ザア、と音をたてて風が過ぎてゆく。空気は重く湿って息をするたびに不快になる。
太陽が隠れているために暑くはないのだが、まとわりつくような湿気に比べれば降り注ぐ陽の光のほうがずっとましかもしれない。晴れてくれればいいのに、と真田は空を見上げる。
梅雨明けは、近い。


空気の重たさは一乗寺の家も変わらなかった。縁側に腰掛けて足を揺らしながら、真田は密かに唇を尖らせる。
精霊とお友達なら、このジメジメした空気をどうにかしてもらってくれよ。
しかし当の一乗寺は全く苦にしていないらしい。先ほどから部屋のテーブルに向かっていくつも書類を広げている。いつもと変わりない光景、当たり前のはずだった。そんな日常が戻ってきたことが真田は嬉しくてたまらない。つい先日までこの家を支配しているのは悲愴な空気だったのだから。そこにあるのは、家主の死体だけだった。
しかし今は違う。一乗寺の魂は再び身体へと鎮まり、以前と変わりない生活が戻ってきたのだ。
変わったのは真田の心の持ちようだろうか。庭にそびえる松を見やり、真田は口元に手を当てて考え込む。あの松に精霊が宿っていて、ましてやそれが一乗寺の彼女だなんて―――信じられない、というか理解できない。
松から再び一乗寺へ視線を移す。一乗寺は先ほどと変わらずテーブル一面に書類を広げ、部屋の床もほとんど同様の状態だった。広げられているのは紙だけではない。棚に押し込められていたはずの収集品から本棚に並んでいたはずの古書まで、ありとあらゆるものが散らばっていた。物をかき分けなければ進めないという程ではないが、それでも踏みつけなければ進めない。まだ縁側から居間の中が見えるぶんマシか、と真田は嘆息した。
一乗寺が戻って数日、このままだと部屋が元の樹海に戻る日は近い。以前ミサが片づけて以来すっきりと落ち着いていたのに、生き返った途端これだ。しかし真田はどこかで安心していた。自分が知っている一乗寺がやっと帰ってきたという感じだった。
「一乗寺。何してるか知らないけどそろそろ休んだらどうだ? …アンタ、病み上がりなんだからさ。急に無理しないほうがいい」
部屋の奥に向かって声をかけたが、返ってくるのは生返事だけ。ずっとこの調子で紙面と向き合ってばかりいるので真田は退屈で仕方がない。別に構ってもらいたいわけではないが、それにしてももう少し気遣いがあってのいいのではないか。こちらは死人になった一乗寺のことをどれほど心配したことか。様々な文句が頭に浮かんでは消える。真田自身、結局は自分のワガママなのだとわかっているのだ。
「でも、何してるかくらい教えてくれたっていいじゃないか」
真田は口の中で呟くと立ち上がった。一乗寺が普通に生きていることは確認できたし、もう帰ろうか。どうせここにいたところで相手をしてもらえないことは確実だ。
「えーっと……お邪魔しました?」
一乗寺に言ったところで返事は返ってこないので、真田は松に向かってわずかに頭を下げた。かつて琥珀の中に封じられていた松の精霊は、一乗寺の魂が身体に戻るのと同じように、本体である松へと戻ったのだ。この松には紛れもなく一乗寺の彼女・松の精霊が宿っているはず。だから一応挨拶をしたのだが、もとより返事を期待していたわけではない。真田は一礼してさっさとその場を後にするつもりだった。ところが驚いたことに松の枝が風に揺れてしなった。揺れた葉が擦れあってザワザワと小さな音を立てる。
もしかして挨拶を返されたのだろうか? まさかな、と思いながらも真田は松から目が離せなかった。精霊と対話したことなんてないから、どうコミュニケーションを取っていいものやらわからない。
そうして見つめているうちに、ふと松の葉の向こうに黒いものが舞ったのが見えた。木の葉のようにも見えたそれは、こちらへ近づいてくるにつれて輪郭を鮮明にする。
「……影」
真田の嫌いなもの五指に入る使い魔だった。風にゆられながらもこちらへまっすぐ向かってくるということは、一乗寺に用事なのだろうか。それならば即刻立ち去るべきだ、影と顔を合わすなど冗談じゃない。
きびすを返し門へ足を向けた真田は、次の瞬間に砂を踏みしめる足音をきいた。真田が向かう門の方からだった。
植木の垣根の向こうから現れたのは金髪をなびかせる少年、三露だった。
「……三露。何しに―――」
何しに来たんだ、と言いかけて真田は慌てて口を噤んだ。同じことをもし訊き返されでもしたら、自分のほうがまともな理由でないことを思い出したのだ。生き返ったものの一乗寺のことが心配でたまらない、またすぐにどこかへ行ってしまうのではないかと不安でたまらない。―――そんな弱音が吐けるものか。
「一乗寺はいるか?」
そう訊ねた三露の声はいつもよりワントーン低かった。目もほとんど寝起きのように細められたまま。東果から戻ってすぐに黒から金へと染め変えられた髪の毛は寝癖だろうか、あちこちへ向かってピンと撥ねていた。頭の後ろへ片手を回し、三露は気怠そうにしている。こういう時の三露にはあまり関わらないほうが得策だろう、おそらく彼は機嫌が悪い。
「……中に、いる」
短く告げて、真田はさっさとその場を後にしてしまおうと足を踏み出した。
三露が何か言いたそうにこちらを見ているのがわかったが、真田は振り返らなかった。不機嫌のとばっちりを食うのは、ゴメンだ。


「……真田は急ぎだったのか?」
三露は縁側に腰かけるなり、ぞんざいな口調で一乗寺に問いかけた。部屋の中にいた一乗寺は億劫そうに一瞥をよこし、それから小さく首を振る。
「知らない?」
そう、と呟き、三露は足を組んだ。その膝の上へ肘をついて前かがみになる。身体がだるくて、一乗寺の家へ来るだけで疲れてしまっていた。
先日の満月以来、三露の体調は優れない。あの総帥様が随分と無茶をしてくれたらしい。
―――訊かずともわかる。翌日、目を覚ました三露の前には生き返った一乗寺がいたのだから。
鎮魂は成功したようだった。本当に優秀な総帥様だ、とつくづく三露は思う。それに比べて自分はどうか。気怠い身体を嘆くくらいしか出来ず、圧倒的な総帥の力にただ嫉妬するだけ。
ここ数日はほとんど仕事が手に付かなかったため、やることが山積みになってしまっている。そんな中あえて一乗寺家にやってきたのには理由があった。
「一乗寺。仕事は順調なのか?」
部屋の中へ向かって声をかける。が、返ってきたのは一乗寺の冷たい視線だけだった。放っておけ、といったところか。
三露がここへやってきた理由の一つは、一乗寺の仕事の進み具合を確認することだ。
一乗寺には常から術者の使う物品を手配してもらっていた。例えば三露が術に使う和紙もそうだし、伊織京が使う香水もそのうちに入る。一乗寺はかつて"失せ物"を探していたため、物品の流通ルートにやたら長けているのだ。
しかし彼は一ヶ月以上も死んでいたため、仕事が溜まってしまっている。いま、その処理に追われているというわけだ。自業自得だ、と三露は心の中でうそぶく。
しかしまぁ、一乗寺が戻ってきてくれてよかった。術者が不足している今は貴重な人材だった。
そんなことを考えていた三露に、一乗寺が呆れた顔で視線を寄越した。持っていた書類を膝の上へ置いてため息をつく。ガックリと落ちた肩が疲労しているだろうことを伺わせていた。生還直後にしてはオーバーワークすぎるのだ。三露も、承知していた。
一乗寺は肩を落としたまま三露へ一瞥をくれる。
「………暇ならば手伝ってくれないか」
「手伝いたいのは山々だけれど、僕も仕事がある。……遊んでるわけじゃない」
「……そうは見えない」
一乗寺は皮肉そうに目を細めた。確かに何もせずに座っている三露を非難したくなる気持ちもわからないではない。が、三露がここへ来た理由は一乗寺の仕事具合を確認することと、もう一つあった。実は今、人待ちの最中なのだ。仕事の話をするためにここへ呼びつけてあった。
本当は三露のマンションへ来るよう命じたのだが、向こうがそれを嫌がったのだ。それで互いが妥協して一乗寺の家で会うことになった。家を待ち合わせ場所に使われる一乗寺にしてみれば、迷惑でしかないだろうが。
「……僕は人を待ってるんだよ。……あ、来た」
門をくぐってやって来たのは武政だ。三露に負けず劣らず怠そうな半眼でジトリとこちらを見据えていた。三露も足を組み替えながら武政を見上げる。
「遅い。待たせるな」
「……呼びつけておいてそれか。こちらは小松から来てるんだが」
「君は車があるからいいだろ」
三露が言うと、武政は可笑しそうに口の端を上げた。こちらへやってきて、縁側の板張りに膝と手をつく。部屋の中をのぞき込み、小さな笑い声を零した。一乗寺は聞こえているだろうに、少しの反応も返さずに書類を睨み付けている。
「車……ねぇ。いま、バンパーの修理に出してる」
「………ぶつけた?」
「さぁ。気が付いたらヘコんでたんでね。俺は知らない」
車が故障したというのに、武政は実に楽しそうに言う。相変わらず何を考えているのかわからない男だ、と三露は心の中でため息をついた。こういう相手が一番やりにくい。三露が今こんなに疲労しているのも、元はと言えば武政が仕事に条件をつけてきたからだ。三露にノーと言わせる暇を与えず、強引な手段で総帥と面会した。
今回もまた、武政に頼みたい仕事があるのだ。また武政が「条件」などを言い出したら厄介だなと思いながら、三露は口を開く。
「君の車が直ってからでいい。この仕事にかかってくれないか」
ポケットから紙切れを取り出して武政に手渡す。B4版の紙に記されているのは日本地図だ。
「……これは?」
「見ての通り、地図だよ。これを頼りに、君には調査を進めてもらいたい」
武政の広げた地図を指さし、三露は続ける。
「地図にはマークがしてある。これは術者から怪異があったと報告された地域だ。……固まってるのがわかるだろう?」
地図上に赤丸で記されたマークは、重なり合って密集しているところが数カ所あった。三露たちのいる果京、および逆居・東果・小松を合わせた四区も、赤丸が重なっている。
「怪異の起こりやすい場所というのは決まっているんだよ。この四区もそうだけどね。そういう場所では力を持つ者が生まれやすいこともわかってる。……例えば武政、君や、伊織兄妹」
武政や伊織兄妹は、この四区で生まれ育った。これほど狭い地域に能力者が固まって生まれるのは稀だ。この四地区に配属している他の術者も、真田はドイツ、一乗寺は京都、ミサはフランスと出身地はばらばらである。
しかし術者の出身地にばらつきがある中でも、この四区では術者の出生率が高い。過去のデータを見ても明らかだった。
「……それで?」
「君には、そのマークが集中している部分を調査してほしい。力を持った者がいないか、捜してほしいんだ」
一言で言うなら、新しい術者探し。組織はいつだって術者不足に喘いでいた。そこで三露が術者達の出身地を調べてみたところ、偏りがあることに気が付いたのだ。更にその偏り方は怪異の分布とそっくりだった。
怪異が起こりやすく、術者が生まれやすい地域。もちろんそういった地域には術者を多く配属してある。それを改めて武政に調査させようと思っていた。
「術者探し、ね」
「引き受けてもらうよ。今回は何の取引もナシだ」
こちらだって暇じゃないのだからと、三露は言外に皮肉を含む。日頃から三露の仕事に口答えの多かった武政だが、今日は珍しく文句のひとつもなかった。黙ったままじっと三露を見返しているだけだ。
三露は怪訝に思ったが、とにかくこれで用事は終わった。武政が静かならその方がいい。言い負かされないうちに、と三露は腰を浮かそうとしたのだが、そんな三露の腕を絡めとるものがあった。不意に、武政が三露を手首を掴んでいた。
「……なに、」
「お前、………」
手首を握る武政の手に力が込められる。痛い、と三露が呟くと、何か言いよどんでいた武政は意を決したように口を開いた。
「お前、―――本当に三露か?」
「……は?」
何を馬鹿なことをと一笑に付そうとした三露だったが、武政が睨み付けるように真剣な目をしていたから思わずゴクリと喉を鳴らしてしまった。武政の手が腕をぎりぎりと締め付けてくる。
「……僕は僕だ。馬鹿なこと言ってる暇があったら、早いこと仕事にかかってくれ」
「あぁ……そうだな」
三露は武政の手を振り払うようにして立ち上がる。内心にしこりを抱えながら、一乗寺の家を後にした。
早足で道を歩きながら、しかし何故か武政の声が耳について離れない。
いつか自分自身が総帥に取って変わられるのではないかという恐怖、まさか武政がそれを見透かしているとでも?


* * * *


一乗寺家を後にした真田は、逆居へのバス停で三十分もバスを待ち続けていた。逆居と果京を繋ぐバスは一時間にたったの一本しかない。
「いきなり行っても…迷惑かな、ミサ」
ベンチに深く腰掛けながら真田はため息混じりに零す。迷惑かもしれないと思いながらも、いま一人でいる気にはなれなかった。マンションにいたところで暑いだけだし、暇だし。
そういえば数ヶ月前は、この一時間に一本のバスを使ってミサが果京へ通い詰めていたんだっけ。この数ヶ月で色々なことが起こりすぎて、今ではとても懐かしいことのように思われる。
様々なことに思いを巡らせていた真田は、ふと自分の上に注ぐ陽射しが遮られたことに気が付く。振り返ると、そこには腕を組んだ三露が立っていた。
「みっ…三露!? なんで…」
三露は先ほど一乗寺家で見たまま、全身から疲労を漂わせていた。
「こちらのセリフだけどね。……君、逆居へ行くのか?」
驚きで真田は答えることが出来なかった。が、逆居行きのバス停にいるのだから口を開かずとも答えは知れている。問題は、どうしてこんなところに三露がいるのかだ。
「アンタ…一乗寺のところに…」
「あぁ、もう用事は済んだんだ。ミサにも話があるから、逆居へ行くところだけど」
君もそうだろ? と問われる。真田は返事が出来なかった。もちろん逆居へ行くつもりではあったが、三露と同行するのは避けたい。かと言って行かないと言うわけにもいかず、真田は口を噤んだまま黙していた。すると三露の目が奇妙に細められる。
「……僕を、避けてる?」
「え……」
真田の肩がぴくりと揺れる。そんなことない、という言葉が喉のところで詰まって、上手く外へ出てこなかった。そんな真田の様子を見た三露が、薄く笑う。
「別に、いいけどね」
投げやりな声だった。そのままフイとそっぽを向いてしまって、目を合わせようともしない。
「三露……」
別に三露を避けているわけではない。
ただあの満月の日、総帥が差し伸べてくれた手を払ってしまったことがずっと心に残っているのだ。あの時感じた居心地の悪さ。三露の中に総帥がいるのだと思うと、何となく萎縮してしまうの自分を真田は自覚していた。
「俺はアンタを避けてるわけじゃ、」
ようやく発した弁解の言葉だったが、しかし半ばで掻き消されてしまう。バスのエンジン音が近づき、停留所でとまった。
「乗らないのか?」
バスへ乗り込もうとしていた三露が、真田を振り返る。真田は一度強く唇を噛んだ後、乗る、とだけ答えてベンチを立ち上がった。その後を使い魔の影が蝶の姿で追ってくる。
喉の奥が苦しくて他に言葉が出てこなかった。どうしても居心地の悪さをぬぐうことができない。


「フロントバンパーのヘコミ・傷の修正、および塗装。二万三千円のところを二万にまけてやる」
ずい、と手を出してきたのは武政だった。一乗寺はこめかみを押さえて深く息を吐き出す。
「……俺は無茶だと言った。それでも運転をまかせたのはお前だろう、きさら」
「けれど免許を持ってる奴がまさか豪快に壁に衝突してくれるとは思ってない。今まで傷一つなかった愛車なんだが」
武政は淡々と皮肉を吐く。しかし一乗寺にしてみればしたくもない運転をさせられた上に、修理代を請求されるなんて二重の迷惑でしかない。―――確かに傷をつけてしまったことの非は認めるが。
このまま応酬を続けてもいずれ武政に言い負かされてしまうことはわかっていたので、一乗寺は黙って部屋の一角を指さす。棚の中に現金がいくらか仕舞ってあるはずだった。武政はにっこりと微笑むと、そこから万札を二枚抜き取った。
武政は普段、少々の金でうるさく言う男ではない。今回あえて修理代を請求してくるのは、一乗寺への嫌味と当てつけとしか考えられない。
「これでチャラにしてやるよ。もう二度とお前に車は貸さない」
「……頼まれても借りない」
ひらひらと万札を揺らす武政に、一乗寺は吐き捨てるように言う。しかしこれでチャラにしてくれるのはありがたい話だ。武政は根に持つほうだから、恨まれたらどんな仕返しが待っているか想像もしたくない。
そんなことを考えていた一乗寺の耳に、不意にカサリと乾いた音が聞こえた。見ると部屋の中を歩いている武政が床の書類を踏みつけている。
「きさらッ、うろうろするな!」
大切な書類だ。破られては仕事が出来なくなる。しかし武政は書類を踏みつけながら悠然と部屋の隅へ歩いていく。
「散らかしてるのが悪いんだろ」
「散らかしてるんじゃない、置いてるだけだ」
「……これは、限度を超えてる」
武政は言いながら、部屋の隅に積み上げられた本の山を適当に積み直す。いくらか安定させて崩れないようにした後、その上に腰かけて椅子の代わりにした。
「な、……貴重な古書もあるんだぞ!」
「それなら来客用にソファでも用意しろよ。座るどころか、足の踏み場もない状態なんだぞ。仕方ないだろ」
「ならどこにも座るな。足を踏み入れるな。用が済んだなら帰れ!」
続けざまに怒鳴りつけながら、一乗寺は立ち上がる。畳に散らばった書類を器用に避けながら武政に近づき、腕を引いて本の上から立ち上がらせた。すると突然、武政が浮かべていた笑みを掻き消す。
「お前、三露とは話したか?」
「三露と?」
どうして急にそんなことを、と思いながらも、一乗寺は頷く。話したが、それがどうだと言うのだ。
「きさら……?」
武政は黙り込んで口元に手を当てる。何か考えているようだったが、一乗寺には全く見当がつかなかった。
「三露がどうしたって言うんだ……」
「いや、少し気になることがあっただけだ」
立ち上がった武政は、今度は床の書類を避けながら縁側まで歩いていった。一乗寺もその後を追う。
「何が気になるって……」
「久幸、琥珀の中で何か見なかったか?」
「え、……」
琥珀の中、それは一乗寺が仮死状態の間、意識のみの幽体で入っていった世界だった。一面が白い靄に覆われたような世界。琥珀の中にあの空間があったというよりもむしろ、琥珀が入り口になっていてあの世界に繋がっていたのだろうと思う。
ただ白いばかりの、空虚でからっぽの空間だった。一乗寺はあの中で松珀と過ごしていたから幸福だったものの、常人ならば気がちがってしまうだろう。もちろんそんな世界には他に誰もいないし、何もない。だから何かを見ることもない。
「きさら…何を言ってるんだ?」
「俺は、見たんだ」
武政が振り返る。細められた瞳は恐ろしい程に鋭く、一乗寺は背筋がゾッと冷たくなるのを感じた。
「俺は見た。……久幸、三露には極力気をつけることだ」
ドク、と音を立てて心臓が鳴る。空気が絡みつくように重く湿って、息を吸い込んだ一乗寺は噎せるように喉を押さえた。



           

 





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