書架から古めかしい紙の香りが漂う。三露が図書室の最奥で広げた本は、重く、厚く、うっすらと埃を被っていた。ページを繰るたびに、古びた香りが鼻腔をくすぐった。
「…何読んでるんだ?」
三露が顔をあげると、真田はぶっきらぼうに口を尖らせていた。図書室に入ってからそれなりの時間が経つ。しかし三露はもっぱら書架にかじりついて、目を上げることすらしなかった。
授業中に忍び込んだ図書室は閑散としたものだった。はじめこそうろうろとした真田に気が散らないでもなかったが、最後には椅子に落ち着いてくれた。こっそり三露を覗うようになったのは今だ癇に障るところだが。三露が目を通し終えた一冊を棚に返すたび、視界の隅で真田が反応する。三露は一瞥たりともくれようとせずに、またすぐめぼしい本を取って読みあさっていた。
今まで相手してやらなかったおかげで、図書室に入ってはじめて言葉になったのは「…何読んでるんだ?」。手持ち無沙汰な真田のひとことだった。
三露は顔をあげた。
「まぁいろいろとね。…何してるの真田」
「別に…」
罰が悪そうに首を竦めた友人は折りたたみ椅子に腰をかけて、何をするわけでもない。時折きょろきょろとしていたが、始終横目で三露に注意を払っていただけだった。そんな様子に気づいていないよう装って、三露はあしらった。
「本を読むわけでもないのなら、別にここにいなくてもいいんじゃない」
声に冷ややかなものが走る。仕方がなかった。真田の思惑を見透かしてしまった以上、冷徹な気持ちが先走るのだ。
今宵は満月。総帥がやってくる―――三露にとり代わって。総帥に会うことを切望している真田は今朝からべっとりとついて回った。その一方で、三露に申し訳ないのかついて回ることに気が引けるのか、どこか控えめな距離をとろうとする。取り繕おうとする。総帥にも三露にも一心になりきらない中途半端さが、余計に三露を苛立たせていた。
所詮、真田は三露を総帥として見ている。当然のことかもしれない。けれど三露にとってはちょっとした、けれど酷い裏切りだった。
いつだって三露のことを"三露"と、そう言ってくれる人間はとても少ない。
「…それで、アンタは何読んでるんだ?」
よほど気になるのか、質問は続いた。
「まぁいろいろとね」
生返事を返すと、真田は少し苛立った声音で「そうかよ」と呟いた。
今日が満月でなければ三露も苛立ちはしなかった。気がかりがあると人の心が狭くなっていくらしい。心にイガイガと棘が突き出し、気がつけば辛辣な言葉も平気で放っていた。
「真田、いくら読める本がないからって構ってもらおうとするの、やめてね」
毒々しい調子の声音が、図書室に反響した。
「…なんだよ…別に読めるからな! 日本語くらい」
へぇ? 三露は皮肉めいた笑顔を作り、おどけながら棚から一冊の本を抜きとった。真田の目に届くほど近くに紺地の本を押しつけて、背表紙に書かれた文字を顎でしゃくってみせた。
「そっか、じゃあこれも読める?」
真田はそんな発破にまんまとはまり、背表紙を凝視した。ドイツ人の血が色濃い彼の日本語識字レベル、そんなものはたかが知れていると思った。果京に来る前に目を通した資料の中に、三年前に組織に入る真田が書き綴った履歴書があった。懸命に書いたのがよくわかり、「を」が鏡文字になっていたあたりが微笑ましかった。真田の日本語能力とは所詮その程度だろう。
「…………っ」
真田は唇を引き結んで、文字と睨めっこしている。ふーん、読めないんだ?などと茶化すと、必死になって立ち勇んできた。
「よ、読める! 待ってろ!」
―――並の日本人だって読めるものじゃないけどね。
あまりに真剣に考え込んでいるので、三露は心の中でペロリと舌を出した。降参すればいいのに懸命に脳内辞書と照合しているらしい。血気を放って、たかが三文字の漢字に張り合っているのだ。
三露は馬鹿馬鹿しいとため息が漏れた。
「…"コクリ"だよ。馬鹿正直に読まなくてもいいのに」
狐狗狸(コクリ)―――妖怪の名前を知っている日本人だって、そう多くはない。
少し意地悪だったかと思わないでもないが、三露は悪びれることもなかった。
「はいはい、それはそうと気を散らさないでくれる? 邪魔するくらいなら本でも読めば?」
日本語読めなくったって、と言いかける。すぐさま「読める!」と抗議され、三露は眉をひそめた。
「…難しい漢字が読めなくたって、図鑑でもなんでも手はあるだろ」
適当に向かいの棚に詰められていた一冊を指差すと、偶然にもそれは蝶の標本図鑑だった。隣の真田は思い切り顔を顰めた。おそらく果京に残していった黒揚羽のことでも思い出したのだろう。あの使い魔のことは虫が好かないらしく、了承を言い淀んでいた。
「別にどれだっていいよ…。何だってあるだろ図鑑くらい。花とか、動物とか」
言いかけて、ふともう一人の仲間のことを思い出した。
「ああでも。花のことならヒメに訊いた方がはやいよ」
なぁに、と棚の蔭から顔をのぞかせたのは、授業中にも関わらず図書室で過ごす京だった。

「なんで伊織に訊いた方がはやいんだ?」
真田は控えめに呟いた。答えを求めて三露に顔をのぞき込むが、その姿はさっさと最奥の本棚に並べられた本たちに向かっていて、ちらりともふり返ってもらえそうにない。静寂が広がる図書室に奇妙な間が流れ、真田はむなしい思いで京を見た。京は焦げ茶色の髪を揺らして微笑む。
京はもう疲労困憊だと言ってついに午後の授業で音をあげた。どうせ今日はこの授業が最後だからゆっくりすると言って、図書室の机に伏して日向ぼっこに興じた。しかし真田と三露の話し声に顔を上げたのだろう、己の呼び名を聞きつけ会話に入ってきた。
真田の疑問に京はまだ疲労の残る顔で答えた。
「ああ…うん、わたしが花の精霊使いだからじゃないかな。そういえばまだ真田に見せてなかったかも」
精霊使い。そんな能力を持った人間の存在が真田の脳裏を掠めて、胸を疼かせた。真田は心の痛みにぎくりと身をよじる。一乗寺が死んでから何日もの時間が経ち、どうにか納得したはずだったのに。ぐるぐると考え、考え、なんとか心の整理をつけたはずなのに。…それなのに。
小さくも確かに走った痛みに真田は唇を噛んだ。親しい人を失うことは、とても切なかった。
「あ、そーだ」
京は思いついたように手を叩いた。
その破裂音に意識を呼び戻され、真田はまばたきを繰り返す。京は何やらアイディアがあるらしく急にそわそわとポケットの中を漁る。制服の白いスカートから小ビンが掴み出され、京の形の良い小指ほどしかないガラス製の頭身が姿を見せた。噴射口がついたスプレー瓶が、意図が読めず見ているしかなかった真田の前に翳される。中に入った透明な液体がたぷりと揺れていた。
「真田もいい加減疲れていると思うから…少しじっとしててね?」
説明が欲しかったが、真田は頷いて了承した。
京は小ビンを握り眼を閉じる。ぶつぶつと口の中で何事か言い募っていく。真田はいつかの庭先で見た一乗寺の仕草を彷彿させられた。一乗寺が腕に止めた石を依代に自然の力を借りられたように、京もこの小ビンを依代に力を借りることができるのだろうか。目の前の彼女の言葉に耳を凝らしていると「ラベンサラ」―――そんな言葉と共にシュッとスプレー音がした。小ビンの中身が霧のように真田の頭上へと吹きかけられる。京がゆっくりと瞼を上げた。
「……?」
次第に真田の周囲にスッキリと残る柑橘の香りが広がった。ほんの少しだけ甘ったるい芳香。ふんわりと真田の鼻腔を掠め、頬を撫で、霧散してしまった。図書室に吹いたかすかな風が、香りを一面に広げていく。
「Was―――?」
京はくすりと笑った。
「ラベンサラという樹木に力を貸してもらったの。元気が欲しいときにうってつけの精霊なの」
「元気…」
真田は自分の手や腕を眺めてみたが、これといって変化を感じなかった。不思議な心持だったが、ただ、すでに霧となって散ってしまった香りがとても心地よかったのを覚えている。
京は苦笑した。
「はは、わたしの力はそんなに大きくないから…」
「……じゃあ、それが依代ってことか?」
京の手の中の小ビンを指さすと、中身は透明だが水ではなく香水だと教えてくれた。ラベンサラという樹木から抽出された香料で、これを通して精霊の力を借りたらしい。聞きなれない植物の名に、真田はどんなものなのかわからないと首を傾げた。
「あ、この樹はね、疲れてるときとか気落ちしてるときに効果があるの」
気落ち、と聞いてぎくりと肩が震えた。気丈に、何の変哲もなく毎日を過ごしているつもりの真田が、まるで不安がっていたと指摘された気分になった。さっと血の気が引いた。ところが京はとりわけ深い意味を込めたわけではなかったらしく、こちらの様子に構わず喋り続けた。
「集中力を高めてくれたりって効果とか。あ、いつもは持ち歩いてないんだけどね。香水なんて何種類も持ち歩けないし、持ってたところで使い間違えちゃうと困るからその日その日で一つニつ選んでを持ち歩いてるの。でも丁度良かった。気休めかもしれないけど、疲れが取れるといいね」
真田たちにはほんとう力になってもらってるから、と言って、京はせめてものお礼なのだと笑う。
「………」
よく気のつく性格らしい。知り合って一週間以上が経つが、真田にとって京の印象は良くなる一方だった。
あ、それに。京は思い出したようにつけ加えた。
「ラベンサラには免疫力を高める力もあるのよ。今なんだか病気流行ってるし…真田も無理しすぎないようにね?」
「…伊織こそ」
丁度その頃、終礼のチャイムが遠くで鳴り響いた。
京はじゃあわたしも気をつけることにするね、と破顔し、ふと思い出したように「あ…」と呟いた。
「そうだ、せっかくだから三露にも―――…あれ? 三露?」
二人はすっかり蚊帳の外になっていた人物を探して図書室を見渡した。最奥の本棚に視線を投げるがそこに人影はない。大小の分厚い本だけがあった。あれ、と真田は訝しんだ。
「…三露?」
返事がない。京の方もきょろきょろと首を回したが、あちこちに渡していく視線が留まることがない。図書室はひっそりと静けさが広まるだけで、三露どころか人の気配がなかった。真田は思わず跳ね上がるように扉にふり返った。閉塞した図書室にそっと風が流れ込む。扉はほんのわずか、開いていた。
そうだ、そうなのだ、どうして目を離したりしたんだろう。
「逃げられた……!」


* * * *


真田から逃げつづけて数時間。
満月がとうとうと昇るまで、あと僅か。

走ると足音が響いてしまう。学校の廊下はかすかな音をも反響させ、響き渡る物音に三露自身がぎくりと息を呑んだ。慌てて周囲を見回したが運良く誰にも見咎められることはなく、周囲に人気がないことを確かめてそっと胸をなでおろした。
夜が近い。廊下を駆ける三露は横目に窓の外を見やり、夕日があたりを金色に染めている景色を探る。気づけば先ほどより幾分か翳りが広がり、残すところ夜まであと数分といったところか。急いだ方がいい。誰かに遭遇する前に―――いや、真田に見つかる前に。刻一刻と迫る時間に、三露の額には冷たい汗が滲みはじめていた。
足音を忍ばせ、けれども速く、三露は校舎の廊下を疾走する。階段に差し掛かって、一息深呼吸。すっかり疲弊した足に力を込めた。
「何もここまで、て思うよ。まったく!」
苛立たしげな声音もやはり、廊下にこだました。
今宵は満月。月明かりの元で三露は"総帥"になる。三年前から月に一度必ずやってくるこの夜。三露は確かに総帥という位置づけだが、そもそも総帥になるには『総帥』と呼ばれる人格を宿らせねばならない。『初代総帥』の魂、らしい。月の満ち欠けと同じ周期で力が増減し、満月の夜になると『初代総帥』は最高潮の力をもって具現した。真田が焦がれてならない相手こそ、彼。ついでながら使い魔の影を作り出したのもまた彼だった。
そして三露の体を一晩勝手気侭に使ってくれるのも、彼なのである。
変わりに新月には"鬼"がやって来る、三露の中から。長い間宿ることで生きてきた総帥はかつて強大な力の"鬼"をその身に封じた。己の中に取り込んで、今も浄化しつつある最中。まったくもって脅威の総帥だった。無双、というべきほどに。
そう、三露は満月の夜に"総帥"になり、新月の夜に"鬼"になった。言ってしまえばこの"三露"は依代でしかない。
どうせ。三露は思う。総帥を宿す器になる能力があってもどうせ総帥本人じゃない。強大な総帥の力を使うことが出来ても、本当の自分自身は――― 一体どこまで弱いことやら。
三露は口角を歪めて笑った。階段の踊り場にある窓の向こうの景色は、まさしく夕闇だ。いや、夜闇? もはや構っていられない。三露は足音も高らかに屋上まで駆け上った。
これほど急いでいるのは真田に見つかりたくないからだ。
なんでもいい! 総帥に会わせてくれ! と、真田が叫んだことがある。それどころか三露に掴みかかって問うた彼は剣幕だった。よほど会いたいらしい。よほど心酔しているらしい。よほど焦がれているらしかった。
その真田に三露が総帥であると知られ、三露はなんとか説き伏せて「総帥」でなく「三露」と呼ばせることに成功した。君には総帥として見られたくないんだ、と伝えたはずだ。一旦は真田も納得した。総帥扱いをしなくなったし(ことに三露が不機嫌を露にするからだが)、三露と呼んでくれもする。けれど満月の夜―――総帥になってしまう夜に追いかけられてみて、三露は盛大にがっかりしたのだった。所詮真田にだって、三露は総帥に会う伝手でしかないのかもしれない。
図書室で京と真田が話をはじめたとき、これ好機と足を忍ばせ図書室から抜け出した。物音に細心の注意を払い、廊下に抜け出るとすぐさま走った。うまくいった、と安堵を覚える一方、そううかうかしていられないのも事実だった。満月の今日、三露の力の気配は増大だ。
学生ズボンのポケットから折りたたみナイフをまさぐり、鈍色に反射する刃先を露にする。左手の人差し指に刃を当て、すっと軽く横に引いた。次の瞬間指の腹から血が滲み出した。
手頃なものがなかったせいだ。三露は己の血で、額に星形をかいた。星形――五芒星(セーマン)の図は、三露が新月に鬼を封じるときに使うものと同じ。本当は適当な場所に縫いとめて力を抑えたいところだが、真田から逃げ回るには不都合だ。致し方がない。
図書室から逃げ出してから数時間が経ち、今は放課後だったが、まだ真田と出くわしていない。衝動的にかいたセーマンでもうまく気配を隠せているらしかった。
三露は五階分の階段を駆け上がった。息も絶え絶えになりながら、ほっと肩の力を抜いた。なんとか間に合ったらしい。
錆ついたドアを勢いよく閉め、三露はさっさと西校舎の屋上への踊り出る。赤焼けた空が広がり、夕陽が少し顔をのぞかせているだけ。もう沈む。財布の中から札を取り出し、薄っぺらいその紙で素早く扉を封じ終えた。
「…残念だね真田。今回も会えず終いかな」
札で扉を封鎖したから、その場凌ぎにはなるだろう。
ようやく心から安堵を覚えて頬元に笑顔を浮かべ、三露は殺風景な屋上を振り返った。―――殺風景のはずだった。この学校を調べ、やっと見つけた人目につかない屋上は、錆びれたフェンスで囲まれたきり他には何もない。触れるだけで崩れそうなフェンスが、立ち寄った者を不安にさせる屋上だった。
だから人一人たりとていない、殺風景な光景が広がっているはずだった。
三露は瞬く。普段立ち入られない屋上にあった、見知った後姿。
その人物の双眼が戸口でまごつく三露を見据えていた。
「…三露?」
息を呑んだ。
闇が迫る。血のように赤い日さえ隠れてしまえば、満月が煌々と台頭する。まもなくだ。数秒と残っていない。


屋上に駆け込んできた男子生徒は、少し強く吹く風に黒い髪なびかせた。
何やら慌てた様子で扉に何事か細工を施したかと思うと、大きく肩で息をつく。一段落ついたのか、背中ばかりを見せていた彼はゆっくりとこちらを振り向いていく。見覚えがある背格好だと思っていたが、徐々に見えてくる全貌。あまり高いとは言えない背、着崩した制服、黒い髪。露になっていく姿。もしかして、と思うと、つい口をついて名前を呼んでしまった。
「…三露?」
三露だった。その顔は驚愕に凍りつき、唇をかすかに震わせる。
「―――ヒメ…」
暗がりでそう判然としないが、確かに三露は目を瞠って動きを凍りつかせ、声のトーンには焦りがこもっていたほど。どうしてこんなに驚かれるのだろうと京は訝しんでいた。
「三露、だよね? どうかしたの?」
ぎり、と三露は奥歯を噛み締めたてから、ひどく緊張をはらんだ声を出した。
「ヒメ、…頼みごとがあるんだけど、訊いてくれる?」
「うん、なぁに?」
「…真田に追われてるんだ。匿って欲しい。…真田に会いたくないんだ、今夜一晩…っ」
まくしたてるように早口で請われた頼みごとに、京はきょとんとするしかなかった。そういえば三露は昼間急に姿をくらませ、真田がひどく悔しがって追いかけていった。事情もわからず、尋常でない三露の面持ちに京は首を傾げた。
「それと」
三露は何やら言いかけ言葉が喉に詰まる、そんな様子だった。言いよどんでいるのか、言葉を選んでいるのか、視線だけはせわしなく巡るのだが言葉がでない。追い詰められた動物にも似て、目だけが鋭く狂的だった。
「…今からここに」
だがしかし、全てを紡ぐ前に月は昇った。

京がいくら待てど、三露の次の句はなかなか口切られなかった。三露はどうしたことか俯いてしまい、手で顔面ごと額を押さえてしばらく動かなくなる。沈黙が続き、不自然に長い間があった。
頭上では金色の月がゆらめく。京と三露の数メートルしかない距離を、時折流れる雲が木漏れ日に似た月光を作りだした。やわらかい月影に、向かいに立つ三露が照らされる。肩から顔やら、満月の色に照らされてはまた蔭が落ちるののだった。
京はあれ、と不審に思った。今まで月明かりこそが三露を金色に仕立てあげているとばかり思っていた。けれど違う。目を凝らすとスポットライトに照らされているように―――三露の髪色だけが金色に眩しかった。異変に気づいて京は不安に駆られながら、名を呼んだ。
「三露?」
その声に、三露はようやく顔をあげた。焦点の定まらない目で京を見据え、二、三度瞬きをしたあと薄く笑った。
三露の変貌ぶりに京はビリビリと背筋を伝う緊張を感じていた。もしかしてとんでもない発言になるだろうか、京は喘ぎながら渾身をふり絞った。胸がざわめく中、思う。そう言えば前にも同じようなことを言った気がする。
京は元来丸く朗らかな人間だが―――その京が唯一はらむ、ナイフの切っ先のように鋭い一点。
勘が、よかった。肌が敏感に何かを感じ取る。
「…総、帥?」
返事はない。返ってきたのは口元に薄く刷かれた笑顔だけだった。
ごくり、と京の喉が鳴る。
「総帥? …三露じゃないの?」
そのうちに三露は戸口から屋上の中央へと歩き出した。京の元へ歩を進め、静かに近づいてくる。
京はなおも問う。返事が欲しかった。
「変な冗談だったり、する…?」
「………」
「それ…その髪の色…。ねえ三露っ」
思わず一歩退いてしまった京に、三露はクスリと声を零して足を止めた。
「この髪は私の証……。けれど最近では力を使わずにも髪の色を変えられるようだね」
―――"私"。三露は己を僕と言うのに。
京の肝が冷えていった。その声は心地よいトーンで、幾分大人びた声音だったけれど、三露のものではない。変声というレベルじゃなく別人というに相応しい。京は我が耳がいまだに信じられなかった。
「この身体の持ち主…三露、だったか。今は黒い髪をしているけど、いつもは色を抜いているからね」
……私に対抗している気か。愚かしいね、と小さく肩を竦めてみせる。
そんな言葉も京は飲み込めない。三露の普段の髪の色も、たったいま金色であることも頭から離れ、ただ呆然と同じ質問を繰り返した。
「そう、すい…。ほんとうに…?」
「―――本当だよ」
私は三露じゃない、とその声音は語る。
「私は、君たちが総帥と呼ぶ人間」
「………」
きみはわかっていたんじゃない、と言いながら、京から視線が外された。総帥は京に向けていた体をずらし、横に並ぶようにしてフェンスの向こうを眺め出した。何を見ているかわからなかったがつられるようにして京も目を向ける。月光が照らす屋上とはうって変わって静かな暗闇がただ広がっていた。暗澹としたものが立ち込めている。
「総帥、と呼んでくれれば構わない」
「は、はい!」
京の心臓が飛び上がった。
「あの、先ほどは失礼を…非礼をお詫びします! わたし、東果を担当してます、伊織京です」
知ってる、と総帥は笑った。

落ち着いた雰囲気の人だな、と京はまず思った。京が見慣れない満月と同じ金色の髪は、彼にかかると派手というより控えめな印象を覚えたほどだ。髪も顔も背丈も三露そのものなのに、醸し出す雰囲気がまるで大人だった。
―――別人みたい。
現に彼は別人だと名乗る。にわかに信じ難い京も、彼の声に聴き入るとじわじわと実感を覚えていく。この人は三露とは違うのだ。京は隣に立つ総帥をじっと見つめた。別人なのにどうして、と思う。
「あの…どうしてわたしのことを知って…?」
京を見つめ返してくる瞳は、そっと剣呑なものを宿しているようだった。
「この身体が知っていることならば何だってわかる。…たとえば、君が今苦労していることもね」
う、と京は喉が詰まった。コクリ退治に追われていることを、彼はお見通しだと言うのか。なかなか情けない事情を知られているのねと思った。京の顔から苦渋が滲むのを見てとったのか、総帥はかすかに微笑んだ。
「そう、…何だってね」
耳触りのよい声を残し、総帥は京に手を伸ばした。
わずかな距離しか保っていなかった二人の間はすぐに狭まってしまい、京はえ?と息を呑んだ。総帥の腕がいとも簡単に京の元まで届き、そっと焦げ茶色の髪を梳いていく。唐突な事態に京は目を丸くし、反応に窮して、なるべくその形のよい指に視線をやらないよう努めた。
「………じゃあ三露も、こうしてわたしとあなたが喋っていることを知ってるんですか?」
総帥はわずかに動きを止め、喉にふつふつと込み上げる笑いを漏らた。
「知られては困る?」
と京に顔を寄せる。
「! こ、困るっていうか……っ」
困るのかどうかさえ、京はうまく考えられない。
京の髪を梳いていた指は、いつのまにか頬へと添えられていた。目の前に総帥の双眼があり、自分の固まってしまった表情がその瞳を刻々と映し出されていた。指が頬を伝い、そのくすぐったさに京は身を竦ませた。
しばらく京を戸惑わせた猟奇的な眼光が、息をつくような笑い声のあと、急におだやかなものに変わった。
「安心するといい、私の記憶は私だけのものだから」
ところで、と総帥は京を覗き込んだ。
「君の苦しみを取り除いてあげようか?」
「え?」
頬にあてられた手から、温度のこもった心地よさが伝わる。
総帥が能力を使ったのだと、京はしばらくわからなかった。目の前にある笑顔は屈託がないようで、そして掴みどころがなかった。どういう意味だろうと瞬きを繰り返している京に答えを用意してくれる様子もないまま、形のよい指が離れていった。
けれどまだ顔は急接近したまま。
「…あの?」
京はピンときた。急に身体が軽くなった。驚いて自分の手足をまじまじと眺めたが、効果絶大というのだろうか。信じ難いほどに心が軽くなっていた。
「す…すごい。疲れが」
疲れがとれた、と顔を綻ばせる京から、やっと総帥が元の距離をとった。
「それはよかった」
にっこりと笑った顔に、京は心が潤っていくのを感じていた。


暁の空が広がっていた。京が瞼を震わせたのは、そんな空に一筋の光線が走った頃だった。太陽がじきに昇る。
京は気がつくと堅い壁にもたれかかっていた。ほの暗い空が見え、どうしてこんなところに、とすっかり冷え切ってしまった肌を擦り合わせるように身を抱く。座ったままの体勢で長いこと過ごしたのか、身を捩るだけで身体のあちこちが軋んだ。
「目が覚めたようだね」
耳触りのよい落ち着いたトーンが京の耳元で響き、ぞくりと総毛立った。隣に座る総帥と目があう。おはよう、と朝の挨拶を言う彼は故意に近づいたとしか思えない近距離で、京の耳をくすぐった。
「―――ッ! すいません! わ、わたし…寝ちゃ…」
「丁度よかったよ。そろそろ時間だからね」
「時間…」
彼はそれだけ言うと、かすかに鼻で笑った。
総帥が次に具現するのは一ヶ月後、再び月が満ちる夜だ。思えば儚い束の間の一夜で、京は急に悲しさを覚えた。また一ヶ月後に現れることができるますよ、なんて気休めの言葉も吐けない。京は口篭もった。たった一夜自由の利く時間を、京の居眠りにつき合って終わらせてしまった。言い様のない後悔が京を呑みこんだ。
空はさらに薄明かりを灯す。夜明けはもう間近だ。
鬱々とした気分の京の耳に、ガンと金属をぶつけた音が届く。
「何…、今の音」
根源は戸口らしい。たてつけの悪い扉は、そういえば三露によって何か細工が施されていたはず。こんな明け方なのに立ち入り禁止の屋上に出たがる人間がいるらしく、扉は何度か蹴られた音を立てる。その度震えるのだが、一向に開く気配はない。
諦めたに違いない、と京だって思った。
そのときトタン扉を吹き飛ばす、轟音が響いた。所々赤茶色に錆ついた扉は粉々に散り、欠片が雨のように降り注いだのを見る。京は息を呑んだ。半分以上その姿を失った扉の向こうに、真田が肩で息をしながら立っていた。
「―――ま、待ってくれ!!」
血相を変えた真田はひどく慌てた様子で叫んだ。
「総帥、俺は貴方に…! 貴方にずっと…!!」
つられるように京は隣に立つ総帥を見上げた。彼の口元にうっすらと笑みが浮かんでいく。頬に陽が射した。
「…ならば次の満月、会いにくるといい」
「……ッ!」
糸が途切れたマリオネットのように、総帥は力なく身体を傾かせた。え、危ない、と京はついうっかり腕を差し出してしまったが、いくら三露が大柄でないとはいえ男子を支えるだけの力もない。
「え…っ」
京が抱き込まれるような形で、三露諸とも屋上に背中を打ちつけた。視界が回り、京は朝焼けた空を捉えて、痛みに苦痛の声を漏らした。
遠くで真田が目を丸くして、言葉を呑んでいた。
こうして夜が明けたのだった。

「真田は総帥に会いたかったのね」
どうすることもできなくなった京は、真田の手を借りて起き上がった。今はその膝の上に三露の頭を載せ、ただ何をするわけでもなく座っていた。登校時間にはまだ存分に時間があり、空は朝焼けて、けれどはるか遠くにまだ夜を残しているようだった。
隣に座る真田が、ふいに目を逸らした。
「…伊織はずっと一緒にいたのか…?」
総帥と。不貞腐れた様子の真田はわざとらしく"総帥"という言葉を避けた。昨日三露を追いかけ回したことや、屋上に駆け込んだときの必死さ、あまつさえドアまで粉砕したところを京に目撃されているので、気まずさを覚えるのだろう。
―――ずっと一緒にいた。見慣れぬ月の色に染まった髪を持つ人と。
京は自分の膝に頭を預けている三露を見下ろした。すやすやと寝息をたて、まだ目を覚ます気配はない。京はそっと三露の前髪に手を伸ばし、触れる。水分が抜けた黒髪が力なく揺らいだ。
―――あれ?
それまで隠れていた三露の額に残る赤黒いものに目が奪われる。血だ。一瞬頭をぶつけたのかと思いドキリとしたが、血は額にこびりつくように固まっていた。触れても傷と思しきものはない。血痕は、端が掠れているが星型をしていた。
ピクリと、三露が瞼を震わせた。


何か暖かな温度が額を掠め、三露の意識は覚醒に向かった。瞼を押しあげると、ぼんやりと人影が映る。その向こうに広がる白い空。朝が来たのか、と三露は遠くで思った。
自分の意識があるのだから、当然なのに。三露は力なく失笑した。この身体が総帥の手から、自分のものに還ってきた。―――よかった。
「三露? 起きた?」
頭上から声がする。一晩睡眠をとれていないせいか、億劫な身体をほんの少しよじる。緩慢な動作のあと、三露はぎくりと身を硬くした。三露を覗き込んでいた人影は、京だけでない。真田も三露の顔を覗き込んでいるのだった。
「真…」
もしかして総帥に会ったのか。急に背筋が寒くなったが、それを無視するように真田が肩で怒りを露にした。
「三露!」
「……」
「アンタな、言わせてもらうけど! 小細工が多い! 俺がどんなに苦労して扉を開けたと…」
会えたのだろうか。三露はまだ覚醒しきれないまま、眠たげな目で真田を見た。真田は急に言葉を失い、三露?と名を呼んで眉を顰めた。
「…三露、アンタ、どっか…」
真田は体調を危惧してくれているらしかった。京も「倒れたときに頭ぶつけたのかも」と心配した声を漏らしたが、自分で倒れたことも記憶していないあたり、三露は嘲笑を漏らしたくなる。これでもいつもに比べれば今朝の目覚めは幾分優れていると言ってよかった。
けれど意識が朦朧として、身体がひどく睡眠を欲しがっている。いつものことなのだ。
「大丈夫」
いつまでも心配させておくわけにいかない。よくよく意識を研ぎ澄ませてみると、京の膝枕で横になっているという状況らしく、そうそう甘えてもいられまい。三露は身体を軋ませ、起きあがろうとした。しかしふっと意識が遠ざかろうとする。立ちくらみにも似た感覚が眠たい頭に過ぎって、三露は慌ててアスファルトの床に手をつこうと腕を伸ばした。
―――だから、倒れるところだったのだから、三露の頭を京が抱きとめるようにしたのは仕方がないことなのだ。
「だ、だいじょうぶ? 三露?」
京の胸の中で、三露は目をしばたいた。
「………平気」
身体を起そうと、三露はため息をついた。情けないなと思いながら、京の体温から離れようとする。なのにどうしたことか京は三露に回していた腕に力をこめ、これでは起き上がることもままならない。首に抱きつくような形で、京が擦り寄ってきた。
「あのーヒメ?」
「ねえ三露」
抱きついてきた京の顔が見えない。かすかに甘ったるい花の芳香が香っただけ。代わりにというか、視界の隅に目のやり場に困った真田が入ってきて、三露は苦笑した。
「なに、ヒメどうかし…」
「―――おかえりなさい、三露」
ああ、こんな細い腕なんて軽くほどけるはずなのに。
三露は気恥ずかしさを覚えた。みつ、とそっとささやく声に顔が熱くなる。
「…ただいま」
総帥と知ったあと、いつだって三露のことを"三露"と、そう言ってくれる人間はとても少なかったのに。



           

 





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