鎮魂―――たましずめ。
武政の出した条件に三露は息を呑んだ。

「条件って…」
三露と武政は、しとしとと降り出した雨を避けるようにして一乗寺家の居間にいた。腰を下ろして向かい合っている。家の外が急に雨足を激しくしたが、三露はまるで音という音を締め出したかのような静寂を覚えていた。いやに無音で、やけに静かな和室。
「……一乗寺の鎮魂を?」
それは一ヶ月ほど前に居なくなった果京の術者の一人、この家の家主の名前だった。彼はこの世を捨てて、愛している精霊を追って離魂をした。いま三露の目の前に座る武政とは、幼馴染とだけ聞いている。三露より十ほども上回る歳の二人の関係なんて詳しく知らないが、武政は珍しくふざけた様子もなく、揶揄する素振りも見せない。
ただ何を考えているのかわからぬ目で三露を見据えている。
「それは…、その条件は」
三露は数度、紡ごうとした言の葉を見失って、意味も成せずに唇を震わせた。
一乗寺の鎮魂? そんなことが出来る? …僕に?
気づかぬうちに、三露の眉間に皺が寄りはじめる。
「それは……努力はしてもいい。けれど確約はできないよ」
僕にはそんな力があると思えない、という言葉を、三露は喉の奥へと嚥下した。
仕方がない。所詮三露は力を宿す器には認められたが、総帥ほどに力があるわけでもない。
「だから必ずできるとは言い難いけれど」
三露なりに絞り出した返答に、武政は満足いかないらしかった。鋭く目を細めたかと思うと、厳しく一蹴される。
「残念だな。ならばこの仕事の話はなかったことにしよう」
「たけま…」
「ああでも」
早くも席を立とうと腰を浮かせる武政が、不意に笑った。
「三露、お前が出来ないというなら…"総帥"でもいい」
三露はぎくりとして唇を引き結ぶ。
「何せ総帥ならそれくらい出来ておかしくないだろう?」
にっと笑う武政の目は確信にも似た何かを物語っていた。確かに、三露の身体に宿っているのは組織の頂きに君臨するほどの能力保持者だ。
「武政、それは…」
「まあ俺以外に仕事を頼めるアテがあるなら構わないさ。ただ俺はこの条件を呑んでもらわない限り働く気はない。それにこちらはお前が依頼するつもりらしい"事件調査"に加えて"解決"までしてやろう、と言っている。それにしては……芳しくない返事で残念だ」
武政は鼻で笑った。
三露は黙り込むしかない。武政が適任、この男ならさっさと片づけられるだろう、そう見込んだから頼むことにしたのだ。他に頼み手もなかった。人員不足のうえ、三露自身が雑務で手が塞がっているくらいだ。他に任せられる術者なんていない。
「そうは言うけど…武政」
「なに、俺が事件解決できなかったらその条件も意味を成さない」
武政が事件を解決させることができたならば、三露は鎮魂の協力をする。武政はゆっくりと、交渉内容を繰り返してくる。
「それに協力が約束できないと言うなら別に『総帥に会わせる』と約束するだけでもいい。自分で本人に交渉するさ」
「………」
「さて、どうする?」
武政は最終確認とばかりに、すでに縁側に立っていた。ふり向くようにして三露を見、ノーと言えばすぐさま帰るといった雰囲気だ。三露は投げやりにもなりたい心地で盛大にため息を零した。仕方があるまい。
「―――いいだろう」
ただし、そうやすやすと呑んでやる気はない。
「次の満月の日までに仕事を片づけて来たら、だ。そのときは否応なしに提示条件を呑むよ」
「…次の満月?」
武政はさも面白そうに笑った。
「言ってくれるな、総帥さま」

あと二日か、と小さく呟かれた声が霧散する。


* * * *


ミサの元に武政から連絡が入ったのは、月が綺麗な夜だった。わずかに欠けた十四夜の月を窓ガラス越しに眺めていたミサの耳に、高らかな音が届いた。電話が鳴っていると気づき、ミサは慌ててカーテンを引く。一枚の布に覆われ、夜の景色が閉め出された。
「はい、もしもし…」
だが、そんなお決まりの言葉を黙殺するかのような電話だった。
『明日、迎えに行くから』
ハ? ――― そんな言葉さえ出なかった。
この声は武政のものだとわかるまでに時間を要し、急に連絡してきたかと思えば何を唐突に、と思い至るまでさらに数秒要した。茫然としたミサは、この電話に返事も抗議のひとつも言えなかった。
『バス停のある広い道があったろう。あそこで十時に待ち合わせ、でいいか?』
うん、と言う隙すらなく。
『…遅れるなよ、じゃあ』
ミサが長い睫毛を震わせて瞬いたときには、すでに通話は遮断されていた。ツーツーと虚しい音が響き続けている。
「………え、えーと?」
ミサは受話器を不思議そうに眺めるしかない。


翌朝を迎え、草木からは朝露がこぼれ落ちる。運が良いのか、昨夜からは雨雲ひとつ見かけない天気だった。梅雨の合間に見せた心地よい快晴の日。しかしミサは朝から逆居の田舎道へ出て、盛大に顔を顰めていた。
待ち合わせの相手が姿を見せたら、開口一番、文句をまくし立ててやる。ミサは憤懣を抑えながらそっと胸のうちで決心した。言わなければ気がすまない。
何で私がこんな目に遭うの、と。

「だからちっとも意味がわからないわ」
「何が?」
しれっと言う武政に、ミサは苛立ちを覚えずにはいられない。
「何で私があなたに呼び出されて、貴方の車に乗ることになったのか、よ!」
待ち合わせ時間ほぼぴったりになって、約束の場所にやってきたのは武政の車だった。グレイワインの車が目の前で停車したが、よもや武政が運転手だと思わなかった。気づいたときには心底驚かされた。
目を丸くしている間にも、乗れと指示をされミサは助手席に入り込む。他所の家の香りが鼻をくすぐる車内は、目に付く荷物もなく整然とした清潔感の漂う空間だった。まるではじめて他所宅にお邪魔したときの気分にも似て、ミサはわずかながらも緊張してしまった。
おかげでぶちまけようと思っていた言葉もうまく出ず、ようやく出せた抗議の言葉―――どうして自分が武政の車に乗ることになったのか、本当に説明してほしい。
「だいたい…なんで車なの?」
ミサは不貞腐れたように口を尖らせた。気づかれぬようハンドルを握る武政を盗み見るが、その視線もあっさり気づかれたらしい。慌ててミサは彼に背を向けた。
「だ、だって私あなたが免許もってることだって知らなかったわ。待ち合わせ場所に来たのが車だなんて驚いたのよ、かなり! 何で車だったの」
「免許を取ったのは学生の頃だ。心配しなくても運転慣れしてないわけじゃないから」
「………ふぅん」
「事故なんて起さないから、安心して座っていろ」
助手席に座り慣れないせいか、ミサは乗り込んでこのかた気がつけばシートベルトを握る手が力んでしまっていた。確かに本人の言うとおり無理な運転ではない気がする。ミサは脱力するようにシートに深く腰を埋めた。そしてため息をひとつ。
「…なんか、いろいろ腹立たしいわ…」
「うん?」
人の気持ちを見透かすようなところも、しれっとした態度も。
「私はこれでも久しぶりに会うから少し戸惑いだってあったのに」
武政と会うのは一ヶ月ぶりだった。ミサは記憶の糸を辿る。最後に対面した記憶は、彼の幼馴染の一乗寺が倒れたときだった。直前に門前で力なく背を預けていた武政の姿が頭から離れない。
いつも薄く笑みを浮かべて心情を押し隠す武政なのに、あの日は憔悴した印象がミサの記憶にこびりついていた。まして、一乗寺が命を手放したあとの武政の印象なんて、とミサは胸がつまりそうになった。
それなのに武政ときたら急に電話をよこしたかと思えばミサを呼び出し、あっけらかんとして現れた。気落ちした様子など微塵もない。昨夜から武政に会ったらどう対応しようと不安で、ミサは相当悩んだのに。悩みすぎて怒りに還元されるほど、思いつめたというのに。
そのうえ彼ときたら、と思う。ミサは隣の男を睨む目に、冷ややかな気持ちを込めた。
「それに、はぐらかすんだもの」
「……はぐらかす?」
「そうよ。何で車で来たのよって私訊いたのに。その答え、はぐらかしたわ」
思い当たったのだろう。武政はふっと笑みを零した。この様子なら故意にはぐらかしたに違いない。
「それに『何で車なの』って訊かれたら、今日の目的だって言ったっていいはずだわ」
まったく恐れ入るよ、と武政は言い、片手でミサの前のダッシュボードを指差した。
「そこに資料が入ってる。見るといい」
「資料?」
「二日前、総帥さまに仕事を依頼された。その資料だ」
ミサは資料とおぼしき数枚の紙に手を伸ばす。

ミサは資料と武政を見比べ、小首を傾げた。いまだ資料を読み出せずにいるところを見ると、先の武政の発言が気になったらしい。総帥さま、と言ったせいだ。
「総帥? 三露?」
ミサも武政も―――ついでに言うならば一乗寺も、三年前にあった三露が"総帥"を宿す儀式に出席した人間だった。満月の夜に"総帥"という人格が現れることを知っている。
「三露のほう。昼間に会ったからな」
「その三露があなたにどんな仕事を?」
隣のミサが資料の字を辿り出し、武政は語り伝えるように仕事内容を思い起こす。


一乗寺家の居間に雨音が響いていた。

三露が武政に、何枚かの資料をよこす。
「今、京都でちょっとしたボヤ騒ぎがニュースになっている」
梅雨が明けきらない季節はずれの放火事件だ、と騒がれている事件だった。武政が覗き込む資料には、さらさらと機械的な文字が並んでいる。それを辿るようにして視線を流し、次のページへ次のページへと資料を繰る。さっと目を通しきると武政は笑った。
「―――これで資料として役立つのかねぇ」
「だから、君に調査してくれと依頼をしている。この事件…ほんとうに何もわかっていないんだ」
火元の痕跡も見当たらないのに、火の手を見たという。ボヤ騒ぎということになっているらしいが、世間ではちょっとした噂が流れている、と書かれていた。
「…"火の玉だとか、自然発火だとか…という噂もあり"、ね」
どうやら京都に配属している術者も怪異とはわかっているらしいが、さっぱり事件の外形が掴めていないらしい。武政の手に渡った資料には的を射ない情報ばかりだった。
武政は腕を組むと、そっと呟いた。
「放火、自然発火、はたまた単に盆の時期でも間違えた荒魂なのか…」
いずれにしても手がかりの欠片もない、と武政は鼻で笑った。まったく面白いほどに何もわかっていない。小馬鹿にしたような態度に三露が咎めるような目をしたが、結局何を言うでもなく静かに立ち上がった。
「…それを調べてきてくれ、武政」
君なら適任だろう。三露はそう言って踵を返す。
こういった仕事―――情報収集は武政の得意とする領分だった。


「京都の、人魂?」
隣のミサが資料から顔を上げた。
「人魂と決まったわけじゃない。放火かもしれないし、自然発火かもしれない、という事件らしいな」
ハンドルを握る武政が見据えた先に、高速道路が見えてくる。逆居の田舎風景から景色が変わったことに、ミサは気づいていないらしい。資料から顔をあげるなり、目を丸くして武政を見つめてきた。
「え、だって"火元の痕跡も見当たらないのに"って書いてあるじゃない。火ではないってことじゃないの?」
つい、武政は口篭もった。
「………そこをつくかな」
「え?」
「さてね、何とも言えない。…ちなみにそれを、次の満月までに片付けてこい、というお達しだった」
「―――え?」
ミサの身体はわずかに運転席に乗り出してくる。
「次の満月? 次の満月って…。私の身間違いじゃないのなら……あなたから電話がかかってきた日、ずいぶん丸いお月さまだった気がする」
ご名答、とつい笑ってしまう。
満月は今日だと教えてやり、途端に勢いよく資料に顔を寄せ目を凝らしたミサを、武政はそっと窺った。
「ねえ仕事の依頼を受けたのはおとといってことは…まだ取りかかっていないの?」
「さてね」
「まさかとは思うけど、今日これから行くんじゃないわよね?」
「ご名答」
面白いほどに大きく肩を震わせ、ミサは己の頬を両手で挟む。
「これから!?」
「もちろん」
「だって、この仕事…京都じゃない!!」
武政はゆるやかにスピードを落とし、高速インターで発券を受け取った。

まあまあそう怒るな、と取り成してくる武政にミサは頬を膨らまして黙殺を決める。そんなミサの態度にこたえた様子がない武政が腹立たしい。けれどミサが黙ると車に異様な空気が流れ、気まずくなってしまい、最後には少女も観念した。仕事は手伝わないから、とミサがつんと顎を突き出して主張し、武政も別にそれでいいと相槌を打つ。まったく、唐突に逆居を留守にするなんて気が引けるというのに。
「…それと。着いたらおいしいものが食べたいわ、きさら」
ミサが言うと、武政は笑う。
「わかった」
仲直りの儀式のように、二人はお互い目を一度だけ視線を交錯させた。
それで流してしまいたいが、ミサはなんとなくそれでも飽き足らない苛立ちを覚えていた。ついちくちくとぶつけずにいられない。
「……まったく、怒ったら疲れちゃったじゃないの」
武政は意に返そうともしないから、つっかかりたくなるのだ。
「疲れたなら寝てていいぞ。着いたら起こす」
「寝ないわよ」
「お子さまはそろそろお昼寝の時間か」
「寝ないったら」
子供みたいに扱うんじゃないわよ、と啖呵を切ったのはいいが、ミサはしばらくするとうとうとと溶けた眼を瞼の奥に隠してしまった。


―――懐かしいな、と思う。

河川敷に座ったミサの隣に一人の少年が腰を下ろしている。彼はそれから十年経って成長してもすっきりした顎のラインと澄んだ目の面影を残すか、とミサは微かに思った。小学生高学年ほどの子供のくせに、奴はこの頃から人を喰ったような笑顔を垣間見せる少年だった。
だが、今日は珍しく不貞腐れた目をしている。
「この組織、つまらないな…」
声変わりする前の子供だが、妙に大人びた薄い笑顔をつくる。普段は組織の大人たちの前で、ころころと少年らしく笑うのだが、気を許した相手にはこういった人の悪い笑顔を見せる。つまりあの少年面は演技というやつらしいから、ミサも呆れずにはいられない。
「つまらない…て…、何が?」
「どこもかしこも大人だらけ。同い年の人間がさっぱりいないしな、つまらない」
「武政…そう言うくせに学校もつまらないって言うじゃない」
まだ彼を武政と呼んでいた頃だ。武政は子供の割にしっかりしていて、組織の大人たちに至極かわいがられていた。武政も満足したようににこにこ笑っていたのに―――彼は心の底で不満を持っていた。
ミサがそれをなんとなく気づくまで、少し時間がかかったのを覚えている。
「学校? 学校なんか冗談じゃないね、組織よりつまらない」
彼は母がいない。構ってくれる父もいない。己をわかってくれる人間もいなかった。己の苦しみを理解できる人が。武政は孤独な子だったから、同じ境遇の人間を希っていた。
「別に私の知ったことじゃないけれど…あなた友達いなそうね」
「心配するな、俺は人気者だ」
揶揄したように気取るから、ミサはため息をつく。
知っている。彼は組織でも学校でも周囲の人間に良く好かれるのだ。
「ああでも」
武政はちいさく笑った。口の端は大して上がらなかったのに、目元が細くなる。武政にしては珍しい、とミサが思う優しい笑顔だった。
「…ひとり、友達になれそうな奴がいるんだ」
たったひとりと言うのか。
「近くに住んでないし今は無理だけど。いつかミサにも会わせてやるよ。…そのうち、組織に入ることになるから」
「組織に……」
ミサはきょとんとするしかなかった。
「そのうち、な」
武政が楽しそうに空を仰ぐ。近くに住んでいないというかの友人の土地に続く空を、振り仰いでいた。

武政はずっと、自分をわかってくれる友人を待ち望んでいた。
そして何年も待った友人を一ヶ月前、失ってしまった。


夢うつつにミサは車のエンジン音に耳を傾けていた。
何でもない様子を装って、それでも武政は無理をしていたように思う。一乗寺家の門前でぐったりと背を預けていた武政を思い出すと、ミサはどう接すればいいのか困ってしまう。胸が小さく痛んだ。
いま目を開けて武政を見たら、憐れんでしまうだろうか。それは気が引けて、ミサは小さく身じろぎをするだけに留めた。シートに頭を預けなおして、さらさらと髪を肩から零す。
しかしそんな些細な音に武政は気づいたらしい。
「…ああ、起きたのか」
ミサは罰が悪い気分で嘆息とともに観念して、顔をあげた。窓の外に目を向けるふりをして、武政の顔を覗き見る。
「ミサ? どうかしたか?」
「私…さっき夢を見たわ。懐かしい夢」
「へえ?」
寝ぼけたようなミサの声に、武政が目を細めて笑う。いつかに似たやわらかい笑顔が浮かぶ。
ミサはフロントガラス越しの景色を見ながら、ふと思い出す。
車の運転は、運転手の性格を映し出すと聞いたことがある。車という狭い密室では気が抜けて本性を晒してしまうのだと。
―――なんて繊細な運転をする人。
心地よい車の振動にミサは再び瞼を閉じた。ひつじを数える代わりに一定リズムのエンジン音、ゆりかごの代わりにゆるやかな振動。眠気を誘う静かな運転に身を任せながら、ミサは瞼に力を込める。

私の方が悲しがって、どうするの。



           

 





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