車は徐々に、着実に、京都へと距離を縮めていた。

「実は」
隣の武政がそんな言葉を呟いたのは、ミサが眠りから覚めてしばらくしたころだった。いつしか口数も減り、エンジン音以外聴こえなかった車内の沈黙を武政が破る。突然かけられた声に、ミサは剣呑なものを覚えた。ふり向けば武政は声ばかりか、表情まで硬い。いつものように笑うこともしない。
すっと細められた目元に、感情は滲んでいなかった。
「前にミサに会った日を覚えているか? …一ヶ月前になるか」
一ヶ月前、とミサは反芻して、慌てて手のひらで口を覆った。前―――最後に武政に会った記憶は、一乗寺家の門前でぐったりとしていた彼だった。直後一乗寺に異変が起こった日。あの場に居合わせた誰にとっても、悲しい日だった。
中でも幼馴染の武政は応えたのではないか、と思われるからミサは心苦しい。
「あの日は、久幸を連れて京都に行ったんだ」
「え…?」
薄い唇がさらりと言う。ミサは運転席を凝視せずにはいられなかった。
「丁度果京に帰ってきたところで、ミサが来た」
「……京都で何かあったの、と訊いても構わないかしら…?」
「―――何か、か」
そうだな、と武政は片手で顎を撫でる。思案するようにしてから、料亭で腹ごしらえをした、と言った。腹ごしらえに懐石料理を食べ、一乗寺ときたらろくに味わいもしないで、物騒な面持ちで店の者に話をつけにいくと言うので、呆れながら止めてやった。その後は昔話を白状したりした。
ミサにはいまいち話の概要が掴めなかったが、武政は思い出したように小さく失笑を零した。
「…あとは…」
ふと翳りを帯びた声に変わる。
車のエンジン音がいっそう際立ったように響いた。
「久幸に、…お前なんか要らないと言われたな」
「……え?」
次の句もかけてやる言葉もいっぺんに喉に詰まらせたミサの前で、武政の言葉が波紋のように広がっていく。

―――まったく残酷だと思う、久幸は。
ふとシートに脱力しかけ、武政は運転中だったと己の身体を叱咤する。
これでも過去をしらばっくれず赤裸々に語ったのに、返ってきたのは武政を否定する言葉だとは。正直それなりの衝撃を受けた。必要ない、と言葉が武政を追い立てる。何を否定されたのか一瞬戸惑いさえした。己を、否定されたというのに。
けれど、と武政は思う。六年前のあの日、一乗寺の松珀に呪いの言葉をかけた自分も、至極残酷だったに違いなかった。
だからあの日、松珀は忽然と消えてしまったのだ。



六年前のあの日、武政は松珀に呪いの言葉をかけた。

夕暮れの陽を浴びて、黒装束に身を固めた人間たちが一軒の日本家屋へ向かって行く。黒いスーツに袖を通した二十一の武政は、同じく黒い身なりの父親の横を歩いていた。
今日は、一乗寺の養父母の通夜だった。
武政は家を出てからこの道まで、ろくに父親と会話を交わさなかった。隣同士で歩くなんて珍しく、幼い頃から疎遠だったおかげで、互いに言葉をかけようとしなかった。ところが一乗寺家も間もなくというところで険しい顔つきの父親に声をかけられ、武政は何、と憮然として返事をした。
「明日の告別式、喪主を務めるのは例のあの子か」
質問を渡しておいて、父親は武政の顔を見ようとしなかった。だがいつものこと。小さい頃からこんなものだった。
「例のあの子って何」
互いに感情の篭らない言葉が飛び交う。
父の言う"喪主"、とは一乗寺を指しているのだろう。養父母の葬儀で喪主を務めるのは里子といえど一乗寺しかいない。しかし、気に喰わない物言いをしてくれる。
例のあの子、という言い回しに含みを感じずにはいられない。
「昔、お前がこっちに引き取りたいと言った子か、という意味だ。高校にあがる前、お前がそんな話を持ってきた」
「………」
「忘れたのか」
「…とぼけていただけだ」
武政は中学三年生のとき、父親に"交換条件"を持ちかけた。孤児院にいる一乗寺をこっちに引き取って欲しい、と父に言った。ほとんどはじめて正面から会話した、と思ったのを覚えている。
武政は小学生の頃からよく家出をしていた。武政家は不仲なのだ。武政の母は、武政を産むなり亡くなり、生き形見となった武政だったが、幼い頃にすでに能力が開花してしまっていた。その片鱗を見たのか見ないのか、父親は武政を嫌悪している。いや、見向きもしなかった。
武政の世話にと雇われた中年の家政婦ですら、武政を気味悪がっていた。
広い家だったが居心地が悪く、武政は小学校の頃から家出を繰り返していた。しかし無駄に度胸を備えていた武政の家出とは、新幹線に乗って遠出、どうせ誰も迎えにこないからと言って気が向いたら帰る。そんな可愛らしいとは言い難い家出だった。そんなあるとき、一人旅にも似た家出を数度繰り返し、京都へ出向いた。
古びた京の田舎にあった孤児院。武政はそこで、一乗寺と会った。
こいつ能力を持っている、と気づいた。どこを探してもいなかった同じような境遇の人間に、ついに会ったんだ、と胸の中の何かが弾ける気分だった。
それからは情報屋まがいの裏稼業に足をつっこみ、家出資金を工面しては京都へと通った(これでも小学生の頃の話だ)。そのうち組織に誘われて、いっそう金には困らなくなった。それを数年繰り返したのち、武政は父親に頼みごとをしたのだ。交換条件だと言って、一乗寺をこっちへ引きとって欲しい、と話を持ちかけた。
そのかわり武政の名に恥じないだけの、良い高校、良い大学を出てやるから。
「あの子は」
黒い服を卒なく着こなした父親は、眉間に皺を刻んで言う。
「あの子は頭の良い子だったようだが、とんだ疫病神だな。うちで引き取らずに済んでよかった」
運良く父の知り合いで、医者の一乗寺家に引き取ることになった。だが、もし近くに里親を見つけられなければ、武政家で引き取ることになったのかもしれない。
「いずれ医者を継がせるつもりだったらしいが、こんなにも早いとはな―――うまくやったもんだ、あの子は」
「"うまく"?」
「どこの馬の骨ともわからぬ子があれだけの財産を受け取ったくらいだからな」
随分な言われようだった。
だが今道行く人間のほとんどが軒並み口を揃えて「あんな子供が」と密談する。それを、武政は耳聡く聞き取っていた。距離をとって歩く声を落とした批難を、一字一句漏らさず聞き取ることが出来る。『動物並みの五感を使える』、それが武政の能力だった。
組織に入るときの書類には、加えて『動物も操ることも出来る』と記した。耳をすませば遠くで交わされるひそひそ話も聴こえ、その上カラスや犬を使って気に喰わない人間を襲わせる能力が武政にはあった。
今だって、一乗寺を貶す弔問客や父親を野犬に噛み裂いてもらうことだって容易い。ただ、そんな馬鹿なことはしまい。
周囲は「うまくやった子だ」と言うが、武政は武政なりに例に漏れず一乗寺のことを「よくやった」と思っていたのだから。

武政の聡い耳は、真実を聞き逃さなかった。
心臓発作で死んでしまった養父母は、一乗寺が殺してしまったのだ。能力を目覚めさせた反動で、養父母を殺してしまった。
幼い頃に出会ってから、武政はまだ能力を開花していない一乗寺をいまかいまかと待っていた。同じように苦しい境遇に立つ人間をずっと待ち望んでいた。一度ミサにも言ったかもしれない。"ああでも一人、友達になれそうな奴がいるんだ"―――同じ境遇の人間だったら、わかってくれるだろうか。この、酷い孤独を。
そして待ち焦がれた中、ついに一乗寺が目覚めたという。よく目覚めてくれたと思う。よくやった、と言いたい。今年で二十一歳、武政は実に十年以上待っていたのだった。


陽が落ちていく。武政は通夜が始まるには少し早い時間に門をくぐった。傍目に通夜の準備に追われている様子を眺めながら武政は、身なりを黒で堅めた一乗寺の前に顔を出す。武政の父親はというと、門をくぐるなり顔見知りに足止めを喰らっているようだった。
「……やみ、申し上げます」
「………」
やはり、と確信を覚える。幼馴染が能力を目覚めさせたことを、武政は一目見てはっきりと感じとった。話かける前に思わず笑みを零しかけたが、そんな感情を押さえ込んで挨拶を交わした。しかし、顔を上げた武政は違和感を覚える。
あれ、とかすかに思う。歯車が小さく軋むように、何か納得できないものを感じた。
「そういえばお前、他のやつらになんて言われてるか知ってるか?」
耳にしてきた謗りを伝えてやるが、一乗寺はいつもとさして変わらない様子だった。両親を失った悲愴な様子は皆無で、そんな一乗寺を武政は吟味するかのごとく眺めた。
「別にどう思われようと構わない」
「……ふぅん。意外だな、もう少し参ってると思ってたのに」
「別に」
「仮にも両親を亡くした可哀想な子供なんだから、もう少し悲愴な顔でもしたらどうだ」
抑えていた感情が、薄い笑みとなって口元に浮かび上がってしまう。
一乗寺が今、武政と同じ境遇に立った。能力を思って同じように苦しむ仲間が出来た。ついにだ。だが、そのはずなのに。武政は薄い笑顔が徐々に凍りついていくのを感じた。何故一乗寺はこんなにも、平気な顔つきをしているのだろう。
「可哀想、か。よくわからないな」
一乗寺に感じた違和感の正体を思い知る。幼馴染がまったく苦痛を覚えていない、それどころか能力に感謝しているかのように僅かに穏やかな様子だった。一挙一動に滲む朗らかさが、武政の脳裏に鮮明に焼きついていった。
気づくと皮肉な笑みしか、浮かんでこない。武政は相槌を打つしかなかった。
「それは…そうだろうな」
歯車がかみ合わないような歯がゆさにギクリとする。冷静をやっとのことで保ち、木槌で殴られたような衝撃を反芻しながら、静かに頭に血がのぼっていくのを感じていた。
だが、一乗寺は言ってのける。
「……ひとりきりなんて、当たり前だ」
「………」
「今まで一人でなかったことなどなかった」
一乗寺は両親も家族も、友達と呼べる人間だって人生で一度たりともいなかったと語る。静寂に降りる落ち着いたトーンが、武政の鼓膜を打つように響いていた。
よく言う。誰も居なかった、とその口が言うのか。
友だっていない、と言われたことすら、武政の心に小さな亀裂を産む。一乗寺は理解していないのだ。何も、何ひとつ。武政は吐息のような笑いを漏らしながらゆるく首を振った。己の中の激情を押し隠すことしかできなかった。
―――お前の周りには、いつだって精霊だとか何だとかが、いっぱいいた。見えていなくても、能力が目覚めていなくても、ずるい、と思わずにはいられなかった。
それに、と悔しさが喉をせりあがってくる。
―――それに、俺のことも数には入れないんだな。お前は。
「……馬鹿だな、お前が一人きりだって? よく言う」
ほんとうに、よく言う。

いつかミサに言ったことがあっただろうか。
組織で唯一信頼をおける少女に、いつか河川敷に腰を下ろして語ったような気がする。―――"ひとり、友達になれそうな奴がいるんだ"。たったひとりだったんだ。

不意に黙ったからか、一乗寺は武政の顔を窺っていた。
「どうかしたのか、…きさら」
急に黙り込んで、という目だった。武政の幼馴染は普段人に気を遣うタチではない。どうやら幸せだとそういった気遣いもできるのかもしれなかった。一乗寺は話していないが、武政は庭に佇む一本の松の木から生気が消えているのに気づいていた。恐らく精霊使いとしての能力を使って、松の精霊を何かの"依り代"に移したのだろう。一乗寺家に引き取られてから松の木を心の拠りどころにしている節すらあったから、武政にはすぐ見当がついてしまった。
訝しんでいる一乗寺に、武政はいつもの調子を装った。
「なんでもない。それよりお前、そろそろ故人に付き添わなくていいのか」
家の前ではぞろぞろと黒装束の人間が集まり出している。慎んでいるようだが、それでも雑談が庭まで届く。
「通夜がはじまるぞ。故人の代わりに弔問を受けるのがつとめだろう、お前は」
「……ああ」
一乗寺はどこか腑に落ちない顔つきだったが、養父たちが横になっている居間へと踵を返していった。その姿を冷めた目で眺めながら、武政は胸の奥にひややかな感情で満たされていくのを感じていた。芯に染み入る、静かな怒りだったのかもしれない。

午後六時半頃だったか、七時を前に、通夜が始まったようだった。空から紅が姿を消して闇の帳が下ろされる。予定より早く弔問客を通したらしく、人がしずしずと集まってきた。
いくら医者で顔の知れた一乗寺夫妻だとしても多くは告別式に足を運ぶから、通夜はさほど困難ではないはず。だが、黒い人影は後を絶たなかった。
それを、武政は二階の窓から見下ろした。
窓ガラス越しに闇夜と人影が見える。夜目どころか、動物なみの五感を行使できる武政は、しっかりとその様子を見てとっていた。門をくぐる人が見え、庭が見え、精霊が抜けてもぬけの殻となった松の木が一望できた。
「………」
武政は一乗寺に黙って、彼の部屋にあがりこんでいた。
何度か遊びにきたことのある家の造りも、部屋模様も、武政はしっかり覚えている。一乗寺の部屋の位置もその部屋の様子も変化はない。武政は不意に、窓際から離れて机の上に視線を落とした。勉強机は辞書やレポートの類で木肌が隠されていたが、一角だけ精一杯本類をどけたところがあった。そこに飴色の琥珀石が丁重に置かれている。
かつて、武政が武政家の蔵から拝借したものだった。
蔵のものは売り払って家出資金にしたりした。父親への嫌がらせにもなって金にもなる。巧みな算段だ、とばかりに武政は小さな犯罪まがいの所業を繰り返していた。けれどある日見つけた最上級の値段がつく琥珀石は、趣深いものが好きな"友人"にあげたのだった。
「…この中に宿すとはね」
琥珀石はいつか見たときより、美しい石に見える。精霊が宿ったせいで、飴色が生気が灯ったように煌いてすらいた。
「―――久幸は"松珀"と名づけたらしいな? はじめまして、松珀」
一乗寺家の松の木なら何度だって目にしていたから、はじめましてと言うのもどこか違うかもしれない。
揶揄するような響きで述べた挨拶に、琥珀石はキラリと光ったようだった。
「でも、次はないかもしれないな」
挨拶を交わすことなんて。禍々しい気持ちが込み上げる。
「…久幸に、お前なんか必要ない。松珀」
だから次お目にかかることなんてなければいい。
「能力が目覚めて真っ先に召喚されたのはお前だろう? 久幸の養父母を殺したのもお前。そんな精霊、久幸はほんとうに必要としてたか?」
琥珀石が鈍く光ったように思えた。
「お前なんか、…いなくなればいい!」
本音を言うと、同じ孤独をわかってほしかっただけだ。


―――この度はご愁傷さまでございます。
―――ありがとうございます。故人もさぞ喜んでいることと思います。
一乗寺は正座をして後を絶たない弔問客に返事をする。決まりきった文句を憮然に言い列ね、通夜の儀式を繰り返していた。だがふと、天井を見上げてしまった。
「……?」
雨か、と思った。だが空気は嫌な心地の湿気を含んでいない。何故か雨音にも似た音を聞いてしまった気がして、そこを見ずにはいられなかった。
誰かの泣き声か。雨音にも似た水音が、胸に過ぎっていった。


* * * *


―――お前なんか必要ない。

むかし松珀に言った禍言(まがごと)を、一ヶ月前一乗寺から受け取った。
お前なんか要らない、と言った幼馴染の顔を、武政は冷めた心地で見返していた。雨に打たれる中、皮肉な笑顔ひとつ作れないあたり、あのコトダマに宿ったものは相当だったのかもしれなかった。

「きさら…」
ミサが悲痛に似た声をあげるので、武政は失笑せずにはいられない。滅入る声を出さないでくれ、と笑って流し、フロントガラス越しの京都を見た。道を抜ける。車は高速道路を下り、京都の田舎道に分け入っているところだった。
「そろそろ着く。昔話は終わりだ」
「………うん」
ミサはしんみりとして頷いていた。
それから数十分。少し狭い道を走り、車をようやく停車させた。やってきたのはぽつんと佇む一軒だけの甘味処だった。
ミサが店と武政とを見比べている。納得のいかない顔で武政に視線を渡し、続いてどこか敷居の高そうな店構えに後込みするを見せる。格式の高そうな店に物怖じしているらしかった。そんなミサを促して武政は降車する。店まで数歩行き、真新しい木製の引き戸に手をかけた。
「待ってきさら! ここは…?」
後ろを歩いてきたミサが唐突に武政の服を引く。
「甘味処。さて、約束の美味しいものを食べようか」
行きがけにミサのご機嫌を取るために交わしたあの約束だ。京都に着いたらおいしいものが食べたいわ、とミサが言ったのだ。
「ここで…?」
曖昧な顔を見せるミサに、武政は苦笑した。
「不満か?」
「だって、高そうなお店じゃない」
「高いと困る?」
そんなの悪い、と言いかけたミサの声を遮るようにして喋った。
「実のところ高いかどうかまでは知らない。―――前に来たときは甘味処じゃなかったから」
「……前?」
何か察した様子だが、ミサは一度武政の名を呼んだきり押し黙ってしまった。深く訊ね返すことはしないでいてくれる。
「…入ろう。服、伸びる」
しかし何も追求しない代わりに、ミサは盛大に不満そうだった。武政の服をまるでぐずる子供のようにして離さない。しばらく睨みつけてきた後、ちょっと待ってよ、と口を尖らせる。まだ思うところがあるらしい。
「私が言うのも難なのかもだけれど…仕事はいいの?」
いいはずないでしょう、と叱責するミサは、睨むように武政を見上げた。今日までに片づけろと言われたというのに何をのうのうと茶屋に入ろうと言うのか。だいたい高速道路を下りるなり車は田舎に分け入るようにして走ってきたので、まさか店に入ろうとしてたとは思わなかった。などと、少し尖らせた桃色の唇で小言を繰り返した。
「美味いものがいいって言ったのはミサだろう?」
甘味処は新築のような真新しい造りだが、この甘味処はそこそこ繁盛しているらしい。田舎に入ったところに建つというのに、ちょっとした観光ブックにも載るらしい店だった。武政は怒ったミサをまじまじと眺めて、そう返す。
「私に奢る約束とか、有名なお店とか、そういうことに気を遣わなくてもいいの。仕事終ってからでいいのよ」
「まあまあ。もう昼をだいぶ回っただろ? ミサは腹すかないのか」
「…だから、何を、悠長に!」
生真面目なミサには甚だしいのだろう。噛みつきそうな勢いで、武政の服をしっかりと掴んで離さない。武政は仕方が無しに肩を竦めてみせた。別に何も考えていないわけじゃない。
「何も仕事をやらない、とは言ってない」
え、とミサが軽く喉を詰まらせた。
武政は無造作にポケットへ押し込んでいたものを取り出してみせる。武政の大きな手に収まるのは、鈍く光る黒い端末機械だ。ミサはぱちくりと瞬きをして呟く。
「…ケータイ…電話…?」
番号をおしえていなかったこともあって、ミサはすっかり責める様相を失って、持っていたのと小首まで傾げた。
「そう、仕事はこれで事足りる。小言は終わりでいいいか?」
「それで事足りる…て、きさら?」
武政は携帯電話をミサへ差し出した。
「―――ミサにひとつ頼みごとがある」
「たのみごと?」
「これで、ここへ呼び出してもらいたい」
誰を、とも紡げないまま、ミサはしばらくぱちぱちと丸い目を瞬いていた。意表を突かれたせいか、その小さな唇が「誰を?」「協力はしないって言ったじゃない」と悪辣に文句を言い列ねるのは、もう少しあとのことになる。


電話が鳴り出した。
部屋に響く機械音が、それこそ長く続き、相手のしつこさを強調して止まない。ぐったりとして書類仕事に向かっていた三露は、ゆっくりと受話器に手を伸ばした。


           

 





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