『三露?』
受話器越しに聴こえる少女の声に、三露は一瞬見当がつかなかった。つい先ほどまで書類仕事に追われていたせいもあって、思考回路が鈍い。おかげで少女の方が名乗るまで気づけなかった。
時計が大きく昼を回った昼下がり、三露の部屋で辛抱強く鳴った電話は、取るなり急用だと訴える逆居の術者からだった。
『もしもし、…私、ミサです』
「ミサ?」
三露は信じられないとばかりに目を見開いた。三露はミサと特に親しいわけでもない。仕事を通してしか顔を合わせることもなく、電話がかかってくるほど互いを知っているわけではなかった。ただミサのことだから仲良い者がかけ合う電話というよりは、組織の緊急連絡先というものだろうが。
そのミサは、一体どういった用件なのか、どこか躊躇いをみせていた。
『…三露、無茶を言うのはわかっているのだけれど…。あなたに、ちょっと来て欲しいの』
「僕に? …逆居に?」
『いいえ、逆居じゃなくて…』
こういった類の要求は珍しい。ミサの能力はそれなりに高く、仕事を無事終えたという報告ばかりで手助けを要求されることなどなかった。
『京都に来てほしいの』
京都、と反芻しながら、何故そんなところへと思う。不意に目をやったデジタル時計は午後を廻っていくらもしない時刻を指している。京都までなら新幹線でどれほどかかるのだろう。まだ午後に差しかかったばかりだから夜までには着くだろうが、だがしかし。―――今日は満月だった。
生真面目なミサの呼び出しだからそれなりの用だと思われたが、いくらなんでも二つ返事にイエスとは言えなかった。
「……唐突だね」
『無理かしら?』
「まず理由が訊きたいんだけれど? それに今日は…」
『今日は満月、でしょう? それも承知で話をしているつもりよ』
三露は返答に窮した。承知しているのなら、三露は気安く了承しないとわかっているはず。特に京都だ。思いつきで遠出する距離でもなく、かといって承知の上ならミサだってそれなりの取り急ぎなのだろう。とにかく事情を説明してもらおうと思ったところで、ふと三露の脳裏に三日前の出来事が蘇った。
「…京都に、…、満月?」
ミサに届くか届かないかの独り言だった。たしか京都の仕事をこの間誰かに任せはしなかっただろうか。ミサとも気心知れているらしい武政という男に。次の満月までにと口約を交わし、通算三日で片づけろという話をした。無理な条件だったと思う。案の定連絡を寄越さないから、てっきりもう無理だと思い込んでいた。
「もしかして君は武政と一緒にいるのか?」
しばらくしてから、ええ、とだけ返事があった。
「…そう。君のことだからそれなりの理由があるんだろうけど、まず君が電話口にいる理由を聞かせてもらえないか。武政には仕事を任せているけど…もしかして問題でも起きた?」
『私こそ訊きたいくらいだわ…』
そんなぼやく声がかすかに耳に届く。
「何?」
『……三露、あのね。武政が電話できないというから私がしたのよ。その武政が―――夜になる前に来てほしいって言ってる』
逡巡する三露に、ミサは夜になる前に来るにはすぐに家を出て欲しい、帰りや夜になったときのことは任せてほしいと言い募った。
『三露、お願い』
三露はため息を零すと、どこに行けばいい、とひとこと電波に乗せた。


電波の途絶えた音が虚しく耳元で響いている。ミサはゆっくりと耳から小さな電話を遠ざけた。
時間がないと言い募って、三露は「わかった」と言った。説明している間もないから、とにかく話は着いてからだと納得してもらい、場所を細かく口で伝えた。そのあとは急かすようにして電話を切った。
「これでよかったかしら?」
ミサは大袈裟に顔を顰め、向かいで満面の笑みを浮かべる男を睨みつける。
「上出来だ」
「…そう?」
「ああ。俺が呼んでも三露は来るとは思えなかったしな」
ミサは嘘をつくのも騙すのも好まない。そもそも仕事の協力は一切しないと訴えたはずだ。それでも引き受けてしまったのは「頼む」と言われたからかもしれない。武政は気乗りしないミサに、頼む、とだけ言った。卒なく何でもこなすこの男は、頭脳も実力も、能力だって惜しみないほど持っている。頼む、と言うのは珍しかった。
ただ武政が三露の呼び出すことすら適わないのは、日頃の行いのせいに違いない。不真面目なところが信頼に欠ける。
「そう…、へえ、うまくできたの、私の電話」
「申し分なかった」
「なら! 何がどう上手くいったのか説明しなさいよ!」
理由もろくに訊かずに頼みに応じたのは、武政がどこか困った目をしたからだ。今もまた、切なさにも似た目がミサから視線を外す。
「…でも、ミサにとっても悪い話じゃないのは保証する」
「………」
どうだか、と思う。訊ねたところで武政は口を割るような男ではない。それは武政と組織で出会ってから長い付き合いの中で嫌というほど思い知った。けれどいくら口を割らない相手といえど、本当ならこの苛立ちをぶつけずにはいられなかったのに。ミサは大きく肩から力を抜いた。
「もういいわ」
「ミサ」
「とにかく、三露が来るまで"おいしいもの"とやらをしっかり味わわせていただくんだから」
「…そうだな」
今日の武政は奇妙だった。沈んでいるかと思えばけらけらと笑うくせに、ミサが踏み込もうとすると躊躇いを見せる。電話をつき返して店に入ったときも、武政はどこか遠い目で甘味処の店内を見渡す。その目が切ないものを見るようだから、ミサは一歩も踏み込めないのだ。
店をぐるりと見渡す武政の目が、すっと細められていく。



まるで時間と競っている気分で三露は新幹線に乗っていた。
電話を切るなり最低限の荷物をひったくって出てきた三露は、時刻表に目を通す暇すらなく、ホームに入ってきた新幹線に駆け込んだ。京都へ向かう新幹線のシートに腰を下ろすころには、ようやく一息つけたと疲労困憊の様子で言った。
「…お前はどう思う、影」
窓際の席をとり、傍らには黒蝶が羽を休めている。
「武政、それにミサが京都へ出向いてなお、事件は掴めないのか…」
京都の術者もてこずった。けれど彼らは何が原因で"不可解なボヤ騒ぎ"が起きるのかわからない、だから手が出せない、と報告してきた。火の玉なり、人魂なり、それこそ放火だったりすればいくらでも片づけられる術者たちだった。
そんな事件の概要を掴んでもらうために情報に強い武政を仕向け、挙句十分な能力を持つミサもおまけについて行った。ならば片付いてもよさそうなものだが。
もちろんだが、影の返事はなかった。
目立つことのないよう飛び立つな、と言い聞かせていた。人型をとることもなければ、喋ることも影はできない。三露の言葉に小さく羽を震わせるだけだった。
「僕を呼び出すからには、何かあるのだろうか」
三露は呟きつづける。
「今日は満月だし、それなりに力は…」
満月も今宵であるだけに、三露はそれなりの能力を発揮できる。新月なんかに呼び出されればお荷物にもなりかねなかったが…。思い巡らせていた三露は、はっと息を呑んだ。
―――けれど…力を貸して欲しいという意味だった…?
三露は思わず舌打ちした。そういえばミサは三露に来て欲しいと言ったが、三露に力を貸して欲しいとは言っていない。夜になる前に来て欲しいとも言ったが、それこそ理由も説明されていない。これなら京都の術者の方にも連絡のひとつぐらい取って、二人の動向を探っておくべきだったか。
「…しくじったかな」
どこか振り回されている気がしないでもない曖昧な心地で、三露はわずかに窓の外に目をやった。時間に追い立てられて走る新幹線は、まもなく京都へ到着する。
時間をおかず、車内アナウンスが流れる。次は京都、と。

京都駅を出たらすぐ地下鉄に乗れだの、京阪線に乗れだの頭がややこしくなる乗り継ぎを果たし、三露はひっそりとしたの駅で降りた。ずいぶん田舎に連れ出されたな、という心地で下車する。線路のすぐ横に木が立ってるし、見れば自動改札機でもなく、駅員が切符を回収している程度にこじんまりとした土地だった。
「…こんなところに呼び出して何だって言うんだ…」
新幹線で京都駅に来るまではそれなりに早かった。覚悟していただけに一時間や二時間かかってもこんなものかと思ったが、それからの電車の乗り継ぎでさらに一時間、さすがに気分は辺境の地へ迷い込んだ気分だ。
そして、電車一本でも乗り継ぎを失敗すれば暗闇が広がっていたに違いない。満月が顔を見せていたはずだ。夕暮れから夜に変わろうとする空を見つめ、三露は駅の正面口を抜けた。
紺色に染まりはじめた夕暮れを背景に、武政とミサが軽く手をあげて三露を呼ぶ。
武政は電話口に出られないくらいだからてっきり不在かもと思ったのに、何故にそんなににこやかな顔でそこにいるのか。いつもの、文句をつけたくなる笑顔を見せている。ただでさえ夜が近くて苛立ちを覚えているのに、三露は眉根を寄せた。
「―――さて、説明してもらおうか」
手短に、完結に、そして納得いくように。三露がドスのきいた声を出す。
「ここまで呼び出すからには、それ相応の理由があったんだろうね?」
「まあな」
「悪いけど急いでくれないか。すぐに済む話じゃないんだろう?」
武政は一台の車に重心を預けるようにして立ち、腕を組んでいた。ミサの方は少し距離を取っていて、自分より武政に説明を請うてくれと言わんばかりだ。ただ、蚊帳の外を装うくせに、気難しい顔つきをしていた。
その少女の頬に蔭が降り、武政の元にも、三露の足元にも暗がりが訪れる。
「それに、もう…陽が落ちる」
だから早く、と言うと、武政は面白そうに口元を歪める。
「まあそう焦るな、三露」
三露が責める心地で睨めつけると、武政は取り成すように口元の笑みを手で隠した。そんな素振りが白々しい。何が面白いというのか、この男は。
「心配するな。すぐ、済むから」
すぐ、だって?
「すぐ済む話なのにわざわざ呼んだのか」
自然と声に凄みが滲む。
「おっと、勘違いしないでもらいたいな。そういうのを早とちりって言う」
「何」
武政は車に預けていた身体を起こし、すらりと姿勢良く立った。ふと、肩を竦めるように両手を広げてみせた。
「俺は"話"だなんて言ってない」
「なに…」
「三露、約束は覚えているよな?」
頷くと、武政はそらで読み上げる。
「俺がこの厄介な仕事を片付けたら、と言った」
―――仕事を解決できたならば、総帥の力で鎮魂を手伝う。
武政が背後を振り返って見せ、その視線を追うように三露も背後の茂みに視線を寄せた。薄暗くなった光景によく映える、煌々と光が灯る。
ゆらり、と揺らいだ。
「火の、玉…?」
三露は思わず呟いたが、火だ、とは思わなかった。光は燃え盛る赤ではなく、くっきりと浮かぶ白。
「よく見ろ」
武政の声が太く響き、光を凝視していた三露は息を呑む。白かった火の玉は亀裂が入ったかのように、散り散りに散布されてしまう。そして夏の夜に浮かぶ、風情となった。
「―――ホタル…」
まさか、火の手に見えるほどホタルが密集するなんて。三露は喉を鳴らし、喰い入るように辺りを見回した。ホタルの数は十に増え、二十に増える。幻想的な景色に、三露は思わず忘れていた。もう、夜だと言うことを。
「約束だ三露。今夜、久幸の鎮魂につきあってもらう」
武政のくつくつとした笑いが耳に、届いていた。


ミサは耳を疑った。たましずめ? 一乗寺の。武政が、三露に……。
人の悪い笑顔を浮かべた武政と、黙り込んだ三露の横顔を眺めて、ミサはハッと空を見上げた。灯ったり消えたりと点滅を繰り返すホタルのさらに上空に、煌々と灯る満月があった。
「まったく…大したことを仕出かしてくれるものだね」
三露の声でもなければ、武政の声でもなかった。長年組織にいるミサでさえ、数度しか聞いたことのない柔らかい男の声だった。
「総帥、だな」
武政はにわかに笑顔を掻き消した。かわりに金色の髪を夜風に揺らす総帥が笑う。
「君の能力は"動物を操ること"? 企んでくれたね」
蛍火が火の玉に見えるなんてありえない。ましてボヤに見えるわけがなかった。密集して大きな揺らめく炎を象るなんて、到底ありえないのだった。
武政はそっと微笑するだけで返事はしない。ああこの男はなんて男だ、とミサは遠巻きに思っていた。三露に疑われて約束を反故させないように、疑う時間を与えなかった。まるで自分が解決したふうを装って、ずっと前から仕込んでいたに違いない。三日で片づけられるのもそのはず、彼は犯人なのだから。
京都で引き起こしたのはきっと、小松で起こせば武政が三露に借り出されることこともなく、逆居で起こせばミサに迷惑がかかるからだ。果京や東果だって同じようなもの。
なんて計画を練るのだ、この男は。そして正確にやってのける。ミサまでも彼の企ての駒だったのか。
「それで? 俺は三露と約束したわけだが…貴方はそれを守ってくれるのか?」
ふ、と闇に息が溶ける。
「私は三露と別の人間だよ。三露と約束したからといって私には関係ない―――と、言ったら君はどうするつもりだったんだい?」
「直接交渉するまでだ。…どうしたら要求をのんでくれる?」
生憎俺は来月まで待ってやるほど気長じゃないんでね、とぼやく声も闇へと溶けていった。
一乗寺が倒れてから次の満月には一週間しかなかった。鎮魂を行うと思い立って、これだけのことを仕組んで、やってのける。それに先月の満月を逃した、だからもう待つのは飽きた、と言う。なんて理論を並べるのだろうか。
「そんなわけで時間の喰う条件は勘弁してもらいたいんだが?」
「私を、三露のように手玉にとる準備はしてないのかい?」
「サシで交渉。それ以外に根回しする時間が、生憎となかったものでね」
武政が薄く笑えば、総帥が皮肉を言って笑う。一方が強気に出れば、一方もやりこめようと算段を重ねる。穏やかに語っているようで、空気は触れば静電気でも起こりそうだった。
「それで、どんな条件で久幸の鎮―――」
「いいよ」
え、とミサでさえ声を零しそうになった。
「…何だって?」
「おや、そんなに意外かい? 私はこのところそこそこ機嫌が良くてね。君の企みと奔走っぷりを称えてあげようかな、という気になっただけさ」
奔走、と聞いて武政が顔を歪めた。
確かにさらっとやってのけたが、蔭ではそれなりに苦労したに違いなかった。
「おもしろかったから、君の友人の魂を呼んであげるよ」
そして、鎮魂を。
「……そうか。なら、久幸の家に行く。果京に戻る」
武政はひらりと運転席へ翻す。
そうだね、と総帥の声が響いた。


武政はハンドルを握っていた。それなりの距離を往復する。またもや強行軍だ、と武政は小さく笑って運転していた。
助手席にミサ、後部座席に総帥が座っていたが、どう考えてもおしゃべりに興じる面々でない。おかげで走り始めると、車内に響いたのはエンジン音ばかりだった。
そんな時間も短くなかったが、ようやく沈黙を破ったのは総帥だった。
「君はそんなに幼馴染の鎮魂をしてあげたいのかい?」
静寂にそっと声を乗せられた。
「……そうだな」
ミサは窓の外にならぶ外灯を眺めていたが、はじまった会話をうかがうようにちらりと振り返った。武政は苦笑した。
「俺はそんなにも鎮魂してやりたいらしいから、帰るなり久幸の家に行く」
「…きさら、急ぎすぎて事故なんて起こさないでね?」
車は二車線ある高速道路の、追い越し車線を走っていた。
「そんなに飛ばしてるわけじゃない。心配するな」
「でも…」
そうだよ、と相槌を打ったのは総帥だった。
「そんなに急いでもすぐに始められないんだから、焦ることはない」
背後で、ククッと喉がひきつったような笑いが漏れていた。
「…何?」
「何って、鎮魂の儀をやるならばあの琥珀石も必要だよ。ただあれは一乗寺という彼の家にはないだろう?」
「…ない?」
「そう」
総帥は可笑しそうに笑う。やんわりとした口調だったが、ここまで上手くいっていたのに残念だったねと揶揄するような口ぶりで、武政の神経を逆撫でた。
「どこに…」
自然に強張ってしまう声。
「三露は君に持たせていると割りそうだからって、君の手の届かないところに置いたのさ。そう、預けた」
確かに一ヶ月前、琥珀石に入り込んだ友人が憎らしくていっそ投げつけて割ってやろうかと思った。一乗寺が倒れ、その身体を運びこんでいる周囲を横目に、武政は飴色の石を拾った。友人のなれの果て。やりきれず石を軽く宙に放っては握り、掌中で転がしては、繰り返す。そうやってもてあそんでいた石を衝動的に叩きつけたくなったのも真実だ。しかし、小賢しい。
ハッ、と武政は鼻で笑う。
「それは予想外だったな。それで? 総帥さまならもちろんご存知なんだろう?」
「もちろん。三露はね、真田に渡していたよ」
「真田の家に?」
武政はポケットにつっこんだ黒い小さな電話を思い起こす。隣のミサに悪魔少年の電話番号を訊ねたが、ミサは軽く首を振る。どうしよう、私知らないの、と困った声を絞り出す。
「でも果京に着いてからまだ時間はあるでしょう?」
総帥の協力が得られなくなる夜明けまで、時間はたっぷりあった。
「まず真田の家に行ってからジョージの家へ行けばいいもの…家ならわかるわ。……きさら?」
「いい。久幸の家に行く」
「きさら」
―――これ以上待ってたまるか。
武政の目に、冷めた色が映った。

一度ゆっくり瞬きをして、武政は景色を見渡した。全てに黄色がかったような視界が拓け、見覚えのある果京の道が見えた。まるで映画スクリーンを見ているような実感のない心地を味わいながらいくらか行き、どこか大きい階段を飛ぶように昇っていく。あまり階数のないマンションだった。
目の前を見上げる。
一枚の扉が、ある。


ガリガリと耳障りな音が続くから、真田は玄関の方に目をやった。真田の住む部屋の扉が、一分ほど前からガリガリとした奇妙な物音をたてはじめたのだ。気づいてからしばらくきょとんと扉を眺めていたが、一向にやまないので真田は腰をあげた。
もう夜だというのに、もしかしたら来客だろうか。インターホンも鳴らなければ、扉を叩いている音でもないところがよくわからないが確認するに越したことはない。扉に顔を押しつけ、魚眼レンズを覗き込む。―――しかし、誰もいなかった。
真田は妙な寒気を覚えた。扉に近づくほどガリガリという不快な音がいっそう大きく耳に響くのに、何もいない。外から真田の部屋の扉に傷をつけているような音だ。
止むようならば放っておこうと思ったが、生憎音はいつまで立っても止まない。まるで鬱憤を積み重ねられていく聴き心地に、真田はついにドアを押し開けた。
「なんだっていうんだ!」
だが、扉の前に人はいない。かわりに小さな黒い蔭がいた。
ミャー。
「…………ネコ?」
黒い猫で、夜だったせいか金色の目が怪しく光った。
「なん…」
何でネコなんか、と近くにいるかのかいないのかわからぬ飼い主を探そうと真田は扉をもう少しだけ押し開ける。するとその合間を縫うようにして、黒猫が通りぬけてしまった。真田の部屋の中へ上がりこんでしまったのである。
「お、オイ!」
このマンションはペット禁止だ。中に入って爪でも立てられたかどうなることか。真田は慌てて部屋へ踵を返したのだが、猫は遠慮の欠片もなく――猫だから仕方が無いのだが――爪先に真田の部屋の家具をひっかける。棚の上からいつのまに引き開けたのか引き出しまで、まるで空き巣に入られたかのように散らかされていく。
「な!」
捕まえなければとんだ事態になるに違いない。真田は大慌てで猫を追い立てたが、小さな黒い影は急に動きを止めた。散乱した部屋の中にコロリと転がった丸いものを眺めている。かと思うと、飴色の石はぱくりとくわえてしまった。
「それ喰いもんじゃない…!」
真田は真っ青になって取り押えようとしたが、黒猫はひらりと身を翻してしまった。口元から鈍い飴色が覗いていて、真田は呑みこまれると危惧したもののそうではなかったらしい。けれど慌てずにはいられなかった。何せ黒猫は扉の隙間を抜けて、真田の部屋から飛び出してしまったのだから。
「―――い、一乗寺ー!」
一乗寺と精霊の篭った琥珀石を、黒い猫が攫っていってしまった。
闇夜に同化しそうな黒い身体を追って、真田はマンションを飛び出した。


「こっちって…」
あれ、と真田が声をあげると、真田は見慣れた道に声が溶けていく。真田が黒猫を追ってくると気づけばよく通る細い小路に行き当たった。すぐそこに木造の一乗寺家の門が見える。黒い猫は息があがった真田を一瞥するようにふと振り返り、足を止めた。
猫は一度尻尾を揺らして、しゃがみ込む。何を思ったのか琥珀石を口の中から吐き出した。真田は慌てて今こそ、と手を伸ばしたが、猫は真田に頓着することなくさっと塀を蹴って、どこかの家へと身を隠してしまった。
―――なんだぁ?
呆気ないほどあっさりと琥珀を捨てたあの猫は一体何だったのだろう。首を傾げ夜道に佇んでいた真田は納得がいかない。けれど、ひとり毒づこうとした真田の耳に聞き慣れた声が届いた。
「ほんとうに真田のうちに行かなくていいの、きさら?」
逆居の少女のものだ。果京地区に顔を出したのは、かれこれ一ヶ月ぶりくらいになるか。
「……ミサ?」
「え?」
暗がりだったが、満月の月明かりが駆け寄ってくるミサを照らし出した。続いて気侭な足取りで長身の男も現れ、徐々に顔立ちがくっきりと闇から輪郭をとりはじめた。これも、一ヶ月ぶりに見る顔だ。克明に見えるようになると、人の悪い笑顔に真田は胸糞が悪くなってきた。
これが一乗寺にコトダマをかけた男だ、と思う。一乗寺を殺したのだと、真田は手の中の琥珀をそっと握った。
「なんでミサと武政が……」
ミサと武政は聞くところによると組織に入って長いらしい。おかげで旧知の仲らしく、この取り合わせは珍しくなかった。だがさらに後ろに人影が揺れ、三露がついて来ているのを見て真田は目を瞠る。
「え? 三露?」
やってくる人物の明るい髪で気がついた。見慣れた金髪の少年―――三露ではなく、総帥。真田の背筋に雷電がかけぬけた。
「……そ、総帥! なんで!?」
何故ミサと武政と。前回の満月の夜、真田はたった一目だけ総帥と再会を果たした。だがそれこそ一瞬で、何か口にせねばと勇んだがろくな言葉が浮かばず、すると総帥は来月の満月に来るといいと言ってくれたのだ。その総帥と謀らずとも遭遇し、真田はが何故ミサ達といるのか追求したかった。だがろくに言葉が紡げない。
声を失って瞬きを忘れた真田の視界に、不意に長身の男が割り込んできた。
「丁度よかった悪魔っ子」
「…武政」
相変わらず揶揄するような人の悪い笑顔だった。
「お前のところまで取りに行く手間が省けたよ。それを、貸せ」
「何…」
真田の反応が鈍かったのをいいことに、武政の長い指が飴色の石をかすめとる。
「な、何す…!」
「今から使うんだ」
「使う?…」
きさら、あなたの企み? そんなミサの声が遠くで聞こえた気がする。
「ちょ、武政…何に使うんだ!?」
すたすたと一乗寺家に乗り込む武政を、真田は慌てて追いかけた。


そこには変わらず一乗寺が寝かされていた。妙な形で魂を引き剥がしたから、身体は時を止めて鉄のように硬くなってしまったのだ。腐ってしまうから葬儀をしなくていいのか、と一ヶ月前苦しい思いで訊ねた真田に、葬儀屋に渡せないよこれじゃあ、と三露は言った。見ると呼吸をしていない、そっくりな人形のようですらある。触れると人のような柔らかさなど欠片もなかった。変死体、と言うにも奇妙な様子だった。
その一乗寺を取り囲むように、寝室に妙な顔ぶれが並ぶ。
真田はまるで理解できないで他の面々を仰ぐのだが、誰もが糸を張りつめているようだった。何も知らない真田でさえ、ごくりと喉が鳴る。
武政がミサを呼んだ。
「そうだ、ミサ。ピック持ってきて」
「何するのそんなもの…?」
「ピックがないならキリでもなんでも。先が尖っているもの」
目的も答えないくせに、ミサならどこに閉まってあるかわかると言って追い立てる。ミサは渋るが、結局しばらく無言でにらみ合った末に武政の思惑通りになっていく。
ミサがどこかの引き出しでも攫う音だけが部屋に響いた。満月の月明かりだけで、部屋には電気をつけるものもいない。
そんな静かな空気を、総帥の声が弾く。三露の声とは違うのだ。ぞくりと真田は背筋を震わせる。
「…ピック、ね。そんなものは必要ではないよ? 鎮魂には」
たましずめ。

「準備はいいかい、武政?」
「…ああ」
ふっと武政の目元に、柔らかい眼差しが宿る。



           

 





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