ぼんやりと溶け出す視界。三露は頭を一度わずかに振って、現実世界に戻ってきた。目覚めたそこは、絹擦れの音を立てる乾いたリネンの中。スプリングの利いたベッドの上だった。ふと気づくと、部屋にはふわりと良い香りが流れていた。
「ここは…?」
見覚えがない。けれど趣味のいい部屋だ。広くはないものの丁度いいと思わせる空間だったし、小物は可愛らしい編みぐるみをはじめ、こまごまとしているのに鬱陶しさを感じなかった。むしろ絶妙な色合いで部屋を彩っていた。ただここが女の子の部屋なのは歴然で、自分がそこに寝ていたとあっては―――不思議な感じだ、うん。
それでも寝心地のいいベッドも、ふわふわと弾力のある布団も三露の気を良くさせてくれた。
「………満月の夜のあととは思えないな」
寝起きにして気だるさもなく、三露の思考回路はすぐに動き出した。満月の追いかけっこ、屋上で京に出くわしたこと、満月が明けたそのとき真田がいたこと。屋上で目覚めた三露が無理に起きようとしたこと、京に抱きつかれたこと。三露は確か、その後疲弊に負けて意識を飛ばしたのだった。
だから今が何日なのか、何時なのか、どこなのか。三露は手がかりはないかと部屋を見渡した。窓にはカーテンが閉められている。
そうして見回し、木造りのデスクの上に小さな置時計らしいものを見つけたとき、三露の耳に入りこんでくる声があった。
ぼそぼそと這う声。部屋の外からのようだが、ドア越しなのと、わざと潜めているらしい声音が聞き取りにくい。
―――真田だってあのあと動けなくなったんだから、今日は泊まっていけばいいよ。お父さんもお母さんもそうしていいって。
三露は思わず呟いた。
「…何だって?」
先ほどの声は聴き慣れた京のもので、もしかしたらここは伊織家かもしれないということはわかった。しかし泊まるとか真田が動けなくなったとか、いったいどういった了見なのだろう。三露は驚きに開いた口が塞がらない。そのうちに「あれ? もしかして三露起きた?」という声と共に扉が開き、京が顔を覗かせた。気分はどう?と笑う京の後ろに、真田もいた。
「もう起きても平気なの、三露?」
三露は頷く。疲労はすっかりとれ、睡魔は蔭も見せない。
「丁度真田もね、さっきまで横になってたとこなの。真田ったら三露が閉めた屋上の扉開けるために能力使って、しばらく動けなくなっちゃったの」
真田に目をやると、その顔は拗ねたように唇を引き結んでいた。もしかして本当に京の言う通り、たかが扉ひとつ開けるためにベルゼビュートを呼び出したのか。あの悪魔は命令こそ聞くが報酬として主の力も喰うのに。たかが扉ひとつのために、わざわざ…。
そんな三露の思考を遮るように、ノックがニ回響いた。
「京、母さんが呼ん…、……」
入ってきたのは黒縁眼鏡をかけた蓮で、三露を見るなり盛大に言葉を詰まらせた。げっそりと精気を失った顔が、さらに不快だと主張せんばかりに顰められていた。
「…起きていた…んですね」
雇い主に敬語しか使えない性分なのかもしれないが、こういう場面では厭味にしか聞こえない。いちいち棘を感じるほどに、蓮は嫌悪感丸出しの表情だ。気持ちよい目覚めをした三露はいつになく穏やかな眼差しで見ることができたが、蓮の方はまるで臨戦体勢だ。
「おはよう、伊織兄」
「もう夜だ! …ところでどういうつもりなのか知りませんけど」
蓮は咳払いをひとつ挟んだ。
「年頃の娘を一晩家に帰さないなんて、―――どういった了見なんです? 普通両親が変に思うでしょう、そういうの考えないんですか」
「………」
「浅はかだと思うんですけどね」
三露は思いも寄らなかった指摘に目を丸くして、京を凝視してしまった。総帥になっている間の記憶は何ひとつ残らないのですっかり考えが至らなかったが、夜と一晩明けた朝に顔を合わせているのだから当然京はつきっきりだったのだろう。あの屋上で、一晩ずっと。
「…帰らなかったのか」
三露の呟きに、京は少し驚いたようでもあった。
「え、だって匿ってって言うし…」
「………そう」
それは三露に責任があるのかもしれなかった。三露は静かに後悔の念を抱く。
黙り込んだ三露はそこまで気がつかなかったと自責していたのだけれど、周囲から見ればよほど飄々としてるとでも思えたのだろう。我慢ならないとばかりに蓮は鼻息を荒くした。つかつかと歩み寄るなり、がっと三露の胸倉を押さえたのだ。
「そうじゃなくて! まず謝るとか!!」
生真面目そうな外見の割に手が早いのか、頭に血がのぼった蓮は剣幕に三露を牽制する。
「納得いく事情を説明するとか! そういうのはないんですかね!」
蓮の指に力が篭る。するとおのずと三露の喉への圧迫が増した。
「…ああ、今回のことは迷惑かけたと思ってるよ。謝る。…でも蓮、その前に放してくれないか」
「ちっとも反省してないじゃねーか! こっちは穏便に済ませようとそっち庇ってアリバイ工作までしたんだぞ…! ……だいたいなにちゃっかりうちにいるんですかね、さっさと帰ったらどうなんですか!」
「……」
だんだん頭に響いていた蓮の怒声がいつしか遠のいていき、三露は近くで睨みつけてくるその顔に意識が吸い寄せられていた。せっかくの説教も右の耳から左の耳へと垂れ流し状態になる。蓮の顔はすっかり怒りに染まっていて、せわしなく口が開閉している。そんな顔に、三露は「あれ?」と思っていた。
蓮とはここしばらくまともに顔を合わせておらず、蓮の方がそのレーダーとも言える能力で三露を感知するたび、わざと避けていたのだ。遠目に見ることはあってもこんな至近距離で眺めることはまずなかったせいかもしれないから、ちっとも気にしていなかった。
久しく見るその顔は、ひどく蒼い。
「京が頼まなかったらニ人ともあのまま屋上に転がしておくところでしたけどね!」
蓮は心なしか疲労めいていた。
「……蓮、しばらく見ないうちにやつれたね」
昨夜の京の不在に、よほど気を揉んだのだろう。
当然のことだったが、三露の言葉は蓮を煽ってしまった。ちっとも聞いていなかった三露の態度に蓮は激昂し、勢い余って胸倉を掴む手に渾身の力が入る。三露は蛙が首を締められたような間の抜けた声を漏らし、周囲が大慌てで止めに入った。
「お兄ちゃん! 三露死んじゃう死んじゃう!」
その手がすぐに緩まなかったのは、もしかしたら死んじまえとでも思われていたせいかも、と三露は背筋を寒くした。京が鬼の形相の蓮にしがみついて制止させてからしばらく、三露は喘ぎながら呼吸を整えた。
真田が横から自業自得だと思う、と呟きをもらしてきたが、そんなことはもちろん黙殺だ。
「…お兄ちゃん、それで? ほら、用事があったから来たんじゃなかったの?」
「あ? …ああ」
幾分憤懣が残っているようだが、蓮は妹を前にすると豹変した。
「母さんが夕飯できたから降りて来いって」
「うん、わかった。グッドタイミングで目が覚めたね、三露も真田も」
京はふり返って、笑った。
「夕飯食べていってね?」
―――いつの間にそんな話になったんだ。

要するに、三露が眠りに落ちている間、勝手にことが運んでいたというわけだった。三露が早朝の屋上で意識を飛ばしてすぐ、蓮が駆け込んできたそうだ。溺愛している妹の膝でぐっすりと眠る三露にありったけの怒りをぶつけたらしいが、三露はちっとも目を覚まさなかった。そんなわけで力を消耗してぐったりしていた真田がとばっちりを喰らい、耳を抑えるほどに蓮に文句を言われたのだった。
本気で野郎二人を屋上に転がして妹を連れ帰るつもりだった蓮をよそに、京は首を振った。
「二人とも動けないから…どこかで休ませてあげないと…」
保健室は無理だ。人目がない屋上でも構わなかったが、散開した扉を見るとどうにもここもまずい。真田は今日は一旦帰る、と主張したそうだ。すると京はきょとんとするのだった。
「果京へ? …そういえばニ人とも、毎日果京からここに来てるの?」
それは幾分遠い。毎日通うには、やや距離があった。
「いや、ウィークリーマンションを一部屋借りてて…」
口を滑らせた真田は後悔することになったという。何せ京が、そうなの!?と東果に呼んだことに自責の念を抱いてしまい、「ろくな食事を摂れていないんじゃ…」という心配を抱くまでに至ったのだから。
京は伊織家に二人を招いた。介抱し、夕食を召し上がれ、とそう言っているのだった。

しかしこんなことになるなんて。三露は食卓の上に並べられた料理のこうばしい香りに鼻をくすぐられながら、東果に来てから珍しい体験ばかりだと心底思っていた。他家の団欒に席を並べるだなんて。
ダイニングテーブルの上には揚げたての天ぷらが載せられていた。京がちょこまかとご飯をよそっては茶碗を運んでくる間、三露はどことなく気が落ち着かなかった。席には三露と真田、蓮、それに伊織家の主である父親が腰を下ろしていた。
父親はちっとも厳しいという言葉とは縁がない風貌で、おっとりとした雰囲気がある。今は本日の夕刊を広げて眺めているその姿はおそらく40代半ばだろうが、実年齢より若く見える。ふと、その手が新聞をたたみ出す。
「…もう大丈夫なのかい? お友達くんは」
三露や真田を見て、伊織父は微笑んだ。気さくな印象だったが、二人して「大丈夫です」と恐縮気味に答えるしかできない。どこか一線境界線があるように感じてしまった。別世界のようだ、ここは。
「そうかい? ああ、まだ調子が優れないようなら」
父は、そういえばと呟きながら顎に手を添える。
「ここからちょっと歩いたところにある神社があるから、お参りにいって健康祈願でもしようか。ご利益があるかもしれない」
と言って、お茶目に笑うのだった。
「はあ…」
三露は生返事ともため息ともとれない返答をする。
「もーお父さん。何で神社なのよぉ…」
そう言って話を割ってたのは京で、茶碗を運び終えたらしく席についた。そこに京の母親が湯のみを並べ、急須から茶を注いで準備が整ったらしい。6人が揃ったのを確認して食事の挨拶が交わされた。「いただきます」と三露も周囲と同じように手を合わせた。そして、三露と真田は躊躇いがちにも箸をとって、食事が始まったのだった。
まず声をあげたのは、父親だ。先ほどの話の続きらしい。
「ひどいな京、神社って言ったのはもう病院が閉まってると思ったからだよ」
ほら病は気からって言うじゃないか、と主張する父親を横目に、京は客人二人に笑顔で「ニ人ともたくさん食べて元気だしてね」と言って突っぱねていた。
同調して母親の方も三露達に笑いかける。
「そうね、どんどん食べていってね」
「…はい、いただきます」
三露はサクッと音をたててエビの天ぷらを噛んだ。
母親とはこういうものなんだろうな、というやさしげな人が伊織兄妹の母だった。父親もそうだが年齢にそぐわない若々しさがあり、気さくな人柄だ。そんな母親はふと、夫に目をやった。
「そういえば、ところでお父さん? あそこの神社は病気には効かないわよ」
「どうしてだい?」
「だって稲荷神社じゃない」
思わず取り落としそうになった箸を、三露は慌てて握りなおす。その一瞬の後にカランと軽く床を叩く音が響いた。京が箸を取り落としたのだった。ついでにかじりかけのしし唐が無残にテーブルの上でひしゃげていた。
「―――…稲荷…」
母はおっちょこちょいの娘を叱咤し、父はそうだったかな、と頭を掻いていた。慌てて箸を拾った京の、その箸を握る手に異様に力が篭る。
「あそこって稲荷神社だったの?」
「そうよ。このあたりには結構数があるでしょう? 狐の神さまだもの、豊作をお願いする場所だから健康には利かないんじゃないかしら」
「きつね…」
ようやくわかったのか、真田は呆然と言った面持ちで呟いていた。
狐の神さまを祀る稲荷神社がこの辺りに多いと言うのなら―――と、三露は思う。なんとなく、コクリ騒動の核心に一歩近づいた気がする。三露は頭痛のしてきそうな頭を押さえたいのを堪え、
「へえ、稲荷神社このへんに多いんですか?」
と何も知らない風を装って訊ねた。
「ええ田んぼが多いから、昔から稲作地帯だったんでしょうね。水脈を嗅ぎつける狐はこの辺りの神さまなのよ」
京は憎々しそうに「知らなかった…」と呟いて席を立った。取り落とした箸を洗いにでもいくのだろう。
「このあたりを東果って言うのは知っているかしら?」
母は三露を見据えた。京も蓮も、組織に入っていることは家族に告げていないはずだった。その地区名が出たときギクリと肩を震わせていたニ人だが、生憎箸を洗いに席を立った京も黙々と食事していた蓮も、両親の目には入っていなかったらしい。嘘がつけない正直者らしい兄妹をよそに、三露は淡々と喋った。
「はい、このへん一帯の地区をまとめてそう呼びますよね。旧国名の名残の地名か何か…」
まるでその土地名に馴染みがない素振りを装った。
「その東果がどうかしたんですか?」
「ええ、トウカって読むでしょう? この辺の狐信仰が由来だったはずだわ。稲荷を音読みして"トウカ"、地名だからって文字が置き換えられたって…私も昔祖母に聞いただけだから本当なのかどうか…」
母親は苦笑した。
「…………」
間を置いて、遠くでまたカランと箸を落とした音が響いた。

「だって知らなかったんだもん」
ごめん、と京は呟いた。美味しい天ぷらを平らげた三露は今、京の部屋のベッドに腰を下ろしていた。真田も隣で何とも言えない顔つきで座っている。蓮だけは自室に篭ってしまったので部屋にいなかったが、京の方は勉強机に向かっていた椅子を引っ張り出していた。そして盛大に肩を落として謝った。
「果京地区の東にあるから"東果"だと思ってた…本当に知らなかったの」
先ほど聞いた話に関して無知だったことを侘びでいるのだった。
コクリ騒動で、何故こんなにコックリさんが成功するのだろう、どうしてこんなにも狐霊が召喚されるのだろうと悩ませていた理由は、今やはっきりとした。
狐の神さまを祀る稲荷神社がこの辺りに多いと言うのなら、ここは狐信仰の根づく土地。信仰とはたいがい生活に密着しているもの。この辺りに狐が多く生息していたか、あるいはもしかしたら本当に、その昔狐が水脈を嗅ぎ当ててくれたのかもしれない。いずれにしろ東果の人間は狐さまのおかげだと言いながら農作に精を出していたに違いない。
要はコクリとなって現れる狐の霊が多い、そんないわくある土地だったということだ。
ここにきて、謝り続けている京を前に、真田が「別に」と気遣わしげな声を送った。
「知ってたところで…別に解決に繋がるわけでもないだろ」
三露は額を抑えた。確かに頭が痛い。土地柄の問題とわかったところで、この騒動を鎮静できたわけではないのだから。けれど考えてもどうにもなるまいことだと思い正し、気を取り直した。
「それにコクリは今なんとかなってきてるからね。数も減ったし、こっちの人員も増えたし。それより欠席者の数が気になるよ。考えたくないけど狐に憑かれたせいで生徒達が休んでるんなら――― 一軒一軒回って祓うしかなくなる」
三露の指摘に、それは嫌、嫌、と京も真田もぶんぶん首を振った。三露だって御免だ。
「まあ、まだ狐憑きのせいで休んでると決まったわけじゃないから…」
顎に手を添え、三露は考え込むように視線を落とした。けれどそれを覗く蔭があり、ついと顔をあげる。真田が何やら不満そうな顔で口を尖らせている。
「アンタ…あんまり動じないんだな」
落ち着いてるな、と感心しているらしい。そんなことに目を丸くされてもと思い、三露は肩を竦めて見せる。
「別に驚いていないわけでもないよ。ただ…予想がついていたからね」
「Was!?」
「…さすがに東果の地名由来までは知らなかったけどね。調べてたんだよ」
「! もしかしてあの本…ッ!」
三露は幾度か図書室で本にかじりついていた。最奥にある棚の、やたら分厚く、重く、ちっとも読まれていないことを物語るように埃を被っていた本だ。それは狐関連の書物。土地に関わる狐、という類の地方誌がごろごろあり、開けば東果にある狐信仰のの記事がわずかに挙がっていた。この土地柄が原因かな、と目処をつけてはいたが、さすがに地名までちなむほど狐の加護が根強いとは思わなかった。
「知ってたってことか! アンタは何でそういうこと言わないんだよ!」
けれどやはり、わかったところで何も解決にならないのだから。
「君だってさっき言ったばかりだろ、知ったところで解決になるわけじゃない」
「だからって伊織くらいのケンキョさを持て!」
それはもう忠告や文句というよりただの罵倒にしか聴こえないが、三露は言及しなかった。
「…僕だってね、はじめこそ東果の狐の多さを調べていたわけだけど、今はそういう事態じゃないから」
「………」
「いま大切なのは狐霊に関わるかもしれない流行り病のほうだろう。コクリのことは話し合っても埒が明かない、だから言わなかっただけだよ」
狐霊は消耗戦であるが、コックリさんの遊びのブームが過ぎればそれで済む。問題はさらに一歩先を行く。三露たちは病気自体何なのか調べるところから始めないとならない。ここまで長引くと思っていなかった分、三露には危惧するところがあった。
ふと、椅子に力なくもたれかかっている京をじっと見つめる。
この事件で誰が一番疲弊しているか、それは京だと三露は思う。
「ところで、ヒメ」
京は焦げ茶色の瞳を何度か瞬かせ、姿勢を正した。この手折れそうなか細い少女が四月から身を粉にして働いている。三露はぐっすり眠ったが、一晩総帥につきあわされてたらしい京は今日もいつもと変わりなく授業に顔を出さねばならなかったはず。ろくに休息を取れていないのかもしれない。とはいえ三露がここ数日で知った限り京はとても気遣い屋で、今も気丈に振るまって疲れを押し隠しているに違いなかった。三露はため息を零した。
ポケットから財布を取り出し、中から一枚の紙片を抜き取る。
「本当はもっと厳粛に作る必要があるんだけど…こういうところでやるものじゃないし。筆はある?」
「…え、筆? …えぇと…ぉ」
しばらく部屋を見回した京も渋々、ごめん、どこかにはあると思うんだけどと諦めを零した。ならば仕方がない。三露はいつも護身用に持ち歩く小型ナイフをポケットから取り出した。周囲がぎょっとしたようだが、構わず右手の指先を切った。少し勢いをつけてしまったせいか、どくりと鮮血が溢れ出す。
「み、三露?」
「少し、黙ってて。符を作るんだ。気を込めるから」
魔除けの護符を、京に渡しておこうと思った。この流行病の被害者をこちら側から出すわけにはいかない。疲労困憊の京が最も可能性がある、そう考えた三露は何とか手をうっておきたかった。本来なら白い清潔な服に身を改めて、穢れを一切近づけないニ、三日を送ってから作りたい。日を調べ、星の方角を調べ、気の散らない場所に一人閉じ篭って作りたい。符とはそれだけ重大なものだから。
「い…今からやるのか?」
「静かに。集中させて」
好条件が何ひとつ揃わない、突発性の符だ。仕方がないので一種邪法とも言える―――血でもって符に自分の力を縫いつけるのだった。符に己の力を移す、それは三露の身体から幾分か力を吸い取ることでもあった。
一旦目を瞑り気を落ち着かせる。意識を研ぎ澄ませる。その間にも指先では血が溢れ出し、丸い粒になって今にも零れようとしていた。その血が繊細な幾何学を描き出すたび、三露の緊張は張りつめる。
すべてが終わると、できたよ、とため息のような声を零した。そっと肩の力を抜いた。正直、もしも新月が近く三露の力が落ち窪んでいたら出来なかっただろう。
「これを」 京に押し出した紙は、今やただの和紙ではない。護符になった。
「いつも肌身離さず持っていて」
う、うん。京は強張った顔つきで頷く。
「決して手放さないで」
うん、と頷かれる。けれどどうしてこんなものを…、と京の瞳が困惑気味に三露を見据えた。
「…気休めでしかないとは思うけど」
これだけ跋扈した原因不明の病気。誰が被害にあってもおかしくない―――三露であれ真田であれ、蓮であれ。
「この符はヒメを守るから」
けれど真っ先に被害に会うとすれば、長期戦に挑んで力をすり減らせてなお戦う、この少女だろう。
「………」
そりゃあ、と三露は失笑を零した。
「扉粉砕だとか何とかしょうもない理由で力をすり減らしてる真田の方にも、護符のひとつは渡しておきたいところだけどね」
三露の目に途方もない蔑んだ色が浮かび、わざとらしく視線を流す。真田は言葉裏に満月のときの話題を蒸し返されたことに気づいたらしく、「べ、別にいい!」と首を振り返していた。
「―――そうなると蓮にもってことになるし、量産は正直キツイ」
「え?」
「僕の方に力がなくなるのも困るからね」
京と真田はどういうこと、と口を挟もうと唇を震わせかける。そのとき隣の部屋から、耳に響く大きな物音が鳴った。


ガタン、という大きな音。物音が鼓膜を大きく震わせると、たちどころに聞きつけた者たちの顔に緊張が走った。思わず腰を浮かせて顔を見合わせる。
「…ヒメ、何の音?」
わからない、と首を振る京は急に不安に眉尻を下げ、「でも隣はお兄ちゃんの部屋」と呟いた。三人は頷き合うと、部屋を飛び出していた。隣の部屋に走り、ノックもままならないうちに鈍色のノブを捻った。
部屋には、横たわる蓮の姿。
「…ッ」
喉がひきつった音をたて、息を呑む。
蓮はフローリングに敷かれた絨毯に顔をうつ伏せ、ぜいぜいと喉をかする呼吸を繰り返していた。顔から色が抜け落ち、白い。苦しそうに胸元の服を鷲掴み、苦痛を零している。予想もしなかった蓮の容態に誰もが慄いた。京が小さな悲鳴をあげながら駆け寄る。後に続いて、一足遅れて駆けつけた両親も驚きに息を呑みながら蓮に歩み寄った。
家族に取り巻かれ心配される蓮。三露はしばらく扉の横で呆然と立ち尽くし、じわじわと額に滲み出す汗に眉を顰めた。その横で真田も同じように固唾を飲み下せず、苦々しい顔でいるらしかった。
蓮の部屋は窓が開け放たれていた。そこから一陣の風が、湧き出た冷や汗を撫でるように吹き込む。…いやな、風だ。
「ついに出たか…」
こちら側に、犠牲者が。

病院に行った方が…、と渋る両親を蓮は寝てれば平気だと言って説き伏せた。相変わらず困難そうな呼吸に、蒼ざめた顔、これでは説得力の欠片もなかったが寝台に横にさせられた蓮は瞼を下ろしてしまい、両親も諦めたようだった。明日の朝様子を見てから、と不承不承で部屋を出て行った。
蓮は寝ているようだが、やはり苦しそうな容態は変わらない。
何の病におかされてるのか、今になってじっくり観察した蓮の姿は妙に痩せこけ、栄養失調を思わせる面持ちだ。彼は家族に心配されながらまどろんでいく少し前、蒼い顔で横目に三露を捉えてきた。物憂げな瞳はとろりと溶け出しそうにおぼつかなかったが、その奥に何か訴えるものがあった。
けれど寝入った病人を叩き起こして問い詰めるだなんて趣味も、ない。
とりあえず蓮を心配しながら、三露と真田は看病という名目でその部屋に留まっていた。しばらくは蓮の落ち着かない呼吸の音だけが部屋に広がっていたが、それを遮るように扉が開かれる。京が入ってきたのだ。その手にはティーカップがあり、ふわりと甘い香りが漂った。
ハーブティー? 柔らかい芳香が漂うのでそう考えたのだが、覗き込むと中身は紅茶どころか白湯の色。薬湯だろうか。無機質な湯がカップの中でとぷりと揺れた。
京はそれを蓮のデスクに置いて、飲ませる様子もない。
「ヒメ、それ何?」
「イランイラン…花の中の花と呼ばれてる花の精霊を宿した精油を一滴垂らしてるの。それだけじゃ、そんなに効果は望めないだろうけど―――安眠にはいいと思って」
なるほど、京の精霊使いの力か。思えばこの家にはあちこちでほのかな花の香りがする。京の些細な気遣いとして、ほんのわずか精霊の力を呼んでいたのかもしれない。もしくは彼女の周りに精霊が寄るのかもしれなかった。
ねえ、三露。京は蓮を見つめて、黒い瞳を揺らす。
「お兄ちゃん、大丈夫…?」
これは学校で起きている奇病だ。三人は痛感してしまった。
「………」
原因不明の、たちどころに広まった病。
「…はやく解決させないとね」



           

 





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