西の空に浮かんでいる太陽を見て、三露は肌が粟立つのを感じた。
もう日暮れまであまり時間がなかった。一刻も早く連れ去られた術者達を見つけださなければならない。そして三露自身は、早く結界の中に入らなければ。新月の夜は身体に宿った総帥の影響力が弱まり、それを好機とばかりに鬼が現れるのだ。
「本当にこちらであってるんだろうな」
三露は疑わしげに呟いてみるが、前を行く黒猫の足取りは迷うことなく住宅街を進んでいく。小走りに駆ける三露の隣で、虚誠までもが、大丈夫ですよと猫を弁護するように言った。
「この道を抜けるとケシ川へ出ます。神隠し噂の元となった川です」
「あってるなら良いけど……」
三露と虚誠は並んで、黒猫の示すままに小松の地を走っていた。三露は仲間を見つけて助けるため、そして虚誠は妹と決着をつけるのだと言った。
「あの子のしたことは私の責任です」
そう語る虚誠の表情は沈痛ですらあった。これが呪われた血筋と恐れられた乙羽の当代か、と三露が思わず目を見張るほどに、弱々しかった。
「妹は―――ミノリは、乙羽の神隠しの犠牲者なんです」
乙羽実。虚誠と双子で産まれたという実は、産まれた瞬間から存在を消されたのだという。
「彼女は私を妬んでいました。そして乙羽を憎んでいた。当然のことでしょう」
力の強い者に当代を継がせるため、力の弱い者の存在を抹殺していくという乙羽の神隠し。
虚誠の話を聞きながら、三露はつい自分だったら、と置き換えてしまう。自分だったら、もし力が弱いからと言って認めてもらえず、存在を揉み消されたらどうだろうか。いくら考えてみたところで机上の空論にしか過ぎないが、それでも、
「―――やるせないな」
と、思った。三露であってもそのような扱いをうければ、自分の産まれた家系を憎み、どうしてこんな家に産まれたのかと呪うだろう。三露が告げると、虚誠はわずかに顎を引きながら、妹もそうだったと言った。
「乙羽が許せなかったのでしょう。彼女は乙羽の血筋の者を次々に殺していった。父も自分を産んだ母も、乙羽と呼ばれる者は皆…。術を使うから証拠など残らない」
虚誠の渇いた声に、三露は思わず足を止めてしまっていた。背筋を冷たい汗が流れ落ちる。知らぬうちに住宅の外壁へ片手をあずけていた。いま、虚誠は何と言った。
「殺す?」
自ら口にした途端、言葉がいっそう生々しさを増す。次々に殺すなど有り得ることだろうか。疑わしく思う一方で、今まで神隠しだの消えるだのと言って目を逸らしていた現実を突きつけられた気がした。そんなに差し迫った状況にいるのか。
「しかし虚誠、あなたは無事じゃないか。なぜあなただけ、」
「生きるほうが苦痛になることも有り得る、そういうことです」
虚誠は住宅の外壁に身体をあずけている三露を、静かな瞳で見据えていた。斜陽が射して虚の顔を赤く染め抜く。逆光で見る顔は、悟りきったようにも穏やかにも、疲れ果てているようにも見えた。
「私は何年もの間、他人とろくに接触しなかった。ただ無為に時間を過ごし、死ぬことだけを待っていた。私の妹がそう望んだんです。私を孤独にすることが彼女の復讐だったのでしょう」
虚誠はごく静かに語る。しかし三露には長年の孤独というものが理解できなかった。それが原因で虚誠は死人のように感情を凍らせてしまっていたのだろうか。同じような孤独を味わった虚誠の妹・実も同様に心が凍っているのかもしれない。あるいは何か他のところが狂っているのかもしれない。
「ずっと一人だった私のところに、突然誰かが訪ねてきた。術者を探していると言って……」
「武政ですか」
完全に足を止めた三露と虚誠から少し離れた場所に、黒猫が佇んでいる。その黒猫が三露の声に反応し、ピンと尻尾を立てた。
「ええ、そうです。私が他人と関わることは、妹にとって許せないことだったのでしょう。おそらくそれで、彼は……。あなたの仲間を攫っていったのも、あてつけのつもりでしょう」
あてつけ、と三露は小さく呟く。そんな下らない理由で仲間を攫うなど断じて許せない。
しかしあの武政が、乙羽の血筋とはいえ女性一人に簡単に連れ去られてしまうだろうか。わざと捕まるならばまだしも、あっさり捕縛されるとは考えにくい。手掛かりとして黒猫という案内役を置いていってはくれたものの、あの武政のことだから他に何か考えがあるのではないか。
だいたい、武政はなぜ危険視されている乙羽の一族に、わざわざ近づいたのだろう。
「武政がやって来た時、彼がどんなことを言っていたか教えてもらえませんか?」
訊ねると、虚誠はわずかに目を細めた。
「力を貸して欲しい、と仰っていましたよ。術者を探しているのだと。『総帥』に対抗するために、力が必要なのだ……と」
三露は虚誠の言葉が全て終わるのを待たず、思い切り眉間に皺を寄せて黒猫を睨みつけていた。知らずのうちに声が固くなる。
「……そうなのか、武政?」
三露は喉の奥から絞り出し、離れた場所に佇んでいる黒猫に問いかけた。虚誠が驚いたように瞬く。
黒猫はぎらりと光る瞳で三露を見返し、みゃあ、と一声鳴いた。それが猫にとっての肯定なのか否定なのか、三露には到底見当がつかなかった。その声が猫が発したものか、それとも武政の意志によるものなのかさえも。
「動物を操る能力、と聞いてるけど。君は僕達と離れた場所にいて、僕達の状況が見えてないだろう。それなのに猫に道案内をさせてる。……猫を自分のところまで導いてるのか? それとも他の能力?」
武政が動物を遠隔操作できることは知っている。しかし、見えない範囲の動物をどうやって操るというのか。ラジコンと同じく、操る本体が見えなければ障害物に当たってしまうだろう。
しかし黒猫は壁にぶつかることもなく、すいすいと移動している。操ることが出来るというのはラジコンのように操作するのではなく、コンピュータにプログラムを組み込むような類なのだろうか。この場合、所定の場所の三露たちを導くようにプログラムされているのかもしれない。それとも他の仕掛けがあるのかもしれない。
「……たとえば君自身がその猫に乗り移るとか。どちらにせよ僕を欺いたね」
能力詐称か、と三露は黒猫を睨む。しかしどれほど追求しようとも、相手が猫なだけに弁解するはずも、反省するはずもなかった。ツンとすました表情でアスファルトに座っている。少なくとも三露の目にはそう映った。
「君が術者を探していたのは、僕に対抗するため…?」
確かに新しい術者を探してほしいと武政に依頼をした。しかし武政は三露の依頼とは関係なく、三露に対抗する手段として集めていたというのか。
いくら問いかけてみたところで猫が何を答えるはずもない。三露の声はむなしく響くのみだった。虚誠は口を噤んだまま、三露と黒猫とをじっと見つめている。
一刻も早く走り出すべきなのだろう。捕らわれている術者達を助けなければならない。しかし、武政が裏切ったのかもしれないと知り、三露は少なからず動揺していた。武政の猫に案内されるままに進んで良いのだろうか。
武政が裏切ったのなら、猫に導かれる先には罠があるかもしれない。それを言うならば術者が一斉に消えてしまったこと自体が、武政の仕組んだことではないかとさえ思えてくる。武政と、虚誠の妹である実とが共謀しているのではないか、と。疑い出せばきりがなかった。
「悪いが、私は行きますよ」
静かな声がする。顔を上げると、虚誠が黒猫について路地を進んでいくところだった。
「あなた方にどんな事情があるかは知りませんが、私は行きます。実を放ってはおけない」
虚誠は決意の滲むはっきりとした口調で言って、三露に背を向けた。黒猫が先導に立ち、三露からどんどん遠ざかっていく。三露はどうすれば良いのかわからないまま、小さくなっていく背中を見送っていた。


頭に鈍い衝撃を受け、意識を無理矢理ひきずられる嫌な感触がした。半ば強引に覚醒させられた武政は、うっすらと目蓋を開いた。目の前には相変わらず薄暗い牢獄が広がっている。
「お目覚めだね」
喜色を含んだ声がして、武政は顔を上げた。岩壁に寄りかかって座る武政の前に、誰かが仁王立ちになっていた。薄暗いせいか表情はよく見えないが、鮮やかな金髪はじゅうぶんに確認できる。三露、と喉元までせり上がってきた声を、武政は苦心して呑み込んだ。
「お前、誰だ?」
武政は男を見上げながら問いかける。三露は―――三露の形をした何かは、武政の質問に呆れたように苦笑混じりの嘆息を零した。
「そうか、君は外を覗いてたんだね?」
困った子だ、と男は手のひらを武政の前にかざした。得体の知れない不気味さを感じ武政はとっさに身を引いたが、背後が岩壁とあっては大した距離もとれない。男の指先が武政の眼前をかすめると、頭の中身に直接触れられたような不快感に襲われた。意識が朦朧とする。
くそ、と武政は奥歯を噛んだ。まだ完全に身体に意識が定着していないせいだ。つい先程まで、武政の意識は離れた場所にいた。黒猫に乗り移り、金色の瞳を通した光景を見つめていた。それを己の意志ではなく、無理に本体へと戻されたせいで、まだ身体と意識とが上手く噛み合っていないようだ。
「結界が効かなかった……いや違うな、君の能力は結界の外で働くものだから、結界の影響を受けなかったのか」
男が一人で納得して小さく頷いている。しかし武政にとってそんな考察はどうでもいいのだ。目の前にいる男が一体何者なのか、そして何を目的にしているのかが最も重要だった。
「お前、三露じゃないだろう。俺達を欺いて、何が目的だ」
武政の視界の中、男の肩越しに他の術者が見える。ミサや、蓮や、忍、皆が驚いて一斉に息を呑むのがわかった。
「三露じゃない?」
ミサが上擦った声で呟く。疑わしそうな響きが込められているのも仕方がない。目の前の男はどう見ても三露にしか見えなかった。しかし武政は、つい先程まで黒猫に意識を移して三露を見ていたのだ。その時の三露と、目の前の三露。同じ姿形をした人間が同時に二所に存在している。信じがたいことだったが、確かだった。
そしていま目の前にいる三露のほうが偽物だと、武政は断言できる。武政の知っている三露は、目の前で薄笑いを浮かべているこの男ではない。猫の目を通して見た、術者達を助けるために必死に走っていた男こそが三露だ、と武政は断言することができた。
「三露の偽物、だな。何が目的でそんな悪趣味な顔に化けたのかは知らないが」
皮肉を交えて言ってやると、偽物の目がすうっと細くなった。笑ったようだったが、武政には不気味な顔にしか映らなかった。少なくとも三露はこんな笑い方などしないだろう。相手を侮蔑するような、嘲笑するような、それでいて表面的には優しさを装った笑顔だった。
「あーあ、余計なことを言ってくれる。みんな僕のことを"三露"だと信じていたのに。やはり君も殺してしまうべきだったね」
偽物の手が音も立てずに武政に向かって伸ばされる。今度は武政の身体もまともに動き、冷たい石床を転がってその手を逃れることができた。起きあがりざまに立ち上がり、武政は偽物を睨み付ける。
「……”も”?」
「あぁ、君は僕の話を聞いてなかったんだね。意識がなかったから。じゃあもう一度教えてあげようか」
偽物を見据えながら、ふと視界の端に明るい色が引っかかるのを武政は感じた。目線は偽物から逸らさないまま明るい色のほうへ意識をやると、それは床に這いつくばった銀髪だった。真田が、うつぶせになって床に倒れている。傍らにミサが心配そうにかがみ込んでいた。
そういえば真田が連れ去られるのを、猫の目を通して見た。やはり真田もここに運ばれてきたのか、と思考を巡らせていた武政は、次の瞬間には完全に思考を奪われていた。
「死んだよ。君の幼なじみ」
「……、」
咄嗟には意味が理解できなかった。幼なじみとは一体誰のことだ? と悪態を吐こうとしたが、上手く声が出せなかった。悪態どころか武政にはわからない、一体誰のことを言っているのだろうか。
不意に、床に伏せていた真田がのろのろとした動作で顔を上げた。
「嘘、言うな……死んでない」
「君も懲りないな、まだ理解できないか?」
偽物が肩をすくめ、倒れている真田の方へ向き直る。真田は身体を震わせながら起きあがり、手の甲で口元を拭った。よく見ると顔や身体が血で汚れている。それも今溢れたばかりの鮮血の色をしていた。
真田の傍にいたミサが、真田をかばうように立ちふさがって偽物を睨み付けた。唇を硬く噛み締めている。
「……あなたが三露のはずがないわ。三露は、真田にこんなことしない」
ミサの震える声が岩壁の内側で反響する。
「ジョージを殺したりなんて、絶対しないもの!」
その言葉は鈍い衝撃となって武政を襲った。喉の奥で空気が塊となってつっかえる。殺した。単語の意味が上手く頭に浸透しなかった。殺した、一乗寺が死んだ。
「……殺したのか」
ようやく口に出せたのは、たったそれだけの言葉だった。しかし偽物は嬉しそうな反応を見せた。そうだよ、と弾んだ声がする。
「僕は君の御察しの通り、"あの"三露じゃあない。ずぅっと閉じこめられていたんだよ、今の君達みたいにねえ」
偽物は真田の方へ向けていた身体を再び武政の方へ戻すと、首を傾けて武政の顔を覗き込むような格好をした。と言っても互いの間には五、六メートルほどの距離がある。しかし武政は、偽物の目を間近で見たような気がしてぎくりと身体をすくめた。偽物はそのまま瞳を閉じる。
「君も知ってるだろ? 見渡す限り真っ白な、気が狂いそうな世界だよ。死の世界、閉じた世界、封印の世界……」
まるで美しい光景を物語るようなうっとりした口調で、偽物は詠うように語った。しかしただ白い闇の続いている世界が美しいはずなどない。武政はそのことを知っている。武政は偽物の語る世界に心当たりがあった。
あれは"死んだ"一乗寺を連れ戻す時だったか。琥珀を入り口として、武政もその世界に一度だけ入り込んだことがある。
「彼も、君も、その世界に突然入り込んできて、突然帰っていった。僕は出たくても出られないのにね。悔しかったよ、だから殺してやろうって思ってたんだ」
偽物がニタリと笑う。武政は唐突に思い出した。あの白い封印された世界の中で、確か自分は三露を見たのではなかったか。それをきっかけに武政は三露に警戒を抱くようになったのだ。
しかしそれが裏目に出てしまった。警戒すべきは"本物の"三露ではなく、封印された偽物の方だったのだ。
「僕のこと思い出してくれたのかな」
偽物は悠然と腕を組んで首を傾げる。
「あの時とは髪の色が違うから、思い出すのに時間がかかったかな? これは"あの"三露に似せたのだけれど」
金髪を指に巻き付けている偽物を見据えながら、武政は胸のうちがだんだんと冷たく凝っていくのを感じていた。そんなことはどうだっていいのだ。
「どうしてあの世界から出てきたんだ」
「何を今更、君達のおかげじゃないか。君達があの世界の入り口を緩めてくれたおかげで、僕は抜け出すことが出来たんだよ。感謝してる」
そんなことも、どうだっていい。
「どうして久幸を殺したんだ、」
「……ほんとうに聞き分けの悪い奴等だな」
偽物はため息を吐き、呆れ返ったような半眼で武政を見た。見下ろす、というのが正しいかもしれない。立つ位置の高低差ではなく、立場として上から物を見下ろす視線だった。蔑むような視線を残し、偽物はくるりと背を向ける。
「僕はもう飽きたよ。君達の物わかりの悪さにはうんざりした」
そう言い残すと、石壁の隙間の細い通路に偽物は姿を消してしまった。
武政の胸の奥には冷たい塊が凝ったまま残っていた。それは怒りとも悲しみともつかない不思議な感情だった。あるいは裏切られたような失望だった。


どれくらい佇んでいただろうか。とても長い時間のように思えたが、実際はものすごく短かったのかもしれない。というのも、顔を上げた三露が目にした空は先程と変わらぬ赤色をしていたからだ。まだ日は暮れていない。
そして三露は、顔を上げる原因となった"もの"を探すためにゆっくりと首を巡らせた。少し離れたところに黒猫がいた。
「……戻ってきたのか」
立ち尽くしてしまった三露を置いて猫と虚誠は行ってしまったはずだ。しかし案内役である黒猫はどうやら駆け戻ってきたらしい。再び顔を伏せようとする三露に向かって、黒猫は先程と同じように猛烈な勢いで体当たりをした。
「武政、ふざけるなよ。君が裏切ろうと勝手だけれど……」
言いかけて、三露は口を噤んだ。猫の金色の瞳が、水を張った水面のように潤んで見えたせいだ。猫って涙を零すのだっけ、と思いかけ、そんなはずはないとすぐさま我に返った。動物は生理的な現象はともかく、感情によって涙を流すことなんてない。
しかし三露には何故か黒猫が泣いているように見えたのだ。悲しそうに見えた。もちろん猫の表情などわかるはずもないから、三露の勘違いかもしれない。
それでも何となく胸に引っかかるものがあり、三露は黒猫を―――武政を無視することができなかった。三露が身体を起こすのを見ると、武政は戻ってきた時と同じく勢い良く走り出した。小さな水滴が散ったような気がしたが、それは三露の気のせいなのかもしれない。


* * * *


三露は走りながら考えていた。頭の中は混乱していたが、頭の芯は冷たくさめざめとしている気がした。もしかしたら色々なことを考えすぎて、思考が飽和状態になってしまったのかもしれない。走りながら三露が感じているのは、肌にまとわりつく夏特有の生温い空気や、自分の呼吸の音や、視界に映る鮮やかな夕暮れだけだった。相変わらず黒猫は路地を駆け抜けてゆく。
三露はその黒猫のことを、きっと武政だと確信していた。根拠はどこにもない。しかし、猫がここまで必死に、真剣に、自分をどこかへ導こうとしているのには明確な理由があるのだろう。その理由は何であれ、三露はついていかないわけにはいかなかった。立ち止まることを猫は許さないに違いないし、三露自身も立ち止まってあれこれと考えるよりは、こうして走っているほうが気がまぎれた。
導かれる先には何があるのだろう。武政はそこにいるのだろうか。連れ去られた他の術者や連れ去った虚誠の妹、そして虚誠もそこにいるのだろうか。一体誰が三露の味方で、誰が敵なのか。武政は何が理由で三露を裏切る、もしくは裏切ろうとしなければならなかったのか。
頭の中で色々なことを考え、しかし思考が飽和し、いまや三露はただ一心に走っていた。荒い息づかいだけが空気を震わせている。
初めは住宅街の路地を縫うように走っていたが、気がつくと建物の姿はまばらになってきていた。日が暮れかかっているせいか、肌に絡む熱気がましになった気がする。しかし三露はすぐに、それが日暮れのせいだけではないことに気が付いた。涼しげで軽やかな音が聞こえてくる。
やがて三露は堤防沿いの道に出た。コンクリートで盛り上げられた堤防には柵が張られていて、眼下に河原と川が見える。離れたところから見ても川の流れは速い。ごつごつとした岩が水面から覗き、複雑な水流を形づくっていた。河原は拳ほどの大きさの白い石で覆われている。対岸は天然の堤防として岩壁が切り立っている。
黒猫は堤防の上に張られている柵をひょいとくぐりぬけると、河原へと降りていってしまった。三露も慌てて追いかけようとするが、降りられそうな場所がない。もともと人間が降りることは想定されていないのだろう、階段らしきものが全く見あたらなかった。高低差は五、六メートルほどあるだろうか。飛び降りられるような高さではない。
柵に両手をかけ、三露は身を乗り出すようにして河原を見下ろした。白い石がごろごろ転がる河原に黒猫の姿を見つけることは容易だった。ぴんと尻尾を立て、川の上流の方をじっと見つめている。三露もつられて首をひねると、河原に人影が見えた。表情までは伺えないが、その黒髪は間違いなく虚誠だ。
「虚誠!」
呼びかけても虚誠は反応を見せなかった。よくよく見ると虚誠と対峙している人影がある。背中まで長く垂れる髪にほっそりとした身体、後ろ姿でよくは見えないが、おそらく実だ。互いにぴくりとも動かず、向き合ったまま静止している。
実がここにいるということは、連れて行かれた術者も近くにいるはずだ。三露は柵から乗り出した身をさらに前のめりにして、河原の様子を見ようとした。
その瞬間、三露は驚愕に目を見張っていた。
「……え?」
思わず自分の目を疑う。川の流れるざあざあという音が遠ざかり、全身から力が抜けた。嘘だ、と呟いたが自分の声ですら聞こえない。三露の意識は河原の一点のみに注がれていた。
柵の上にのせた手から力が抜け、がくんと肘が折れる。三露の身体は支えを失って宙へと放り出されていた。奇妙な浮遊感に身体が包まれる。
落ちる。そう認識できたのは身体が完全に落下し始めてからだった。
視界が反転する。耳元を風が切る。受け身を取る余裕もなく、投げ出された格好のまま三露は落下していった。やがて来る衝撃を覚悟して三露はきつく目を瞑った。
だが、いつまで待っても衝撃はなかった。三露は硬く閉じた瞼をそろりと押し上げるが、そこには何も見えなかった。瞼を閉じていた時と同じく、黒い暗幕が広がっているだけだ。
「……総帥」
暗幕が振動する。
三露が指先を動かすと、冷たいざらざらした何かに触れた。手をついて身体を起こすと、手のひらの下にあるのは拳ほどの大きさをした白い石だった。やはり河原へと落下したのだ。しかし衝撃はなかった。戸惑いながら三露は視線を上げる。
「総帥、ご無事ですか」
視界を覆っていたのは暗幕ではなかった。真っ黒な着物だった。
「お怪我はありませんか」
「……影」
三露の身体は影に抱き留められていた。半ば押しつぶすような形で影を下敷きにしていた。
まさか影に助けられるなど予想していなかった三露は、言葉も無くし呆然とする。影には果京へ戻れと命令したはずだ。それも手酷い言葉で。相手を傷つけるための言葉で。
「どうして戻ってきた……」
悪意の込もった言葉を投げつけられたのに、どうして影は自分のところへ戻ってくるのだろうか。いい加減見切りをつければいいものを、どうして馬鹿みたいについてくるのだろう。身を犠牲にしてまで三露を助けようとするのだろう。
「影は一度果京へ戻りました。総帥のご命令には逆らっておりません」
命令違反を責められたとでも思ったのか、影は弁解するように言う。三露は河原の石の上に膝をつきながら、横たわった影の胸ぐらを掴んだ。
「そんなことを言ってるんじゃない! お前はどうして、そうまでして……」
「影は総帥にお仕えするものですから」
影が口角を緩める。一瞬よぎっただけの影の笑顔は、それでも三露の目に強く焼き付いた。影の笑顔など初めて見た。もしかしたらずっと前に見たことがあるのかもしれないが、そうだとしても思い出せなかった。影は三露に笑顔を見せなかったし、三露だって影に笑顔を見せなかった。
信じられない光景を目にしたときのように、三露は目を見開く。しかし影の笑顔が向けられる先はあくまでも"総帥"だと思い至った。自分ではない。
「僕にはお前に守って貰う資格などない。僕は、総帥なんて器じゃないんだ……」
三露はぐっと唇を噛み締め、影から目を逸らして俯いた。と、不意に背後で石を踏む音が聞こえた。
「まったく、その通りだね。よくわかっているじゃないか?」
抑揚のある声が響く。三露は勢い良く背後を振り返った。
そうだ、忘れていた。柵から落ちる原因となったもの、有り得ないもの。喉の奥が震え、身体が急速に冷えていった。
まるで鏡だ、と三露は思った。目の前にいたのは自分自身だったのだ。


世界には自分に似た人が三人いる、という話を聞いたことがある。中学の時、誰かが戯れに言っていたことだ。三露はぼんやりとそんなことを思い出していた。
しかし自分には関係ない話だな、と三露はそんな話を真にも受けなかった。両親は既に死んでしまい、肉親らしい肉親といえば祖母しかいない。兄弟もいない。血の繋がった家族がいない三露には、「似ている」人間などいなかった。お父さんによく似ているのねえ、というよく耳にする決まり文句に憧れさえした。
しかし目の前にいるのは「似ている」レベルではない。鏡で映したのかと思うほど、三露と同じ顔をしていた。夢か幻でなければ説明のつかない光景だった。
しかし夢でも幻でもなく目の前の"それ"は三露の前にいる。にっこりと、優しげな笑顔を浮かべていた。
「わかってるなら話がはやいね。君の宿してる総帥を、僕に渡してくれないか?」
自分にそっくりな姿をしたその男は、広げた右手をすっと三露のほうへ差し出した。白い指が三露の顔の前に突きつけられる。三露は地面に膝をついたまま、男をじっと凝視した。
一体何者なのかも、その目的も、全くわからない。どうして自分と同じ姿をした人間がいるのだ。三露は混乱したまま、それでもしっかりと背後に影をかばいながら男を見据えていた。その脇から離れた場所にいる虚誠の姿が見える。
三露の意識が虚誠にそれた一瞬、男は更に笑みを深くした。三露へと差し出した手をおさめながら、くるりと背後を仰ぐ。
「あの二人が気になる?」
「………」
「あの二人は僕達の関係に似ているものね。実が虚誠を憎むように、僕も君を憎んでいる」
「憎む?」
三露は問い返した。自然に口から洩れた疑問だった。
「悪いが、心当たりがない。君の存在自体、心当たりがないんだが」
そう返しながら、一方で三露は必死に頭を回転させていた。実と虚誠の関係、と男は言った。つまり兄弟ということだろうか。男は三露のせいで存在を抹殺されて、そのせいで三露を憎んでいるのだろうか。実と虚誠の関係にあてはめると、そうなる。
「僕は一人っ子だと、そう思っていたけれど……」
まさか自分が知らないだけで兄弟がいたのか。三露が眉を寄せると、男は声を出して笑いはじめた。可笑しくて仕方がないといった様子で、片手で額を抑えている。
尋常じゃない。男は顔も声も三露と瓜二つだったが、少なくとも自分はこんな笑い方はしない。自分と同じ姿をしているのに、三露にはその男がたまらなく気味が悪く見えた。頭の中で警鐘が鳴る。
男はひとしきり笑うと、腹を押さえながら身体を曲げて三露に顔を近づけた。
「もちろん君は一人っ子だ。二人も三人も子供がいてたまるものか」
にい、と男が口角を上げる。目の前で裂けた唇は血のように赤い。三露は身体を仰け反らせて離れようとしたが、三露が離れたぶんだけ男は近づいてきた。鼻がつきそうなくらい近くに男の顔がある。
「よく見ろよ、わからないのか? 自分の父親の顔がわからないなんて、薄情な息子だな」
三露は男の目を、黒い目の中に映る自分の顔を見つめた。瓜二つだ。まるで鏡に映したように、まるで血の繋がっているように。
「……父親?」
自分の声がどこか遠くから響いてきたかのように聞こえる。まるで実感のこもらない言葉だった。だって信じられるわけがない、突然現れた自分の分身のような男が、実は父親だなんて。
三露が何も言えずにいると、男が至近距離のまま顔をうつむけた。三露の首筋に顔をうずめるような形になる。
「こんな姿だから、信じられないのも無理はないか。僕はずっと封印されてたからね。その間少しずつ力を奪われ、僕の身体は"逆行"した。最後には赤ん坊になって消えてしまうってわけだ。酷い封印だろ?」
どくん、と三露の心臓が脈打った。封印と聞いて頭によぎるものがあった。千切れてばらばらになった白い和紙、砕かれた五芒星の石礫。無惨に打ち壊された結界と、赤黒い血で染まった死体が三露の脳内にフラッシュバックする。
「……離れの洞窟の、封印」
それだけ言うのがやっとだった。あの薄暗い洞窟に横たわっていた婆様の死体のことを思いだし、三露の鼓動は早鐘のようになる。あそこに封印されていたのがこの男―――父親だったのか。そしておそらく婆様を殺したのも。
「どうして婆様を、」
「どうして、だって?」
男は三露の首筋にぴったり頭を押しつけたまま、今度は右手のひらを三露の胸板にあてた。力を込めて押され、三露は身体のバランスを崩す。河原の石の上へ仰向けに押さえ込まれてしまった。ごつごつとした石が背骨を打ち、三露の息が一瞬止まる。
「どうしてって、僕が聞きたいよ。どうして僕じゃ駄目だったのか、君なんかじゃないと駄目だったのか。どうして僕があんな老いぼれの婆に封印されなきゃならなかったのか」
男が声を発すると、振動が三露の身体にも伝わった。矢継ぎ早に告げられたそれらの言葉は、三露の身体を荒々しく揺さぶる。
この男はやはり"抹殺された"存在だったのだ。三露は総帥を宿す器となったが、父親であるこの男はなれなかった。そして婆様に封印されたのだ。しかし器となれなかったからといって、なぜ封印までする必要があるのだろうか。
そんな三露の疑問はすぐに解決された。男は尚も三露の身体を振動させながら喋り続ける。
「僕は君が憎くて仕方なかった、だから殺そうとしたんだ。失敗して、逆に僕が封印されてしまったけれどね。でも、二度目は失敗しない」
男の左手が三露の腰を探っている。三露が気がついた時にはもう遅かった。パチン、と音がして男の手が高く振り上げられる。西日の赤い光が手元でキラリと光った。三露が携帯している折り畳みのナイフがその手に握られていた。
「今度はちゃんと死んでおくれ。総帥を譲ってくれよ、僕の可愛い息子」
抵抗する間もなくナイフが三露を襲う。ぶつりと音がして喉元が裂けた。視界を染めた一面の赤は吹き出した血か、それとも遠い西の空の色だったか。



           

 





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