忍が組織に入ることになった。

そうなると三露は配属手続きをしなければならない。雑務のことも考えると、一旦『本部』に帰ってまとめて片づけてしまうのがいい。三露は忍と都合がつく日を照らし合わせ、夏休みに入った忍を果京へと連れ出した。
「駅に行くんじゃなかったの」
忍はツインテールに纏めた黒髪を揺らした。湿気を含んでまとわりついてくる暑さの中、忍が三露の後ろを小走りについて来ていた。二人は一乗寺家に繋がる細い路地を歩いていく。
「もちろん行くよ。本部に行くには果京の駅から電車に乗る必要があるから。でも、どうせ果京に来たなら皆に君を紹介しておこうと思ってね」
逆居は田舎だから、果京のように電車は走っていない。公共の交通手段なんてバスくらいだ。
三露は一乗寺家の門が目につくと、あそこ、と指さして促す。門をくぐり、玄関を逸れて縁側へ向かった。どうせ玄関で呼んだところで体たらくな家主は出て来ない。縁側から声をかけた方が早かった。
「果京には三人配属してる。僕と、そこの真田と」
三露は呼び出していた真田を見やる。続いて居間を指差し、この蒸し暑さを物ともしない涼しい顔の家主を覗き見た。
「あっちが一乗寺。ここの情報のやり取りはだいたい彼がやっている。もしくは、定期視察に行かせている使い魔の影だけど…一度会ってるから覚えているだろう?」
「そんなぽんぽん言わないでよ! わかんないわよ!」
「でも覚えてもらった方が君をサポートできるからね」
とはいえ、忍に任せる逆居地区にはミサがいる。彼女がいれば大概問題はなかろう。
「他に言っておくことは…」
不意に三露の言葉が遮られた。
「三露」
その声は、話し相手の忍でも呼び出しておいた真田のものでもない。一乗寺の落ち着きを払った声が庭まで響いてくる。
「さっきお前に連絡が入った。ここにもうすぐ伊織蓮が来る」
「蓮が?」
何故また東果地区の彼がやってくるのか。三露が思い当たるとすれば管狐の一件くらいだった。例の事件があった直後、しばらくの間だが三露は管狐を預かっていた。しかし管狐がレン、レン、と泣いてうるさいので蓮へ押しつける形で返したのだ。けれど蓮もやはり必要ないということだろうか。三露は眉を潜めた。あの咽び泣く管狐を押し返されるくらいなら、今からでも逃げたほうがいい。
「悪いけど僕は今から本部に行くからって伝えておいてくれる?」
「三露、待て」
「どうせ管狐のことだろう。僕は受け取る気はないから」
違う、と一乗寺の声が飛ぶ。
「違う。…真面目な話だそうだ。聞いておいた方がいい」
三露はそれでも足を前へ出そうとした。けれど、続いて投げかけられた一乗寺言葉に思わず動きを止めた。
「―――伊織京が能力を失ったそうだ」
三露は息を呑む。
「…何だって?」
振り返らずにはいられなかった。


やがて蓮がやってきて事情を聞かされた。畏まった様子で縁側に腰を下ろした蓮は、所在を失った恐縮顔で妹のことを話した。京は今床に臥せっているらしい。体調が芳しくなく、一週間ほど前から学校も休んで家で寝込んでいるという。
「…別に病気とかじゃないんです。医者に見せても何でもないって言われました。それに寝込んでるのはほとんど不登校みたいなもので……能力がなくなったことがよっぽどショックだったみたいで…」
三露は腕を組む。目を細めて、それで、と先を促した。
「ほんとうは京に誰にも言うなって口止めされてるんですけど…でもさすがに、ニヶ月もこうだと」
「…二ヶ月?」
「……ニヶ月もこうなんです。それでもちっとも力が使えないままで。本人はクダの一件で疲労が溜まったせいだって言い張ってたんですけど、さすがにこうも回復しないと…」
管狐の事件と言えば二ヶ月前のことだ。京はしばらくすれば能力も回復するとタカをくくったのか、けれどもいっこうに治らない能力に「疲労のせいではないのかも」と疑念が湧いたのだろう。疲労が癒えても力が戻らない。ならばもしかしたらこのまま治らないかもしれないと思ったらしい。
京は途端に塞ぎこんで学校へも行かなくなった。三露は丁度一月前に真田に管狐を届けさせたが、あのときすでに京には力がなかったという。真田の話では京にしてはおそろしく多感だったと聞いていた。蓮いわく、それは能力のことで荒れていたからだったという。
「二ヶ月前から…ずっとか」
蓮は神妙に頷いた。
「クダの事件の直後から、一度も」
「……そんなにも前からか」
三露は眉を潜めた。蓮に何故報告を怠ったのか問い詰めたいところだが、そんなことをしても解決には繋がらない。三露はぐっと堪えて居間の奥へ声をかける。一乗寺、と精霊使いの男を呼んだ。
「精霊のことなら君の方がわかるんじゃないか? 何か…」
一乗寺は首を振るだけだった。
「今までこの力が使えなかったことはない。精霊使いでなく能力のことと言うと、お前の方がわかっているだろう、三露」
「………」
「お前の方が多くの術者を見てきている」
組織の総帥という立場にいても、三露は今まで能力がなくなった術者の話など知らない。真田の悪魔や忍のレラのように手放せば術者ではなくなるというなら話は別だが、京は精霊使いだ。能力が目覚めてしまえば失う類のものではないのに。
「…とりあえず、蓮」
三露はおもむろに立ち上がった。
「とりあえずヒメのところに行こう。話はそれからだ」
蓮はわずかに眉を寄せた。
「……あの、京のことそう呼ぶのやめてくれませんか」
「今そういうことを言ってる場合じゃないだろ。忍、悪いけど君も来てもらえるか?…ヒメの様子を見たあと、その足で本部に向かうから」
三露は忍と、まだ顔を顰めている蓮を東果へと促した。


東果にはバスで向かう。運よく東果行きのバスを捕まえることができ、三人はしばらく無言でバスに揺られていた。思いも寄らない面子のせいで誰も口を開かない。それどころか居心地の悪い空気が流れていたのだが、三露はそんな場の雰囲気も気も留めず物思いに耽っていた。
今でも思うのだ。能力を失った? そんな馬鹿な、と。
ふう、と思考を遮るようにため息を零した。
「僕たちの能力は…体力というのかな、そういうものに左右されるんだ」
疲れればろくに術も使えない。術を使えば疲労する。そんなことを誰にともなくに語ってきかせた。
「…ああ、生命力と言っていいかもしれない。そういうものに、僕達の能力は直結してるんだ。人は生きている限り、生命力や体力がゼロになることはない。術者の能力もそれと同じで、生きてる限りゼロにはならないんだ」
三露の声は自然と険しいものを滲ませていた。
「…そのはずなんだ。だから―――普通、生きているのに力を失うことが有り得ない」
「…でも、京は今使えな…」
「回復するはずなんだ、と言ってるんだよ」
蓮は納得しきれないらしい。
「……だと、いいんですけどね……」
「蓮?」
三露はその反応にどこか胸騒ぎのようなものを覚えた。しかしかすかなざわめきで、自分自身気づかぬような虫の知らせだった。
いくらかバスで揺られ続け、ようやく目的のバス停が近づいてくる。すると蓮は思い出したように三露に頼みこんできた。
「お願いですから俺がこのことを報告したって京に言わないでほしいんです」
呆れた。それでは来訪する目的はどうするのだ。三露は京の能力のことで訪ねてきたのに。
「京には体調がよくないって聞いたからとか何とか…そう言ってくれませんか」
「それじゃあ本題に入れないじゃないか」
「会ってみて様子が妙だったとか言えば…というかその場で気づいたふりしてくださいよ。……そうじゃないと」
「そうじゃないと?」
バスがゆるゆるとスピードを落とし始める。まもなくして、停留所の名がアナウンスされた。
「そうじゃないと…。京は今小さなことにも敏感になってるから……」
三露たちは何も言わずに立ち上がった。そのまま黙って降車した。


―――舐めてかかったかもしれない。
確かに蓮が念押した通りだった。前に真田に管狐を届けさせたときはちょっとでも癇に障れば手ひどく怒り出すという話だったが、それから一ヶ月以上、京はさらに症状を悪化させたらしい。今度は黙殺なのだ。蓮が部屋をノックしても、三露たちが部屋にあがりこんでも、部屋の主である京は一切無反応だった。
京はいつか三露が目覚めたベッドの上で、頭まで布団をかぶってしまっている。何度声かけても返事はなく、蓮がじゃあ俺は飲み物でもと言って退室しようとした矢先に、ようやく一言。
「言わないでって言ったのに」
怒りなのか、抗議なのか。それもわからないような声だった。蓮は聞かなかったふりをして扉を閉めてしまう。そうするとまた、京は無言になってしまった。
待てど暮らせど京は顔を見せてくれない。確かに蓮が釘刺してきたように、ちょっとしたことで手がつけられないことになるらしい。
三露はとりなすように声をかけた。
「体調がよくないって聞いたけど、…大丈夫?」
辛抱強く待つと、平気、とだけ小さな呟きがあった。やれやれ、と三露はベッドを覗き込んだ。
「えーと、今日はね、組織に新しい術者が入ったから紹介しようと思って連れてきたんだ。……忍」
今まで蚊帳の外だった忍は促されて、
「忍よ」
とだけ簡素に自己紹介した。
だがそれにも京は反応しない。名乗った忍がカチンとくるほどに、無愛想だった。
「あのぅヒメ? ちなみに彼女の横にいるのが…見えると思うけど、風神のレラ。忍の精霊だよ。彼女は逆居の術者だからそうしょっちゅう会うこともないだろうけど、よろしくしてあげてくれる?」
「………」
「ヒメ…」
三露は次第に眉根を寄せ始めた忍と、それを一切顧ない京の間で息を呑んだ。互いの角が立たないよう取り成しているのに、そんな努力も甲斐なく次にやってきた展開はこうだ。
「ちょっと! 人が挨拶したのに無視ってどういうことよ!」
忍は三露が知る限り、相当手の早い子だ。
「………だってそんなこと言われても。よろしくって言われたって、私にはどうせ関係がないもの」
京もまた、真田の報告では手のつけようもない様子だったと言う。
「……関係ない? 何言ってるのよ、あんたも術者なんでしょ。別に私だってよろしくしてほしくないけど、礼儀には礼儀で返しなさいよね!」
「人の部屋で怒鳴るような子に礼儀なんか語られたくない」
京は床に伏せったままだ。三露や忍に背を向けて横になっている。
「ちょっと! なんなのよこの女!」
「ギャーギャーうるさい」
「何よ!」
「人と喋るときはもうちょっと誠意を見せなさいよ。嫌われるわよ」
「そっちこそ!!」
「………………………あーあー…二人とも」
三露は今にも飛びかりそうな忍をなんとか取り押えて、忍には申し訳ないけど部屋で待っているようにと言い聞かせた。
「何で私が折れないといけないのよ!」
「忍。………すぐ、済む」
三露の声に凄みが滲むと、いまだ納得できない顔だったが忍は部屋を後にした。しかしやはり忍というか、こんな部屋に居たくもないわ、と捨てセリフを吐いたあとバタンと大きな音で扉が閉めていったのだが。
三露はひきつった笑いを零すことしかできない。いまだ顔を見せない京を振り返って大きなため息を零す。すると布団をかぶったままくぐもった声が、ザマァミロと言うのだ。
「これに懲りて、もうちょっと愛想よく自己紹介できるようになるでしょ」
「……ちょっと手ひどすぎないか。トラウマにでもなったら…」
「組織でやってくならもうちょっと大人になったほうがいいもの。…周りは学校とは違って大人ばっかりなんだから」
三露は肩の力を抜く。京らしくない悪態だったが、これも忍を思ってのことらしい。そういうところは変わらず伊織京だった。人のことによく気づき、慮ってあげられる子だ。今回その手段はいただけなかったが。
三露は京の眠るベッドの脇に勝手に腰を下ろして、京の肩を叩いた。
「それで、ヒメ? もうひとつ聞き捨てならないことがあったんだ。憎まれ口と、…さっきの」
「………」
「"関係ない"ってどういう意味?」
―――よろしくって言われたって、私にはどうせ関係がないもの。
そういった京の言葉に、三露は眉を潜めずにはいられない。


蓮は腕の中を見る。小刻みに震える白い狐が、蓮にしがみついて離れない。
「どうしたんだよ…クダ…?」
飲み物でも、と言って京の部屋を出た蓮は、真っ先に自室に戻っていた。飲み物どころではない。管狐の様子が少し前からおかしいのだ。果京に出向いてからやけに静かだと思っていたが、ここにきて震え出すまでになっていた。すっかり怯えきった管狐を見て、蓮は困ったようにあやすしかできない。
「何をそんなに怯えて……」
『怖い…怖いの…』
「怖い?」
『あの人…怖い…』
不意にバタン、と扉が乱暴に閉められた音がする。隣の京の部屋から誰か出てきたらしい足音。レラ、と呼びつける少女の声が廊下から聞こえてきた。肩で息をするような、機嫌の悪い声。
蓮は扉越しの気配と、腕の中の管狐を見比べた。「あの人」とはあの精霊のことだろうか。レラと呼ばれる精霊は力のある精霊だと、蓮もしっかり感じていた。
「もしかして…あの精霊が怖い? だから果京に行ってからずっと静かだったのか?」
『違う…!』
管狐は感情的に叫んだ。蓮の頭に響くような声で、泣き叫ぶ。
『違う、違うの。あの精霊じゃない…あの精霊じゃなくて…! 前もそう…、あの人のところにいたときとても怖かったの…!』
蓮はごくりと息を呑んだ。
「もしかして、”総帥”?」
管狐の震えが、蓮の体に伝わってくる。
何を言っているんだ、と一蹴できなかった。虚を突かれて、蓮は口篭もる。
その通りなのだ。蓮にも管狐が怯えている"不穏"が見えていた。蓮は人に見えないものも見えるのが能力だ。だから、不穏な気配が見えていた。
「………ああ。確かに、はじめて会ったときも思ったんだ」
―――ならば三露から漂うわずかな邪気は、一体何だと言うのだ?、と。


* * * *


関係ないじゃない、と京は思った。忍をよろしくしてあげて。そう三露は言うが、自分には関係ないことだ。
―――だって、能力がないから。
京は頭までたくし上げた布団の中で唇を噛み締める。布団は窓から差し込む夏の日差しを遮って、暗澹とした光景を京の目に映していた。暗くて大して物も見えず、京の体温が染みついたシーツの感覚だけが伝わってくる。
―――術者でなくなったら、組織にいられなくなるもの。
だから"よろしく"することなんて有り得ない。忍が招き入れられた組織にとって、自分はもうお払い箱になるのだ。
喉が熱くなる。もともと大きな能力を持っていたわけではなかったのに、今やそれどころかまるで力がない。花の精霊でないと呼び出すことも出来なかったし、どちらかと言えば治癒する力ばかりだった。なのにそれすら失ってしまった。今から思えばあの頃の嘆きなんてかわいいものだ。弱いとはいえ、自分には確かに能力があったのだから。
京は悲しみに暮れずにいられなかった。今東果の平穏は兄の管狐によって守られてるといっていい。自分の力などまるで必要ないかのように、全てあの妖怪の力で事件は片づけることができてしまう。
「ねえヒメ、関係ないって言うのが……もし、君の能力のことのせいだったら」
京は奥歯を噛締めた。
「だってそうじゃない!」
三露の持ちかけた話題に胸が締めつけられる。気がつくと京は半身起こして布団を跳ね除けていた。どうせ三露は蓮に聞かされて知っているのだろう。だったらこの泣き腫らした目も、涙の跡も隠すことなどない。
「私もうなんにも力がないのよ! お兄ちゃんから聞いたんでしょ? 私、いくら頼んでも……もうお花の精霊が応えてくれないのよ!」
「ヒメ……」
三露は唐突に身体を起こした京に驚いているようだった。いや、その目の赤さに目を瞠ったのかもしれない。
「能力がない子は組織に居れないんでしょ? せっかくこんな私でも何かに役立てるたった一つの力だったのに……、なのにもう私は必要ないんでしょ!」
「ヒメ、落ち着い……」
「力がなくなってから二ヶ月も経つの。毎日何回だって、何十回だって呼んだのに…! でも、でも、何の精霊だって応えてくれなかった!」
授業中に先生の講義が単調になってくると京はシャープペンを走らせていた手を止め、ぼそぼそと呟いてみた。ポケットの中の小さな香水瓶を握りながら、だ。夜は眠る前に必ず、机の前に香水から精油までありとあらゆる媒体を並べて、花の名前を順に呼んでいく。けれど何度召喚してもこの二ヶ月、たった一度だって精霊が反応してくれたことはなかった。
「ヒメ…」
「いつか戻るかも、回復するかもって何度も思った! 思ったのに……なのに……戻らなかったの……」
「ヒメ、いいから落ち着い」
京は唇を小さく噛む。
「ヒメヒメ言わないでッ!!」
わかっている。こんな些細なことはやつあたりでしかない。怒鳴られた三露も、京の前できょとんと目を瞬いていた。

三露は京の肩に差し伸べようとしていた手を、怒鳴られた瞬間に引き込めた。
何が癇に障ったのだろうか。予想もしなかった一言を皮切りに、今まで赤いだけだった京の目からどっと雫が流れ出す。肩をわななかせてぼろぼろと泣き、ヒメヒメうるさい、と訴えてくる。
「ヒ、ヒメ……?」
三露はわけがわからない。
「だからヒメって呼ばないでよ!!」
「何をそんなに…」
「わ、私の名前は……"京"なんだから!!」
三露は息を呑む。京が手で顔を覆ってしまうのを茫然と見ていた。―――胸の中で小さなひっかかりを思い出しながら。
「私"ヒメ"ってあだ名は嫌いだもん! 似合わないのにお姫さま扱いなんかしないで! 私は……私なんだから…」
―――僕は、僕だよ。僕は、三露であって…。
そんな自分の声が脳内で渦巻いていた。三露手では口元を覆う。今まで京にしてきたことは、自分が最も嫌う行為ではなかったか。
―――僕は三露であって、"総帥"ではない。
会う人会う人に三露と呼ばせるよう念を押してきた。武政なんかが揶揄して総帥さまと呼んだり、恐縮しきった蓮が総帥と呼んだりするが、それ以外は皆三露の名前で声をかけてくれる。あとは疎ましい影がその癇に障る名を呼ぶくらいだった。
「私は…伊織京って名前があるのに…ッ!!」
「………ッ!!」
三露は思わず目をきつく閉じた。爪が食い込むほど拳を握り締める。今までの自分のしてきたことに、そうやって目を瞑ることができればどんなによかったか。
「ごめん……、京……」
部屋に後悔と自責のこもった声が、ひっそりと響いていく。
―――三露を名前で呼んでくれる人の中でも、京は珍しい人物だった。
三露を組織の総帥と知って、それでも「三露」と呼びたがった術者は京くらいだ。三露が念を押さない限り決まってみんな「総帥」と呼ぶから、気がつけば自己紹介の二言目には三露と呼んで欲しいと言うようになったほど。なのに京は何も言わないうちから「三露って呼んでいい?」と言って笑顔を浮かべてきた。
「ごめん、……京」
押さえきれず、三露はもう一度その名前を呼んだ。
「京…」
彼女は三露を総帥扱いしない、やさしい子だったのに。
「もうこれからは…ちゃんと、名前で呼ぶから…」
京が顔を覆っていた指の隙間から、泣き腫らした赤い目を見せた。
喉がひきつったような声でしゃっくりを繰り返し、手の甲で乱暴に涙を拭っている。
「ごめんなさい……。やつあたりなの…。嫌だからって、私もこんな風に三露に当たらなくて…も…」
相変わらず気遣い屋な子だ。三露は小さく微笑んで、京の頭を軽く撫でてやった。先ほど京に差し伸べようとした行き場のなかった手だったが、ようやくそこへと落ち着いた。
「ごめんなさい。あの子、忍…ちゃん? あの子のことも、やつあたりなの。うらやましかったの。私が呼び出せない精霊と一緒にいたから…」
「そう。……君の能力のことは」
京が息を呑んだのが手のひらからじかに伝わってくる。三露はさらにとりなすように柔らかい口調で喋った。今の京は壊れ物と言っていい。多感で、敏感で、滅入りすぎている。
「確かに君の能力がないようなのは…僕もなんとなくわかる。けれど僕は今から忍を連れて本部にいかなきゃいけないんだ。…どうしたらいいか、一緒に考えることができないんだけれど…」
「うん…」
「でも本部に行ったら前例がないか、どうすればいいか調べてくるから。他の術者にも調べてもらうように手配しておく。……わかるまで、君を組織から外さない。だからそう投げやりにならないように」
しばらく黙っていた京だったが、最後にはうん、と小さく頷き返してくれた。
三露はようやくほっと胸をなで下ろした。
だが内心では、まさか本当に京から精霊の気配が消えてしまうなんてと焦りを覚えていた。半信半疑のまま「回復するだろう」と豪語していただけに、京を見てひっ迫した状況なのだと衝撃を受けていた。今、京に触れていても、まるで精霊の気配を感じることができないのがただならぬ不安を呼ぶ。
三露はそんな懸念を振り払うように、わずかに頭を振った。
「じゃあ僕は行くよ。…心細いなら、また符をかいておこうか?」
三露は明るく振る舞ってみせる。まったくあのときは京のためにかいた符がいつのまにか真田に渡ってるんだから、とわざとらしく笑って批難してみせる。するとようやく京がかすかに笑顔を見せた。
「うん。じゃあかいてほしい…」
「今度は他人に渡すんじゃないよ?」
「うん。大切にする」
またしても生憎即席な符でしかないので、三露は己の血を削って符をかいたのだが、それでも構わないだろう。あといくらもしないうちに満月がやってくる。力を出し惜しむほどではなかった。
三露が作った護符を、京はとても喜んだ。何がそんなに嬉しいのかと言うほど微笑んで、今日は来てくれてありがとうと言う。元気が出た、と言った。
「…大切にするからね」
京は護符を胸に抱きしめている。


けれどその護符がまるで意味も果たさなかったと知るのは、それから数日経ってからだった。



           

 





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