながら図書室へと疾走していった。彼の"能力"が危険を告げる。

「京!!」
図書室の扉を開け放って、大声でその名を呼んだ。幸い図書室に一般生徒は居らず、室内に響き渡った音にふり返った京、それに見慣れない男子生徒二人がいるだけだった。
「え? お兄ちゃん?」
一人は疲れたように制服の白シャツ第二ボタンを緩めた男子。一人は髪こそ黒いが透き通ったブルーアイの男子。
蓮は睨みつけるなりつかつかと歩み寄って京の肩を掴み、庇うように二人から遠ざけた。乱暴な引き寄せに妹は小さな叫び声をあげて驚いていたが、蓮は厳しい目つきで二人に注意を払うことに忙しくそんな様子に構ってやれない。じっとりと睨めつけられた男共はどうしたことかと危ぶんでいるようだった。
―――気に喰わない形(なり)のうえに、京と親しげに話をしていたことも癪だった。
「京、無事だったか?」
え? 京までも素っ頓狂な顔をする。
―――ああもう、いい具合に騙されて!
かわいい妹はもう少し警戒心を身につけてくれないと、おちおち一人で出歩かせることもできない。敵の思うツボではないか。
そう、敵。
「お前ら、京に何の用だ。…だいたい他校生が勝手に校内ほつき歩いてんじゃねーよ」
どうやって手に入れたか知らないが見知らぬ生徒がこの高校の制服を身に纏ってる。全校生徒の顔を覚えているわけではないが、蓮は自信持って「ここの生徒じゃない」と断言できた。この学校で、"能力"を持っているヤツなんて他にいないから。
今朝から徐々に近づいてきていた嫌な気配がついに学校に入り込んだときは、背筋にぞっとしたものが走った。咄嗟に、京に忠告しておいたのだから大丈夫と早鳴る胸に言い聞かせたが、間もなく京とヤツの気配とが出会ったのを感じ取ってしまった。
感応能力に長けた蓮は小一時間図書室から動かない三人の気配にどれほど気を揉んだことか。京の身の安全を祈りながら、受けた授業の英語構文は右の耳から左の耳へと抜け出ていく。駆けつけて無傷の妹を確認するとほっと安堵の息が漏れたが、何より目の前ですかした顔の男たちが憎らしくて仕方ない。
「…京に何もしてないだろうな?」
さらなる詰問に、二人は顔を見合わせた。飄々とした仕草がまたも蓮を刺激する。
「何の目的あって、こんなところに乗り込んだんだ!」
蓮にとって寒気のする嫌な気配―――それはもっぱら外国人の方。仲間と思しき男も気に食わないが、とりあえずそのいきり立った怒気の矛先は真田へと絞られたのだった。
「…なんか、アンタ…誤解してないか?」
「しらばっくれる気か! こんな悪い気配俺が祓ってやる!!」
真田もまた、カチンときたらしかった。
「お兄ちゃんやめてよ! ねえ…、え!? お兄ちゃん!?」
ヤロウ、と吐き捨てて、蓮は殴りかかった。持ち上げた拳に京が制止の声を零すのだが、聞き入れない。拳は相手の顔面に吸い込まれるように近づいていく。すっとぼける気なら許さねぇ! 不良じみた常套句が確かに蓮の頭を過ぎっていた。
「お兄ちゃん! お兄ちゃんやめ―――」
突進した蓮をひらりとよけていった三露。横目に捉えたが、目標はそちらではない。構わず、力いっぱい拳を握りしめた。ゆるいカーブの軌跡を描いて、拳は真田の鼻先に、あった。
次の瞬間、世界は回転した。

「…めてって…言ったのに…。返り討ちに遭っちゃうんだから……」
「真田ー。アレでもヒメの兄だから手加減したらー?」
三露は呆気ない戦闘シーンを繰り広げた二人を交互に見つめながら、揶揄するように言った。
もう遅ぇよ、自分の放った拳を見ながら真田は抗議した。
「だってみんなして祓うって言うからむかついた」
「………」
三露は呆れて物も言えない。
まんまと一撃を喰らった蓮は盛大に尻餅をつき、かなり痛い思いをしたようだった。京は心配そうに傍に膝をついていたけれど、同時に短絡な兄に思うところもあるようだ。自分の制止を聞き入れなかったこと、口を尖らせて文句をいい募っていた。
なのに顔面を抑える蓮は今度は矛先を三露にして、怒りを露わにした。
「何がヒメだ。馴れ馴れしい口きいてんなよ、お前!」
懲りないなぁ、と三露は感服気味に蓮を見下ろした。
もう、と腰に両腕を突き立てて頬を膨らましたのは京だった。
「お兄ちゃんのバカ! 早とちりしすぎ…それに何で殴りかかるの? 初対面なのに失礼にも程があるじゃないっ」
「……」
三露の目から見ても、敵を庇う妹に驚愕している様子がよくわかる。さしずめ蓮は持ち前の能力のせいで真田の悪魔の気配を察知してしまったのだろう。悪者が京を襲おうとしてると睨んだに違いない。事実、蓮の短絡的思考はその通りだった。
「きみが伊織蓮だね」
あまりのわかりやすさっぷりを微笑ましく思い、三露は笑顔で話しかけた。
「なんだテメェ」
「お兄ちゃんそういう言葉汚いよ…」
誰も手を差し伸べず批難ばかり受け、特に京の恨みがましい目に心苦しくなったらしい。蓮は声を詰まらせた。妹の言葉が重要らしいと睨んだ三露は、京に目を向け、紹介してくれない?と頼んだ。おちおち話しもできない警戒を解きほどく打開策だった。
京は了解したといった面持ちで頷く。
「こっちはわたしのお兄ちゃん。伊織蓮。お兄ちゃん、こっちの二人は果京からわざわざ来てくれた組織の人たちだよ」
何だって? 今ごろ蓮は体を前のめりに突き出し、立ち上がろうとした。今の今まで床に座り込んでいたままだったし、立とうとしたところ痛みが走ったらしく顔をゆがめたまま結局まだ地べたに座している。
「こっちが三露。こっちが真田。はい、お兄ちゃんまず謝ってね?」
「…………」
「謝ってね?」
―――すごい尻のしかれようだ。
「ちなみに三露は組織の総帥さまだからね? 手紙を見てわざわざ足を運んでくれたんだからね? わかってる? お兄ちゃんすごい失礼なことしてるんだからね」
「総帥だって…?」
蓮は目を丸くし、連鎖反応のように三露がピクリと眉を跳ねあげた。横で様子見をしている真田が息を呑む。蓮は京と交互に眺め、指をさしつつ「総帥? こいつが?」と唸った。
「うん」
京の肯定のあと、蓮はみるみる間に罰の悪そうに意気を萎えさせる。納得いかないせいで自然と眉間に皺が寄っていた。けれど体裁上まずいからと、必死で常日頃の顔色をつくろう努めていた。その顔見るや否や、三露は興ざめた。
「不満らしいな。…どいつもこいつも」
わずかにギクリと肩を震わせた人間がいた。
三露は目を眇めて、瞳の奥に剣呑な光を宿した。みんなして総帥と聴いた途端、色眼鏡をかけたがる。まったく嫌気がさす。身に覚えがあるせいか、真田が身を縮ませるのがわかった。
「蓮、ヒメから先に事情を聞かせてもらったよ。コクリだって?」
「……そうです」
ふん、所詮こいつも同じか! 三露はもはや蓮に投げる言葉を事務じみたことに絞っていた。謝ってほしいとも思わないが「もういいよ」と取り繕ってやる気さえ失せた。そもそも蓮の襲撃による被害を受けたとしたらそれは真田なんだし(被害はどう見ても蓮だったが三露はそう思うことさえなかった)。
「…そう。せいぜい手伝わせてもらうよ。ところで真田の気配が邪悪なのは彼が悪魔使いだからだ。とはいえしっかり使役させてるから、そういう風に真田を悪くいうのは控えてもらうよ」
口早に言う。三露はさっさとこの場から離れてしまいたかった。
「きみの能力…レーダーには、慣れるまで不快を我慢してもらうことになるけどね」
そうだったのか、と真田が三露を見た。
それに顧ることもせず、三露は足早に図書室を後にした。

「悪魔…?」
訊きそびれてしまった。蓮はスタスタと歩く三露の後姿に、疑問を投げかける。声など届かないとわかっているのに、口にせずにはいられなかった。
「じゃあ…そっちの気配は…?」
じゃあ三露から漂うわずかな邪気は、一体何だと言うのだ?


* * * *


七日経った。校舎の廊下には夏に近づくにつれ鋭さを増す射光が降り注いでいる。更衣準備期間に入ったらしく、校内は白と紺の制服が入り混じっていた。ちっとも雨雲が近寄らない天気が続く。けれどそれもさらに一週間も過ぎれば梅雨に突入する。今が雨期でなかったこと、じめじめした空気でなかったこと、三露は感謝していた。
「オン バサラギニ ハラチハタヤ ソワカ!」
三露はため息をつきながら、祓われていくコクリに吐き捨てた。いくら雑魚といっても量が量なのでうんざりする。働き回った三露の背中には嫌な汗がじっとりと流れていて不快で仕方がない。
「これで数が減ったっていうなら、ヒメは相当だっただろうね」
視線の先に、物の怪祓いされた男子生徒が力なく倒れている。無体なことだが三露はそのまま転がしておくことに決め、鼻息荒く「いやになるよ!」と歩き出す。ここに残って人が集まるのも困った話だし、今人目があったら確実に犯人扱いされお咎めを喰らう。
こうやってやり繰りして、東果地区の術者に直に依頼されてから一週間が過ぎる。
だというのにこのコクリの数、遭遇率、祓った量。これでは京の悩みの種が伝染状態で、三露も真田もどつぼにはまりにきた気分だ。さっさと片づけてしまう予定が、狂ってしまった。三露はギリリと奥歯を噛締めた。祓ってもコクリ、祓ってもコクリ。人員需要ばかりが増して、供給が足りない。
―――この現代だから、組織自体人手不足だっていうのに。
数日前、三露は武政に電話を入れた。動物霊退治なら彼は適任者かもしれない。期待を込めて待ったが、呼び出し音の後必ず留守番電話に切り替わる。何度やっても「東果の術者に会うためにお膳立てする」と名乗り出た男の肉声へ届かず、結局彼が手がけたのはこちらへくる手配だけだった。…主に制服。
脱力しながら彼の助力は諦めた。これ以上人員投入できないのが現実だ。
そこまで考えると、脳裏をかすめた男がいた。彼はというと、まったく甚だしいことにこの状況の直前に仏さまになってしまった一回り年上の男だ。愛しい女に走った男。その名も一乗寺。
冷血だと言われかねないが、彼の死が三露にもたらしたものは「頭痛の種」くらいだ。
これでは組織の人手不足がアダになりかねなかった。頭を押さえたくなるもっぱらの理由はそこだったが、落ち込んだ真田を言い聞かせるのもまた難儀だった。仕方がない。けれど東果に連れ立つにあたっての話は、それはもう苦労と強行と涙で語るしかない。
真田を東果に連れ出すと、果京を空にしてしまう。止むを得ず使い魔の影を置き去りにし、何かあったら呼びに来るよう言い聞かせた。そして武政の用意した制服を着させ、髪を黒く染めさせ、真田を連れ出した。
「そういえば、真田の方はうまくいってるのかな」
三露は真田に任せた東校舎の方に首を捻った。


「…Das hat eine wundersame, Gewaltige Melodei…」
ローレライの歌の音に合わせて、液体が空中を彷徨った。たゆたうそれは、見た者を魅了する魔性の美女である。真田に呼び止められた男子生徒はしばらくその悪魔見つめ、とろんと溶けろるような恍惚を浮かべ始めた。
―――今だな。
真田はすばやく重心を落として、相手の懐に潜りこんで、
「…ぇ」
会心の右ストレート。
クリティカルヒットを赤の他人のみぞおちに埋め込んだ。悪いけど隙を見せたのはアンタなんだからな、などと誰も聴いてはくれない言い訳をした。昨今のしがない男子高校生にしてみれば隙だらけで校内を歩くことは当然。しかしあっさりケーオーされて意識を飛ばしているので文句の一つだってあるわけがない。
「―――あきれた」
三露は腕組みした。
「…三露。終わったのか?」
真田はギクリと身を捩ったがすぐに安堵の息と一緒に訊ねかけた。終わるわけないじゃないか、首を左右にふって肩を竦めると「…そうだな」と気落ちした返事が無情に廊下を反響した。
「ていうか、真田。これじゃただの暴力だよ」
憐れ、男子高校生。
聞き捨てならない言に真田は盛大に顔を顰めた。
「しかたないじゃないか。俺はアンタと違って除霊とか祓う力とかないんだから」
口惜しいことに真田の悪魔は、大喰らいのベルゼビュートと魔性のローレライだけだ。コックリというキツネ霊が生徒の肩やら頭上にいるだけならやりようもあるが、憑依してべっとりと人間に癒着しているとなると手も足も出ない。ベルゼビュートでは生徒まで喰いかねなかった。
そもそもこの雑魚に何度もベルゼビュートを使ったら真っ先に倒れるのは真田だ。自分の力を餌にして召喚する、消耗戦という戦いの痛いところだ。
「そうは言っても、…これ、酷すぎない?」
目を回した生徒は、口から泡を吹かんばかり。三露はあっけない敗北者を指さした。自分だって同じように廊下に生徒を転がしてきたが、もちろん棚上げていた。
「俺が悪いのかよ! アンタが言ったんだろ!」
狐憑きとかって折檻すれば逃げ出すなんてことも聞くよねえ、と。
「……ほんとうにやるんだねえ」
"せっかん"てなんだ? そう聞き返したいつかの真田を思い起こし、三露はにへらと緩みきった笑顔を浮かべた。そういう素直なところが三露を飽きさせない。しかし親しみを込めた笑顔も今の真田には火付けにしかならず、噴火した山のよう怒った。熔岩のごとく怒声が降り注ぐ。
それにしても蓮をノックアウトさせたり、コクリを折檻する会心の威力を見たところ―――肉弾戦になることだけは避けよう、真田とは。
三露の襟首に掴みかかってこのところの鬱憤を捲くし立てる姿に、三露は指先で頬を掻いた。


「ところで真田、気にならないか」
三露は掴まれた胸倉から真田の指をときほどき、真剣な声音が響いた。廊下が夕日色に、さらに暗色に染まっていく。もう日入りの時間が近いのか。三露は先だって歩き出すと、不可思議な顔をした真田がついてくる。
「気になるって、何がだ?」
「まだまだ手に負えないコクリの量だけど、それに比べて生徒数が激減してる」
だって伊織が言ってたじゃないか。真田の返答に、三露は一度だけ歩みを止めたがすぐにまた元のペースで足を踏み出した。この時期に風邪だって言うの? 本当に? 皮肉めいた響きを込めたのは、ここ数日のうちに三露は欠席数とその届出を調べたからだ。京に聞いても、原因らしい原因がわからないのと返答が戻ってくる。皆一様に体調が優れないため、と理由にしていたが、一向に治る様子もない。
「…アンタは、何かあるって思ってるのか?」
ただの病欠じゃなく?
三露は唇を引き結んだ。別に関係あると思っているわけではない。コクリに憑かれて悪化したせいで病欠なのかも、と思わないでもないが、その欠席率三分の一。尋常ではないのでコクリと関係があるのだろうか。
ふと、三露は窓の外を眺めた。階が高かったせいか、あたり一面の景色が赤く染まるのを一望できる。校庭やその横にある陰樹林や竹林、少し先の街まで見渡せた。三露は、足を廊下に縫いつけたように動かなくなった。
―――しまった。
うかうかしていられない。こんなに手を煩わされると思っていなかったから、予定が狂わされた。本来ならもう仕事を終えて果京に戻っているはずだったのに。三露は奥歯を噛み締めた。
窓の外にぽっかりと浮かぶ小さな白い月。十四夜に浮かぶ欠け月が、太陽が赤く西の空へ消えるのを待っていた。
一歩後ろを歩く真田もまた、明日満ちる月に目を奪われていた。
満月が、やってくる。




           

 





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