「三露…ッ!」
真田に名前を呼ばれ、三露は閉じていた目をおそるおそる開いた。全身が麻痺しているためか、切り裂かれたはずの身体はちっとも痛まない。
しかし目を開いた三露は、驚愕で一瞬息が詰まった。
覆い被さるように影が倒れ込んでくる。先程まで揚羽の姿をしていた影は、今は黒い着物を身につけた人型だった。三露の視界をその黒い布が覆う。何が起こったのか瞬時にはわからなかった。
「……影?」
倒れてきた影が三露の胸に額を押しつけている。どうしたんだ? と顔をのぞき込もうとして三露が一歩のけぞると、そのままずるずると地面へ倒れ込んでしまった。
―――影の全身は、無惨に切り裂かれていた。
「おい三露……!?」
動くことが出来ないでいる三露の肩に真田の手が添えられる。それから三露の背中ごしに倒れ込んだ影を見たのだろう、ギクリと動きを止めた。傍らにしゃがみ込むと、真田は影の身体を仰向けにした。
三露は立ちすくんだまま視線だけを下に向けた。影の身体は着物と共に鋭く切られている。使い魔だから血は出ないが、深い傷なのが一目でわかった。手当をし てやらないと、という考えが頭をかすめるものの、実際に行動に移すことが出来なかった。身体が言うことを聞いてくれない。
三露が呆然と見下ろす中、真田が、視線を上げて少女・忍を睨み付けた。
「アンタよくも…!」
忍は放心していたようだが、真田の声で我に返ったらしい。
「何よ……あんたたちが悪いんじゃない!」
「悪いのはアンタだろう!? こんな風にヒトを傷つけていいはずがない!」
忍に向かって真田が怒鳴りつける。その声は怒りと非難が満ちていた。でも真田は影が嫌いだったはずでは?
そういえば三露だって影が嫌いだった。いなくなれば、といつも思っていた。それなのに何故、影が傷つけられたいま、こんなに胸がざわつくのだろう。
「……ヒト? それ、ヒトなんかじゃないんでしょ? あんた達だって自分の身が危なくなったら、そうやって庇わせるんじゃない!」
「Was!Sagen Sie、」
忍と真田は言い争いを始めている。三露は黙って真田の肩を掴んだ。
「君は下がっていろ、真田。手を出すなよ」
「……え…」
何か言いたそうな顔で真田は三露を見たが、すぐに口を噤んだ。三露は真田を押しのけて忍の正面へ出る。
「……確かに使い魔はヒトじゃない」
三露は忍の顔をじっと見据えながら呟いた。
「けれど君はヒトじゃなければ傷つけていいというのか?」
確かに影はヒトではない。しかしヒトのように動き、喋り、考える。三露に言葉をかけてくるし、鬱陶しくついてくる。そして命令したわけでもないのに、三露のことを庇ったりする。
影は三露にとって、ヒトよりもずっと厄介な―――そして大切な使い魔なのだ。
忍は鋭くこちらを睨み付けながら黙って何も答えない。三露は静かにポケットから符の入った財布を取りだした。答えないつもりならこちらにも考えがある。
「……それなら僕は報復させてもらう。君から無理矢理、精霊を奪う」
財布に入った符を指に挟み、三露は言い捨てた。胸がざわざわとして苦しい。行き場のない力が身体の中を巡っていた。絶対に許さない。
しかし忍は臨戦態勢の三露を見て、好戦的な笑みを浮かべた。
「よく言うわね? あんただって、その使い魔とかいうの、身代わりにしておいて」
忍はすっと腕を上げて三露を指さした。
「じゃあ私も、あんたからその使い魔を奪ってあげる。あんたのところにいたら、可哀想だもの」
「……どっちが」
奪ってあげる、だと。三露は地面を踏みにじりながら舌打ちする。こんな少女に影をくれてやるわけにはいかない。影を守り精霊を奪うためには、忍を打ち負かすしかない。
三露は持っていた符を空中へと投げた。と同時に、ヒュっと空を切る鋭い音が聞こえる。
三露は身体を横倒しにしながら風の刃を交わした。地面を転がりながら符を発動するための呪を唱える。
「急々如律令!」
唱えれば、式神を呼び出さずとも簡単な術が使える。しかし三露が叫んでも何事も起きなかった。怪訝に思って宙に放った符を見ると、ばらばらになって雪のように降り注いでいた。
「……!」
やられた。符を切り刻まれてしまっては術が発動できない。三露はぎりっと奥歯を噛み締める。
「どうしたの? 偉そうに言っておいて、何も出来ないってわけ」
揶揄するような口調で忍が言う。明らかな挑発だ。三露は地面から起きあがりながら再び符を取り出す。今度は符を手に持ったまま唇にあて、口の中でそっと呪を紡ごうとした。が、
「……ッ!」
指先に鋭い痛みが走った。符が両断され、三露の指や頬もぱっくりと割れる。とろりと血が流れ出すのを見て、三露は顔を歪めながら指先を服の裾で拭いた。血で符を汚してしまっては使い物にならなくなる。もっとも、符を指に挟んだところで呪を唱えられなければ意味がないが。
これほど隙のない相手とは思ってもみなかった。三露は歯噛みしながら少女と精霊を睨み付ける。やっかいなのは忍ではなく、レラだ。精霊の力が強すぎてとても太刀打ちできない。
―――あの精霊の気を逸らすことが出来れば。
しかしその手立てが思い浮かばなかった。風の刃が再び三露の頬を斬りつける。


手を出すなと言われた真田だったが、三露が一方的に傷つけられるのを見ていてもたってもいられない。悪魔を召喚するために気を集中させようとした。
しかし、視界の端で黒いものが動いたことに気が付く。見ると、倒れていた影が起きあがろうとしていた。
「……! おい……寝てろよ…」
真田から見たって、この使い魔が瀕死の状態なのがわかる。腕や腹、足が切り裂かれ、着物の間から生々しい肉の断面がのぞいていた。エネルギーの塊である使い魔だから断面はただの暗黒色だが、人間ならば骨がのぞく程の傷の深さだろう。
「動いたら……死ぬぞ」
とは言ってみたものの、使い魔が本当に死ぬのかどうか真田は知らない。しかしそんな牽制も、影には効いていないようだった。震えながら上半身を起こして、三露のほうを一心に見つめている。
「影は……総帥をお助けしなければ、」
「馬鹿言うな! 足手まといになるだけだ!」
「それでも……」
影は指に髪の毛を絡めながら、かすれた声を絞り出した。立つこともままならないというのに、それで何が出来るというのだ。無闇に加勢したところで犬死にするだけだ。立ち上がろうとしている影を、真田は怒鳴りつけた。
「アンタはジッとしてろ!」
叫びながら真田はふと違和感を覚えた。自分はこの使い魔のことが嫌いではなかっただろうか。それなのにどうして影を庇おうとしているのだろう。
「……三露が何のために怒って、何のために戦ってるのか、わからないのか? アンタを傷つけられたからじゃないのか?」
真田は影の肩を押さえ言い聞かせる。三露は影のことを嫌いだと言っているが、今戦っているのは他でもない影のためだ。三露は忠誠を誓っている影を見捨てる ような人間ではない。慕い寄る影を手で払いのけ、邪険に扱ってしまう冷たい人間ではないのだ。少なくとも真田はそう信じている。
「だからアンタが死ぬと、三露が悲しむ。……わかるだろ?」
「……総帥が、」
影は唇を震わせながら呟く。地面に手をついて俯くと、長い黒髪がさらさらと零れた。上体を起こしているだけでも相当辛いはずだ。その上三露の加勢に行こうだなんて無理に決まっている。
真田はチラリと三露を伺う。少し離れたところで、三露はナイフを握りながら走っていた。相変わらず形勢は芳しくないらしい。先程見た時よりも傷が増えているようだった。
「三露の加勢には、俺が行くから」
真田はそう言って影の肩を押した。寝てろ、というつもりだった。しかし影は真田の手に従おうとしない。真田は忌々しい思いで影を睨み付ける。しかし影はそれに構うことなく首を振り、小さく口を開いた。
「……それでも影は、行きます」
その瞬間、真田の手のひらから影の肩の感触が消えた。いや、一瞬のうちに影自身がかき消えてしまったのだ。何が起こったのかと狼狽した真田が辺りを見回すと、ひらひらと飛んでいる蝶々がすぐ傍に見えた。影は蝶へと姿を変えていた。
「おい影……ッ!」
影を捕まえるために真田は足を踏み出そうとする。しかし何か見えない力に阻まれて、動くことが出来なかった。足が地面に縛り付けられているようにピクリとも動かない。
「なんだ…ッ!?」
咄嗟にあの風神の仕業かと息を呑んだ真田だが、視線の先で闘っている三露も風神もこちら気を留めた様子はない。では一体何が、と真田は動かない足に必死に力を込める。
ふと見ると足首の辺りに細い糸が巻き付いていることに気がついた。薄暗闇の中で燐光を発するそれを、真田はどこかで見たような気がする。ワイヤーのような細い糸なのに、真田の自由を封じてしまっていた。
こんなもの、と真田は乱暴にむしり取ろうとするが、触れた瞬間にバチリと電気の弾けるような痛みが走った。こんなものに手間取っている場合ではないのに。
真田が顔を上げると、黒い揚羽蝶は頼りない飛び方で遠ざかっていくところだった。


ナイフを握っていた右手に、ぬるりと嫌な感触がした。三露は舌打ちをする。
全身が傷だらけだった。傷と言っても浅いので細く血が流れる程度だ。しかしそれがいくつも重なり合ったために、手などは血まみれだった。ぬめる感触に、三露は思わずナイフを取り落としそうになる。
痛みのせいもあって上手く手に力が入らない。くそ、と唇を噛んだ三露の髪を、強い風が巻き上げた。
「……降参したらどう?」
少し離れたところに立っている忍が問いかけてきた。背後には相変わらずレラが控えている。三露はいまだこの二人に傷ひとつ負わすことが出来ていなかった。誰から見ても力の差は歴然だ。
「……馬鹿にするなよ」
だからといって負けを認めるわけにはいかない。そんなこと、できるはずがない。三露は再びナイフを強く握りしめる。
絶対に諦めるものか。いくら傷が増えても血が流れても、負けてやるつもりはない。負けて影を奪われるつもりなど絶対になかった。
三露は地面を蹴って忍に向かって走り出した。じっとしていては風の刃の餌食になるだけだ。それをかわすためには、動き回り、相手の隙を見て接近するしかない。
非力な忍のほうを押さえてしまえばいい。そうすればレラだって風で攻撃することは出来ないだろう。そう思って三露は全力で地面を蹴る。突然走り出した三露に、忍は驚いて身を引いていた。
あと数メートルで忍の身体に手が届く。その瞬間、三露の視界に思いもかけないものが飛び込んできた。
「ッ………!?」
思わず足を止める。すると横殴りの風圧が三露の身体を襲った。勢いよく弾き飛ばされ、三露は地面に叩き付けられる。頬が砂に擦られ、たまらず瞼をきつく閉じた。
砂との摩擦で出来た擦り傷が熱を持って痛む。しかしそんなことに構っていられず、三露は地面に手をついて無我夢中で身体を起こし忍の方を見た。
―――間違いなく、その足下で黒い蝶々が飛び回っている。
何をしているんだ、と三露は心の中で叫んだ。瀕死の傷を負っている影が、どうしてそんなところを飛び回っているのだ。
幸い、忍とレラが影に気づいている様子はない。しかしいつ気づかれるとも知れない。
「やめるんだ……!」
たまらずに三露は叫んだ。咄嗟に立ち上がったが、目が眩んで再び地に膝をついてしまう。かすむ視界の中、それでも蝶は飛び回るのをやめなかった。
膝をついた三露を見て、忍が悠然と笑っている。
「降参する気になった?」
忍は言い放つと三露に歩み寄ろうとした。三露はハッと目を開く。
「ッ、やめろ!!」
忍に動かれては影が踏みつぶされてしまうかもしれない。ただでさえ傷だらけなのに踏まれてはひとたまりもない。膝をついたまま、三露は大声で悲鳴を上げた。その時、忍の足下が突然淡く光り始めた。
「なっ……何!?」
忍もそれに気がついたらしい。驚愕の声を上げる。
光は、よく見ると細い糸状に忍とレラを取り囲んでいる。その形は三露もよく見覚えのあるものだった。新月の夜、いつも鬼の動きを封じるために施している結界。
「……五芒星…」
あれを張るために、影は忍たちの足下を飛び回っていたのか。
忍は結界の中で目を見開いていた。レラが結界を破ろうと風を起こしているようだが、星形に封じられている状態では上手くいかないはずだ。影が作ってくれたこの好機、逃すわけにはいかない。
三露はナイフを投げ捨てると、血に塗れた腕を胸元で組み合わせた。


「……臨、兵、闘、者、」
三露は低い声で呪を紡ぎながら、指で印を結んでいった。身体の内側から力が溢れてくるのがわかる。
「皆、陣、列、在、前……」
辺りがまばゆい光りに包まれ、忍たちの姿が見えなくなっていった。


****


一瞬息が詰まる。身動きが取れず、見えない鎖に縛られているようだった。
「レラ……ッ」
忍は身じろぎしながら背後のレラの名を呼ぶが、返事が返ってこない。
「どうしたのレラ! ねぇっ……」
狼狽しながら再び呼びかける。三露と言ったか、あの金髪の少年が凄まじい光を放ち、気がついたら身体が動かなくなっていた。
いや、その前から何か様子がおかしかった気がする。空気の壁に閉じこめられたように前へ進めなくなった。結界です、とレラが言っていたか。
結界に封じられ、身体の自由まで奪われてしまった。更にレラの返事がない。忍の視界がうっすらと滲んだ。いつのまにか辺りに立ち込めていた暗闇さえぼやけていく。
「レラ……!」
叫んだ忍の耳に、不意に足音が聞こえた。顔を上げると三露がゆっくりと近づいてきている。足を引きずるようにしながら歩いていた。
「放しなさいよっ……レラを放して!」
忍は上擦る声で叫びながら、三露を思い切り睨み付けた。
どうしてこんな見ず知らずの人間に、酷い目に合わせられなければならない? 突然言いがかりをつけてきて、レラを解放しろなどと言う。頭にきたから多少痛めつけてやったが、悪いのは向こうではないか。悔しくて、今にも涙が零れ出そうだった。
「レラを放しなさいって言ってるでしょ……!」
「それは僕のセリフだ。レラを解放するか?」
忍の側まで来た三露が低い声で言った。。忍を見下ろす目は夜の闇のように暗く、冷たい。ぽっかりと空いた空洞のようで、忍は思わず背筋を震わせた。唇がわななく。
黙り込んだ忍を見て、三露は更に追い打ちをかける。
「君よりレラのほうに、強く術をかけてる。僕としても風神を苦しめるのは本意じゃない……」
「……!」
三露の言う通りなのだろう。忍は声が出せるのに、先程からレラは一言も口を利かない。忍が呼びかけても黙ったままなのは、おそらく声が出せないからだ。
「や……やめて……レラを放してよ…」
「君が解放すると…、」
「解放するから! なんだっていい、放して……」
「誓うか」
三露の冷たい声が投げかけられる。こんなに頼んでいるのに、まだ放してくれないと言うのか。三露を見上げる忍の目からは、いつの間にか涙が零れていた。
「誓うから、早く……」
何だって誓う。だからレラを解放してほしい。忍はすがりつくような気持ちで掠れた声を出した。
すると三露はようやく頷き、冷たい瞳を伏せた。
「オンキリキャラハラハラフタランバソツソワカ、オンキリキャラ……」
低い声で何事か呟いている。同じような旋律を何度か繰り返した後、
「オンバザラドシャコク」
パチン、と指を鳴らす音が聞こえた。同時に身体がふっと軽くなる。身体を締め付けていた戒めが解かれていた。
「レラ!!!」
忍は慌てて振り返るとレラの姿を探した。レラもたった今術が解かれたところなのだろう、片手で口を覆いながら、ゆっくりと忍を見た。
「……小夜子…すみませ…」
レラの手は激しく震えていた。痛みに耐えるように顔をしかめている。忍はますます涙が止まらなくなってしまった。
「……泣かないでください」
レラの指が忍の頬に添えられる。その指が震えているので、忍はいっそう胸が痛くなった。レラをこんなにも苦しめてしまった。それなのに泣くなというほうが無理な話だ。
「だっ、て……」
「私のせいです。小夜子が泣くことはありません」
「レラ、」
違う。負けたのが悔しくて泣いてるわけではない。負けてが苦しい思いをしているから、レラを奪われてしまうから涙が止まらない。それなのに。
「私の力が及ばずに、負けてしまって……すみません」
レラは謝りながら、震える手で忍の頭を撫でた。そんな言葉が欲しいわけではない。謝ってなどいらなかった。
しかしレラは忍から手を離すと、ゆっくりと三露のほうへ身体を向けた。レラが離れていってしまう。
「あなたのお望み通り、私と小夜子の契約を破棄しましょう」
静かに、しかしはっきりとした声でレラは宣言した。
契約があったからレラは忍の傍にいてくれた。しかし自分とレラを繋いでいた契約はこの瞬間に壊れてしまったのだ。もうレラを呼んでも助けてくれない。傍で笑ってもくれない。
レラの言葉を聞いても、三露は腕を組んだまま黙っている。それを見た忍は、咄嗟に手を伸ばして三露のシャツの襟首を掴んだ。こんな少年にレラを奪われるなんて悔しくて仕方がない。忍は涙に濡れた目をまっすぐに三露へと向ける。三露は驚いたように忍を見つめ返していた。
「何するんだ」
険しい顔をした三露に手を捕まれ、シャツからそっと外される。忍は泣きながら、両手を胸のあたりでぎゅっと組み合わせた。
「……レラを、」
上手く言葉が出てこない。今更、レラを返せなどとは言わない。それなら自分が今言えることは一つだけだ。本当はこんなことを言うなんて悔しくて仕方がない。レラを奪われるなんて認めたくない。しかし、
「レラを大切にしてあげてね……」
レラが幸せになれるなら、それでよかった。
もしかしたら自分と一緒にいるよりも、他の人の傍にいるほうがレラは幸せになれるかもしれない。忍はいつもレラに頼ってばかりいたし、助けられてばかり だった。それが当たり前になって、ああしてくれ、こうしてくれ、とお願いしてばかりだった。ろくにお礼も言ったこともない。レラはいつも笑顔で頷いてくれ たが、もしかしたら本当は心の底で自分を嫌っているかもしれない。
だから、レラが自分から解放されるのはいいことだ。
「レラを大切にして……」
それなのに悲しくて仕方がない。忍は溢れる涙を抑えられず、両手で顔を覆った。次から次へと涙がこみ上げてきて、言葉を出すことが出来なかった。
「君達は、一体何なんだ…?」
三露の怪訝そうな声が耳に入った。
「君達の結んでいる契約って……」
そういえば忍もその内容を知らない。いや、忘れてしまっていた。
契約があるからレラは自分を助けてくれた。傍にいてもくれた。レラを縛り付けている契約を、約束した忍本人が覚えていない。それは忘れたかったからだろうか。忘れたいほど酷い契約を、忍はレラに強いてしまったのだろうか。
忍がそっとレラを見上げると、レラは困ったように微笑していた。
「……覚えていませんか、小夜子」
苦笑され、一瞬戸惑ったものの忍は正直に頷いた。そうですか、とレラは微笑みを浮かべたまま目を閉じる。
「小夜子は小さかったから。……いつだって一緒にいて、と、そう仰ったんですよ」
「……!」
「ほんの些細な会話でしたが、私は契約だと思っていました」
そんな会話を交わしたような記憶が、あるような、ないような。頭の隅に追いやられてしまった幼い頃の記憶だ。曖昧にしか思い出せない、靄のかかった記憶だった。
「契約を理由に、私は小夜子の傍にいました。……本当は私が小夜子の傍にいたかっただけなのに」
レラは悲しそうに笑った。その瞳が優しく忍を見つめていて、忍はまた一筋涙を流した。
「本当に…?」
震える声で訊ねる。レラはわずかに顎を引いて頷いた。本当ですよ、と囁く。
「けれど、今日で終わりです。小夜子の傍にいられて、幸せでした」
「……ッ、私も、」
忍は手の甲で乱暴に涙を拭い、レラを見上げる。もう泣いてなるものか。最後くらいレラに笑顔を向けたい。
「私も、すごく幸せだった……」
笑顔を作ろうと無理矢理口を歪める。しかし上手くいかなかった。細めた目が再び潤み、笑おうとした口から嗚咽が漏れる。
こんな顔を見せられない、と忍は俯く。涙を止めて笑わないといけない。幸せだったと、そう言うのなら、証拠になる笑顔を見せたい。
俯いたまま格闘している忍の身体を、不意に何かが包み込んだ。ふわふわとした、触れているのかいないのかわからない感触。暖かいような、冷たいような、不思議な触れ心地が忍を包み込んでいる。
「ありがとうございました、小夜子」
レラの胸の中、忍は目を閉じてもう一度泣いた。



           

 





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