それから約三週間が過ぎた。

本部から果京へと戻ってきた三露は、ほとんどの時間を自宅のマンションで過ごしていた。机の上には書類が山積みになっており、それは床にまで及んでいる。 足の踏み場もないと言っても過言ではない。これでは一乗寺のことを笑えないな、と書類をめくりながら三露はひとりごちた。
これらの書類は全て本部から持ち出してきたものだ。組織の本部は小さな島、三露の産まれ故郷だった。その島には三露の祖母が住み、事実上組織を取り仕切っていた。
しかし悲劇は三週間前に起こった。もしかしたらもっと前に起こっていたのかもしれないが、少なくとも露見したのは三週間前だった。三露が忍をつれて本部へと帰った際、婆様が死んでいるのを発見したのだ。
「婆様が死ぬなんて……」
父母のいない三露にとって婆様は育ての親、唯一の肉親だった。その婆様が死んだ衝撃は大きい。しかし悲しみに浸っている暇もなく、組織の仕事が三露の前で山積みになってしまっていた。
現在、組織の本部は三露のマンションということになっている。島にも何人か術者を残してはあるものの、肝心の婆様がいなくなってしまっては本部としての役割をなさない。
本部から持ち出してきた書類等の資料は尋常の量ではなかった。そして仕事量も以前の比にならないくらい増えた。たったひとりの肉親の死を嘆くこともできないくらい、三露は雑務に忙殺され、疲弊していた。
不意にめくっていた書類の文字がかすむ。三露は指で数度目をこすり、やっと焦点を結んだ目を部屋の窓へ向けた。外は八月半ばの強い陽射しにじりじりと焼か れている。部屋はクーラーが効いて涼しいが、今の三露は快適な温度の部屋で閉じこもるよりも、うだるような暑さが恋しい。
「僕、このまま過労死するんじゃないだろうか」
ぽつりと呟くと、傍らで書類整理をしていた影が顔をあげた。普段は蝶の形をしている使い魔の影だが、今は三露の命令もあって人型をしている。人の形になって、とにかくなんでもいいから仕事を手伝え、と命じたのだった。
影は書類を揃えていた手を止め、じっと三露を見つめる。
「総帥に死なれては困ります」
「わかってるよ。……冗談の通じない奴だな」
全く、と三露は肩を落として大きく息をついた。狭い部屋に影と二人で閉じこもっていれば、陰鬱な気分にもなるというものだ。
こうなったら書類片づけ部隊として誰か呼びつけてやろうか。書類ごと一乗寺にまわしてしまうのも良いかもしれない。以前渡した仕事はすでに処理されて三露のところへ返ってきているから、新しく仕事をまわしたところで問題はないだろう。
山積みの仕事をいかにして他人に押しつけるか三露が画策していると、部屋にドアチャイムの音が響き渡った。
「来客かな? 出迎えてきて」
「はい」
影が立ち上がって玄関へと向かう。誰が来たかは知らないが良いタイミングだ。存分に書類仕事を手伝わせてやる、と三露はほくそ笑む。
「総帥、お連れ致しました」
影に案内されて入ってきたのは真田だった。早速仕事を押しつけようと振り向いた三露は、真田が思い詰めたような表情をしているのを見て思わず口を噤んだ。とても冗談を言えるような雰囲気ではない。
「真田、どうかしたのか?」
三露が問いかけても、俯いてしまって何も言おうとしない。これでは埒があかない。三露がもう一度、今度は少し強い口調で問いかけると、真田はおずおずと口を開いた。
「……一乗寺がいない」


またか、と思っていた。一乗寺がいなくなるのも、そのせいで真田が思い詰めるのも、つい三ヶ月ほど前に見た光景だ。半ば呆れながら三露は真田に付き合い、一乗寺家へ向かう途中だった。
「どうせ武政がまた連れだしたんだろ」
「……そうならいいけど」
「そうじゃないとでも?」
三露が冷たく言い放っても真田は返事を返してこない。さっきからずっとこの調子だった。さっさと話を済ませて部屋へ戻りたいのに、だんまりを決め込まれてはどうにも出来ない。そこで仕方なく一乗寺家へ向かっている次第だ。
「けど、あの一乗寺が松珀を放っていなくなるとは思えないな。じき帰ってくるんじゃないか?」
「……その松珀がおかしいんだ」
「おかしい?」
「上手く言えない。見れば、わかる……」
それきり真田はふたたび黙り込んでしまう。三露は何度目かになる大きなため息を零すと、一乗寺家への路地を黙って歩くことにした。
路地の両脇の家々から庭木が伸び、アスファルトに濃い蔭を落としている。昼過ぎの今時分が一日で一番暑い時間だろうか。三露の額にはじんわりと汗が滲んでいた。書類仕事などやめて外に出たいとは思っていたが、まさかこんな形で連れ出されるとは思ってもみなかった。
一乗寺家の門前まで辿り着くと、真田はぴたりと足を止めた。三露に向かって先に行くようにと手で示している。
「君は入らないのか?」
「俺はあとから入る。あんまり見ていたくない」
「……?」
真田の不自然な態度が気になったが、三露は言われた通り先に中へ入ることにした。門をくぐるといつも通りの光景が広がっている。敷き詰められた白砂利と、一乗寺が大切にしている松の木・松珀。右手には玄関口があり、正面へ進むと縁側へと出る。
しかし、三露が目にした光景はいつもと違っていた。
「……うそだろ」
それはあまりに信じがたい光景。三露は息を呑んだままその場に立ちつくしてしまう。
松の葉が枯れたようにひからびて白砂利の上に落ちている。常緑樹である松の葉がすべて枯れ落ちるなど有り得ないことだ。褐色の木の幹は表面に無数のひび割れがあった。三露の記憶にある松珀よりも、一回り細くなってしまった気がする。
目を見開いている三露の爪先で何かがきらりと光る。砂利の石粒かと思ったが、よく見るとそれは丸く研磨された鉱石だった。
「これは……」
指先で拾い上げ、手のひらに乗せる。それはいつも一乗寺が右腕にはめているはずの、鉱石の数珠に違いなかった。


一乗寺家の居間で、三露は思考にふけっていた。同じく真田も居間の奥で膝を抱えている。縁側に行かないのは変わり果てた松の木を見るのが辛いからだろう。
居間にはもちろん、この家のどこを探しても一乗寺の姿は見あたらなかった。
この状況を見る限り一乗寺の身に何か起こったことは間違いないだろう。それもかなり良くない事態だ。以前一乗寺が姿を消したときよりも、ずっと嫌な予感がする。
「とりあえず、武政あたりに連絡を取るのが一番かな……」
前の一乗寺失踪事件の犯人は武政だった。今回もそうであれば、と三露は願う。それなら武政に連絡を取るだけで解決できるのだ。三露は懐から携帯電話を取り出し、ボタンをプッシュする。それを見て真田が顔を上げた。
「武政に電話?」
「あぁ、自宅じゃなくて携帯にね。これなら外出していても捕まえられる」
電波が届かなければ意味がないけど、と付け加えながら三露は携帯電話を耳に押し当てた。しばらくしてコール音が鳴り出す。どうやら無事に呼び出しているようだ。
三回、四回、とコール音が繰り返される。しかし一向に武政が電話に出る気配はない。ついに十五回目のコールを迎え、三露は落胆しながら通話終了のボタンを押した。
「まったく……。出ないのか、出られないのか」
武政の性格を考えると、三露からの電話だと知ってわざと出ない可能性もある。やっかいな性格だと舌打ちしながら、三露は再び手早く電話を操作した。しかし 受話器の向こうから返ってきたのは先程と同じ反応だった。つまりコール音が鳴り響くばかりで誰も電話に出ようとはしない。
「繋がらないのか?」
真田が立てた膝の上に額を載せながら、視線だけを三露へと向けてくる。三露は小さく頷いて見せた。
「今度はミサの家にかけてみたんだけど」
武政と話をするにはミサを通すのが一番良いと思ったからだった。ミサからの電話なら武政だって無視はしないだろう。しかしミサへの電話も徒労に終わった。 ミサは電話を無視するような性格ではないのに、と三露は眉をひそめる。もしかしたら出かけているだけかもしれない。だが滅多に逆居を離れないミサが?
様々な考えが三露の頭の中を巡っては消える。まとまらない思考のまま三露は携帯電話を握りしめる。真田はというと、興味をなくしてしまったのか、額を膝に押しつけたままじっと畳を見つめていた。
半ば意地になりながら、三露は再び携帯電話の通話ボタンを押す。こうなったらとにかく誰でもいいから話をして、一乗寺なり、ミサ・武政なりと連絡を取ってやる。三露がかけたのは、忍の携帯電話だった。忍は中学生だが携帯を持っている。
しかし、三露の期待はすぐに裏切られた。聞こえるのは電子的な音声だけで、電源が入っていないか電波が届かないせいで通話できないことを繰り返していた。忍まで連絡が取れない。
「……一乗寺に、武政、ミサ、忍まで?」
四人が一斉に音信不通だなんて、不自然すぎる。
「こんなこと有り得るのか?」
電話機に問題があるのではないかと思わず疑ってしまう。躍起になって携帯電話のボタンを連打している三露を、真田が不審そうに見つめていた。


『もしもし!?』
電話機の向こうから聞こえてきた声に、三露は胸を撫で下ろす思いだった。ようやく電話が繋がったようだ。電話機の故障というわけではなさそうだった。
しかし同時に怪訝に思う。聞こえてきた声は、緊迫した響きを含んでいた。
「あ……もしもし、あの、みや……伊織さんのお宅ですか?」
三露が問いかけると、長い間があく。やがて落胆のため息と共に、静かな女性の声が再び聞こえてきた。
『ええ、伊織です。すみません、取り乱してしまって』
どうやら京と蓮の母親のようだ。三露も一度会ったことがあるので声になんとなく聞き覚えがあった。それにしても様子がおかしい。まるで誰かからの電話を待っているかのようだった。
「あの……」
どうかされたんですか? と訊ねようとして、まだ自分が名乗っていないことに気が付く。しかし三露が名前を言う前に、三露の言葉は遮られてしまった。
『あ! もしかして蓮のお友達?』
「え……、あぁ、はい三露といいます」
友達とは言い難いかもしれないが、一応蓮とは知り合いである。母親のひっ迫したような声に気圧されながらも三露はうなずく。すると続けざまに涙声が響いた。
『あなた蓮のこと、何か知らない?』
「……あの、蓮君に何かあったんですか?」
三露は内心で舌打ちしたい気持ちを押し殺しながら、低い声で応対する。母親のこの様子からすると、蓮の身にも何か起こったのは明らかだろう。
「何かあったなら教えて頂きたいのですが」
母親は三露のことを蓮の友達だと思いこんでいるらしい。嘘も方便。とりあえず訂正しないまま話を聞き出すことにした。
蓮にしても繋がらない電話にしても、不可解なことが起こりすぎている。情報をつかみ何が起こっているのかを知ることが先決だ。
『蓮はいなくなったんです。もう一週間も前に……』
「え、」
三露は思わず息を呑む。
「それって、家出とか……?」
『……蓮はそんな子じゃありません! 黙って出ていくような子じゃないわ』
母親のヒステリックな声が響く。確かにその通りだ。蓮は無断で外泊するような度胸の据わった性格はしていない。
『連絡もないの。何かに巻き込まれたんだわ。あなた、何か知らない?』
「……すみません。僕は何も」
三露は喉の奥から謝罪の声を絞り出し、唇を噛む。苦々しい気持ちが身体の中に広がっていた。蓮が巻き込まれた"何か"というのは、おそらく術者絡みの事件 だろう。一乗寺が消えたことも武政やミサ、忍と連絡がつかないことも、関連しているとしか思えない。原因は全く想像がつかないが、四区の術者たちが何かの 事件に巻き込まれているようだ。
「あの、すみません。京ちゃんとはお話できますか?」
前に会った時、京は能力を失って部屋に引きこもっていた。もう立ち直っただろうか、それともまだ能力が戻らないことを悲観しているだろうか。三露が符を書 いてやったらとても嬉しそうに微笑んでいたし、元気が出たとも言っていた。平気だろうと思うが、多忙のせいで様子を見にいけなかったので、京のことはずっ と気になっていた。
「体調が悪いと伺っていたのですが、どんな様子なんでしょうか」
『京は……』
電話の向こう、少し遠いところで母親の声が聞こえる。しかしそれは、三露の耳に上手く届かなかった。電波が悪いのかもしれない、と三露は思った。
「よく聞こえなかったんですけど、もう一度……」
そして初めて、三露は自分の声が震えていることに気が付いた。自覚すると同時に今度は携帯電話を持つ手が小刻みに震え始める。気持ちを落ち着かせようとして携帯電話を握り直すが、手のひらから滑って落ちた。電話は一度、畳の上で跳ねる。
しかし三露にはそれを拾い直そうという気は起こらなかった。ただ目を見開いて空中を見つめる。
「そんなまさか」
ぽつりと漏らした言葉は、やはり掠れて震えた。
部屋の奥で膝を抱えていた真田が、何事かと顔を上げる。
「三露?」
「嘘だ、そんなの。ありえない」
しかし無情にも、畳の上の電話から母親の声が響いてくる。三露はそれから逃れるかのように一歩後退った。しかしよろけて畳に膝をついてしまう。
ありえない事だった。ありえてはいけないはずだ。三週間前に会ったとき、京はちゃんと笑ったり、泣いたり、怒ったりしていたのに。
『京は亡くなりました。もう葬儀もすませて……』
それはつまり、京のどんな表情も二度と見ることができないということだ。
嘘だ、ともう一度呟こうとした三露の口から漏れたのは、言葉をなさないただの嗚咽だけだった。


* * * *


だん、と大きな音が居間に響く。遅れて三露の背中に鈍痛が走った。壁に打ち付けられた背骨が軋むように痛む。
「ふざけるなよ! アンタはいつもそうやって……」
壁を背にしている三露の目の前には真田がいる。目を見開き、怒りの形相で三露を睨み付けていた。興奮しているのか、顔が赤く呼吸も荒い。そして右手の拳もかすかに赤くなっていた。殴られた自分の頬より殴った真田のほうが痛そうだ、と三露はどこか人ごとのように思った。
痛みをこらえながら、三露は畳の上に手をつき身体を起こそうとする。
「ふざける? 僕がか? 本当のことを言っただけだ」
「嘘だ! だってアンタはいつもそうだ、俺に本当のことを言わない!」
「嘘じゃない。現実を見ろよ」
自分で思っていたよりも冷たい声が出て、三露は思わず身体を震わせる。真田に言い聞かせるのではなく、自分に言い聞かせるための言葉だ。頭ではわかっていても、まだ心のどこかで現実を拒絶しようとしていた。三露は自らを奮い立たせながら言葉を続ける。
「京は死んだんだ」
「嘘だ!」
つい先程の会話を繰り返し、同じく先程のように真田の拳が三露の顔面へ飛んできた。至近距離で避けることも出来ず、三露は再び壁へ体重を預けるとその場で力無くうなだれた。口の中で錆の味がしている。
「アンタが……アンタが殺したんだ」
頭上から真田の震える声が降ってくる。指先で口の端をぬぐいながら三露が顔を上げると、真田の青い目は奇妙な形に歪んでいた。怒りとも悲しみともつかない感情が浮かんでいる。
「アンタが死んだって言った……コトダマでアンタが殺したんだ、今!」
突然胸倉を掴まれ、身体が無理矢理起こされる。首元を締め付けられた三露はわずかに咳き込んだ。真田の叫び声が三露の耳に残響を残す。頬に冷たい水滴が落ちる。驚いて見ると、それは真田の涙だった。
真田、と名前を呼ぼうとしたが、胸倉を掴まれているせいで満足に息を吐き出すことが出来ない。三露の声は言葉にならないまま肺の奥へと戻った。その奥で空気が爆ぜるように、胃の底が不意に熱くなる。三露は歯を食いしばり、首元を締め付ける真田の手首を握った。
「……いい加減にしろ!」
そのまま力任せに真田を払いのける。今度は真田が倒れ込む番だった。居間に置かれた骨董品類を巻き添えにして、真田が畳の上でよろめく。その隙を逃さず、三露は素早く立ち上がると居間を抜けて縁側へ出た。
胸の奥が焼けるように、臓腑がたぎるように熱い。それは言いようのない怒りだ。まるで自分だけが悲しんでいるかのように振る舞う真田の態度に腹が立って仕方がない。そして、京が死んだというのに何も出来ないでいる自分自身が許せなかった。
砂利の上に脱ぎ捨ててあるスニーカーに足を突っ込み、三露は足早に一乗寺家を去る。
「全部アンタのせいだ!!」
背後から悲鳴に近い声が三露の背中を襲う。それから逃れるように、三露はほとんど走りながら自宅のマンションを目指した。
京が死んだなど、三露だって信じたくない。さらに蓮が消え、一乗寺も消え、武政やミサ・忍とは連絡もつかない。この状況に頭を抱えたいのは、きっと真田より三露のはずだ。真田のように泣くことは出来ないが、それでも悲しみだって感じている。
しかし同時に、三露は自責に駆られていた。真田の叫び声が耳にこびりついて離れない。三露は両手で耳を塞ぐように頭を抱える。
「僕のせいじゃない……」
婆様が死んだのも、京が死んだのも、自分のせいではない。何も悪いことはしていない。婆様は知らない間に何かにやられて死んでしまっていたし、京だって死因は不明だ。能力を失ったせいかもしれないが、それだって三露のせいではない。
「本当に?」
どこからか声が響き、三露はその場で足を止めた。慌てて辺りを見渡すが、閑静な住宅街に人影は見あたらない。人の隠れることの出来る路地や物陰もなかった。空耳かと三露が再び足を進めようとしたとき、
「本当にそう言い切れるかい?」
「……!」
今度こそはっきりと声が聞こえた。その低い声がどこから聞こえたかもわかった。落ち着いた、そして明瞭な男の声に三露の思考が真っ白になる。目を見開き、頭を抱え、硬いコンクリートの上にうずくまることしか出来なかった。
「あぁ……!」
恐怖が身体中を蝕んでいく。夏の陽射しに灼かれたコンクリートへと額を押しつける。耳を塞いだところで無駄だとわかっていても、三露は必死で頭を抱え声を遮断しようとした。
しかし無駄なことだ。何故ならその声は、まぎれもなく三露の頭の中から直接響いていたのだから。



           

 





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