薄暗い視聴覚室で、蓮は眩暈を堪えようと歯を食い縛った。管狐にとり憑かれていた身体が意識下に戻ってくると同時に、酷い疲労と頭痛までもが戻ってきた。
「蓮、君か?」
一歩ずつ蓮へと歩み寄ってきた三露は数メートルの距離を残して立ち止まり、探るような視線を蓮に注いでいた。座り込んだ蓮は力無くうなだれたまま、わずかに顎を引く。抑揚のない三露の問いかけは、自分への叱責に聞こえた。
顔をあげることが出来ない。目を合わすことすら申し訳なかった。酷く耳鳴りのする頭を抑え、朦朧としたまま立ち上がる。三露は手こそ貸してくれたが、視線が突き刺さるように痛い。
「一体どういうことなんだ? 説明してくれないか。当事者の君の口から」
「……はい」
この一騒動に関する事のあらましを、蓮は後悔に顔を歪めながら話し始めた。



一ヶ月前に遡る。春風の吹く、コクリ騒動に追われ始めた四月半ばのこと。

蓮は不意に足を止めた。一人の生徒が学校の敷地外へ抜け出していくのを目撃してしまったのだ。
学校の横には竹林があり、背の低いフェンスがぐるりと覆っている。生徒はそのフェンスを越えて林の奥へ突き進んでいった。あんなところへ一体何の用があるのだ、と蓮は不審に思う。
竹林は鬱蒼としていて、入ろうと思う者の気が知しれない。学校の所有地でないために、ぐるりとフェンスに囲まれている。たとえガタがきていようと、容易に飛び越せようと、それは立ち入り禁止を主張する境界線なのだ。常識で考えても、普通はわかる。
「…あれって…」
呆れ半分に見送っていた蓮は、唐突に目を見開いた。生徒の挙動は誰の目から見てもおかしかったが、他ならぬ蓮だからこそわかってしまった。
「また、コクリの仕業か!」
生徒はコクリに取り憑かれていた。忌々しいとばかりに呟き、蓮は頭痛のしそうな頭を押さえる。手の平がじっとりと汗に湿った髪に触れ、更衣室へ向かっていたことを思い出した。体育の授業が終わるチャイムが鳴り、解散した群衆がわらわらと校舎へ向かう。自分もその一人だったのに、と困ってしまった。放っておいたらまずいだろうか。本音としては見なかったことにしたい。
―――だけど嫌な予感がする。
蓮のレーダー張りの感応能力がひしひしと、林に消えた生徒はコクリに憑かれていると物語っていた。見て見ぬふりができないほどに、嫌な予感がする。何せ今までコクリが仕出かした所行は奇怪極まりなく、今しがた林に消えた生徒が何をやらかしてもおかしくない。
ついに蓮はため息をひとつ零し、フェンスを飛び越えて生徒の後を追っていった。
行けども行けども竹が生い茂っている。踏みしめる土が少しだけ柔らかく、上に被った雑草や枯葉とともに、蓮の歩行を煩わせた。一体全体、どうしてこんなところに入り込むのか。コクリの目的がさっぱりわからない。
蓮はほんの一瞬足を止めた。林の中で見た光景に眉を寄せて、しばらく瞬きができなかった。
「……おいお前…!」
名前も知らない生徒を焦って呼び止めた。が、生徒は何やら手の中のものに気を取られていて振り向かない。
「な…何? 何やってるんだ?」
蓮の声が弱々しく空気に攫われていく。蓮は用心した足取りに変え、ゆっくりと近づいていった。すると生徒が一人でぶつぶつと呟いているのが聴こえてくる。何を喋っているのかと耳をそばだてる蓮の耳に、ふと舞い込んだ声は―――会話。一人でない声、話し声だった。他に誰かいるのかと、不気味な気分で様子見しつつ、蓮は生徒に一歩一歩と近づいていった。
背中を見せている生徒はまだ気づいていない。
不意に、蓮の踏み出した足がパキリと小枝を踏んだ。
すると唐突に生徒が振り返り、正気を失った顔色で蓮を見据えた。コクリの気配が殺気立ち、蓮の背筋にぞっと寒いものが駆け抜ける。けれどそれ以上に不気味な気配がする。蓮は唇を引き結びんで生徒を警戒しながら、様子を探り、そして生徒が手に握るものを睨んだ。その手が握る小さな竹筒。ただならぬ不穏なものを感じ、蓮は凝視し続けた。すると声が響く。
『早く…早くここからわたしを出して』
蓮は竹筒から響く声に、耳を疑った。

そして、五月に至る。その夜は心地よいそよ風が窓から吹き込む静夜だった。蓮はあのとき生徒から取り上げた竹筒をデスク脇に置き、参考書と睨み合っていた。スタンドライトの灯りが煌々と明るい。すっかり夜は更けて、辺りは寝静まった夜半時だった。
竹筒を取り上げる経緯は実のところ、手荒だった。乱暴と言っていい。
あのとき蓮は竹林に入った生徒に力で物を言わせた。横になって倒れてしまった生徒を横目に、蓮は奪った竹筒を見つめる。奪ったはいいが、嫌な予感がして容易に捨て置くこともできない。困り顔で家に持ち帰ることに決め、もう、それから一ヶ月ほどが過ぎる。
『レン、またお勉強?』
デスクに向かう度、その竹筒からは声が響いた。
蓮の拾った竹が喋るのではなく、中に何か居るのだ。竹筒は小さな文字が刻み込まれていて、何かと古さを感じさせる。どうやら忌み事を"封じて"あるといった感じだった。
竹筒からする声はきまって脳に直接響いているような印象だ。ある程度能力がないと聞き取れないのかもしれない、と蓮は思う。
それはそうと、脳に響かれると―――勉強がはかどらないではないか。
「…ちょっと黙ってて欲しいんだけど」
竹筒の中には生き物がいた。蓮が能力をふんだんに駆使すると、筒越しに見えたのは白い頭身の狐だった。とてもよく懐く狐だ。
『わかった。黙ってる』
割と聞き分けの良い狐だった。だが、決まってこう言う。
『わたし黙ってる。でもレン、だからお願いがあるの』
何が"だから"だ。声音はまだ年端のいかない女の子のようで、無邪気な物言いはいつも同じ"お願い"をしてくるのだった。蓮は呆れてため息を零す。
「…どうせまた『外に出たい』って言うんだろ」
『そう。お願い、どうしても外に出たいの』
「―――駄目だ、クダ」
白狐は己が管狐だと名乗ったから、蓮は"クダ"と呼ぶことにしている。クダは何かにつけて外に出たがった。思い起こせば、初めてクダの声を聞いたときも必死に出してくれと訴えていた。竹林に入っていった生徒に向かって『はやく出して』と。コクリは従順に、クダをこの竹筒から解放しようとしていた。
もしかして、解放されたいがために、クダはコクリを呼び寄せたのではないだろうか。そんな懸念が蓮の心を蝕んでいる。コクリはいつだって蓮や、妹の京の手を煩わせきた。―――そのコクリをクダが操っているのだとしたら? 疑いがシミのように蓮の心に広がり、しこりになっているのだった。
加えて"封じてある"といった様子の竹筒も気がかりだった。
「…クダ、そういえばずっと前にコクリがお前を出そうとしたよな?」
『レンに会ったときのことね』
「何でコクリはお前を出そうとしたんだ?」
『あの子はわたしのお願いを叶えようとしてくれたの。わたし、外に出たいって、お願いしたの』
結局蓮はクダに気を取られて、握ったシャープペンをノートに走らせることが出来ない。はかどらない勉学に嫌気がさし、椅子の背もたれに体重を預ける。蓮の視線はノートや参考書から退き、竹筒へと向けられた。
「お前は何でそんなに外に出たがるんだ」
『だって、ここはとても狭いし…暗いんだもの』
確かに、と思う。蓮がデスク脇に置いた竹筒は本当に小さいもので、蓮の片手にあった少し太めのシャープペンほどだ。ここに狐が入っていると思えないサイズであった。
『それに、寂しいし―――自由になりたいの』
少女のものにも似た声で、消え入るようにかすかに呟く。
蓮は返事を用意してやることが、いつも出来なかった。そうだな、と相槌を打つのが哀れでならない。クダは心細そうな声で何度か『レン』と呼び続け、しばらくして大人しくなるのだった。

『ねえ、レン? …レンは落ち込んでるの?』
再び勉強に身を入れようと構えた蓮に、またしてもクダが声をかけてきた。もう一ヶ月もの間手元にクダを置いていたので、蓮にはいくつかわかったことがあった。
クダは寂しがり屋、とにかく外を切望し、とにかく会話を切望している。そして蓮を心の拠りどころにしている節さえあった。要は懐いているのだ。そんなクダを一笑に附せないあたり、蓮も情が移っていることを認めざるを得ない。
―――それどころか。
飼った犬猫へ手向ける、その程度のささやかな愛情を蓮は確かに覚えていた。
気遣うように声をかけたクダに向かって、別に落ち込んでるというか、と蓮は曖昧にぼやきながら、横目に竹筒を見る。
「…どっちかていうと滅入ってる」
コクリ退治の傍らで、蓮の高校は中間テスト期間に入った。進学高校の最高学年ともなると勉強に余念がない。宿題など出ることは稀だったが、その授業のハイスピードはついて来られない人間は知らないぞと訴えているかのようで、そうこうするうちにやってきてしまったテスト範囲は広大だった。テスト勉強に手を抜けば、容赦ない赤点再試験が待っている。
「コクリだけでも疲れてるのにテストが始まったから…なんか、マジで疲れてる」
すると急にクダは静かになってしまった。
「…どうかしたか?」
『レンは…狐をキライになっちゃう?』
蓮の零した愚痴に刺々しさが含まれていたのか、クダは落ち込んだらしかった。蓮はこの一ヶ月、蓮と妹の手を煩わせているコクリを疎んできた。何度も愚痴を零している。クダはその度何度か、狐を嫌いになったらわたしのことも嫌いになっちゃうのね、とうちひしがれた。
『レンと、レンの大事な妹さんを苦しめてるから―――狐キライになっちゃう?』
同じ進学校に通う蓮と京は、この頃では二人仲良く憔悴しきった顔で帰る。
コクリのことが一因だが、それに輪をかけるようなテストがまた一因なのである。そして気がかりであるコクリとクダが繋がっているのでは、という小さな疑念は自分の胸の内だけにしまってある。疑われていることを知ったらおそらくクダは悲しむだろうから、問いただすことなど出来なかった。
「…コクリはともかくクダのことは嫌いじゃないし、気にしないでいいから。どっちかって言うと今はコクリよりテストにウンザリだな。正直もう疲れた…」
蓮は悪くない成績を残しているだけに、受験生になったこの時期に順位を落とすわけにもいかない。そう考えると精神負担が大きく、蓮の心に重くのしかかっていた。
『わたし……レンが疲れてるのに、わたしお茶のひとつも持ってきてあげられない…』
クダはあまりに悲しそうに言うので、蓮は苦笑を漏らした。
「いいよ。それに竹の中に居なくったって…狐じゃん、クダは」
『わたし、人の姿だってなれるんだからっ。そうしたらレンのためにまずお茶を淹れてあげるの』
「ありがとう。クダは、案外すごい狐なんだな」
世間に言う化け狐だろうか、と蓮は勉強に疲れた頭を押さえながら考えた。狐や狸はよく昔話なんかで化け勝負をするよな、と思い、それが本当ならば微笑ましい限りだ。この白い狐は人に化けても悪さをせずに、蓮にお茶なんて淹れたいと言うのだから。
『ねえ、レン。わたし、ここから出たい…』
もう何度も何度も懇願された。
「だからクダ、それは…」
『わたしここから出て、レンの顔見ておしゃべりしたいし、レンに触れたいし、レンに抱きしめて欲しい。一度だけでいい、それで我慢するから…』
クダは蓮にとてもよく懐いた。必死の形相で竹筒の中から訴える。
『一回だけでいいの、レン。それだけでいいの』
妥協を覚えたのか、その幼じみた声は『一度だけ』と呟き続けた。ついには泣き出しそうな震えた声音で、声にならずにうめいていた。蓮は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚え、机の横の竹筒に手を伸ばす。
「クダ…」
そっと指が竹筒に触れ、蓮は決心の篭った声を絞り出した。
「一度だけだからな。…約束だからな?」
一度だけ外に出してやるよ、と蓮は、疲れを払うように一度頭を振った。

時計の針は深夜二時をも過ぎ、草木が眠る時間になった。扉を開くと、おそろしく静かな闇が廊下に広がっていた。蓮は竹筒を手に、足を忍ばせた。
「誰かに憑けば、クダと話ができる?」
蓮がそう訊ねると、クダは肯定の意を告げた。
なら一度だけ出してやるから必ず竹筒の中に戻れ。そんな条件を何度も言い含めると、連はそっと隣室へ向かった。
「じゃあ、京に憑いて」
蓮は世間に比べればかなり家族が円満だと自覚している。特に兄妹の仲が顕著で、蓮の言葉の端々にクダも感じとっていたのだろう。さすがに驚いたように『妹さんに?』という返事が戻ってきた。
「俺は、京は可愛い妹だと思ってる。だから絶対にココに戻れよ? クダの願いも叶えてやりたいけど…京にじゃ、あんまり長いこと憑いていさせてやれないかもしれない」
『…気が気じゃないものね』
クダはしんみりとしてそう言った。京の部屋の電気はとうに落とされ、闇に目が慣れるまで蓮はしばらくもたついた。小さな竹筒を改めて覗き込む。気づいてはいたが、そこに小さな文字らしいものが彫られていた。その手のことに詳しいわけではない蓮はおぼろげに「これが封印って言うのかな」と思っていた。
何度か文字の上を擦ったあと、蓮は爪を立てるギシギシと竹筒を引っかいた。元々爪を伸ばしているわけでもない蓮はカッターでも持参するべきだったと後悔しながら爪を立てる。竹筒は拾ったときから古いものだと思わせる色合いだったが、いくら古いといえど竹なので堅い。蓮は半ば躍起になって文字を引っかいた。
「―――レン」
小さな声が響いたが、蓮は竹筒削りに没頭して耳にも入らない。そのうちに文字の刻まれた竹筒の表面が、ようやくわずかに削れた。蓮は「やった」と小さく拳を握った。
文字が削られたことで封印は不完全となったはずだ。心なしか手の平の中の竹筒が軽くなったような気がした。クダはもう出てきたのだろうか、と蓮は暗闇に包まれた部屋の中を見渡す。すると、くすくすと控えめに笑う声が、京の部屋に響いた。
「…クダ?」
「レン」
そう呼ぶのは、妹ではない。ベッドから半身を起した姿は見慣れた妹のものだったが、違う、と蓮は食い入るように眺めた。京はそっと立ち上がり蓮の元まで歩み寄る。その様子がまるで違う雰囲気を宿していることに、蓮は息を呑んだ。
暗闇でぼんやりとするが、京の笑顔に白い蔭が重なる。蓮は幾度も瞬きを繰り返し、不意に呆れるような笑みを取りこぼした。立ち止まった京の髪にそっと手を伸ばす。
「―――ほんとうに、人間の姿になれるんだな。クダの髪は…白いのか」
蓮の目は京の姿と共に、白いクダの姿も映し出した。非常に淡い蔭だったが、京の動きに合わせて頬に笑顔を浮かべ、蓮へと手を伸ばす。蓮は自分は酔狂な人間かもしれない、と苦笑しながら妹の髪を撫でた。いや、クダのものか。たかが一ヶ月だったが、ほんとうに情が移ってしまっているらしい。クダが嬉しそうに口元綻ばせると、つい蓮まで嬉しくなった。
「レン、わたしうれしい。ありがとう…」
子供が親に縋るように、クダは蓮の首へと縋りついた。蓮は少女の背が足りないことに気づき、身を屈める。あどけない抱擁は、クダが伸ばした腕に力が篭ることでいつしか深刻なものへと転換した。苦しい、と思うまでにクダは抱きしめてきたのだ。
「……クダ?」
「ごめんなさい、蓮」
言うが早いか、その腕を振り解くが早いか。結果、蓮が油断したことが災いした。目の前で京が力なく倒れこみ、蓮は頭に激痛を覚えた。そこまでだった。
蓮の意識はそこで暗転する。
「―――…」
京の部屋で立ち尽くしている男が口を開くと、蓮の声だったが、わずかにエコーがかかったように幼い女の子のトーンも響いた。
「ごめんなさい、レン。裏切って…ごめんなさい」
けれど彼の意志に誠意を手向け、クダは悲痛の声を漏らす。
「せめてあなたの大切な家族には、何もしないから」

視聴覚室の窓の向こうの雨は、梅雨どころか何度か雷鳴を轟かせるほどに荒れたものに代わっていた。そのせわしない雨音が耳をつんざく。
それで、と腕を組んだ三露は冷たくに言い放った。釈然としないものがある。
「そこまでが君の記憶? そこから後がクダのもの、ということか?」
説明のあいだ、蓮は手頃な机に腰を下ろししばらく口を動かすだけだったが、ここにきて小さな動作を見せた。力なく首を振り「いいえ」とうめいた。
「…記憶は途切れ途切れに。はじめはクダが自分の身体で勝手に動いてもわかってました。何をしたか、どこへ行ったか。そのうち気がつけば場所が変わってたりして…意識がなかったのかと後から知る…」
蓮は口元を抑えてしまった。
蒼くやつれた顔で言葉を切るので、三露は心配になった。しかし覗き込もうとすると「大丈夫です」と返され、三露は動きを止める。平気には見えないがここで押し問答している暇もない。三露は気を取り直して、満月の翌日掴みかかってきたのはクダではなく君の方だろうしね、と冗談めかした皮肉を吐いた。
「でも、ならば…意識があったのならどうにかして僕達に伝えて欲しかったよ」
そうすればここまで長引かなかったのに、と三露が言うと、蓮は唇を噛んだ。
「それだけはいつも、クダに干渉されて……」
「そう…。どうやら仕方がなかったようだね」
過ぎたことを言っても仕方がない。三露は壁に預けていた背を起こし、視聴覚室の扉を一瞥する。蓮の簡単な説明といっても、五分、いや十分は費やしてしまった。三露は組んでいた腕を振り解く。
「ところで蓮。そのクダが入っていた竹筒はどうした?」
三露の問いかけで、蓮は思い出したように制服ズボンに手を突っ込んだ。しかしそこになかったのか、パタパタと自分のポケットを叩き、そして閃いたようにブレザーのうちポケットをまさぐった。小さな竹が、引き抜かれた。
「……ここに」
三露はそれがあっただけでも救いかな、と嘆息する。
「じゃあ、ヒメと真田を探しに行く。十中八九、クダはどちらかに憑いた。管狐は病を流行らせる狐だ。野放しにはできない」
蓮を促し、三露は教室を横断すると扉へ手を伸ばした。憑き狐とは本来、憑かれた人間を弱らせ、死に至らしめる。蓮もそろそろ危ない体調だった。そんな狐を野放しにするわけにはいかない。
難儀なことは、当の狐が管狐の中でも上等な白狐で、今まで三露たちをうまく騙し抜いた小賢しさを持つということ。
「…とりあえず、真田を捜す」
京には昨夜護符を渡している。護符の効力だってたかが知れているが、クダにしてみれば守られている京より真田の方がずっと憑きやすいはずだ。扉に手をかけながら三露は蓮を振り返った。
「君のレーダーでわかるか? 今、真田はどこに?」
「真田、ですか?」
蓮は怪訝そうな顔をしている。三露の意図が理解できないといった表情だった。もしかしたら妹をそっちのけにしたことを怒っているのかもしれない。三露はフォローを入れる。
「ヒメには僕が護符を持たせている。だから、クダが憑くなら真田の方だ」
「護符? …昨日クダが嫌がった、あの…?」
そう言われて三露はふと、蓮が昨夜と今朝苦しんでいた原因は護符だったのか、と思い至った。三露の護符の効力に管狐が苦しんだ。だからそれを持つ京が登校してしまうと、歩き回れる程度には回復できたということか。もしかしたら必死に学校に来たがったのは、クダが護符を疎って別の生徒に憑こうと考えたせいだろか。
そんなことを逡巡したが、今は考えている場合ではない。急がなくては、と扉にかけた手に力を込める。
「蓮、とにかく話は後だ。クダは今どこにいる?」
三露の問いかけに蓮は反応しない。鋭い視線は三露を通り越したどこかへ注がれていた。蓮、ともう一度呼びかけると、やっと小さな返事が返ってきた。
「……そこに」
ごくりと喉がなる。三露は眼を剥き、咄嗟に引き戸を開け放った。教室を後にしたはずのニ人の姿が、そこにあった。

視聴覚室の前に京と真田が佇んでいた。二人は睨みあうようにしてお互いを警戒している。一緒にいるには不自然な間合いが二人の間にあり、開扉の音で二人の膠着状態に鋭い緊張が走ったのを、三露は見た。
雨音のせいか視聴覚室の特性なのか、教室の中の音は寸分も聴こえていなかったらしい。京も真田も唐突に開け放たれたドアを驚いたように見つめていた。
「三露! お兄ちゃん! さ、真田の様子がおかしいの…!」
京は怯えた風に、身を戦慄かせる。
「たぶん…狐が、真田に…!」
「ちょっ…違…!」
真田は肩を一度だけ大きく揺らし、声を荒げた。その手が京を指し、
「俺じゃない、三露、伊織が…!」
「わたしじゃない!」
二人は疑われるなんて甚だしいといった様子で弁解を始める。お互いに自分ではないと言い張り、そして相手を射抜くように睨む。三露はため息を零した。
「ヒメは真田に管狐が憑いてる、と?」
低くうなるような声を出すと、京は神妙な顔で頷いた。三露は半眼に眇めて二人に一瞥をくれる。
「真田はヒメに憑いてると?」
「ああ。……三露、アンタ俺を疑ってるのか…?」
「さあどうだろうね」
三露は肩を竦めた。
先ほど蓮から預かった古びた竹筒を、三露は目の高さまで持ち上げ、まじまじと眺めた。少し古びていることと、封印のために施された文字が欠けていることが気になった。けれど代わりを探す方が大変だろう。
竹筒を持った三露の目つきはずいぶんと冷めたものだったらしい。京も真田も背筋に悪寒でも覚えたように、慌てて半歩退いていた。それを白々しい気持ちで眺め、三露は蓮の名を呼んだ。
「一つ訊いておく。…話を聞くに君はずいぶんクダを可愛がっていたようだけど―――本当にいいの?」
「何がですか」
「…きみが構わないなら、僕も構わない」
「それが、"構う"っていうのが、クダを祓ってもいいかって意味でしたら……」
蓮はわずかにも間を置いてしまったことが憎くてならないとばかりの声で言う。ぶっきらぼうに冷酷な言葉が放たれた。
「―――構いません」
蓮は冷めた表情だった。
「そう」
了承は得た。ならば、と三露は右手の人差し指と中指を揃えて立てた。他の指で竹筒を握り、立てた指は左手の中に握り込む。そして目の前の京と真田を睨み付けた。二人はじりじりと後退った。
鞘から刀を抜くように、三露は握った左手から右手の指先を抜いて持ち上げた。空中を切るように、縦横に指を動かしていく。
「…臨、兵、闘、者」
三露が空中に作り出した縦横の切れ目は、網となり京と真田を縛する。二人のものとは明らかに違う甲高いうめき声が、蓮の名を繰り返し呟いていた。クダの、蓮を呼ぶ叫びが。
「皆、陣、列、在…」
この悲痛な叫びが、どうか術に掻き消されず、かの耳に届くといい。
「前」

臨める兵、闘う者、皆陣をはり列をつくって、前に在り。
臨兵闘者皆陣列在前―――強靭なこの術を、九字と呼ぶ。

九字の術に倒れ込んだのは京の方だった。
何故、と三露は瞠目する。京には護符を渡してあるのだから、当然真田に管狐が憑いているものだと思っていたのだ。それがどうして。
腑に落ちない三露をよそに、確かに、白い靄がふわりと京の元から立ち上った。靄は濃くなり、やがて狐の姿をかたどっていく。術に縛られたまま、身動きすることが出来ないままに。
三露は深く息を吐き出すと、クダに向き直った。倒れた京のことが気にかかるが、今はクダをどうするかが先だ。
「きみの外に出たいという願いはもう蓮が叶えてくれただろう。…さあ、もう竹にお入り」
諭すように優しい声で三露は語りかける。左手に持った竹筒を掲げると、 白い狐が苦しそうに唸った。声にならない悲鳴をあげ、三露の背中では僅かに身じろぐ気配があった。だが、蓮は拳を握って思い留まったらしい。まったく―――三露は苦々しい気持ちでいっぱいになる。
「封!」
鋭く唱えると、クダは竹筒の中へと吸い込まれるようにして消えていった。

三露は財布を取り出し、適当な符を選んだ。いましがた竹筒に押し込めた管狐を外へ出さないように、封印を施す。古い竹筒に、真新しい札。不似合いな紙切れが筒の中に管狐を押さえ込んでいる。
「……」
三露はかすかにため息をついた。心の底から、胸をなでおろすような息を吐く。
これで、今回の一件、原因不明の病と管狐が操っていたコクリの騒動に、ついに終止符が打たれたのだった。三露は手の中の竹筒から目を離し、顔を上げる。
気がつくと窓の外の景色は変化し、雨足は遠のいていた。一時は雷が鳴るほどに激しかった豪雨もその蔭をひそめている。雲の間からほんの少しだけ日が漏れたような気がしたが、あたりはまだどんよりと重く、雨も上がったわけではなかった。
管狐に憑かれていた京は倒れ込んだままだったが、意識は戻ったらしい。半身を起こしかけていたので三露が手を貸して起してやった。すると京のきょとんとした双眼が三露を見据える。真田も同じような顔つきで呆然としていて、どうやら説明が欲しいらしかった。
―――冗談じゃない。
そんな何でもかんでも訊きたそうな眼を向けられても、三露は既に口を開くのも億劫だった。術を使ったせいで消耗が激しい。説明なら蓮に聞いてくれ、と言いかけたところで三露は自分の手の中に気がついた。小さな竹筒が手に余る。
「ところで蓮?」
三露がふり向くと、蓮は俯いたまま顔を上げない。その心情はわからないが、ただぶっきらぼうな声が響いた。
「…何ですか。今回のことで…何か…罰とかあるんでしたらもちろん受けますよ」
「まあ、君が元凶だってことは否定しない。ところで君はその方法を知らなかったようだけど―――管狐は本当は飼いならすことができる生き物だったんだ」
咄嗟に蓮は顔を上げた。その表情は、何ともいえない悲しいものだった。
「……そんなの、」
「飼いならしていない野狐は、誰彼にと憑いて病を広めてしまう。けれど術者なら飼いならすことができる」
管狐と話をし、その願いを叶えてやる。さらに餌付け続けるとその術者に実に忠実な使い魔になってくれる。そんな行程を踏めば君でも、と説明する頃には、蓮は苦虫を噛み潰したような顔になっていた。
「ただしそうしなかった場合、願いが聞き遂げられない野狐は万病を広めてしまう。そういう妖怪だよ、管狐っていうのは。知らなかったんだろう?」
「だって…、クダはそんなこと一度も…」
「言わなかったって? 動物は己の種族の性質なんて語るもんじゃない」
「俺がそれを知っていれば、て言うんですか」
蓮は何もかも自分のせいだと言うように額を押さえた。いや目元を覆ったのかもしれない。この事情を知れば病気は広まることもなく、クダを苦しめることもなかったのだ、と。どうせそんなことを考えているのだろうと、三露にも容易に想像がつく。
そうじゃない、と三露は冷めた口調で言った。
「君は彼女の願いを叶えた。あとは餌付けしてやれば飼いならせるだろうって意味だよ。メス狐だったからね、ところん忠義を尽くす。狐、特にメスはね」
三露は手の中の竹筒を翳す。
「君が欲しいというならこれを託してもいい」
蓮は躊躇ったらしかった。固唾を飲み下している。
「けれど要らないのなら…僕が祓う」
「―――俺は…」
弱々しい声だった。
「ちなみにわかっていないようだから伝えておくけれど、クダは君が弱りきる前に離れた。普通は憑かれたら、衰弱しきって死んでるよ」
「俺は―――」
「別に僕はどちらでも構わない」
けれど蓮は冷え冷えとする声を絞り出した。
「俺は…もう。もうクダなんか要らない」
三露はあえて言わなかった。竹筒の中に、声は届いていることだろう。筒はかすかに三露の手の中で、揺れた。けれどしばらくしてピクリともしない大人しさに変わる。まあいい、と三露は嘆息した。
「悪い話じゃないと思うけどね。すぐ答えを出せとは言わない。しばらくの間預かっておく。気が変わったら取りに来るといい」
三露はいつしか戸口の壁に添えていた手を、力なく降ろした。疲労という疲労が押し寄せてくる。目頭のあたりをじっと抑え、疲れを何とかやりすごした。
「真田。…もう疲れた。帰るよ」
「え、ああ」
それまでずっと黙って成り行きを見守っていた真田は、はじかれたように顔を上げた。先を歩き出した三露の後ろについてくる。それを一瞥して確認し、三露は冷たい声で問いかけた。
「…そういえば真田。どうしてヒメに狐が憑いたんだ?」
「え、そんなの…俺が訊きた…」
「ヒメが持ってるはずの護符。……君、持ってるんじゃない」
問いかけというよりは非難というべきか。図星を指されたらしい真田は一瞬ギクリと動きを止めた。―――やはりか。
「これは、その……伊織が、くれて」
「それは僕がヒメに書いたものだよ。どうして君が持ってるんだ? ……結局、ヒメを護りきれなかった」
校舎の階段を降りながら三露は出来るだけ平静に聞こえるようぼやいた。視聴覚室に残してきた伊織兄妹は、結局両方とも管狐に取り憑かれたことになる。憑かれるのは意外に体力を消耗するのだ。東果の術者が揃って憑かれてしまうとは、と嘆きたかった。疲労している二人に対するサポートも考えていかなければいけない。それを思うと頭が痛かった。
「少し乱暴な言い方だけど―――君が憑かれたほうが都合がよかったからね。もともと真田は憑依されやすいんだよ。いつも悪魔を自分の身体におろしてるだろう。ヒメよりも負担は少なかったはずなんだ。それなのに、どうして君が護符を?」
自然と責める口調になる。階段を降りながら三露は真田と目を合わすことなく容赦ない問いかけをした。すると真田は足を止めてしまう。真田がついてこないことに気がついた三露も踊り場で足を止め、最上段より少し下で立ち止まっている真田を見上げた。
「…伊織は、俺が落ち込んでたから励まそうとして」
「落ち込むのは君よりヒメの方だろ? 蓮が倒れて、昨日からずっと塞いでた」
「……倒れた伊織の兄貴を見て、思い出したんだ」
掠れた声で呟かれた真田の言葉はごく小さなものだったはずなのに、静まりかえった授業中の廊下には嫌になるくらい響いた。今は二人とも立ち止まってしまい、足音すら響かない。
あぁ、と三露は心の中で嘆いた。こんなことなら真田を連れて来なければよかった。一乗寺のことで落ち込んで、学校潜入で気を紛らわせればいい、と頭の片隅で考えていたのだ、本当は。嫌がる真田を黒髪に染めさせてまで連れて来た気遣いも裏目に出てしまった。
「伊織の兄貴は無事でよかった。よかった……死ななくて」
真田の口から「死」という言葉が出て三露はギクリとした。真田は今まで無意識だろうがその言葉を避けていたはずなのだ。それなのに口に出した。真田の中で一乗寺の死が確定したということだろうか。
事実を受け入れるのは大切なことだ。しかし三露が思わず息を呑んだのは、真田の声があまりにも淡々としていたせいだ。思わず凝視した真田の顔は、上手く表情を読みとることが出来なかった。いつの間にか真田の背後の窓には雲の途切れた空が映し出され、切れ間からは日の光が射し込んでいた。それは逆光となり、三露のほうから真田をただのシルエットにしていた。
「……帰ろうか」
それだけ言うと、三露は真田に背を向けて強引に会話をうち切った。手に握った細い竹筒をそっと手の平の中で転がす。
東果で起きた事件は解決し、後に残ったのはこの竹筒と伊織兄妹の疲労だった。―――そのはずだ。もう仲間を失った喪失感はどこにも存在しない。
少なくとも三露はそう思っていた。
「……帰ったって、誰もいないじゃないか」
しかし聞こえてきた真田の声は三露の思いを裏切り、涙さえ滲みそうなほどに痛切だった。




           

 





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