次の日、三露は昼になっても布団の中で丸まっていた。
逃げ帰るようにマンションへ辿り着き、食事もとらずに布団の中へと潜り込んだ。三露に語りかけてきたあの声は、あれからもう聞こえなくなっていた。
こうして時間を置いてみると、空耳だったのかもしれないとすら思える。疲れているだけかもしれない。だから有り得ない幻聴が聞こえたのではないか。
そう自分に言い聞かせるものの、心の奥底に潜んでいた不安は一度煽られると抑えようがなかった。それはつまり、自分の中にいる総帥や鬼に身体を奪われるのではないかという恐怖。
今までは、総帥は満月の日に、鬼は新月の日にしか出てくることはなかった。その他のときはずっと三露としての意識があり、昨日のように声が聞こえてくるなど有り得ないことだった。
「あれは総帥か……それとも鬼の声?」
考えてみたところで答えは出ない。気のせいだったのだろうと流してしまえれば楽だろうが、そう思えるほど今の三露には心の余裕がない。周辺の四地区の術者が消え去り、残っている真田とは喧嘩別れ。そして東果の京は死んだという。
京の死は、昨日京の母親から電話で聞かされた。三露が最後に会ったとき、京は家でふさぎ込んでいたものの体調は悪くなかった。泣きはらしている目元が気に なったくらいだ。しかしそれから少しずつ衰弱し、最期は眠るように死んだのだという。医者に診せたものの原因は不明のままらしい。それでも、京は静かに 逝った。
葬儀は五日前。もう少し早く連絡を取っていれば京が死ぬ前に顔を合わせることが出来たかもしれない。葬儀に出席できたかもしれない。あるいは京を助けることだって出来たのではないか―――そう思うと三露はやりきれなくなる。
京が死んだのは、能力を失ったことと何か関係があるのかもしれない。そうでなければ十六の少女が原因不明で死ぬなんておかしい。能力を失ったと聞いたとき、もし自分がもっと京に気をかけてやれたら結果は違ったのではないだろうか。
「……僕が京を殺したのか」
確かにその通りかもしれない。三露は目頭が熱くなるのを唇を噛んで堪える。
「……総帥」
ふと傍らで声がした。慌てて目元を拭い顔を上げると、部屋の片隅で影が膝を折ってこちらを向いている。どうやら少し開けておいた窓の隙間から入ってきたらしい。蝶の姿になることが出来る影には、わずかな隙間でも出入り口となる。
「戻ったのか。何か掴めたか?」
「はい。小松で手がかりを得ました」
小松、と三露は口の中で呟く。影には昨日から、消えた術者達の足跡を追わせていた。どんな些細なことでもいいから手がかりを得られれば、と思ってのことだ。
「小松というと、武政か。何か情報を残していた?」
「いいえ。自宅はまだ調べていません。ただ目撃者があります」
「目撃者は何て? それは有益な手がかりなのか?」
「まだ話を聞いておりませんので、何とも申し上げることは出来ません」
影はそう言って報告を終えると、恭しく頭を下げる。どうせなら目撃者の話も聞いてくればいいのに、と三露は呆れて目を細めた。どうせ「総帥より先に聞くわけにはいかない」などといった下らない理由だろう。影はおかしなところで律儀だから、手間がかかって仕様がない。
「……とりあえず、小松へ向かうか」
その目撃者というのに話を聞いてみなければいけない。それに、小松に配属している術者・武政は一筋縄ではいかない男だ。もしかしたら消える前に手がかりとなるものを残しているかもしれない。
「影、出かけるぞ」
「はい」
術者がことごとく姿を消すという不可解な現象。"神隠し"ともいえるこの事件を、今はとにかく解決しなければいけない。そのために一刻も早く小松へと向かわねば。
それが「京の死」から逃げるための口実だとしても、今の三露にはかまわなかった。じっとしていると後悔ばかりが押し寄せ、三露を動けなくしてしまう。自責の念に絡め取られ身動きが取れなくなることが恐ろしかった。


小松地区は果京の北東に位置する、山に囲まれた土地だ。
東のほうにケシ川という大きな川が流れている。南北を貫いて流れるその川を古くは、上流部を上ケシ、下流部を下ケシと呼んでいたらしい。
上流部のカミケシ川という呼称は、神が子供を消してしまうという神隠し伝説に基づいている。昔から流れる大きな川の付近では、子供が行方不明になる怪異が起きていたらしい。
実際は貧困にあえいでいた時代に、口減らしとして子供を沈めていたのだろう。豊満な時代となった今、もうそのような古い話は物語と化してしまっている。
小松に残る神隠し伝説。今回の「術者の神隠し」も、この地に鍵があるかもしれない。
何故なら小松というこの地の名は、子を待つ、という意味が地名の音に隠されている。"カミケシ"の川が流れる"コマツ"の地―――消えた者を探すならばこの地以外にない。


「とりあえず目撃者とやらの話を聞こうか。それから武政の自宅を探る」
小松の路地を歩きながら、三露は隣を歩く影に語りかける。会話がしにくいと困るので、影には人の形をとらせていた。影はわずかに顎を引いて頷く。
「目撃者はそちらの自宅におられます」
「……武政の家に、勝手に上げたのか?」
不用心すぎないか、と咎めたくなったが、影は三露の言葉の意味がわからないらしく表情を変えない。使い魔である影には、人間の価値観などわからないのかもしれない。他人を家に入れるなんて、という説教も、影の前では無意味なものだろう。
「まぁいいさ。どうせ武政の家だ」
無責任な発言をしながら三露は歩みを進めた。
ほどなくして武政の自宅がある一角へと辿り着いた。一人暮らしの男が暮らすには些か大きい一軒家の前で、三露は目を丸くする。
「……良い家じゃないか」
そういえば武政は元々家が裕福だったか。それに武政には組織からの仕事も多くまわしているため、支払う給与額も大きい。しかし武政というどこか浮世離れし た男が、こんな普通の一軒家に暮らしているとは。門をくぐりざまにポストの中をチェックしながら、三露はきょろきょろと辺りを観察する。
庭が荒れているだとか、争ったあとがあるだとか不審な部分は見あたらない。ポストに大量にたまった郵便物が、武政がしばらく帰宅していないことを如実に物語っているくらいだ。
「鍵は?」
「あけておきました。どうぞ、お入り下さい」
影が家主でもないくせにドアをあけ、家の中へと三露を招き入れる。三露は注意を怠らないようにしながら、静かにドアをくぐった。
玄関にも特に変わったところはない。綺麗に靴が並べられ、独特の革のにおいがしていた。部屋の中を細かく見てみないことにはわからないが、この様子だと三露の期待するような手がかりは残されていないかもしれない。武政の家はあまりにも普通すぎた。
「それで、目撃者は」
やや落胆しながら三露は影に声をかける。すると影は玄関から続く廊下の奥をすっと指さした。
「そこに」
「え?」
影に言われ、薄暗い廊下の奥に目線をやる。しかしいくら目を凝らしても、影の指さす方には何の人影も見あたらなかった。廊下の向こうにただぼんやりと階段の手すりが見えるだけだ。
「おい、影。からかうのは……」
言いかけた三露だったが、廊下の奥にうごめいた気配の小さく息を呑んだ。煌々と光る一対の瞳がまず暗闇に浮かび上がり、続いて姿を見せたのは小さな黒猫だった。ゆっくりとした足取りで三露達の佇む玄関へと歩いてくる。
ただの黒猫だ。しかしこの言葉に表しようのない気配は何なのだろうか。三露はごくりと喉を鳴らし、それから猫と目線を合わせるように玄関口へと腰を降ろした。
「目撃者というのは、この猫のことか?」
「はい。普通の猫とは違います。何か訴えたいことがあるのか、しきりに……」
淡々と述べられる影の言葉は、不意に聞こえたガリッという不穏な音に遮られた。違和感を覚えた三露が振り返ると、床についていた手の平の傍に黒猫がいた。そして三露の手の甲には鮮やかな赤い筋が。
「……"しきりに引っ掻いてくる"、か?」
「はい」
頷く影を一瞥し、三露は傷の出来た手の甲を反対の手で撫でた。浅い傷だがジンと鈍く痛む。普通の猫ではない、と影は言ったが、これではただの凶暴な猫では ないか。何が目撃者だ。引っ掻き傷を指でなぞりながら三露が恨めしげな視線を送ると、黒猫は玄関へと降りて今度は扉を引っ掻き始めた。
「もしかして出たいのか?」
熱心に扉を引っ掻く猫は外に出たいに違いない。しかし出してもいいものだろうか、と三露は逡巡する。武政の飼い猫ならば不用意に外に出すわけにはいかない。
だがこの猫が影の言うとおり普通でないとしたら、もしかすると飼い主のところへと導いてくれるかもしれない。確かにこの猫を見た瞬間、尋常でない気配を感じた。普通の猫ではないのかもしれない。
自分がそう信じたいだけかもしれないという可能性を頭の隅に押しやりつつ、三露は口を開いた。
「……わかった。お前が頼みの綱だ」
手がかりのない今、藁にもすがりたい気分なのだ。猫にすがって何が悪い。開き直りながら、三露は玄関の扉を開け放つ。
その途端、黒猫はもの凄い勢いで外へと走り出たのだった。


* * * *


「冗談だろ、これは……」
三露は眼前の光景に思わず顔をしかめた。
厳しい表情は、何も目の前にある石段のせいではない。石段の先が見えないほど続いているからでも、両脇の木々が生い茂って不気味な雰囲気を醸し出しているせいでもない。
その石段の導く先が、これまでずっと接触を避けてきた不可侵領域に繋がっているからだった。
三露が現在拠点としている四地区は、果京・逆居・東果・そして小松。この小松には神隠し伝説があると共に、もう一つ伝説めいた逸話がある。
最強の術者と呼ばれる血筋がこの地に存在する、という逸話。
普通ならば一笑に付してしまうような話だが、"最強の術者"に関する書類をいくつも読んだ三露にとっては笑い事ではなかった。最強の術者の血筋―――乙羽(おとは)の血筋が架空のものでないことは、三露の組織の中では昔から調べがついていることだ。
しかしもう何百年も前から存在していた組織も、乙羽の血筋も、これまでの歴史でお互いに関わったことはない。そしてこれからも有り得ない。そのことは暗黙の了解に近かった。
しかし今、三露の目の前に広がる石段を登ることは暗黙の了解を破ることとなる。石段の先には乙羽の本家である寺があるのだ。
「ここに足を踏み入れるのは、流石に……」
「危険すぎます。乙羽と接触するなど!」
腕を組んで石段を見上げる三露に、影が珍しく声を荒げる。この使い魔も乙羽との接触が危険だと感じているらしい。三露とて理解している。
「でも、進まないわけにはいかないだろ」
三露は軽く顎をしゃくって、既に石段を登り始めている道案内役を指した。黒猫はこちらの声が聞こえたのか、くるりと振り返って低く喉を鳴らす。この猫が普 通の猫でないことは、道中でよくわかった。疾走する黒猫について行くことが出来ず三露が立ち止まると、足を止めるなとばかりに足首へと噛みつく。このクソ 猫め、と三露が毒づくと、人語を解するかのように飛びついてきて三露を引っ掻く。
その黒猫が案内する先なのだから、"術者の神隠し"に関する手がかりがあるのだろう。そう信じたい。
「影は反対です。なぜ最強の術者と呼ばれる一族を、今まで組織が放っておいたのか……総帥なら御存知のはず」
石段の続く先を睨むように見据えながら、影が低い声で唸る。しかし三露は気が付かないふりをしながら、石段に足をかけた。
「総帥!」
石段を登り始めた三露を、影があわてて追いかけてくる。だが影がどんなに必死に追いかけてこようが、呼び止めようが、三露は影の言うことを聞く気など毛頭なかった。『総帥』などと呼びかけられたところで、誰が答えてやるものか。
「総帥、お忘れですか。今宵は新月です。貴方の力は……」
「影」
三露は振り返らないまま、背後から追いかけてくる影の声を遮った。腹の底から出た三露の声は予想以上に冷たく空気を震わせ、その冷たさを感じ取ったのか影は口を噤んで立ち止まった。それを確かめた三露は再び口を開く。
「お前は果京へ戻れ。目障りだ」
「しかし」
「口うるさいお前などより、この猫のほうがよっぽど役に立つ」
三露が言い放つと、影の顔が奇妙に歪んだ。しかしそれは一瞬のことで、影はまた「しかし」と渋ってみせた。三露は振り向き、影と目を合わせてやる。
「影、総帥の言うことが聞けないか?」
いっそ優しく聞こえるほどに低く押し殺した声で言ってやると、影が大きく目を見開いた。その唇が何か言いたげに一瞬震え、しかし何の音も発さないままきつ く結ばれる。開いた目を静かに伏せると、影はそのまま空気に溶けるようにして姿を消してしまった。それと同時に空高く舞い上がった揚羽蝶が、風に煽られる ように遠ざかっていく。
「危険は承知してる。でも僕は、何も出来ないまま仲間を失うのは、もう二度とごめんなんだよ」
空に吸い込まれ見えなくなった揚羽蝶に向かって、三露は小さな声で呟いた。しかしその掠れ声は石段の両脇に茂る木々のざわめきに掻き消されてしまう。
わずかの間だけ瞳を閉じると、三露は再び石段を駆け上がり始めた。


ひどく熱い鉄の塊かなにかを、喉の奥に押し込まれたようだ。息がつまって声が出せない。熱い空気が肺を焼いて、真田から思考まで奪ってゆく。
板張りの硬いフローリングに身体を横たえ、真田はただじっと天井を見つめていた。弛緩した身体はとても重たく、もう二度と起きあがれないのではという気がした。とてつもなく重い何かが真田の上にのしかかってきている。
それは京の死であったかもしれないし、一乗寺の失踪であったかもしれない。あるいは、昨日見た三露の淡々とした表情だったかもしれない。京の死を冷静に告げる三露の態度に、真田は頭の芯が焼けるほどの怒りを覚えた。
京は東果に住む、真田と同じ歳の術者だ。つい数ヶ月前にコクリ事件をきっかけに知り合った。そう、さほど長い付き合いではない。
しかしその事件の時、自分が無力だと落ち込む少女に真田は自分を重ねていた。そんなことはない、アンタは能力で他人を癒すことが出来る。そう言って慰めたり、逆に慰められたりもした。屈託なく笑い、よく気のつく良い女の子だったのに。
死んだと言ってしまえるのは三露が冷徹だからだ。組織の人間としては正しい態度なのだろう。しかしそんな冷静さが是とされるならば、組織の人間でなどいたくなかった。京の友人としてありたかった。
だから真田は三露を殴ったのだ。毅然として現実を受け止める"総帥"としての三露に腹が立った。
三露の頬を打ったときの拳の熱は、いまも覚えている。それどころか真田の身体中に毒のように広がり、力を無くした身体をフローリングへと押しつける重みになっていた。
昨日からずっとこんな状態が続いている。硬い床に横たえられた身体は痛みを訴えてもおかしくないはずだが、今の真田は痛みなど感じることが出来なかった。
もうどのくらいこうしているだろう。そんな思いがふと頭をよぎった瞬間、今まで何の音も拾おうとしなかった聴覚が不意に鈍い音を捉えた。
視線だけで音の源をたどると、ベランダのガラス戸だった。ガラス越しの外側には、いつの間にやってきたのか影が佇んでいる。人の形を取り、握った拳で幾度もガラス戸を叩いているのだった。
真田はしばらくの間それを見つめた後、再び天井へと視線を戻した。ベランダの鍵を開けてやろうなどという気は微塵も起こらなかった。そんなことをしてどうなる。影は何か話があって来ているのだろうが、無力な自分が聞いたところで何も出来ないのはわかっている。
そうして真田がぼんやり天井を見つめている間も、鈍い打撃音は間断なく続いていた。しかし不意に、その打撃音は破裂音へと変わる。鼓膜を震わせる鋭い音と共に、影の荒いだ声がベランダから届いた。
「どうして返事をして下さらない!」
有無を言わせぬ剣幕で部屋へ侵入してきた影は、横たわる真田の傍らで頽れるように膝をついた。真田は顔をわずかに傾けて影を見る。零れた自分の髪が目にかかり、視界を薄銀色にぼかしていた。かすんだ視界の中、影は唇を噛み締めながら俯いて真田を見つめている。
「どうか、お力を貸してください。総帥が危ないのです」
「……お前がなんとかしろよ」
三露が危ない? と頭の中で反芻した真田は、考えるよりも先に言葉が口をついて出ていた。そうだ、三露のことは影がなんとかすればいい。どうせ自分など何の役にも立たないのだから。真田は突き放したのだが、それでも影は食い下がった。
「影では駄目なのです。影では役に立たない」
腹の奥から絞り出したような声に、真田は思わずはっと目を瞠る。いきなり視界がひらけたかのように、影の表情が間近に飛び込んできた。唇を噛む影の顔はひどく悔しそうだ。
まるで鏡だ、と真田は思った。真田の内心を映す鏡。真田はいつも無表情な影が感情を表していることに驚き、自分の内心を見透かされたようで狼狽した。戸惑ったまま身体を横たえていると、影が真田の襟首へと手を伸ばす。
「影は役に立たない、総帥がそう仰ったのだから。だから、お力を貸していただきたいのです。総帥が、危ない……」
うなだれる影の手に力など込もっているはずもなく、襟首に伸ばされた手は真田の服にわずかな皺を作っただけだった。掴みかかるというより縋るに近い影を、真田はただ呆然と見つめる。
何も行動できないでいる自分と、必死に行動する影。無力だから、役に立たないから、と言って諦めてしまう自分とは違う。真田に助けを求めてきた影の行動は、自分が応えてさえやれば無駄でなくなるのではないか? そうすれば影は役立たずでも無力でもなくなるのではないか。
真田は弛緩した身体に力を込めてみた。先程まで重くのしかかっていたもの達が真田の行動を阻もうとしていたが、真田はなんとか振り払って身体を起こす。影は驚いているのか動きを止めて真田を凝視していた。
「……三露が危ないんだろ」
ぶっきらぼうに言うと、ふらつきながら真田は立ち上がった。
自分には何も出来ないからといって、塞ぎ込んでいる余裕などない。


* * * *


石段を登りきると石畳の平坦な小道が見えた。三露は思わず背後を振り返り、自分が昇ってきた距離を確認してしまう。道の両脇に鬱蒼と茂る木々の合間から、眼下に見下ろす小松の街並みが見えた。
ほとんど人に忘れ去られた小道だったのだろう。途中には木々の枝葉が積み重なっていた。
「乙羽へ続く道……か。誰も好きこのんで通るわけない」
三露は口腔の中で苦々しく呟くと、はやる鼓動を抑えながら石畳の小道に歩を進めた。
もう既に道の行く先には建物が見えている。その建物を見、そして足下の石畳や昇ってきた石段の雰囲気から察するに、どうやらここは寺らしい。乙羽の当代がおさめる寺。
寂れて久しいだろう境内は石畳と砂利が広がるばかり。その向こうに本堂らしき建物があり、周囲はやはり繁茂した木々に覆われていた。
三露は本堂へと視線をやり、それから本堂脇にそびえ立つ巨木に気が付いてそちらへ目を向けた。そこで見つけたものに目を奪われ、思わず動きを止める。
硬直した身体は後退りすら出来なかった。開いた口から空気を吸うと、喉の奥が貼り付く。無理矢理唾を呑み込んで、三露は巨木の根本を凝視した。
そこには一人の男が座っていた。うなだれるようにして木に身体をあずけ、物のようにぴくりとも動かない。まるで死体のようだと三露は咄嗟に思った。身につけている白いシャツが、白無垢の死に装束にさえ見える。
身体の硬直した三露がようやく瞬き一つした時、男は不意に顔を上げた。緩慢な動きでこちらへ顔を向ける男を見て、三露は得体の知れないおぞましさを感じた。起こしてはいけないものを起こしてしまった、そんな感覚。
三露を見据える男の目は、陽光を吸い込む闇の色の瞳をしていた。何の感情も宿さない無機質な目に射すくめられ、三露は今度こそ息が止まってしまった。
まるで生ける屍。最強と呼ばれる乙羽の男に対して、三露が抱いた唯一の思いだった。


           

 





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