一乗寺は白い世界の中でまどろんでいた。
辺りは何もなく、遠近感が狂うほど広く白濁した闇が続いていた。虚空、とはこういうところに違いない。一乗寺は松珀を追って石の中に入った。否、入ったつもりだったが、ここは石の中というより"封印の世界"と呼ぶ方が正しいように思う。出口のない閉ざされた世界だ。おそらく石の中から続いていたのだろう。
ここには松柏がいる。煩わしいものは何もない。
一乗寺はその幸福感に浸っているだけで、ろくに動くこともなければ考えることもしなかった。もっとも身体を離れてしまった幽体では何かをしているといった重みや気だるさを感じることがなかったが。
だが、このとき一乗寺は二度、瞬きをした。
いつもの白い靄に一点のちいさな黒いものを見つけたからだった。
「よう」
「!」
一点の黒蔭は徐々に人型に膨れ、歩みよって来る。その上知った声を発するから、一乗寺は息を呑んだ。
奴は神出鬼没だった。放浪癖があって、半年やそこら連絡がないかと思えば急に琥珀石を持って現れたりする。昔からそうで、どこからともなく一乗寺のいた孤児院にまでやって来ては声をかけて来た。当時、どこから来たのか、帰らなくていいのか、と一乗寺が嫌と言うほど聞いたのだがまさか小松から通っていただなんて思いも寄らなかった。
その武政が、こんなところにも現れた。
「へぇ。ここはまるで夢心地だな」
武政の声に、一乗寺は喉が引きつる。引きつって声にならない。驚きで瞬きすらろくに出来なかった。
「何もないところだし。久幸、暇じゃないか? 気でも狂いそうにならないか、ここ」
「何故、お前が…いる…」
一乗寺の声には自然に警戒が滲んだ。背中には松珀がいる。二人きりでいたのに、武政が踏み込んできた。それを壊されるのを一乗寺は警戒しないでいられなかった。
けれど武政はこちらの思惑などさらさら興味ないのだろう。にっこりと笑っている。
こういった態度が武政だった。いつだって一乗寺の警戒や嫌悪を笑ってやりすごしてしまう。
「驚いただろ。実は総帥さまに手伝ってもらってな、隔絶されてたこっちの世界まで道をつくってもらった」
精霊を依代に宿す、その力を使って一乗寺は己をこの世界へ宿した。一乗寺の幼馴染は精霊使いではなかったから、彼ひとりで迷い込むことは不可能だった。
何故そこで総帥が出てくるのかわからなかったが、一乗寺は訊ねる気も起きない。かわりにいっそう警戒の色を強めた。
「……帰れ」
―――これも、よく武政に言っていたっけ。
「また、松柏を奪いに来たんだったら…お前を許さない。今度は…殺してでも」
「物騒だな」
「…本気で言ってる」
けれど不意に思い出す。琥珀石を返してくれたのは武政ではなかったか。家に帰ると三露と真田が琥珀石を持っていた。縁側に置いてあった、と言っていたか。まるで大切なものでも扱うように品の良い和紙でくるまれていた。
「帰れ、ね。……勝手だな、あいかわらず」
武政はそう言って、懲りずに笑っていた。
「勝手だと?」
「…ああ。でも今は勘弁してくれ。そんなことをしに来たんじゃないんだ。懐かしい話をしに来た」
またか。一乗寺は苛立ちを覚えた。京都に連れ出されたときも武政は同じことを言った。
「同じ高校に通っただろ? 大学もだ。…このあいだ立ち寄ってみた」
「話なんかいい。帰れ」
けれど一乗寺の苛立ちも、武政にすればどこ吹く風らしい。
「…これがさっぱり変わってたんだ。あたりまえだがクラスメートだってもういないわけだしな。顔なじみどころか―――…だいたいお前にしてみれば、顔なじみの学友なんかいなかったしな。さみしい奴だったし」
余計なお世話だ。あの頃から武政は人気者で、一歩進むだけで友人やら知り合いやら声をかけてくる。気づけば集まってきた人間に埋れてしまう男だった。だが一乗寺は違う。淡々と学業をこなす生徒だった。まるで付き合いがないわけでもないが、依存する人間なんていなかった。
「きさら、そんな話をしに来たのか」
武政はわずかに息を呑んだ。ほんとうに些細な間が会話を途切る。
「そんな話なんかいい。帰れ」
「…お前はほんとう…俺の話を最後まで聞いてくれないよな」
「………」
大仰に肩を竦めるそぶりが気に食わない。気に食わないが、しみじみと言われ、何故か一乗寺は強く反論できなかった。続けてもいいか、という声が響くが頭ごなしに拒絶できなかった。
「校舎もな、いつのまにか手が入ってた。まるで雰囲気が違う。大学も高校も、俺が練り歩くような感じじゃないんだ」
「あたりまえだ。もうお前の居る場所じゃない」
学生でもあるまいし、学校に二十七の社会人なんてひどく不似合いだ。
「……」
「…きさら?」
怪訝に思って名を呼ぶと、返ってきたのは満足したような笑顔だ。
相変わらずなのはそっちだ、と思う。相変わらず幼馴染の考えていることはわからなかったし、何の話をしているのかも的を射ない。それでも武政は話を続ける。
「…あと、お前の孤児院に行った」
「孤児院?」
何故また、そんなところになんか。
「中学まで世話になってただろお前。京都の田舎の孤児院」
「…きさら。そんな話は、いい」
一乗寺家に引き取られてからは、取り巻く環境が一切変わった。まるで別人になったかのように、話しかけてくる人間も変われば、日常も変わった。孤児院なんて一乗寺は切り捨てた過去だ。いや―――ここに来るとき松珀以外の何もかもを切り捨てて来た。
目の前にいる武政もだ。過去の人間でしかなかった。
「いいから聞け。最後まで話させろよ。別に談笑しにきたわけじゃないから」
無論だ。さも当然のことのように言われたが、一乗寺にしてみれば談笑なんて武政とできるかどうか。今も、昔も。
「わざわざこっちの世界にまで足をつっこんでだ。今俺は死んでる状態だ。そうなってまで来たんだ。それなりに真面目な話だから、せめて最後まで話させろ」
「……話したら、帰るか」
「…………」
「帰るというなら、聞く」
しばらくして、ああ、と小さな声が響いた。
武政が話したのは、孤児院に行ってきたという話題だった。どうせ昔世話になった孤児院と連絡をつけることもしていないのだろうと突付かれたが、生憎あそこに馴染みのある人間などいなかった。連絡も何も、と思う。
「連絡など取ってないが、それが何だというんだ」
「―――数年前に閉鎖されたって知ってたか。今は甘味処だ。真新しい造りが周りに馴染んでなかったが、京都ではそこそこ繁盛していたな」
そうだったのか、とだけ返答した。さすがに驚いたが、だから何だという気持ちは変わらない。
「あそこも、お前の居場所じゃなくなってた」
―――居場所?
「高校も、大学も俺の居場所でなければ、お前の居場所でもない。孤児院もだ」
「そんなの当然…」
「それに、ここもだ」
武政は口元に深い笑みを刻んでいた。腹の底に何を隠し持っているかわからない奴で、いっそうもって真意が掴めなかったが、不穏な空気が漂っているのだけは察した。あの笑顔が奇妙に歪んでいる。壊される、と思った。松珀との幸せな時間が何もかも瓦解する、そんな予感さえ覚える。
「待て、きさら…何をする気だ…!」
「本題に入ろう。俺の"コトバ"は強力なんだ。深い深い言霊が宿る―――思いが強いのか、執念なのか」
自嘲した武政の唇が不意に動きを止め、やがてゆっくりと震える。何を紡ぐ気か。
「……昔、『久幸にお前なんか必要ない』と言った。…松珀に」
一乗寺はさっと頭から血が引くのを感じだ。冷え冷えとした空気が背中を伝う。
「そんな怖い顔するな、久幸」
困ったような、だがはっきりとした声。
「きさらお前………ッ!」
「前言撤回してやる気はない」
だから、と武政は言った。
「だから新しい言霊をかけ直しにきた。お前の居場所はここじゃない。孤児院でも学校でもなかった。―――松珀と共にいられる場所なんだろう?」
「……」
武政はそっと息を吸った。

―――松珀にはお前が必要だ。
仕方が無い、そのへんは妥協して認めてやる、と男はぞんざいに言った。
―――それと。
それと?と、鸚鵡返ししか出来なかった。
―――お前には俺が必要だ。そうだろ?
武政は深く深く笑った。

馬鹿を言うな、と言ってやりたい。馬鹿な言霊をかけるんじゃない、と。心底そう言ってやりたかったが、一乗寺自身の気配がどこかに吸い寄せられてろくに言葉を紡げない。引力に引かれる気分だ。きっと、離れてしまった体が現世で呼んでいる。
一乗寺の意識はそこで途絶えた。



武政はすっと目を細めた。一乗寺の姿がまるで霧散するかのように、掻き消されていく。まるで細い煙がたなびくような光景で、その煙もすぐに白い靄に変わる。
気がつけば一乗寺の後ろにいた精霊の姿も、見えなくなっていた。
「さて」
これで現世に戻ったはずだ。
武政は肩から力を抜いた。自分もそろそろ戻ろう。一乗寺が戻るのを確認したからもうここにいる必要もあるまい。おそらく帰りを待っているだろうミサたちを思って、武政は歩き出した。
この閉ざされた"封印の世界"から現世まで、あの総帥がしっかりと道を繋いでいる。浮遊体のような身体で辿るだけで武政は帰れる。無事に戻ればそれで、鎮魂の儀も終わりだ。
「ああ、ひとつ残っていたな」
現世に戻って、仕上げにひとつすることがあった。それでようやく鎮魂の儀が幕を閉じる。
鎮魂―――たましずめ、という言葉がある。それは死者を弔うのではなく、遊離した魂を身体へ落ち着かせてやるという言葉だった。
「久幸より先に戻れると都合がいいんだがな…」
そう言って武政は強く自分を呼ぶ引力に身を任せる。最後に白い世界を一瞥しながら現世へ向かった。
「―――え?」
だが、最後に見たものに目を瞠った。白い靄の向こうに人影が見えて、武政は慌てて目を凝らす。それこそ意識が現世に戻る一瞬前のことだったろう。
武政は息を呑んだ。視力には自信がある。動物並みの五感が使えるのが武政の能力だ。
武政が見たのは見知った人影だった。まだ十六、七ほどの少年。武政が見慣れた髪色でなく、真っ黒の髪が顔に蔭を落としている。蔭の下の瞼はずっと下ろされたままで、そんな姿が白い闇に取り巻かれていた。
「どうしてお前が…ここにいる…?」
武政の声は三露には届かないらしく、まもなく白い闇に意識が掻き消されていく。
「おい。お前なんだろ、……三露」
もう声を発することができたのかすらわからなかった。

そこはさしずめ"封印の世界"と言うのだろう。


* * * *


砂利が敷き詰められた庭がある。月明かりの下に松の木がひっそりと立ち、脇にある縁側から居間、続いて寝室があった。
武政はミサたちが覗き込む中で目を覚ました。倒れ込んでいた身体を起こし、頭痛がする頭を押さえながら隣にある一乗寺の身体を見た。まだ横たわっていたまま、変わっていない。
「まだ起きていないのか、…久幸の奴」
悪態をついてやると、ミサがほっとした息を零した。
「きさら…無事でよかった」
鎮魂の儀をやることになり、総帥が"封印の世界"まで道を繋げてくれることになった。武政の意識はそこへ飛んだので、いわば一乗寺が倒れたときと同じようになったわけだ。息が止まり、脈が途絶え、まるで周囲にデジャブを覚えさせるかのように、武政は件の琥珀石を握っていた。ミサが心配するのも仕方が無い。
「ああ、心配するな。…久幸も、じきに戻るだろ」
「……一乗寺も…?」
遠慮した声は、所在なく佇んでいる真田のものだった。
「なんだ、誰も説明してやってないのか」
力強く頷いた真田は、説明してくれといわんばかりだ。武政は失笑した。短い時間とは言え離魂して疲れているのに、どいつもこいつも手がかかる。
「久幸を連れ戻しに行ってきた。一応それを見送ってから俺も戻ったからもうじき…」
そのときだった。一乗寺がほんのすこし身じろぎをする。
「……きさら?」
聞きなれた一乗寺の声が部屋にこだました。
「…起きたな」
ほっとせずにはいられない。だが武政はそんな素振りを見せてやるのが悔しくて、いつもの揶揄したような笑顔を浮かべた。
「どこで迷ってたんだ? 遅かったな」
一乗寺は目を瞬いた。そこが寝室で、すぐに事態が飲み込めないのだろう。唇を動かしかけて、そして口を噤む。幾度かそれを繰り返すと、頭を押さえながらのっそりという様子で半身を起こした。
「…ふてぶてしい奴だな。一ヶ月も死んでおいてよく起きれるもんだ」
数分の離魂だけで武政の身体は重いというのに。
しかし案の定というか、一乗寺の反応は鈍い。疲れているのか身体が鈍ったのか、武政に抗議の声すらあげなかった。
そうだ、と武政は思う。あっちの世界へ行く前にミサにピックを用意してもらった。気づかぬうちに床についていた手の横に、小さなピックがある。武政はそっと手を伸ばした。
「久幸」
右手にはピック、左手には琥珀石を握っていた。
「なんだ、きさら…?」
「居場所の話をしただろう? 覚えているか」
一乗寺は訝しがるような目つきだが、ゆっくりと頷いた。
「なら話は早い。最後の仕上げといこうか」
「…何…?」
一乗寺は視界が霞むのか、目元に皺を寄せて瞬く。武政が目の高さまで飴色の石を掲げてやると、さっと顔色が変わった。月明かりだけの薄闇の部屋でもすぐ琥珀だと気づいたのだろう。まったく松珀に殊関しては、反応が早い。憎たらしいほどだ。
「松珀…」
「…じっとしてろ、久幸」
武政はふい右手軽く振りあげた。
「! 待て、きさら!!」
目覚めたばかりにしては、よく通った叫び声だったと思う。一乗寺の制止の声が響く中、琥珀石は容易く砕け散った。

目の前で破砕した石を見て、一乗寺は目を見開いた。一瞬思考も五感も鈍って、気づいたときにはわなわなと肩が震え出している。伝染するように全身がわななき、怒りと驚愕がふつふつと込み上げてきていた。
身体の動かし方を忘れている鈍い神経を、無理矢理動かした。
「貴…様…っ!」
歯を食い縛って武政に掴みかかった。まさに勢いだけで飛び掛り、武政が背中を畳に叩きつける。ケホッと、かそけない咳き込みが部屋に響いた。
ジョージ、とミサの悲鳴にも似た声を聞いたように思う。一乗寺、と真田の制止の声を聞いた気がする。ただ、目の前の幼馴染が憎くてろくに聞き取れず、武政の手から床にこぼれ散った無残な琥珀石に、一乗寺は涙まで落としそうになった。感情に手が塞がり、何も考えられない。
「きさら! お前、松珀を…、何で! なんてことを!」
「…久幸、お前元気だな」
何をぬけぬけと―――!
歯がゆさにいっそう力をこめると、胸倉を締めつけられた武政が息ともつかない小さな悲鳴をあげる。
「離…せよ。落ち着け、久幸」
離してやる気はないが、しかし離すにしても指先の感覚がおかしい。勝手に力が篭る。
―――久幸に必要ないと松珀に言った男。
―――だが、松珀にはお前が必要だとも言ってくれたのに。
松珀を奪ったくせに、六年経って見つけ出してきてくれた男。京都に呼び出しておいて、直接渡せばいいのに人の家に置いていった男。そんな幼馴染はたった今目の前で琥珀石を粉砕した。石片は無残に畳の上で転がっている。悲しいほど残酷な光景だった。
「やはり最低だ、お前なんて…ッ」
だから、目についたピックに手を伸ばした。
「! 久幸、やめ…」
さすがに苦しいと言ってる場合ではないのだろう。武政の手がすかさず邪魔しに入る。
「久幸! …お前、俺を殺す気か?」
半ばピックの奪い合いになりながら、武政が言った。
躍起になってピックに指を伸ばし、一乗寺はかろうじて「そうだ」とだけ返す。
「馬鹿言え、今はお前に殺されてやるつもりはないぞ」
何故いちいち偉そうなのだ、お前は。
「とにかく落ち着け、久幸」
「何を…落ち着いて、なんて―――…」
がむしゃらにピックを引ったくろうとする一乗寺に、武政は苦笑を漏らした。部屋には灯りもないし、差し込んでくる月明かりも掴みかかった一乗寺が遮ってしまい、武政の表情は暗がりで判然としないはずだった。だが、おそろしく優しげな顔だったことを咄嗟に理解してしまう。そんな自分が信じられなかった。
その武政の顔に、ポタリと落ちるものがある。
あーあ、と呆れている武政の声がした。
「…何を取り乱してるんだ、お前は」
これはまさか自分の涙なのか、と思うと、ポタポタと雨のように数滴降って武政の顔が濡れていく。
「俺は妥協してやるって言ったぞ。…よく見ろよ」
砕かれた石は、ただの石だった。
「お前ほんとうに松珀のことになると我を忘れるよな…」
武政が笑って指さしたのは庭だった。庭にある松の木に確かに愛おしい精霊の気配がある。
掴みかかった手の力がいつしか抜けていた。そうなってようやく部屋の気配に意識がいく。背後におろおろしたミサと真田がいるのだろうことがわかって、一乗寺は片手で顔を覆わずにいられない。
見られる前に涙を隠したかった。
「………きさら」
小声すぎて届かなかったかもしれない。それに対して返事はなく、とにかくどけよ、と押さえ込まれていた武政が身じろぎする。ようやく指が届きかけたピックも、武政が奪ってしまっていた。
「…きさら」
少しだけ声に力を込める。ひっそりとした部屋にはどこまで伝わったのかわからない。けれど、ああ何だ、という返事があった。
「…早とちり、した」
「そのようだな」
「だからその…」
そうだった。武政は確かに松珀にはお前が必要だ、と言った。一乗寺の居場所は松珀と共にいられる場所だとも認めてくれた。
「…すまなかった」
友人は、可笑しそうに笑った。
「気にするな。とりあえずこれでお前の居場所はここになったから。あの世界でも過去でもない」
「………そうらしい」
一乗寺が足を少しずらすと、うっすらと積もった埃の感触がある。懐かしい世界に帰って来た。あらためて見慣れた和寝室を眺めた。

「そうだ久幸。顔、貸せ」
一乗寺は声をかけられて僅かに眉を潜めた。どうやら武政は一乗寺を蘇生させるためにミサや真田、総帥まで引っ張り回したらしい。異様な顔ぶれが家にいたが、それを残して武政は「帰る」と言う。おまけに顔を貸せと言う。総帥には軽いお礼を言ったようだが、いくらなんでも勝手すぎる。これだけの面々を残して、面を貸せという武政の気が知れなかった。
「何かあるのか」
「いいから来い。俺を殺したいって言うならとりあえず来てからだな」
一乗寺は顔を顰めずにはいられない。殺そうと思ったことは幾度かあったが、どれも衝動的なものだった。
「それと、ミサ。帰るぞ」
「え? …ええ」
いつもは縁側から直接上がりこんでは帰る武政が、めずらしく玄関へと回った。単に靴を玄関で脱いだだけらしいが、廊下へと消えてしまった武政の姿を一乗寺は呆然と目で追っていた。いきなりすぎてわからない上に、帰るなら勝手に帰ればいい。一乗寺は畳に足が張りついて歩き出す気がしなかった。
ああそうだ、悪魔っ子は来るなよ、という声が玄関から響く。
「え、なんで!」
素直な真田の反応に、返ってきたのはふてぶてしい声だ。
「邪魔」
「な…っ!」
「すぐ済む。お前は歩いて帰れるだろ。ミサも久幸も、早くしろよ」
それを最後に、ガラガラと引き戸の開く音がして、閉まった。
たった一言で一蹴された真田は、声も出ないようだった。一乗寺は少し憐れに思ったが、あの幼馴染に適うようなら人間として憐れだと思うから仕方が無いことだ。それにしても勝手な友人だ。相手にしない方がいいかとも思うが、これで放置した日にはきっと報復が待っている。そんな武政を思って一乗寺はため息を零した。気が進まないが、ゆっくりと歩き出そうとした。
その一乗寺の着物の裾を引く人間がいた。
「…ミサ」
ミサは困ったように見上げてくる。
「ジョージ…。きさらはああいう人だけれど……、その、あんまり邪険にしないであげてほしいの」
「………」
そんなつもりは、と言いかけたが、そんな言葉に信憑性がないことが自分でもわかって飲み込んだ。
「きさらは貴方を呼び戻すためにいろいろ奔走したみたいなの。…たぶん、あれでももうクタクタよ」
弱みを見せたがらない男だからそんな素振りはやんわりと押し隠しているのだろう。ミサが遠慮がち言った。
「それは…」
「だから、……とにかく行ってあげましょう?」
一乗寺は言葉に窮したが、ただ頷くことだけはした。



―――え、いや、だから待ってくれ。
真田は喉にひっかかった言葉を最後までかけることができなかった。ミサが背を押すようにして一乗寺と部屋で出て行ってしまうと、真田はひとり困惑気味に佇むしかなかった。何しろ後ろには総帥がいる。今まで一切口を挟まなかった総帥が、感慨なさそうにそこにいたのだった。
真田は軋んだ音を立てるようにして、首を回す。ぎこちない素振りで総帥を振り返った。
「あ、あの…総帥」
なんだい、とおだやかな笑顔が返ってくる。強張っていた真田は少しだけ気が抜けるのを感じた。
ふと気づくと、総帥の近くを黒揚羽がひらひらと舞っていた。いつのまに影が、と思いながら眉を潜めると、総帥がそっと蝶を払う。鬱陶しそうな様子で影を遠ざけていた。
真田は茫然と眺めていた。
「…何か言いかけたのではなかったのかい?」
「え、あ…はい!」
総帥にあしらわれている影を見て、真田は少し小気味よい気分だった。だがちいさなわだかまりに似たものがある。嚥下できない違和感を覚えてしまった。けれど今はそんなことを考えている場合ではない。真田は小さく頭を振ってから、お礼を言うのだ、と意を決す。
「君はそういえば…この間の満月のときも、何か言いたそうにしていなかったかい?」
「! 覚えて…」
真田は恐縮して、慌てて頭を下げた。
「ずっとお礼を言おうと思って…! 前に助けてもらって!」
「ああ、前に森で力を使おうとしていたときのことかな? ……大したことじゃないよ」
「いえ、でも! それに! 組織に入れてくれたことも感謝してて…!」
三露の顔をした総帥は、聞きなれたものとは違う声で話す。髪の毛にしても、脱色した髪より薄く見えた。
あれだけ会いたいと切望していたのに、真田の心は焦るばかりだ。何を言えばいいのか、どう振る舞えばいいのか。嬉しいという気持ちより、焦りばかりが先走ってしまう。そしてどういうわけか不安まで覚えていた。
不意に総帥が真田の頭へと手を伸ばした。
「気にしなくていいよ。組織のことも、前のことも。力が戻ってなによりだったね」
にっこりと笑って伸ばしてくれた手のはずだった。
「…ッ!」
ついその手を払ってしまった。気づいたときには払いのけてしまっていて、真田は自分自身困惑せずにいられない。目の前の総帥がおや、と少しだけ目を見開いた。
「気に障ったかな? それはすまなかったね」
「い、いえ…あの、でも…」
総帥は意外そうに払われた手をさすっていた。空を掻いたその手は真田の頭を撫でようとしたのか、はたまた肩に置かれようとしていたのか。真田にはわからなかったが、跳ね除けたのは反射的にやってしまったことで、ついでに思わず一歩退いてしまっていた。
真田自身、理由もはっきりとしなかった。思い当たるとすれば先ほどから感じている違和感がそうさせたのだろうか。不安のせいか、焦りのせいだったのか。
「…いえ、あの…こちらこそ…すいませんでした…」
けれど退いてしまった一歩の距離を取り戻そうという気はどうしても起きず、何度己に言い聞かせても奮い立たせることができなかった。
―――こういうのを何と言ったのだったか。
警戒、と。そう言うのかもしれなかった。



一乗寺は腰を下ろしたものの、困っていた。
一乗寺家は細い道に面して佇んでいるので、広い通りに出るまで少し歩かねばならなかった。どうして大通りに出る必要があるのか釈然としなかったが、小路を抜けて一乗寺ようやく理解した。路上駐車された一台の車があったからだ。武政の車らしい。ところが一乗寺はその運転席に座らされてしまい、困り果てていた。助手席の武政に視線を向ける。
「きさら」
ああ、と眠たそうな声が響いた。武政は車にたどり着くなり、ミサを後部座席へ促し自分は助手席に収まった。一乗寺に運転席へ座るように采配して、キーを渡してきたのだ。運転しろ、と言って。
「……おい、きさら。運転なんか…」
「俺は今日だけで京都まで往復したんだ。眠い。疲れてる」
腕を組んだ武政はそっと瞼を下ろしてしまう。
「待て、きさら。寝るな」
一乗寺だってはじめ運転席に座るのは渋ったのだ。けれどとりあえず乗るだけ乗れと言われ、乗ったら運転しろと注文される。大学卒業以来、出不精になってもう五年は経っていた。しがない骨董店を構えている一乗寺は車で出勤する先もないし、細い道に面した一乗寺家に駐車スペースはもちろんない。ろくな運転もできないのは、子供でもわかりそうなのに。
運転しろと言われたとき、一乗寺は慌てて免許証がない、と訴えた。大学時代に武政に半ば攫われるような形で自動車学校に通った功績の免許証は、あるとしたら家の中だった。長らく運転しないせいで存在をすっかり忘れているのに、免許更新の度に武政に手続きに行かされた功績の賜物といえる免許証。今ではただの身分証明になっている代物だった。そんな免許証は、財布すら持たずに出てきたのだから今ここにあるわけがない。
すると武政は安心しろ、と笑った。
―――ろくでもない友人を持ったと思う。
「何で俺の免許証を持ってるんだ…」
武政が持っていなければこんな目には遭わなかった。
「ん? ああ、さっき探しておいた。ミサが片づけておいてくれたおかげで、樹海のような荒れ様から宝捜し気分といかなくて済んでよかったよ。案外あっさり見つけられた」
いつのまに、と呟いたのは後部座席のミサだ。
「…きさらってばおかしいわよ。あの石がないって言ったら真田が持ってくるし…、私ずっとあなたの近くにいたのに……ジョージのいつのまに免許証なんて…」
武政は下ろしていた瞼を少しだけ震わせ、すっと細めた目で笑った。
「まあ、そんなこともあるさ」
「否定しないんだから…」
もう、と唇を尖らせるミサに、武政は笑うだけだった。
「さて、俺は寝る。ミサの家に行ってから俺の家に行ってくれ。場所はわかるだろ、よろしく」
「きさら、本当に無茶言うな。運転なんか」
「ああそうだ。寝首を掻きたいなら今のうちだぞ。俺は寝る。ほんとうに眠い」
「……きさら」
勘弁してほしい。困り果てた一乗寺が縋るような心地で呼んだのだが、返ってきたのは寝息だけだった。
「…きさら、本当に寝たのか?」
反応はなかった。
「……おいきさら…」
背後からくすり、と小さな笑いが響いた。振り返るとミサは肩を竦めてからあくびを零した。
「私も寝かせてもらおうかしら」
「ミサ」
「がんばってねジョージ」
「……二人とも…何を呑気に…」
だって仕方が無いじゃない、と言ってミサは後部座席で横になった。金色の髪が流れるようにシートから零れた。
「きさら、疲れてるんだわ―――本当に」
隣の男もミサも、瞼を下ろす。長い睫毛が窓から差し込んだ月明かりにかすかに照らされていた。
「それに、安心しちゃったのよ」
きっとね。

困り果てた一乗寺が隣の無邪気な顔にため息を零すのは少しあとのこと。それからしばらくして、夜の果京の道をへろへろとした軌跡を描くテールランプがゆっくりと闇に消えていく。


****


河川敷に座ったミサの隣に少年が腰を下ろしている。ああ懐かしい夢だ、と武政は思った。意識の遠くでエンジン音を聞きながら、懐かしい夢を見ながらまどろんでいた。
ミサは出会ったときも、今とほとんど同じ容姿だった。はじめは同い年くらいかと思って、組織の中にいる数少ない子供だと少し嬉しくなったのに、なんと彼女ははるかに年上だと言うではないか。
知らされたのは少ししてからで、愕然としたものの結局一番信頼をおける組織の人間になった。
そのミサにも言っていない。よく気のつく子だから、ミサにはいつ気づかれるかと思ったのだが。組織に入るとき、武政は書類に「動物を操れる」「動物並みの五感を駆使できる」とだけ書いた。だが人に使われるのはまっぴら御免で、「己が動物に意識を宿せる」だなんて第三の能力は隠してきていた。
真田あたりは今回のことで薄々感じずにはいられないだろうが。

「ミサ」
名前を呼ぶと、川を眺めていたミサが振り返る。小松に流れるケシ川という川の河川敷に腰を下ろしている夢だった。
むかしむかしに子供が行方不明になる"消される川"だそうだ。実のところは、貧困にあえいでいた時代に、口減らしとして子供を沈めていた川なのだろうが、そんな言い伝えもあまり有名ではない。
そこは、ミサとよく落ち合う川だった。一人でもよく行ったものだ。―――神隠しにでもあって消えてしまえたらどんなにいいか、と思っていたのかもしれない。
あの頃、能力を持って生まれたことが全ての不運のはじまりのように感じていた。
「この組織、つまらないな…。ミサはそう思わない?」
ミサはまったくこの子供は、という表情をする。
「つまらないって何が?」
組織にはミサくらいしかいなかったのだ。同い年の子供が。仲良くなってみるとミサともほど遠い年齢だと知ったが、とにかく組織に入るには武政はまだ若すぎたのだった。それなりの力を幼い頃から駆使する人間はそう多いものではない、と組織の大人達が笑っておしえてくれた。
―――ならばどこにもいないじゃないか。武政が能力を持ったことで味わった苦しみを、同じように味わってきた人間がいない。
きっと自分を理解できる人間なんて、そうはいない。
「別に私の知ったことじゃないけれど…あなた友達いなそうね」
「心配するな、俺は人気者だ」
揶揄したように気取ると、ミサにはため息をつかれてしまった。
「でも"友達"じゃないんでしょう、それ」
あのときは冷や水を浴びせられた気分だった。別に欲しいと思っていない、そんなことは構わないが、確かに疲れた部分は武政のひどく柔らかく、傷つきやすい部分だった。
「…じゃあミサの言うおトモダチってやつは何だよ?」
ミサは少し考え込んだ様子だった。しばらくしてぽつりぽつりと友達の定義とやらを語りだす。
「一緒に居ると、気が楽なの」
「別に学校の奴等といてもラクだけど?」
苦しみも痛みもまるで知らないだろう同級生達は、馬鹿らしいほど幼くて、やんちゃで、付き合いだってラクだ。
「…こっちの痛みや苦しみを理解してくれる人、…とか」
「まあそういうのはいないな。捜してるけど」
「一緒にいて息がつまらないでいられる、とか」
「そんなもの、」
切望して止まない。いつもに窒息しそうで喘いでいるのに。
「……あとは…」
ミサは悲しげに微笑んだ。
「その人が死んじゃうと、すごく悲しかったりね。そういうの、たぶんお友達だわ」
ミサなりの持論かもしれない。逆に言えばミサが死んだら悲しむ人間も"友達"というものかもしれないが、生憎ミサはもうしばらくそんなこと確認できないだろう。
「俺が感じる苦しみも痛みもわかるやつね、……ああ、ひとり。そうすると、ひとり友達になれそうな奴がいるんだ」
まだ目覚めていないけれど。京都の孤児院で友人になれそうな少年を見つけたのを思い出す。
そのうち能力さえ目覚めれば組織に入る。ミサにも紹介できるだろう、と言うとミサは苦笑した。
「…そのお友達になれそうって子、…ほんとうになれるといいわね」
「………」
「まだいないんでしょ、"友達"が。一人くらいつくっておくべきだわ」
つくりたい、とは思う。つくれれば、とは思うのだ。武政の痛みと苦しみを理解できる人間が、たった一人でいいから欲しい。
「………そうか」


久幸が死んで、案外悲しかった。
いくら待っても能力が目覚めてくれないし、目覚めたかと思いきやひとりだけ精霊と幸せそうに過ごして、あげく武政の苦しみなんか理解してくれなかったけれど、それでも一乗寺が死ぬとそれなりに悲しかった。
―――俺の中でちゃっかり"友達"として認識されていたらしいよ、ミサ。
心地よいエンジン音を耳にしながら、武政はまどろんでいる。



           

 





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