ミサにとって真田は突然の来客でも、三露はそうでなかったらしい。ミサは真田の顔を見て驚いたものの、三露にはその表情を見せなかった。三露はあらかじめ連絡を入れていたのだろう。
なんだか面白くない、と真田は内心で唇を尖らせる。
こんなことなら来なければよかった、とか、自分も連絡を入れておくんだった、とか後悔ばかりが真田の頭をかすめてゆく。
これではまるで、三露の同行者だ。別に仕事の話をしに来たのではないのに―――かといって何をしにきたというわけでもないのだが。
ミサの家へ上がった真田と三露は、お茶を淹れるからといってキッチンへ消えたミサを待っていた。ソファに座る二人の間には微妙な距離がある。ぽっかりあいたその距離には、息苦しい空気が濃密に満ちていた。
何か喋らないといけない。真田は口を開こうとするのだが、何を言えばいいのかわからないまま、またすぐに黙り込んでしまうのだった。傍らでは蝶の姿をした影が羽を休めている。
こんなことなら大人しく自宅へ帰っておくのだった。後悔した真田の耳に、ぱたぱたと軽い足音が聞こえてきた。ミサだ。
「ごめんなさい、お茶の葉っぱを切らしてるみたい。飲むものを買ってくるから少し待っててもらえる?」
「え、それなら俺が……」
真田は立ち上がって申し出たが、ミサに軽く手で制される。
「真田はお店の場所わからないでしょ」
「あ……、」
この空気から逃げたい一心だったが、言われてみればその通りだ。ではミサが買い物に行っている間、再び二人きりか。真田は陰鬱になりながら静かにソファに座り直す。すると隣の三露が口を開いた。
「ミサ、長い話ではないから構わないよ。話してしまったら、僕は帰るから」
「そうはいかないわ。お客様だもの」
ミサは微笑むと、ふわふわとした洋服の裾を翻してリビングから出ていってしまった。玄関で靴を履いている音が聞こえる。
あぁ本当に出ていってしまう。先程、買い物なら自分が行くと申し出てしまったせいで、三露を避けていることを決定づけてしまった。墓穴を掘った、と真田は頭を抱えたい気分だった。
玄関のドアが閉まる音が聞こえ、完全にミサが出ていってしまってから、真田は苦し紛れに口を開いた。
「ミサに話って……何?」
すると三露は真田を一瞥した。
「……あぁ、君にも話しておいたほうがいいか」
そしてすぐに目を伏せる。三露が真田の目を見て話そうとしないのは、意図的なのだろうか。相手のちょっとした動作に真田はいちいちギクリとしてしまう。三露はソファへ深く座り直す。
「武政にね、大きな仕事を任せる。だからミサには武政の担当している小松地区も気にかけてもらおうと思っている」
「……それって、ミサの負担にならないか?」
「だから、君も一緒に小松を見てもらえないか。君とミサの二人で、果京・逆居・小松の三地区を見てもらいたい」
「……え?」
三露の提言は突拍子もなかった。少なくとも真田には思いも寄らないものだった。
「Warum……だって、果京には一乗寺もいるじゃないか」
「一乗寺には別の仕事を任せてある。しばらくはそれにかかりっきりになるはずだ」
そういえば先程、一乗寺はずっと書類に向き合って仕事をしていたっけ、と真田は思い返す。が、しかし、果京には自分と一乗寺の他、もう一人術者がいるのではなかったか。
「……アンタはどうするって言うんだ?」
三露だって果京の術者なのに。そのくせ自分のことを棚に上げて、真田とミサに三つの地区を任せるなどと言うなんて、三露が何を考えているのか全くわからなかった。
「そうだね……」
三露はふっと唇を笑みの形にする。
「仕事が忙しいから、一つの場所にかかりっきりにはなれない。まぁ、拠点は果京に置くつもりではいたけど」
三露は笑いながらすっと手を伸ばす。すると影がふわりと舞い上がり、三露の手の甲に止まった。
「けど、元々影から逃げるためにここへ来た。もう影に見つかってしまったからね……ここにいる意味もないかな」
「え………」
真田は驚いてしまって声を出すことができなかった。喉の奥が乾いてはりついている。そんな真田を後目に、三露は悠然と微笑む。
「どこか他へ移ろうかなと思ってる。……いや、さっき思った」


* * * *


「話って何かしら……ウリ」
ミサが契約した天使の愛称を呼ぶのは、二人っきりになったときだけだ。
ミサは玄関を抜け家を後にし、やや歩いてようやく足を止めた。三露や真田の目が届かないところまで来ると大天使ウリエルの名前を呼ぶ。紅茶を切らしたなん て嘘だ。普段寡黙なウリエルがミサに真面目な話がある、と持ちかけたから、こうやって果京の術者の目を忍んで外まで出てきた。
きょろきょろと辺りを見渡し、ミサは傍らのウリエルに声をかける。
「とても重要なことって…?」
ミサはウリエルのことが見えているが、他の人にはもちろん見えるわけがない。ここを常人が目撃すればミサの一人語りにしか見えないだろう。なるべく物陰に入ったが、ミサは声を潜めずにいられなかった。
「今でなければ困ることだったの…?」
ウリエルの顔に変化はない。ただあまり感情が読めない天使の顔つきは、いつもに比べて険しい。
『ミサ、私は800年生きろと言った』
「…どうしてその話を今…」
『何故だかはまだ話していなかったはず』
ミサは息を押し殺した。なんとか唾を嚥下する。ウリエルがこの話を今持ち出すことに納得いかないが、この話題に喰いつくなと言う方が無理だ。ミサにとっては重要な話題だった。
「……ええ。…何も、そうね何もおしえてもらっていない」
もしかしてようやく教えてもらえるのだろうか。ウリエルと契約を結んだ理由―――ミサが長寿の身体にされた理由を。ミサは体が小刻みに震えていることに気がついた。何せ、訊きたくても百年以上も堪えてきた話題だ。
ミサが契約を結んだのは十三のとき。契約を交わし、ミサの側には常にウリエルがいるようになった。天使は普通人間界にいるものではなく、契約でもしない限 り地上は留まれないのだと言う。けれどそれ以上の事情は何も聞かされず、ウリエルが何のために地上にいるのか教えてもらっていなかった。
百年以上もの間、ただ熾天使ウリエルのすることだからと思ってミサは抗議も詰問もしなかった。本当は自分の時計が狂ったことが悔しかったくせにだ。周りは どんどん寿命をまっとうしていくのに、自分はいつまで経っても少女のまま。ふと自覚するたび、悲しみに暮れ、ウリエルに当たりつけたい気持ちすら涌き起こ る。それなのにミサは何もかも堪えてきた。せめて理由だけでも教えてほしい、という言葉だって飲み込んできた。
ウリエルの感情が読み取れない顔が、話を持ち出されるのを拒絶しているように見えたから。
『ミサ』
ふとウリエルの声が耳に入り、ミサは我に返る。そこは逆居の裏路地だ。
『生き長らえてもらっているのは、ミサに使命を遂げてもらいたいからだ。だがミサ…、ミサではまだ弱い』
ウリエルは険しい顔でミサを見下ろしている。
『まだ、私の求めている力には及ばない』
「……まだ…」
茫然と反芻するミサに、ウリエルは少しだけ口調を和らげた。
『昔、ある増大な力を持った者に制裁を与えることがきなかった。この世を乱し、この世のためにならない男だ。海を渡って逃げおおせてしまってね、…彼の力は半端ではない。逃げてからもずっと力を増幅させ続けている。……不穏な男だ』
ミサは目を瞠る。ウリエルがこういった"事情"を話してくれたことなどない。昔の話なんてもっての他だった。
『その者をミサに成敗させようと私は思っている。けれどミサ。まだまだ力が足りない。八百年使い、力を溜め続ければあの男にも適うかと、ミサならば出来るかと、そう予測して契約を結んだ』
「………成敗…?」
『そう』
ミサは戸惑いに息を詰まらせる。
『けれどミサ、今のあなたに出来ることは何ひとつない。ただ力を大きくすることだけだ』
ミサはしばらく声を出せなかった。目の前に幻想のように映る天使を前に、こう言うしかできない。
「……はい」
他に何が言えるというのか。
ミサの声は消え入りそうに物陰へと溶けていった。
『それと、ミサ。今呼び出したのはもうひとつ………、……』
「え?」
不意にウリエルが押し黙る。ミサは怪訝に思ってその視線を追った。ウリエルはミサの後方へ視線を注ぎ、振り返ると、丁度女の子が角を迂って行くのが目に留まる。黒髪の長いツインテールが風に揺れて、角の向こうへと消えていく。
「………ウリ? どうしたの?」
ミサが訊ねるが、ウリエルは首を振る。
『いや…。それよりミサ、あの少年には気をつけなさい』
「………誰?」
『無闇に近寄ることは控えるように』
「ウリ…」
『そろそろ戻るといい。あまり長居して怪しまれても困る』
―――ウリエルは何のことを言っているのだろう。


* * * *


「どうしたの?」
夕暮れの路地を歩きながら、少女・忍は訊ねた。しかし辺りには人影などない。端から見ればただの独り言のようだろう。
が、忍の質問に答えるものがあった。
「いいえ、なんでもありませんよ」
忍の傍らにいるのは背の高い男だ。肌や髪の色など向こうが透けそうに薄く―――いや実際に透けているのかもしれない。その男は実体のない存在だった。こう いう存在を何と呼べばいいのか忍は知らないが、男は自分を精霊だと言っていた。精霊のレラ。だから忍の中でもこの男は精霊のレラということになっている。
物心ついたころから傍にいた精霊だった。
「時間も遅いんだから、さっさと歩いてよね!」
忍はレラを振り返ってそう言い放つ。赤い西日が路地いっぱいに差し込み、道路に長い蔭が伸びているた。しかしレラの蔭はない。精霊であるレラは実体を持たないから蔭にはならない。そして実体を持たないからこそ、忍よりもずっと早く空間を移動できるはずだ。
それを知っていながら、忍はレラを怒鳴りつけていた。ただの八つ当たりだと自覚している。しかしレラは嫌な顔一つせず、微かに微笑みながら、すみませんと言った。
二人は学校に忘れてしまった教科書を取りに行く途中だった。忍の家から中学校までは歩いて二十分程度、往復すると徒歩四十分の重労働になる。取りに行くのが面倒だからもう宿題なんていい! と言ったのだが、明日困るのは自分ですよ、とレラに諭されてしまった。
「あぁもう疲れた! レラ、学校まで連れて行ってよ」
忍は声を上げると道端へしゃがみこむ。すると傍へレラがやってきて忍の背中に手のひらを添えた。触れられた感じがするような、しないような、曖昧な感触だ。
「ほら、もうすぐですよ」
「そのもうすぐがしんどいんだもの。ねぇ、風でひゅうっと連れて行ってくれないの?」
レラは風の精霊で、風を自由に操ることが出来た。今までだって、飛ばされてしまった風船を取り戻してくれたり、どこかに服を引っ掛けて動けなくなってし まった時に風の刃で切り取ってくれたり、気に入らない子のスカートめくりに協力してくれたり(これは渋々だった)、レラの風の力は随分と便利だった。
「そんなことして、誰かに見られては困るでしょう?」
レラが優しげな声で諫めた。確かに、レラの言う通りだ。レラは普通の人には見えないから本来ならこうやって喋ることも控えたほうがいいのだ。忍の独り言のように見られてしまう。
「……他の人にもレラが見えたらいいのに」
唇をとがらせながら、忍は渋々立ち上がった。レラが隣で小さく苦笑する。
他の人にレラが見えたら、もっと堂々と会話することだって出来る。忍はいつも歯がゆい思いをしている。
忍にとってレラは、物心ついた頃から傍にいた存在だった。だからもちろん他の人にも見えているのだとばかり思っていたのだ。それが、見えているのは自分だけだと知ったのはいつ頃だったろう。友人に気味悪がられ、レラの存在を否定されてひどく悔しかった。
レラのことを見える人がいたらいいのに、と忍は思う。レラと自分のことを認めてくれる人がどこかにいればいいのに。


「あぁ! もうっ!! サイアク!!!!」
ガンッとドアを蹴飛ばしながら忍は叫んだ。廊下に声が反響する。忍の教室は窓もドアもキッチリと鍵が閉められ、入り込むことが出来なかった。職員室に鍵を借りて、と思ったが肝心の職員室も陽が暮れかけているこの時間では閉まっていた。
これではわざわざ学校に来た意味がない。こうなったらどんな手を使ってでも教室に侵入してやる、と忍は決心した。意地だ。
「レラ、行くわよ!」
と、グラウンドへと駆け出す。もしグラウンドに面する側の窓が開いているのならば、そこから侵入する気でいた。忍の教室は校舎の二階にあるが、窓の桟や木を利用すればよじ登れないこともないだろう。
「小夜子、何をする気ですか……」
小夜子、というのは忍の下の名前である。こうやって親し気に忍の名前を呼ぶのは、ほんとうに気心知れた存在だけだった。
「侵入する!」
意気揚々と答えると、レラが渋い顔をする。
「まさか、窓……?」
困惑したようなレラの問いかけに返事をしないまま、忍はグラウンドへ出ると校舎を見上げた。自分の教室の窓を見ると、運の良いことに一番後ろの窓が少し開いている。鍵さえ開いていればこちらのものだ。よし、と忍は腕まくりした。
窓枠に手をかけて力を込めようとしたところで、不意に身体が軽くなった。ふわり、と宙に浮く。
「えッ……!?」
突然のことに忍は目を見開いてキョロキョロと辺りを見回す。目の前にある校舎の壁がどんどん下へと下がって行き、気が付くと二階の自分の教室へ降り立つところだった。無重力のようなふわふわした状態から、床についた身体がゆっくりと体重を取り戻す。
訊かなくとも、これはレラの仕業だ。忍は床にしっかりと足がついたのを確認した後、レラを見上げた。
「誰かに見られたら困るんじゃなかったの?」
「誰も見ていませんよ」
レラは人差し指を唇に当てて小さく微笑む。全くこの精霊はなんて憎らしい。自分が頼んだ時は駄目だと言って聞いてくれないのに、いざとなると協力してくれたりする。結局最後には必ず忍の味方をしてくれるのだった。
昔からレラはそうだ。忍が頼まなくても本当に辛い時は助けてくれた。しかしどうしてレラは傍に付き従ってくれるのか、不思議でもあった。
「ねぇ、レラ……」
忍は日が沈んで暗くなった教室を歩きながら問いかける。前々からずっと疑問だったことがあった。レラは今まで何度となく忍を助けてくれたが、一体何故自分 なのだろう。自分はレラのために何かしたことなどひとつもない。それなのに何で私なんかの側にいてくれるの、と思っていた。
レラはいつだって笑顔で傍にいてくれるが、本当はどう思っているのだろうか。レラの本心が知りたい。
忍は小さく口を開いた。暗い教室の中なら互いの表情など読みとれないだろう。何か訊きたいならば今がチャンスだ。きっと暗闇が本心を押し隠してくれる。
「レラはどうして私と一緒にいるの」
どうして私なんかと、と。
自分の席の椅子に腰掛け、机の中をがさがさと漁りながら訊ねた。声は上擦らなかったろうか、変に早口にはならなかっただろうか。レラに不審に感じられていなければいい、と祈るように思いながら、忍はうつむいて机の中をまさぐる。
忍の指先がようやく目的の教科書を探り当てたのと、レラが声を出したのとが同時だった。
「……約束したからですよ」
忍は指の動きをぴたりと止めた。
「約束?」
何のことだろう。どんな約束だったか、忍はまるで覚えがなかった。机から教科書を引き抜きながら昔のことを振り返ってみるが、全く心当たりがない。
「契約、と言ったほうが近いですか。……精霊が契約など、おかしな話ですけど」
「……契約」
ますますわからない。しかし聞き返そうという気も起こらなかった。覚えていないほうが悪いのだ。でも―――。
「……レラ、帰りましょ」
忍は教科書を手に取ると窓際へと歩み寄る。何のためらいもなく窓際へ足をかけて身を乗り出した。レラはきっと自分を助けてくれると、そう信じていた。思った通り、忍の身体が窓枠から離れた瞬間、耳元で音を立てながら風が身体を取り巻いた。
レラの風に包まれながら、忍は唇を引き結ぶ。
「……でも、契約がなかったら助けてくれないってこと?」
小さく呟いた声はもちろん風に掻き消されてレラには届かない。
ゆっくりとグラウンドへと近づきながら、契約などいっそ思い出したくない、と忍は思った。


* * * *


真田は我が目を疑ってしまった。確かに、宙に浮いているのは小さな少女の身体だ。
「嘘……だろ」
息を呑んだ真田の呟きなど三露の耳には入っていないらしい。振り向きもせずに閉ざされた中学の門をよじ登っている。
西の空が赤黒い。もう学校は閉まった後なのだろう、だからこうして門が閉められているのだ。それをよじ登るのは不法侵入になるのではないか。
しかしそんなことを言っていられないのも事実。
買い物から帰ってきたミサと話をした後、二人はミサの家を出た。帰りのバス停へ向かう途中、「妙な気配がする」と言って三露は走り出したのだが、その言葉は当たっていたというわけだ。宙に浮くことが出来る少女なんて、映画の登場人物でしか有り得ない。
もしくは"力"を持っているか。
「おい三露ッ……」
呼びかけても返事をもらえない。仕方がないから真田も門の柵に手をかけた。犯罪まがいのことはしたくないけど、この際仕様がない。
柵は意外に高く、登ろうとすると思っていたよりも力がいった。それでも三露はもう学校の敷地内へと降り立ち、再び走り出している。待てよ、と叫びながら真田も負けじとよじ登った。
地面に降り立つと真田は必死で三露の後を追う。走っていく道は白みがかったコンクリートで舗装され、脇には小さな花壇があった。先はグラウンドへ続いている。
先ほどは宙に浮いていた少女が、今は砂の上に降り立っていた。駆けつけた三露が対峙するように少女の正面に立つ。三露に遅れて追いついた真田は、一歩距離を置いて足を止めた。靴先が砂埃を舞い上げたせいで、辺りが白く煙る。
真田は眉を顰めて咳き込みながら、三露の肩越しに少女を見つめた。白いカッターシャツにプリーツスカートの制服を着ている。背丈が小さいからまだ中学生だろう。この学校の生徒だろうか。
長い黒髪を二つに結わえている、普通の女の子だった。しかし真田は少女の背後に、信じられないものを見てしまった。
「……!」
真田は言葉すら出てこない。薄れてきた砂埃の向こうに見えたのは、ぼんやりとした人蔭だった。身体が半分透き通り、ふわふわと宙に浮いている。
「なっ……んだ……!?」
どう見ても人間ではない。まるで三露が呼びだした式神のような、実体がないものに見える。真田が立ちつくしていると、三露が口を開いた。
「……精霊、だね」
―――精霊。
真田は息を呑んだ。あれが精霊。自分の目で見るのは初めてだった。一乗寺が何度か精霊を召喚しているのを目撃したが、実際には見たことがない。ましてやこんな人の形をしている精霊なんて。
「よほど強い精霊みたいだ。……彼女が召喚したのか……」
三露が低く呟く。いつの間にやってきたのか、揚羽蝶の姿をした影が三露の周りを静かに浮遊していた。そういえば目の前の精霊は影に似ているかもしれない。人間の形をしているのに人間ではないモノ。どうしてそれが、あの少女と一緒にいるのだろう。
「アイツ…術者なのか?」
押し殺した声で真田が訊ねると、さぁ、と三露が首を捻る。辺りの砂埃はいつの間にかおさまっていた。
「確かめてみないとね」
三露が足を踏み出す。すると少女が警戒するように半歩下がった。睨み付けるように真田達を見ている。
「……なんなの、あなた達」
少女の声には警戒が混ざっている。
「聞きたいことがあってね。後ろにいるのは精霊?」
「……レラが見えるの?」
問いかけた三露に、少女は質問で応える。レラ、というのが精霊の名前らしい。青年の姿をした精霊は少女の後ろに、黙って付き従っている。
「見えるよ、僕は術者だから。君も何か"力"がある?」
「力……?」
「その力で精霊を召喚したんじゃないの? だから精霊がいるんだろう?」
三露が少女へと向ける口調は柔らかい。少女の機嫌取りをしているのではないかと思えるほどだ。いや実際にそうなのだろう。三露は普段から術者が足りないと嘆いていたから、この少女が力を持っているのなら組織に引き込みたいはずだ。
しかし、少女の言葉に三露も、そして真田も息を呑むしかなかった。
「召喚なんてしてないわ。……契約、したんだから」
「……契約!?」
真田は思わず叫んだ。契約とは条件をつけて相手を使役することだ。真田が実際そうしている。自分の力を代償に、悪魔であるベルゼビュートを従える「契約」。
契約は相手を従わせ、使役する。
しかし精霊使いは違う、と真田は一乗寺に聞いたことがあった。精霊は使役することはできない、あくまで力を貸してもらっているのだ、と。
「……じゃぁ、アンタのそれは……悪魔?」
そんなまさか、と真田は瞠目する。どういうことだよ、と意気込み身体を乗り出した真田を、三露が片手で制した。振り返り、
「いいや、あれは悪魔じゃない。……精霊だろう」
「でも! 一乗寺が精霊と契約は出来ないって……」
「……その契約を、彼女は結んでるらしい」
三露は静かに首を振った。そして少女のほうへ向き直る。
「……君、名前は?」
「どうして私が名乗らなきゃいけないの。あなたから言いなさいよ」
怒ったように顎を引きながら、少女はぶっきらぼうに言い放つ。三露は額に手を当てる。
「……僕は三露だ」
「忍よ」
「では忍。……すぐにその精霊を解放するんだ」
高圧的な三露の声が、夜の闇に響く。



忍の目が丸く見開かれて行くのを、三露は静かに見つめていた。
やがて忍の身体がわなわなと震え始める。
「…なんであんたにそんなこと言われなきゃならないの!」
「……精霊と契約するだなんて、有り得てはいけないんだよ」
精霊はあらゆる自然に宿るものだ。人はそれを恐れ、敬わなければならない。古代から守られてきた、人間と自然とが共存するための条件だった。
三露が見たところ、少女の従えている精霊は風の気配がする。三露だって普段は精霊が見えるわけではないが、ここまで力の強い精霊ならば見ることができるし、気配だって感じる。
しかし、強力な精霊をどうして小さな少女が従えているのかがわからない少女からは特別に強い力を感じられなかった。
「とにかく、精霊を解放することだ。人間が精霊を従えるなんて、許されないよ」
三露は静かに、しかしはっきりと言い放つ。忍は顔を赤くして三露を睨み付けていた。唇を噛み、拳を握りしめている。
「あんたに関係ないでしょ…!」
「いいや、ある。僕は組織の"総帥"だから、君のような人を見過ごすわけにはいかない」
怪異を解決するのも組織の仕事だが、同時に、力を間違った方向に使わぬよう監視するのも仕事だ。この少女を放っておくわけにはいかない。
「その精霊、レラと呼んでいたか? ……レラを解放するんだよ、忍」
諭すように、しかしはっきりとした口調で三露は言い放った。しかし忍は表情を一層歪ませただけで、何も答えない。向こうに聞き入れる気がないのならば、三露は力ずくでも精霊を解放させなければいけない。ゆっくりと目を細めると忍を見据える。
「解放しろ、と言ってるんだ」
「……しつこいわね! 放っといてよ!」
忍が激しく怒鳴り散らす。片手を上げて三露を指さすと、背後の精霊を振り返った。
「レラ、あの人を追い払って!」
「……わかりました」
精霊・レラが初めて口をきいた。淡々としたその声に三露は寒気を感じる。レラの目が三露を見据えた瞬間、背中が氷を落とされたように冷たくなった。身体が動かない。
ヒュッと笛の音が聞こえる。いや違う、風切り音だ。前方から風の刃が迫ってきているのに、三露はその場を動くことが出来なかった。レラの瞳に気圧されて目をそらすことさえできない。真田が後ろで何か叫んでいる。
笛のような風切り音、そして肉の避ける嫌な音が、三露の耳にこびりついた。



           

 





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