「これ、お土産。溶けるから早く食べたほうがいいわ」
そう言ってミサが差し出したのは、シャーベットだった。ビニル袋にカップが数個入れられている。
「すまないな。気を遣わせてしまった」
一乗寺はミサから袋を受け取る。ひんやりした冷気が袋の周りを覆っていた。ミサの言う通り、早く食べなければ溶けてしまうだろう。
「いま食べようか。匙を取ってくる」
「…っ、俺が行く!」
台所へ向かって足を運びかけた一乗寺を制して、真田が勢いよく立ち上がった。そして止める間もなく部屋の奥へと駆けていってしまう。
「…? どうしたのかしら、真田」
ミサが不思議そうに首を傾げるのを見て、一乗寺は苦笑してしまった。
「自分が何も土産を持ってきてないから、気を遣ったんだろう」
真田はよく一乗寺の家にやって来るから、そのたびに土産を持ってくるようなことはしない。長いつきあいだから土産など気にすることはないのだが。
匙を取りに行ったはいいが、真田はなかなか戻ってこなかった。そう言えば台所の引きだしの中には色々なものを突っ込んでいた気がする。無事に匙を見つける ことが出来るかどうか、一乗寺は少し不安だった。助っ人に行ってやりたいが、自分でもどこに仕舞われているかわからない。
真田の消えた台所のほうをじっと見やっていると、ミサが靴をそろえて縁側に上がってきた。そして一乗寺の顔を覗き込む。
「ジョージも顔色が悪い」
「……そうか?」
一乗寺は目を瞬かせる。しかしミサにそう言われるのも当然かもしれない。ずっと書類に向き合っていたためにろくに休めていない。
そう自覚した途端、思い出したかのように頭が痛みはじめた。胃がせり上がってくるような嘔吐感を覚え、一乗寺は右手で口を覆う。
「……ジョージ?」
隣でミサの心配そうな瞳が揺れている。なんでもない、と答えようとした一乗寺だったが、こめかみを汗が流れただけで何も言えなかった。全身がじっとりと汗ばんでいた。
初夏の陽射しが照りつけてくる。しかし汗はむしろ冷たく一乗寺の背中を流れていった。
遠くからかすかに蝉の声が聞こえる。それは反響するように大きくなっていき、一乗寺をまわりの音から切り離してしまった。ミサが何か言っているようだったが全く聞き取れない。
それが蝉ではなく耳鳴りなのだと気づいたとき、一乗寺はすでに瞼を閉じてしまっていた。



コンクリートで舗装された道路を歩きながら、三露は潮騒を聞いていた。
ざざ、ざざ、と耳に慣れ親しんだ波の音。故郷であるこの島は、数ヶ月前に三露が出ていったときと何も変わっていない。
世間から取り残されたようにひっそりと存在する島。こんな所だからこそ組織の本部として存在し続けている。
迎えにやってきた術者に先導されながら三露が歩いていると、不意に隣にいる忍が三露の袖を引いた。
「何?」
「何って……こっちが聞きたいわよ。このひとたち何なの?」
忍は険しい顔をしながら声を潜めて三露に問いかける。怪訝そうな視線は、前を行く術者にちらちらと注がれていた。三露は小さくため息を一つ。説明するのは面倒だが、答えてやらないと忍の気が収まらないだろう。
「……これは組織の本部を守る術者。他にもあと数人いるよ。島にいる間は彼らの世話になるから、顔を覚えておくといい」
三露が説明してやると、忍はますます眉間に皺を寄せる。
「組織って、そんなに人が沢山いるの?」
「いるよ。全国に術者を配置してる」
どうやら忍は、組織の規模を小さなものだと考えていたらしい。納得がいかないという顔をしながら握っていた三露の袖口を離した。
「……あなたがその組織の総帥? そんなにエライなんて、思わなかった」
ぽつり、と呟かれた言葉に三露は思わず渋面になった。組織が大きければ組織の総帥の株も上がるということだろうか。こちらに向けられている忍の視線が今までと違うような気がして不快だった。
「別に、偉くなんてないさ」
忍は今まで三露のことを特別視していないようだったのに、他の術者が総帥扱いしているのを見た途端にこれだ。三露は冷笑したい気分になる。所詮こんなものか、と思う。
しかし次に忍が口にしたのは、三露にとって信じがたい言葉だった。
「よくそんなので、総帥なんて務められるわね」
「……は?」
思わず耳を疑う。しかし忍は呆然とする三露に構うことなく、続けてまくし立てた。
「金髪だし。ふらふらしてそうだし。だらしなそうだし。そんなので人をまとめていけるわけ? チヤホヤされちゃってるみたいだけど、いい気になってるんじゃない?」
三露はぽかんと口を開くしかない。言いたいことを言い終えたらしい忍は満足そうに腰に手をあてている。
気の強い子だとは思っていたが、まさかここまでとは。三露の総帥ぶりを知って萎縮するどころか、逆に文句をつける始末だ。いくら三露でもここまで手ひどく言われたことはない。
呆気にとられた三露が何も言い返せないでいると、先導の術者が振り返り厳しい顔で忍を睨み付けた。
「総帥を愚弄することはは許されませんよ」
「何よ、大人のくせにこんなガキにヘコヘコしちゃって」
火花の散りかけた二人の間に、三露は慌てて身体を滑り込ます。忍の肩に手を置いてまぁまぁとなだめた。それから術者のほうを振り返る。
「お前も、おとな気ない。子供の言うことをいちいち真に受けるな」
「はい、申し訳ありません」
「何よ子供って! 私のこと!?」
前では頭を下げられ、後ろではギャンギャンとわめかれる。三露は大きくため息をついて空を見上げた。
どうやら三露が思っていたよりもずっと、忍はたくましい。


十分ほど歩くと、海沿いの場所に大きな一軒家が見えた。日本家屋の造りをしたそれが、三露たちの目指す本部だ。
「わー…ボッローい」
門をくぐりながら忍が弾んだ声を出す。辺りを見回し、興味深そうに瞳を輝かせていた。
「こういう家、めずらしい?」
「うん。座敷童とかいそう」
忍がそう言うのも無理はないだろう。長年潮風に晒され続けた外壁は黒ずみ、腐食が進んでいる。
表面がささくれ立った門扉に手を添えながら、三露は付き添いの術者に訊ねた。
「婆様は中におられる? 僕が来たことをお伝えしてくれ」
術者は丁度、玄関の扉を横に引いて三露たちを通そうとしているところだった。三露たちが通りやすいように、開いた扉の脇へ身体をよける。どうぞ、と屋内に 入るよう促され、三露は玄関をくぐった。続いて忍、最後に術者が入ってくる。靴を脱ぐために三露が玄関の段差に腰掛けると、術者が跪いた。
「婆様は、ここにはおられません。離れのほうに……」
「……ああ、そう」
三露は気のない返事をする。術者が話す時にわざわざ膝を折って目線を下げるのが、鬱陶しいことこの上ない。
「三日前から離れにこもっておられます。私どもには近づくなと仰せられて」
「そう、わかった」
術者を見下ろしながら、三露は腕を上げて玄関の外を指さす。
「じゃあ僕も命令するよ。僕に近づかないでくれ。お前に案内されなくても婆様には挨拶するから」
三露の冷たい声に術者は一度顔を上げたが、すぐにまた黙礼すると玄関を出ていった。これで鬱陶しい邪魔者はいなくなった、と三露は胸がすく思いだった。あんな堅苦しい術者につきまとわれてはかなわない。
「ごめん、嫌な思いをさせたね。君も上がってくれ」
三露たちのやりとりについていけず、傍らで固まっていた忍に声をかける。忍はしかめ面で術者の出ていった玄関口と三露とを見比べていたが、やがて静かに頷くと靴を脱いだ。
「息が詰まりそうなところね」
「だろ? 僕もあまり好きではないんだ」
肩をすくめて見せながら、三露は応接間へと忍を通す。畳みの敷かれた和室の応接間には座布団が用意されていた。そこへ忍を座らせ、三露は荷物だけ降ろす。
「お茶を淹れてくるから待って。少し休んだら、離れにいる婆様に挨拶に行こう」
そう言い残して台所へと向かう。湯呑みや急須、茶葉はどこに仕舞われていただろうかと思い返していたが、杞憂だった。必要なものは既に盆の上へ並べられ、 薬缶には湯気の立つお湯が満たされていた。気の利くことだ、と三露は皮肉気に笑う。先程の術者が、時間を見越して沸かしておいたのだろう。
急須に茶葉とお湯を入れて盆の上に載せると、三露は多少急ぎながら応接間へと戻った。知らない所で忍を一人にするのは可哀想だ。
三露が戻ると、忍は部屋を見渡しながら不思議そうな顔をしていた。襖を開けた三露の上で視線を止め、首を傾げる。
「この家、他に誰もいないの?」
「あぁ、追い払ったからね。いないはずだ」
いつもなら三露が追い払った術者以外にも何人かいるはずだが、気を利かせたのか今は誰の気配もなかった。家の中には三露と忍、そして忍が連れてきたレラと、蝶の姿をした影の気配しか感じられない。
「影、お前も元の姿に戻っていい。もう誰の目を気にするでもないし」
三露が声をかけると、蝶は畳みの上に止まりゆっくりと羽を閉じた。蝶の輪郭が徐々にぼやけて人の形へと変わっていった。いつものように黒い着物を纏っている。
この姿で電車や船に乗っては人目につくから蝶の姿でいるように、と三露が命じていたのだ。
人の形になった影を見て、忍がにっこりと微笑む。
「お久しぶり。怪我は平気?」
「影などにお気遣いなく……」
影は畳みの上に正座すると小さく頭を下げた。そういえばこの二人、初めて会って以来は人の形で会ったことがなかった。そのとき影を攻撃した忍だが、彼女なりに気にしていたらしい。
「影の言うとおりだよ、忍。これに気遣いなんていらない」
三露が親指で影のことを指すと、忍が眉根を寄せて三露を睨み付けた。
「相変わらずな主人ね。そんなこと言うなら、私が影をもらうんだから」
べっと忍が舌を出す。むしろもらってほしいくらいだけど、と三露は横目で忍を見やりながら、急須を手に取った。この島にいる術者達のように恭しい態度を取る影のことを、三露は常日頃から煙たがっている。
「…ねえ三露。そういえば、さっきお婆さんのこと言ってたけど……。お父さんかお母さんはいないの? 挨拶しないと駄目じゃない?」
忍の言葉に三露は手を止めた。忍なりに気を遣っての発言なのだろうが、しかし―――。
「僕の父と母は、いないよ」
「え、」
忍は弾かれたように両手で口を押さえる。それを見て三露は頬を緩めた。忍にとっては悪気のない質問だったのだろう。
「親の話はあまり組織の中でしないほうがいい。僕に限らず、親のいない術者は多いからね」
すこし微笑みながら三露が言うと、忍は眉を寄せて不可解そうな表情をした。それが可笑しくて三露は笑みを深いものにする。好奇心が素直に表れるのはこの少女の良いところだ。無神経、とも言えるかもしれないが。
「親がいないのはね、……能力者を産むのは母体の負担になるらしい。だから母親だけいないというケースも多く見られる。真田がそうだね」
湯呑みに茶を注ぎながら、三露は独り言のように呟いた。三露には父母がいない。同じく真田も産まれた時に母を亡くしている。それに武政も母親がいないらしい。一乗寺に至っては両親ともおらず、元は孤児だったという話だ。ミサも似たようなところだろう。
親なしの術者は多い。能力者の一つの特徴と言えるかもしれなかった。
「忍のところはご両親揃ってお元気だろう? よかったね。家族円満が一番だ」
三露が急須を置き、茶の入った湯呑みを忍に差し出すと、忍はおずおずと湯呑みを両手で包み込んだ。
「ごめんなさい、三露……変なこと訊いちゃって」
「構わないよ。ただこれからは、あまり口にしない方がいいかもしれない」
三露の忠告に、忍はこくりと素直に頷いた。しかししばらく黙り込んで何か考えた後、再び三露の目を見つめながら首を捻った。
「一つだけいい?」
「なんだい」
何気なく答えると、忍は息を吸って大きく深呼吸した後、意を決したように口を開いた。
「母親は術者を産んで死んでしまうんでしょう。じゃぁ、父親はどうなるの?」
「父親?」
三露は忍の言葉を反芻する。そう、と忍は頷くと三露を真っ直ぐに見つめた。
「三露のお父様は、どうして死んでしまったの?」
忍の瞳が光を反射して黒くきらりと光る。三露は自らの瞳の真っ黒なのを思い出し、まるで合わせ鏡を見ているようだ、と思った。




微かな水音が聞こえ、一乗寺はゆっくりと瞼を持ち上げた。
視界がかすんでいて景色がぼんやりとしか見えない。仰向けになっている身体をよじると、額から生ぬるいものが滑り落ちた。手を伸ばすと指先に塗れたものが触れる。手にとってみると、それはタオルだった。
「ジョージ……! よかった、気がついたのね」
見ると、掠れた声を出しながらミサが近づいてくる。手に持っているボウルのような器の中から水音が聞こえていた。
焦点を結び始めた視界で、一乗寺は自分の置かれている状況を確かめた。見覚えのある壁紙は自宅の寝室のものだ。いつの間にか敷き布団の上に寝かされている。
「ミサ……?」
どうして自分が寝室に寝かされているのだろうか。訊ねようとした一乗寺は、ふと自分の手のひらから先程拾ったタオルが消えていることに気がついた。何故、と思った瞬間、傍らから低い声が響く。
「倒れたんだよ、お前は」
首をめぐらせると、黒い服に身を包んだ武政があぐらをかいて畳の上に座っていた。武政はミサが運んできたボウルを受け取ると、その中に先程のタオルを押し込んだ。氷のぶつかるような軽い音がする。
「……どうしてきさらが?」
身体を起こそうとしながら一乗寺が訊ねると、武政は薄く笑った。
「ミサから連絡が入った。携帯電話なんて文明の利器を持ち歩いてるせいで、どこにいても体よく使われるってわけだ」
「そういう言い方はひどいと思うわ」
ミサが唇を尖らせながら抗議する。なるほど、倒れた一乗寺のためにミサは医者代わりのつもりで武政を呼んだのだろう。突然呼びつけられた武政にしてみれば迷惑な話でしかなかったようだが。武政は氷水からタオルを取り出すと、両手できつく絞り上げる。
「それで、いつからまともに寝てないんだ? あぁそれと、最後に食事をしたのは?」
「……食事、」
そんなもの覚えていない。普段から規則正しく三食たべるわけではない上に、偏食するので食事自体が好きではなかった。だから適当に茶を流し込むだけ、茶菓子をつまむだけ、ということも多い。
それを食事に入れてもいいものかどうか一乗寺が考えあぐねていると、武政から塗れタオルが飛んできた。投げつけられたそれを一乗寺は慌てて受け取る。
「お前も医学を学んだなら、自分の体調管理くらいしろ」
「……」
武政の言い分は正しい。仕事に没頭して休息をおろそかにしていた一乗寺の方に、確かに非がある。だが、と一乗寺は畳に手をついて身体を起こした。
「だがやらないといけない仕事がある。……もう少しで片づくから」
「無茶だわ! ジョージ、あなた倒れたのよ」
ミサが鋭い声を出して一乗寺の肩に手を置く。普段やわらかな言葉遣いで話すミサからは想像も出来ないくらいの剣幕だった。しかし所詮は大人と子供、力が違う。一乗寺はミサの手を脇へのけると布団から這いだした。ミサの非難する声が聞こえる。
「ジョージ!」
「書類に署名するだけだ。あとは組織に送るだけだから…」
「そんなのいつだって出来るわ! 今は身体を休めるの!」
ミサはそう言うが、一乗寺は出来ることならば早く仕事を片づけてしまいたい。元々ため込んでしまっていた仕事なだけに、早急な対処が要求されているせいもあった。あとわずかで終わるならば尚更、終わらせてしまってからゆっくりと休みたい。
「ミサ、今から書類を仕上げるから、悪いが帰りに投函してもらえないか」
「あなた、いい加減に……」
怒鳴ろうとしたミサの声を遮ったのは、武政の忍び笑いだった。不気味な笑い声に、寝室を出ようとしていた一乗寺も思わず振り返ってしまう。可笑しそうに細められた武政の目を見て一乗寺は不吉なものを感じた。
「仕方ないから選ばせてやるよ、久幸」
ゆるやかな弧を描いた武政の唇に指が添えられる。人差し指と親指が下唇にあてられ、残りの指は中に握りこまれている。ああいう光景を一乗寺はどこかで見たことがあった。
武政の唇がにっと笑みの形に裂ける。
「自分で布団に戻るか、それとも気絶させられて無理矢理戻されたいか。選べ」
何かのテレビだったろうか、あんな風に口に指を添えて指笛を吹いているのを、一乗寺は見たことがある。指笛は何かの合図だ。たとえば犬に指示を出す時などに使う。
武政の能力は動物を意のままに操ることだ。それを知っている一乗寺は、無精ながらも自ら布団の中に戻るしか他に道がなかった。


「おい、ミサ」
声を出したのは武政で、隣の居間から聞こえてくる。
「この荒れ野から印鑑探してくれ。汚すぎて場所がわからない」
「印鑑じゃなくてサインする書類よ、これ」
一乗寺は再び床に入り、聞き慣れた二人の声に耳を澄ませていた。会話は襖一枚隔てた隣室から響く。今一乗寺が寝ている寝室の隣は居間で、書類仕事をするときは決まってそこだった。そこに、現在はミサと、武政と、そして遣り残した書類が収まっていた。
こうなったのはそもそも一乗寺が口走ったせいかもしれない。あとは書類にサインしてしまえば仕事が終わるから、と。
だったら、と提案したのはミサだ。
「そうだわ、私が代わりに書類を片づけてしまうから」
だから落ち着いて休んでね、と言いたいらしい。一乗寺はさすがに申し訳ないと思い丁重に断った。すると武政が深く笑みを作って、
「歯向かうつもりか?」
と言い放ったのだ。
「ミサに悪いと思うのならとっとと治せ。どうせお前のことだから、俺たちの目がなくなったら『平気そうだ』とか言って起き出すんだろう。そんな甘い診断でまた仕事されたらそれこそ迷惑だ。また倒れたら、また俺が呼び出される。ミサだって見舞いに来る。そっちの方がよっぽど俺たちに悪いって思わないのか」
その後もいくらかくどくどと説教を喰らい、一乗寺は何ひとつ言い返せなかった。一言も口を挟むことができないまま、溜まった書類を二人に預けることとなった。
一乗寺は布団の中でため息をつく。
隣の部屋の様子がいささか気になるが、こんな形とはいえ追われていた仕事から手から離れた。すると途端に安堵で深く息を吐いてしまったのだ。自分は思ったよりずっと疲れていたらしい。
そう自覚すると、途端に布団の中が急に心地よくなり、肩から力が抜けていく。看病役にあてがわれた真田が何度か額の濡れタオルを取り替えてくれた。ひんやりとした感触が、夏の暑さの中でたまらなく気を落ち着かせてくれる。
―――手段は悪辣といえ、これも武政のおかげかもしれない。
ミサや真田では優しすぎて一乗寺を寝かせることすらできなかっただろう。あんな強引なやり口でも、武政なりにこちらを慮ってくれたのだろう。半信半疑だったが、これが武政の優しさなのか、と思った。
一乗寺は瞼を閉じ、幼馴染に幾ばくか感謝を抱きながら耳を澄ます。居間から聴こえるミサと武政の声に、自然と意識が吸い寄せられていった。
「おいミサ。久幸が寝てる隙にこの部屋のガラクタ、全部捨てないか」
―――ちょっと待て。
ガラクタではない。値の張る骨董品だ。
「そんなことしたらジョージ怒っちゃうわ。それより仕事をして? この書類、あなたと私で半分ずつやりましょう? …ほら、そんなところに座ってないで」
どこに座っているというのか!
武政は高価な古書の上にだって構わず座る男だ。一乗寺の骨董品をガラクタと言って足で隅へ寄せることもある。一乗寺はそんな武政から目を離すしかなかったこの状況を悔やみ、隣室の様子を心配した。不安が波のようにうち寄せてくる。
隣室での会話はまだ続く。
「というか部屋も片づけられない、体調管理もできない、前に飯を喰ったことがいつだかも思い出せない。子供か痴呆老人じゃないのか久幸は。…呆れる」
「私はあなたにも呆れるわ。仕事してってば…」
「久幸がこれから生活していくには誰か一度きつく言うべきだと思わないか?」
会話はまだまだ続いた。
「きつく…。貴方がさっき言ったじゃない…」
「"きつく"言った覚えはないね」
「ジョージだって倒れたからにはきっと学習するわ」
「……そうだ、そこの松の木に言ってもらおうか。なぁ、松珀?」
松珀は一乗寺がとかく大事にしている精霊だ。武政が馴れ馴れしく話しかけたことに少し不快を覚え、さらに耳をそばだててみると隣室からは畳を踏む音が聞こえる。一乗寺は咄嗟に起き上がろうとした。あの武政は松珀に何を仕出かすかわからない。何せ六年前の松珀が消えた元凶が武政だ。
「おい、きさ…」
きさら、と名前を呼ぼうとした。だが武政の足音の矛先は庭の松ではなく、こちらだったらしい。襖が勢いよく開いて、見下ろしてくる武政と目が合った。
「おい久幸」
武政は口の端を持ち上げて笑った。
「誰がいつ起きていいって言った?」
「…………」
「そんなに気絶させられたいか?」
武政は楽しそうにくつくつと忍び笑いを零した。
隣で看病していた真田が目をぱちぱちと瞬きながらワザとか、と呆れている。意図して聞こえる声で会話し、起き上がる一乗寺を見越して襖の前に控えていたのだろう。まるで玩具か何かのつもりで、一乗寺で遊んでいる。
「……きさら、お前こそ…」
一乗寺はげっそりと脱力した。この幼馴染が一種の優しさで自分を寝かしつけただなんて間違いだ。果てしない勘違いだった。
「お前こそそんなに俺を気絶させたいのか…」
この男が優しいはずなどない。
一乗寺の批難を、武政は物ともしない。わずかにきょとんと目を瞬いたが、それでもあっさりと言った。
「うん」


一乗寺は本日二度目の観念で、再び布団に潜り込んだ。
それを見届けると、武政もようやく居間へと戻っていった。そしてまた聞こえる声で、松珀、久幸のことで頼みがあるんだが、と笑いを含んだ声が響かせる。本当に頼みやがった。
まったくこちらを病人と呼ぶならそっとしておいてほしい。気が気ではないのだ。仕事をする方がよほど疲れを覚えずに済んだだろう。
「アイツ性格悪いな…」
引きつった笑みを零すのは隣に座っている真田だ。先ほど床に落とした濡れタオルを拾いながら、あんなの相手にしちゃ駄目だ、と一乗寺に言い聞かせてくる。親切心だろう。真田は一乗寺を慮っているからこそ、思ったことを素直に口にしたに違いない、しかし。
「おーい、悪魔っ子。しっかり久幸を見張ってろよ?」
真田は一瞬で動きを凍てつかせた。まるで心臓が飛び跳ねたかのようにわずかに腰を浮かべ、その顔を青くしている。哀れなほどだ。
「真田。きさらは耳がいいから…」
動物並みの五感を持つ。それが武政の能力だ。
「わ、わかった。言葉には気をつける。でもアイツがいたらアンタがゆっくり休めないんじゃないか?」
「………だが」
「だって気絶させたいって言ったんだぞアイツ! 絶対頭おかしい」
一乗寺の代わりに怒ってくれるのは有り難いが、ちっとも口を慎めていない真田が不憫ですらあった。後で報復を受けかねないのに。
「あんなの相手にしちゃ駄目だからな、一乗寺」
「できればしたくない。だが……、アレに仕事を任せたことを少し後悔している」
一乗寺がこのところ不眠不休に近い無茶でこなしてきた書類。それが武政の手の内にあることが、やけに心許なかった。
「……だろうな」
確かに、と真田は何度も頷く。やはり誰でも不安になるところか。一乗寺はため息を吐いた。
「真田。ひとつ、頼んでいいか?」
こういう役目は少し可哀相だと思う。思うが、頼まずにはいられない。
「きさらがちゃんと書類をやるか…見張っててくれないか」
真田は聞くなり目を丸くして、引きつった笑顔を見せた。
「――お、おう」
「…すまない」
「まかせろ! 俺にだってそれくらいできる……と思う」
何せ相手が武政だから、二人は揃ってため息を零すしかない。


だが真田の危惧に反し、居間の空気は真面目なものだった。あれ、と拍子抜けするほど武政はしっかりと書類に向かっている。口だけは茶化したような言葉を紡ぐが、その手はすらすらとサインを綴っていた。
「おや悪魔っ子。看病役はもういいのか?」
「お、おう」
「へぇ? じゃあ俺がちょっと様子でも見てこようか」
その声はくつくつと込み上げる笑いを滲ませていて、真田はうろたえた。見透かされている。真田は武政に、寝かしつけることができるまで一乗寺を見張っていろと言われて、看病役にあてがわれたのだ。寝かしつけるまでこっちに来るな、と。だがその一乗寺は隣の寝室で眠ってなどいない。武政が何か仕出かしそうでおちおち眠ることもできないと言うので、寝かしつけないままに真田は偵察に来た。
けれどどうやら武政は全てお見通しらしい。隣室では今ごろ、慌てた一乗寺が狸寝入りをしているかもしれなかった。
「ちょっときさらったら。そんなに二人をいじめちゃダメよ」
ちょっと隣の部屋へ行く、そう言った武政を諌めたのはミサだった。
「ごめんなさいね真田。きっと、きさらってば不貞腐れてるんだわ。ちょっかいばっかり出して、子供みたいなんだから」
「…不貞腐れてる?」
武政が不貞腐れている? いつも斜に構えている武政には、不貞腐れてるだのむくれてるだの、そういう言葉は似つかわしくない気がした。
「こんな日に呼び出したから……だから機嫌悪いのよね?」
違う、と反論した武政の声をつい遮って、真田は小首を傾げた。今日は何か特別な日なのだろうか。そんな疑問に応じてくれたのはミサだ。ミサは曖昧な顔で苦笑を零す。
「今日はきさらの誕生日だから」
「誕生日…」
そうだったのか。真田は目を丸くした。
「誕生日なのにおめでとうって言ってもらえないから拗ねてるのよね? ジョージ、すっかり忘れてるみたいだし…」
武政は顔を顰めた。
「違う。そんなことで拗ねるもんか」
否定した武政だが、意図的に声を大きくして確かにどこぞの幼馴染は微塵も覚えてなかったけど、と皮肉を言う。きっと今ごろしまったという顔をしている男が隣の部屋にいるはずだ。
それにしても今日は武政の誕生日だったとは。唐突に呼び出されて、何か用事や約束を反故にしてここに来たのかもしれない。ならば機嫌も損ねて当然だろう。
「じゃあどこかお出かけしていたところを邪魔しちゃった? だから怒ってる?」
そういえば今日の武政はどこか正装めいていた。普段着というよりどこかへ出かけていた証のようだ。畏まった黒い服。それを少し着崩していた。
「…母親の墓参りに行ってただけだ」
武政は素っ気無く言って、自嘲の笑みを零す。
「別に誕生日なんか祝ってほしいと思わない。今日は俺が生まれて最初に殺人をした日だしな」
母親の息の根を止めてを生まれてきた日。黒い服に身を固めた武政はそう言った。
聞きながら、真田は息苦しさを覚えていた。武政を生んだことで母親は死んだ。真田も同じだった。それを考えると息が詰まる。組織の人間はほとんどが母親殺しなのだ。そして殺した日が、武政にとっては今日。
「それに俺が武政如いう名前に存在を縛られた日、かな。それをおめでとうと言われてもな…」
武政の顔からはすっかり色が消えていた。ひどく無感情な様子で、きさら、とミサが物憂げに呼びかける。か細い声は途方もなく心配を滲ませている。そんなミサやこの重苦しい空気を、武政は笑った。
「それでも綺麗サッパリ忘れてくれた幼馴染には感服だったな。せっかくこのあいだ死の淵まで呼びにいってやった命の恩人に、まるで興味がないらしい」
笑っていた。笑っていたが、場を和ませようとしているだけ。そんな気がした。
そんな武政を見て、真田はついは口を挟んでしまった。不意に口をついて出る言葉があったのだ。
「武政は…あのとき"あの世"に行ったんだろ?」
一乗寺の鎮魂を行った日だ。満月の夜に、武政は一乗寺の魂を呼びに行った。行った先は"黄泉の国"だったろうか。
「気を悪くしたらゴメン。でも……そこで誰かに会わなかったのか、と思って」
武政は息を詰めた。しばらくして何がだ、という返事がある。
「その―――Mutti(母親)とか」
武政があまりに素っ気無く母親の話をするので、逆に寂しそうに感じてしまっただけだ。蔑んでいるのではない。言いながら、自分も母親に会いたいのか、だからこんなことを訊いてしまうのかな、と思った。
武政はゆるく首を振った。
「会ってないな。俺が行ったのは…、"あの世"と言うと少し違う。あそこは死者のいる地獄とか天国とか、そういう類じゃない場所だった。別世界とか隔絶された人外境という感じだ。…封印の世界とか…そういう感じだった」
ならばとうの昔に亡くなった死者には会えないか。母親と会うことなど、もう二度と叶わない。
「だから母親には会っていない。ただ…」
「ただ?」
「別の奴には会った」
武政は真田をじっと見た。次にミサを見て、ため息を零す。
「お前らも気をつけた方がいい。―――いや、何を言っても信用されなそうだな」
「たけま…」
「いいんだ。忘れてくれ。少し嫌な予感がしただけだ」
それだけだから。そう言った武政頑なに口を閉じてしまい、真田もミサも追求する言葉を失っていた。


そういえばてっきり冬生まれだと思っていた。しばらく会話が消えていた居間で、真田はぽつりと呟いた。
「そういえば武政の誕生日って…今日なんだな」
「何か? 文句でもあるのか?」
「ち、違ッ! ただ、武政は二月が誕生日かと思ったんだ…。キサラギ、って言うんだろ? 二月のこと」
二月を如月と書くらしいから、二月生まれで「きさら」だとばかり思っていた。けれど今は真夏で、蝉時雨が煩いほどの7月下旬だ。武政は二月から半年ほどかけ離れた、夏生まれだと言う。
武政がへぇ、と感心した声をあげた。
「案外日本の言葉を知ってるんだな、悪魔っ子。だが惜しい。少し勉強不足だ」
武政はにっこりと笑った。
「如月は七月のことだ」
「え、そう…なのか?」
「そうだ。勉強になっただろう?」
いつもの調子で揶揄したような笑顔の傍らで、ミサが批難の目を向けていた。

書類を重ね、机で軽く叩いて均す。そうした書類をミサは真田に寄越してきた。一瞬受け取ることを迷ったが、真田の近くに置かれていた封筒に仕舞ってくれということだった。
「それにしてもきさらがああいう話を真田にするとは思わなかった」
書類仕事は全て片付いたらしい。ミサは一乗寺の元へ行こうと促しながら、立ち上がった。その顔が微笑みを浮かべながら、武政の話をする。
「いつもさっきみたいに人を小馬鹿にしてくるでしょう? 真面目に言わないし、それにお母さまの話とか家族の話とか、きさら嫌がるから。珍しくて雨でも降るかと思っちゃった」
雨どころか大嵐になってしまうわね、とミサは笑った。
真田はそんなミサを横目に、受け取った書類を数えながら封筒へと押し込む。三人とも整った字を書くらしく、達筆な文字が並ぶ。報告書の結びはそれぞれの名前―――武政如といった代筆者の名前で締め括られていたので、一乗寺の名前を代筆したのではないのか、とぼんやり思った。
「……え? これって……?」
真田は首を傾げた。フランス出身の少女のサインはてっきり"ミサ"だと思ったが、紙の最後にしたためられていたのは漢字だった。
「心、沙…」
「そう、それでミサと読むの。私の本当の名前」
ミサはふわりと破顔した。気恥ずかしいような笑顔で、はにかんでいる。真田はそんなミサの様子に説明が欲しかったのだが、まず耳に入ったのはミサを咎める武政の声だった。
「いいのか、そんなこと教えて。本当の名前は信用している奴に教えるに留めておけよ」
「あら、真田のこと信用しているもの」
意味を図りかねて首を捻ると、ミサが語りだした。この名前はね、と、一乗寺の寝床へ繋がる襖を開きながら話し出す。真田は書類を押し込んだ封筒を片手に、その後を追う。
「私が日本に来たとき、当時の総帥がくれた名前なの。私、孤児だけれど…"ミサ"という名前は捨てられたときにつけられてたそうなの。でもどんな理由でも私を捨てた人がつけた名前だったから…」
日本に渡ってきたミサを良くしてくれた当時の総帥は、それは寂しいことだね、と言ってミサに漢字をあててくれたのだと言う。
「漢字には意味があるからって、それを考えてつけてくれたの。繊細な心、だって。…私のことを良くしてくれた人からもらった名前だから、私、漢字で書く"心沙"の方がずっと好きよ」
だからそれが本当の名前だと言う。ミサは漢字の名前を名乗って生きているそうだ。彼女は百年以上も生きているから、戸籍などの正式な形がないのだろう。好きな方が本当の名前だと、ミサは言い切った。
「総帥って…あの"総帥"?」
真田はミサと共に敷居を跨ぐ。布団の上で横になっている一乗寺がこちらに視線を向けていた。
「当時"総帥"を宿していた人。三露の祖先に当たる人よ。……あのとき良くしてもらって、こんな名前までつけてもらえたから…だから私は今でも組織に貢献しようと思えるのかもしれない」
どうやらミサにとって、名前の件は淡くやさしい思い出らしかった。西欧から見知らぬ離れ孤島にきたのはミサも真田も同じだ。当時ミサもひどく寂しい思いをしたのかもしれなかった。


もう百年も前の昔話を語るミサを見て、武政は目を眇めた。ミサの話に耳を貸す真田の表情も柔らかい。そんな二人を冷めたような目で見つめ、終いには長い息を零す。
胸の中の淀みを吐き出すように、全てを吐き出した。
「だから…、言ったところで信用される気がしないんだ。三露のことを信頼してるお前らに―――あそこで見ただなんて言ったところできっと信じない」
あの隔絶した世界で確かに見た。刹那のことだったが、確かにあの少年は三露だった。
「何を隠してるんだろうな、あいつは……」
武政は縁側へ視線を渡す。空虚に広がった青い空が目に入る。高く昇った陽がじりじりと地上を灼いていく。
「"嵐が来る"ねぇ……」
見上げていた武政を呼ぶ声が、遠くで響く。武政は苦笑しながら、三人のいる寝室へと足を踏み出した。
「確かにこういう日の後は、決まって嵐がやってくる」
生憎、穏やかな日とは続かないものだ。―――寂しいことに。



           

 





Copyright(c)2004-2005 Saki & Shii All Rights Reserved.

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送