一晩明けても蓮の容態は一向に回復に向かわなかった。
蓮がベッドから肘をつきながら起き上がり「行く」と言うから、三露は何事かと思った。学校に行く、とそういう意味だとわかったのは弱々しい声が何度か繰り返し言ってからだった。
何言ってるのだと京がやんわりと蓮の肩を押し返し、ベッドに戻そうとする。蓮も負けじと折れない。互いに譲ろうとしないまんじりとした空気が流れ、そんな朝七時半を迎えた伊織家では、一悶着へと展開を遂げるのだった。
「こんなにお兄ちゃん苦しそうなのに、何で! 一日くらい休んでてよ!」
何度言っても話を聞かない蓮に、京は躍起になった。しかし幾度となく返ってくるのは、大丈夫・平気・行く、の三句。それはかすれた弱々しい声。ちっとも平気だと思われない。
傍目に見てもどこが大丈夫なのか問い詰めたくなる、と思いながら三露は兄妹のやりとりを眺めていた。まさに弱りきっている。医者に見せるべき顔色の悪さだが、しかし三露は見せたところで無駄に違いないと目を伏せた。
原因不明と言われるか、仕方がなく「風邪」か「過労」なんて適当な病名をはめ込むか。いずれにせよ病院に運び込んで解決できるとは思っていない。
蓮は発熱で顔を赤くしたかと思えば、次には血の気の失せた色になる。看病に徹する京はどう対処していいかわからず困惑していた。
おそらく"そういう"理由なのだが―――だとすれば解決の糸口は"コクリ"なのだろうか。
なおも押し問答している兄妹をよそに、時計は刻々と針を進める。
見かねて三露は、一歩前へ踏み出した。
「…ヒメ、眠らせた方が早い」
三露が声をかけると、京は思い出したように制服スカートのポケットに手を突っ込んだ。京の手に香水瓶が垣間見え、蓮はギクリと顔を強張らせた。が、次の瞬間容赦なくシュッと噴射音が響く。ふわりとした香りが部屋に広がり、蓮は弱々しくベッドに倒れこんでいった。兄が無事眠り瞼を閉じたことを確認すると、京は足元をふらつかせ、へなへなとその場に座り込んでしまった。手の中の小ビンを大事そうに包んで、
「お礼申し上げます、―――クラリーセージ」
と呟いた。おそらく植物の名だろう。京は花の精霊使いだから、と三露は納得顔で京に歩み寄った。ぽん、と軽く肩を叩く。
「ヒメ、そろそろ学校に行こう」
「……」
「蓮の病気は尋常じゃない。たぶん学校で流行ってる例の病だ。だったら僕らで解決することになりそうだから」
三露の勘が、全身全霊で急いだ方がいいと告げていた。急がないと手遅れになりそうな気がする。ふと目をやると、フローリングの上に敷かれた絨毯を、京は震え出しそうな指先で握り締めていた。
三露お願い、と聞きとりづらい声が漏れる。
「……我侭だってわかってるの、でも…今日だけでいいからお兄ちゃんについてちゃ駄目…?」
いいよ、と言ってやりたい。だが三露は拳を握り、沈着を装って首を横に振る。
学校であれだけ充満した病なのだから"伝染する病"だと予想がついたし、京までその被害者の一人となるのを、そうやすやすと見ていられない。
「駄目だよ」
「…三露、でも」
「ヒメ、蓮を元気にしてあげたいなら学校で根源を解決させなきゃ駄目だ。蓮が心配なら猶のこと学校に行くべきだよ」
「でも…!」
京は懇願するように声を上げた。しかし続きを言わないまま、唇を噛むようにして押し黙る。よほど譲れないところらしく、珍しく我を押し通そうとした京の瞳にはうっすらと雫が浮かんでいた。三露は仕方がないとばかりに頭を掻き、ひとつ提案をした。
「……なら―――じゃあ、蓮が大人しく部屋にいることがわかればヒメは納得するの?」
ならば、と財布から札を取り出し、京と真田を連れ部屋の外へ出る。扉を閉める前にそっと蓮に声を投げた。―――せいぜい安静にしておくんだね。…このまま息絶えてもらっても困る。
静かに扉を閉じ、三露は取り出した札を使って細工を施した。見守っていた二人が「まさか監禁…?」と危ぶむので、三露は呆れながら仕組みを説明した。
「出ようと思えば出れるよ。でもこれで蓮が外に出たら、どんなに遠くに行っても僕がわかるから」

わかるから、と言った。三露が、そう言ったではないか。
京は昼下がりの新校舎屋上へ昇って、何度もそう唱えて心を落ち着かせようとした。朝から気を揉んでいるが、昼休みを迎える頃にはついに思いつめた思考回路がもう堪えられないばかりに、京の感情をふれさせた。
兄のあの苦しみ様、他の欠席生徒もおそらく同じだけ苦しんでいたに違いない。けれどその間京がやっていたことはコクリ退治と―――それに対してぼやいていただけ。京はやるせなさに唇を噛み締めた。
どれほどの心配も、誰かを回復させる力を持つわけでなく。かといってこの身にできる能力も及ばない。昨夜京は、容態の悪い蓮にどんな薬を飲ませたらいいか悩み、最後には精霊の力で治癒をはかった。けれど今朝見た兄の姿はどれほど回復を見せた? 一向に良くなる気配を見せなかったではないか。
悔しさから屋上のフェンスに絡めていた指に力がこもり、震え出す。
今は姿の見えない三露は、おそらく校内のどこかを奔走しているのだろう。登校するなり何かアテでもあるのか京達とは別行動をとろうとする、その後ろ姿に京は思わず「わたしも」と言った。苦しむ兄を早く救いたい、微力ながらも協力したいという一心だった。しかし京の思いもむなしく、やんわりと躱されてしまったのだ。
―――手が欲しいときは呼ぶから、ヒメはいつものように授業に行くといいよ。
それが今朝の出来事、けれど昼過ぎになっても三露からの連絡は一向に入ってこない。自分は必要ないのだろうか、そんな風に考えてしまうこともまた、京の心を苛む原因だった。
京の見つめる先に、鈍く錆びはじめたフェンスと、蒼いはずの空に立ち込めていく暗雲。もしかしたら今日が梅雨入りなのかもしれないな、と思う。雨が降り出しそうな灰色の雲が広がって京の心に蔭を落とした。ふと、よどんだ空に吸い込まれてゆきそうな音が、校舎から鳴り響く。昼休みの終了、同時に午後の授業開始を告げる本鈴だった。
「伊織…チャイム、鳴った」
少し離れた場所に座っていた真田が、気遣わしげに声をかけてきた。屋上へ向かう途中にすれ違った真田は、京と一緒に昼休みを過ごしていた。とは言っても食事をするわけではなく屋上でぼんやり時間を過ごすだけ。落ち込んでいる京の心を察知したのだろうか、真田は何も言わずにその場に座っていた。しかし鳴り響いた本鈴に黙ってはいられなくなったのだろう。ついに口を開いたのだった。
京は曖昧な笑顔を返すしかなかった。
「そうだね、でも…いいや」
妙なさぼり癖がついてはいけないと思うのだが、どうしても授業に出る気にはならない。
笑顔を取り繕ってはみたものの、それを目にした真田の表情は険しかった。どうやら思ったほど上手く笑えていないらしい。
「……どこに行ったんだ、アイツ」
吐き出すような声で真田が呟く。辺りをきょろきょろと見渡し、何か変化がないかをしきりに気にしていた。三露を探しているのだろう。真田もまた三露からの連絡がないことで心穏やかにいられない一人だった。いらいらと、指先でコンクリートの地面をたたいている。
京はそんな真田から目を離し、視線を落とした。
「…ねえ真田? わたしってほんとう……なんにもできないね」
弱音を吐くつもりだったわけではないが、気がつけば口をついて出たのはそんな言葉だった。
「お兄ちゃんについててあげたいのにそれもできなくて、助けてあげたいのに心配しかできなくて」
「そんなこと…」
「わたし、なんにも役に立たなくて…」
わたしが弱くて、能力が低いせいね、と京は掠れた声を絞り出す。そればかりではない、四月からのこの騒動に走り回っているつもりで何も解決できていなかった。欠席者が増えはじめたときですら、彼らが出席したらコックリさんが再び増えるのだとぼやいただけ…、少し前の自分は何をやっていたのか。なんて、甘い、考えを。
「それでも…」
鬱々とした京の思考を遮ったのは、真田の控えめな声。
「それでもアンタは―――"癒す"ことができるんだろ」
真田は躊躇ったように京から視線をはずしていたが、逆に京はそんな姿を凝視してしまった。もしかして、拙いながらも励ましてくれているのだろうか。
「何もできないわけじゃないだろ」
さらに言い募る真田に、小さく「…できないよ」と呟いて京は眉尻を下げる。現に精霊の力を借りても蓮はちっとも元気にならなかった。
考えれば考えるほど、思考は闇の淵へと向かってしまう。悲観的になっていく自分が情けなく、何とか振り払いたいと思う。すると京は自覚のないままに、ぎゅっと目を瞑り俯いてしまっていた。唇を引き結び、堪えるようにして顔を上げられなくなる。そんな様子に慌てたのだろうか、真田は取り繕うように急に声を荒げて喋りだした。
「そんなことない!」
あまりに強い語調だったので、京の沈んでいこうとする意識は一瞬真っ白になった。
「伊織には癒す力がある…! 伊織じゃない、何もできないのは…俺のほうだ…」
「真田?」
「癒す力なんてない、傷つけてばかりだ…俺は」
落胆が色濃く滲む声は、まるで自責しているかのようだった。苦し気な声でうめいた真田が、俯くようにして己の手を見つめながら、言う。
「誰も救えないんだ…」
心が、震撼した。
京はうろたえて、真田を覗き込もうとして、それも躊躇してしまう。真田は今にも己の唇を噛み切ってしまいそうに強く噛んでいて、無理に顔をあげさせでもして―――泣いてしまったらどうしよう、と京は戸惑った。それほどに真田の言葉には苦しいものが篭っていた。京が漏らした弱音より、はるかに大きな苦悩が。
「―――…何かあったの、真田?」
はっと気がついたように、真田は顔をあげる。
「な、なんでもない!」
ご丁寧に頭をぶんぶんと振ってまで真田は否定した。何でもない、と。
「…その口が言う? 何でもないなんて…」
京がにじり寄ると、真田は視線を明後日の方に向ける。だが先ほどの様子を見せてしまった京相手に「なんでもない」が通用しないことは百も承知だろう。しばらくして観念したように言う。
「ほんとうに何でもない。…ただ、伊織が兄貴のことで落ち込んでるのを見てちょっと思い出しただけだ…」
何を? と、詰め寄ると、真田はややあってから自白した。
「俺が家族みたいに思ってた人が…少し前に倒れたこと」
「家族…? え、少し前って…真田ここにいて平気? もう治ったの?」
つい病床の蓮の容態が浮かび、京は無意識のうちに"その人"と兄と重ねながら訊ねた。思わず心配したのは決して悪気があったわけはない。短慮に訊ねてしまったことは本当に"つい"だったのだ。真田は俯いたまま、ただ一言。―――死んだ、とそう言った。
思いがけない返答に京は混乱しかけた。こういう時ってどう声をかけてあげたらいいんだろう、自分はなんて短慮だったんだろう、なんて酷いことを言わせてしまったんだろう。そんな風に考える一方、頭の片隅では兄のことが心配でたまらなかった。
色々な感情がないまぜになって京の心を翻弄する。心臓の音がいやに響いているような気がして、それを抑えようと京は胸に手を当てた。すると、カサリ、とかすかな音がする。
―――そういえば。
京は意気込んで胸ポケットへと手を差し入れた。そして真田の名前を呼ぶ。
急に声の調子が上がった京に、真田は目を瞬かせていた。
「真田、これ!」
「え?」
「ほら、お父さんも病は気からって言ってたもの!」
京は手の中のものをそっと握る。
「だからね」


三露が思わず舌打ちした頃、空の取りこぼした最初の一滴が窓を叩いた。
三露は目の前を走る男子生徒の背中を睨みつけた。彼を追いかけることで三露は学校中を走り回っていた。昇降口、廊下、階段……へと逃げ回る男子生徒は足下がふらついているが、それでも走ることをやめない。
この追走劇が始まって既に十分弱が経過していた。
―――あぁもう、さっさと降参すればいいものの!
ぜいぜいと荒い呼吸がここまで聞こえてくるというのに、どうしてそこまで必死になるのだという程に彼は走り続ける。追う三露のほうも思わず本気になった。
追いついて捕まえ、どうしても聞かなければならないことがある。
とは言え三露のほうも息が上がり、酸素を欲しがる肺がキリキリと痛み出していた。全力疾走の十分間は意外にキツイ。三露は思わず舌打ちをする。
校内中を走り回る二人が閑散として人気のない最上階を突き抜けていく。


ポツリ、と鼻先に最初の一滴が落ちてきた頃のこと。
「あれ…、三露じゃないかな」
京はふと横目に見た隣校舎を指差し、よくよく目を凝らした。
フェンス越しに見るせいで視界がやや濁されたが、隣の校舎の最上階を走る人影がある。
授業中に校内を動くものは少ないだけに、その姿は大いに目を引いた。人影は二つ、そのうちの一つは三露に違いない。
真田も身を乗り出すと、こくりと頷いた。
「本当だ。何やってんだ、アイツ……」
「い、行ってみよう真田!」
ここからならニ、三分もあれば三露の所まで行けるはずだ。京は慌てて屋上の扉へと足を向け、真田を促す。しかし、真田からは生返事しか返ってこなかった。
「真田、はやく!」
真田はフェンスにしがみつくようにして隣の校舎を見つめていた。はやくしないと見失っちゃう、そう急かして京は屋上のドアに身をくぐらせた。


三露は「しめた」と思った。先ほどからこの追いかけっこに終わりが見えなかった最大の理由は、校舎の両端にあった階段のせいだ。片方を使って昇り、追い詰めたと思うともう片方の階段が逃げ道となってしまう。途方もない鬼ごっこ。先回りすることもできず、後ろから追いかける、それだけが唯一の方法だった。
だがそれもここまで。運は三露に味方した。
向こう側の廊下から、唐突に京が姿を現したのだ。
「きゃ…」
全力で走る男子生徒と鉢合わせることとなり、京が小さく悲鳴を上げる。男子生徒はというと、慌てて身を翻している。その光景を遠目に目撃した三露は、口元に薄い笑みを浮かべた。これで彼の逃げ道はふさがれた。
男子生徒は身体を反転させた途端、今度は三露と目が合い、瞠目した。追いつめられたことを悟り、焦燥の色を浮かべながら素早く辺りを見回している。そして奥にあった空き教室へ目を留めるなり一目散に、転がりこむようにして駆け込んでいった。しかし教室こそ袋小路。飛んで火に入る夏の虫、とはこのことだ。
三露は、男子生徒が足早に逃げ込んだその教室―――「視聴覚室」とプレートのついた教室を目指した。
「み、三露…!」
京が前方から小走りに駆けてくる。しかし三露は一瞥さえくれず、ジッと視聴覚室を睨みつけたまま廊下を歩き続けた。
「待って、何…どういうことなの…?」
その声には狼狽が滲んでいる。京の後ろから真田も駆けつけて来たが、その顔も妙に神妙な色だった。
「…ヒメ、真田。君たちも早くおいで」
教室のドアを勢いよく開け放ち、三露は中を見渡した。
男子生徒は出来る限り逃げようとしたのか、入り口から一番離れた場所に経っていた。壁に背を押しつけ、差し迫った状況に身を堅くしているのが見える。
「さあ、どういう了見で逃げたのか、はっきり説明してもらおうか―――蓮」
三露の後ろから、固唾を飲む音がニ人分、確かに聴こえた。


雨足が増え、窓を打つ雨音が徐々に激しくなっていく。電気もつけられていない視聴覚室は、教室全体にひっそりとした蔭を落としていた。
克明ではないが、蓮の顔は蒼く、歪んでいた。
三露が不審を覚えたのは昼休みが始まってすぐのことだった。蓮の部屋に施した術が解かれた。何とか手がかりをと朝から図書室に根詰めていた三露は怪訝に眉を寄せ、本から視線をあげる。とりわけ助けになる情報がなかったといえど、邪魔をされたと思うと少し腹立たしい。すぐさま京に知らせようと教室へ急いだ。
あの体調で蓮は何を、と舌打ちしなながら駆けつけた教室。だが既に昼休み。生憎入れ違いになったらしく、京の姿は教室のどこにも見当たらなかった。
いつもなら気配を探ればなんとかなるが、もしかすると昨夜護符に力を移したことが裏目に出たのか、いくら探しても京と会えない。そうこうするうちに昼休み終了のチャイムが鳴り響いてしまった。これでは京に託けできない、と慌てたときだった。三露は昇降口で足を止める。靴箱に向かう蓮の姿を見つけたのだった。
三露はふと疑問に思った。―――何故連はあれほどまでに学校へと来たがっていたのだろう?
もちろん蒼い顔で俯いている様子も心配だった。放っておくわけにもいかない、だから声をかけたのだ。顔をあげた蓮は一瞬気味の悪い表情をちらつかせ、三露はぎくりと背筋を震わせた。けれどそれも一刹那のこと。蓮はすぐに三露を恐れるように一歩足を引き、逃げるようにその場を走り去った。
「ちょ…―――おい、蓮…」
なんだって、あんな。あんな顔、と三露は先ほど垣間見た表情を思い起こす。不気味な顔つきは、まるで憑かれているようで―――。
「…まさか…」
蒼ざめた三露は、慌てて蓮を追いかけたのだった。
そして授業中にも関わらず校内中を駆けずり回り、京や真田と鉢合わせ、ようやく蓮を視聴覚室へ追い詰めた。蓮には山ほど説明してもらいたいことがある。三露は射抜くようにその姿を見つめた。
「あれほど苦しんでたわりに、さっきのあれだけ走り回れる元気は何だっていうんだい、蓮?」
三露の声にこもる皮肉。蓮の顔に焦りが浮かんだ。
「……蓮?」
ふと、三露は違和感を感じて目を細めた。よく見ると蓮の背後にかすかに白い蔭が浮かんでいる。今まで全く何も感じなかったが、ぼんやりと霞のように白い物体が潜んでいた。
「………君は、だれ?」
三露は怪訝な声を漏らした。
「―――蓮にずっと憑いていた? 今まで?」
目を凝らす。感覚を研ぎ澄ませると、白い霞がしっかりした形をとりはじめた。
それは白い狐だった。三露は思わず嘆息する。
「……術者ともあろう者が、憑かれたのか。狐の幻術にでも魅入られたのかい、蓮?」
ネズミよりは大きくてうさぎより小さい頭身。白く、上質な毛並みをしていて、開いた目は糸目どころかつぶらだ。どこか愛玩動物にも見える姿だった。三露が文献で読んだ「尾裂狐(オサキギツネ)」とも「飯綱(イイヅナ)」とも呼ばれる狐の種類に似ていた。けれど一般的には、確か…。
「…もしかして、管狐(くだぎつね)?」
想像上の憑き狐だ。白いものが最も上等と言われ、その力も高いとされる。ああ、と三露は思わず納得のため息を零した。管狐とは竹筒に入れて持ち運ぶことのできることから「管(クダ)」と呼ばれるが、野放しにすると疫病を蔓延させる、とも言い伝えられる狐。それを思い出して、顔を顰めたのだった。
「つまりこの騒動の親玉、と言えるのかな?」
学校で流行っていた正体不明の病、それもこの管狐のせいに違いない。「コックリさん遊び」とも関連があるのかもしれなかった。
壁に背を預けたまま何も動き出さない蓮の様子に、三露は足を一歩前に出した。すると怯えるような声が響いた。
『来ないで…』
震える声は蓮のものではない。男子のものどころか、甲高いその声。蓮の元から聞こえるのに唇からではなかった。
―――驚いたな、人語を解せるのか。
この白い管狐はよほど上等らしい。来ないで、来ないで、とひたすら言い募り、白い狐は蓮ごと壁をするようにして数歩移動する。
『―――来ないで。来たら…レンを殺しちゃうから!』
窓の外では雨が激しくなり、遠くで光る雷が教室を瞬かせる。
唐突な事態に、教室の入り口で立ちつくした三露は息を呑んだ。
今までぴったりと蓮にとり憑いていた白い狐は、わずかに蓮の肩口のあたりから身を乗り出している。蓮はというと、相当色の落ちた顔をして足元をふらつかせていた。弱りきっているのは明らかだ。危ない足取りのまま窓枠に手を突かれ、三露たちは息を呑まずにはいられなかった。
窓の桟に足をかけた生徒がいた、といつか京が嘆かなかったか。ぞっとしたものが三露の背筋を這った。
「…や、やめ…お兄ちゃんを返して!」
唐突に、京が叫んだ。
「お兄ちゃんのこと殺したら…わたし、許さないから!!」
『………』
「…返してよ!」
管狐の表情は読めないが、京の叫びにしばらく動きを止めていた。京の嘆きにこの狐が同情してくれるとは思えない。それで済むものならもちろん期待したいところだが、恐らく退散させないと解決しない。
「ヒメ、黙ってて」
三露は思案する。祓ってしまうか、封印するか。
「蓮から管狐を引き剥がすのなら、竹筒が要る」
「え…竹筒…?」
困惑したように鸚鵡返しにする京に、三露は小さく頷いた。
「その中に狐を入れるんだ。この狐だって元は竹筒の中にいたはず―――その竹筒に、心当たりは?」
蓮に憑いたのだから、元々狐が封印されていた竹筒は蓮の周囲に、つまり伊織家や学校にある可能性が高い。しかし、京はわからないと首を振るだけだった。
「竹…なんて…。学校の横に、竹林はあるけど…」
竹林があったとしても、そこに竹筒が転がっている可能性は低い。かと言って竹を切り倒して筒にするわけにもいくまい。どうしたものかと三露は考えたが、一縷の望みにかけることにした。
「ヒメ、真田…そこへちょっと行ってきてくれないか。竹筒があったら持ってきてほしい」
「え、うん…でも…」
京が渋るように言いよどんだ。蓮がここにいるので離れたくないのだろう。
「早く!」
しかし語調を強め、ニ人を扉の外へと押し出した。蓮から視線を外さないように睨みつけながら、後ろ手にぴしゃりと扉をしめる。しばらくすると廊下を走る足音がパタパタと聴こえてきて、三露はほっと息をついた。どうやら三露の指示に従ってくれたようだ。
さて、問題は竹筒が見つかるまでの間だ。
不意に蓮が、糸の切れた人形のようにその場へ座り込んだ。今まで蒼い顔でふらつきながらも何とか立っていたのにどうかしたのだろうか。どうして、急に。
三露は不審に思い、眉を顰めた。一歩ずつ蓮に近寄り、警戒しながら声をかける
「………蓮?」
頭を押さえるようにして俯いていた蓮から声が漏れた。
「…痛ぇ…」
その声は紛れもない蓮の声だった。慌てて蓮に目を凝らし教室を身回したが、あの白い蔭がどこにも見当たらない。
三露は勢いよく扉をふり返った。




           

 





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