カリカリと響く小さな音に、真田は無言で顔を上げた。途端、身体中にきしむような痛みが走る。思わず床に膝をつき、手のひらで痛む箇所を押さえた。頬や腕や服の布地には血がこびりついている。そこらじゅうに傷と打撲があったが、薄暗い洞穴内では傷の具合を確認することもままならなかった。
真田は痛みをこらえながら、音の出所を探ろうときょろきょろと見回す。岩壁に囲まれたがらんと広い広場には、真田をあわせて五人の人間がいた。真田とミサ、忍、蓮、それに武政。冷たい岩壁にもたれかかり、膝を抱えたり腕組みをしたりめいめいの姿勢をとりながらも、みな一様に俯いて黙りこくっていた。
重い沈黙だった。さっきからどれほどの間、こうして黙りこくっているだろうか。三露にそっくりな男がやってきて無造作に告げた言葉は、みなにとって衝撃的すぎた。とくに真田にとっては、言葉を失ってしまうほどの衝撃だった。
京に続いて一乗寺まで死んでしまうなんて。
一体なにが起こっているのだろう。周囲の状況の流れがあまりにも速すぎて、真田にはうまく理解することができない。ただわかるのは、自分が今ひんやりとした岩屋に為すすべもなく閉じ込められているということだけだ。
沈黙の立ち込めていた洞穴内に、カリカリという小さな音が響いている。真田が見つけたのは小さな猫だった。出入り口である岩壁の切れ目から顔をのぞかせている。そこには真田たちを閉じ込めるための結界が張られているはずで、猫もそれ以上中へ入ることが出来ずにいるようだった。前足でしきりに岩壁をひっかいている。
何故こんなところに猫が。不審に思いながらも真田は立ち上がり、結界の張られた出入り口へと近づいた。しかし一定以上は進むことが出来ず、手を伸ばしても猫に触れることができない。見えない透明なガラスに阻まれているかのようだった。
「―――どけ」
背後から真田を押しのけたのは武政だった。さっきまでうずくまって沈黙していたくせに突然指図をはじめる。肩を押されよろけた真田は眉をひそめて嫌な顔をしてやったが、どうやら武政の目には入っていないようだった。小さな黒猫をジッと見つめている。
「やっと来たか」
「……やっと? ってことは、アンタがこの猫を呼んだのか?」
そういえば武政は動物を操る能力を持っているのだったか。しかしこんな猫一匹呼んでみたところで、状況が変わるものでもないだろうに。真田は怪訝な視線を武政に向けた。が、すぐにそれを訂正しなければならなかった。
武政がしゃがみこんで、ゆっくりと手を差し出す。まるでパントマイムのように、見えない壁にぴたりと手のひらを押し付けていた。そこへ猫が額をあわせる。その瞬間、キン、と澄んだ音が鼓膜の奥で鳴り響いた。グラスを叩いたときのように硬質で高い音だった。
「な……?」
真田は目をしばたたく。呆然としている真田の目の前で、黒猫は軽い身のこなしでヒョイと武政の腕へと飛び込んだ。洞穴の内部と外界との境目がなくなったのだ。
「結界を破ったのか……?」
武政が猫を使って何を行ったのかは知らない。しかし真田たちを閉じこめていた結界が破られたことは確かだった。というのも立ち上がった武政が、今まで通ることのできなかったその場所を造作なく通り抜けてしまったからだ。岩壁の裂け目から続いている細い通路へ、武政の身体が消える。
「おい、武政!」
そのまま外へ出て行こうとする武政を、真田は小走りに追いかけた。細い通路の奥からヒュウヒュウと音を立てながら風が流れてくる。この先が外へとつながっている証拠だ。細く高い音で吹き抜ける風の音は、何かの叫び声のようで不気味だった。
真田は振り返ろうともしない武政の服の裾をようやく捕まえ、勢いよく引っ張る。そしてようやく武政は大儀そうに振り返った。
「邪魔をするな。お前はここで他の奴らを見てろ。結界は解いたから悪魔を喚べるはずだ」
「アンタはどうする気だ?」
真田が問いかけると、武政の目が細められた。
「敵討ち」
その言葉に真田ははっと息を呑んだ。そういえば武政は、一乗寺が一度「死んだ」時に一乗寺の魂を連れ戻してきたのだった。それなのにいくらもしない内に、また一乗寺は「死んだ」。すべてが水の泡になってしまったのだ。
悲しいし、悔しい。しかしそれ以上に武政はやりきれないに違いない。
「でも……まだ一乗寺が本当に死んだとは限らないんじゃ、」
「死んだ。久幸はもうこの世にはいない」
希望にすがろうとした真田の言葉は、武政の冷たい言葉に打ち砕かれる。何故そうまで断言できるのだ、と真田は武政を睨み上げる。確かに三露にそっくりな男はそう言ったが、それが正しいとは限らない。むしろ真田たちを動揺させるための虚言かもしれないのだ。
しかし、武政は小さく首を振る。
「久幸がいないからこんな風が吹くんだ。お前には聞こえないのか」
ヒュウ、と高く細い音が響く。真田は唇を噛みしめて足元を見つめた。一乗寺は死んだ、京も死んでしまった。こんなに理不尽なことはない。そしてもし次に誰かが死ぬのなら、きっと自分でなければいけないと思った。これ以上誰かが死んでしまってはいけない。
「待てよ!」
真田は毅然と言い放った。
「―――俺が行く」


真田は外界の眩しさに思わず目を閉じそうになった。薄暗い岩屋に慣れてしまった瞳には、夕日とはいえ日の光は辛い。太陽はほとんど沈みかけており、あたりは奇妙なほど真っ赤に塗り潰されていた。
真田は一人で洞窟を抜け出してきた。反対するかと思われた武政は、意外にもあっさりと真田が偵察に行くことを認めたのだった。かわりに武政は洞窟に残ってみなを守るという。ひどく憔悴した表情をしていた。ひょっとすると結界を破るのに力をほとんど使ってしまったのかもしれない。
真田は用心しながらあたりを見渡した。三露にそっくりなあの男がどこに潜んでいるかわからない。
洞窟は川に沿ってそり立つ岩壁にあった。見ると川と河原が長く長く続いている。河原には白っぽい拳大の石が転がっており、所々にごつごつとした大きな岩の姿もある。
そんな河原の一角に黒い人影が見えた。黒髪の白い着物を着た男だ。人一人ぶんほどの大きな荷物を抱えている。
「げっ……」
真田は自分でも知らずの内にうめき声を漏らしていた。男が抱えているのは荷物ではなく、人そのものだった。確か小松の寺で目にした女だ。真田をここへと連れ去った犯人。
真田がゴクリと喉を鳴らし身じろぎすると、足元の小石が音を立てて転がった。小さな音だったが男の注意を引きつけるには十分だった。真田に気がついたその男は、女を抱えたままゆっくりとこちらへ向かって歩いてくる。
はじめは三露にそっくりなあの男かと思ったが、違った。まるで生気のない顔をした気味の悪い男だった。この男も寺にいた男だ。
「どうしてアンタがこんなところに?」
真田が言うと、男も真田のことを思い出したらしい。真田と数歩の距離をとって立ち止まり、あぁ、と小さく呟いた。
「あなたは確か、実に連れて行かれた……」
「ミノリ?」
真田が眉をひそめると、男は自分の腕に抱いている女を見下ろした。この女の名前のようだった。あの時は真田をいとも簡単に連れ去った実だったが、今は意識を失っているらしくグッタリしている。この男の仕業だろうか。一体この男は何者なのだろう。敵か、味方かさえわからない。
唇を引き結んだまま真田は沈黙していた。すると男は実の身体をそっと河原へと横たえた。壊れ物でも扱うような優しい手つきだ。この男と実とは仲間同士か―――真田は警戒して身を固くする。
しかし男は真田の存在など全く意に介さず、女の傍らに静かに腰を下ろした。
「あなたは三露の友達ですよね」
「え?」
突然問われ、真田はとまどいながらもなんとか首を縦に振った。すると男は小さく笑う。
「では伝えて下さい。乙羽実は、兄である乙羽虚誠が確かに討ち取った、と」
虚誠はゆったりとした手つきで片手を実の身体の上へとのせた。もう片方の手を顔の前へ立てると、低い声で何かを呟き始めた。
抑揚のない歌のような、何かの詩のような、真田には理解できない言葉が紡がれていく。おそらくそれは力を持った言葉であり、呪文なのだろう。大気中に虚誠の声が響き渡るにつれて、あたりが少しずつ明るくなっていった。いや、虚誠と実との身体が淡く発光しているのだ。
真田が呆然と見守る中、二人の身体が光となって空中に溶け出していく。大小の光の粒となり、水泡のように浮き上がって空へと吸い込まれていく。まばゆい光に包まれながら、真田はふと虚誠が笑ったような気がした。穏やかな笑顔だった。
「これでやっと、乙羽の血が終わる―――」
真田は一言も発することができないまま、黙って二人が消えていくさまを見守っていた。やがてすべてが光の粒になり、最後の一粒が空へと吸い込まれたとき、西の水平線へと太陽が沈んだ。


* * * *


視界を覆っている赤い色が、稜線の向こう側へと押し込められてゆく。
空が急速に暗くなってゆくのを、三露はただ見つめていた。身体は全く動かなかった。喉元を深く裂かれ、吸い込む息がそこから漏れだしていくような気がした。
不思議と痛みは感じなかった。ただ太い管が切れるブツリという音が聞こえ、身体から力が抜けてゆくのがわかった。深く切り裂かれた傷口には、三露の上にのしかかっている父親の手が添えられていた。
傷口を押さえるその手のひらは、三露から全てのものを奪い取ろうとしている。血液や生命力、そして意識までもが傷口を漏れ伝って父親に吸収されてゆく。三露の身体に宿っている「総帥」も、傷口から吸い出され父親に奪い取られた。
「確かに受け取ったよ、すばらしい力だ」
父親は三露を見下ろしながら、やや上気した表情で笑顔を浮かべた。
「ありがとう、最初で最後の親孝行だね」
はは、と乾いた笑い声が聞こえる。身体中の力を奪われてしまった三露は、ぼんやりとその声を聞いていた。
これが親孝行になるのだろうか。別にわざわざ喉を裂いて奪わなくても、頼まれればいくらでも渡したのに。もとより自分が望んだ力ではなかった。こんな力などいらなかった。両親の記憶がない三露は、父親に優しくされることのほうがよほど嬉しいのに。
悔しくて悲しくて、まぶたがじんわりと熱くなった。喉の傷よりも目頭の奥が痛む。視界がかすみ、そのせいか父親の表情がうまく見えなくなってしまった。太陽が沈んでしまい日の光がなくなったせいもあるだろう。
「総帥!」
突然、空気を切り裂く鋭い叫び声が聞こえた。影の声だ。先ほど河原へ落下したときに三露をかばって気を失っていたが、すぐに持ち直したらしい。
総帥、と影が呼ぶ。しかし影が呼んでいるのは自分か、それとも父親の方だろうか。三露が宿していた"総帥"は父親に奪われてしまったのだ。ならば影ももはや三露に仕えるのではない。
そんなことを考えていると、もう一度影の緊迫した声がした。
「お逃げ下さい、総帥! 夜が来ます―――鬼が!」
三露ははっと目を開いた。そうだ、今宵は新月。日が沈み夜になると、鬼がやってくる日だ。しかし三露にはすでに逃げるだけの力はなく、父親の手で押さえつけられたままぐったりと横たわることしかできない。相変わらず喉の傷の痛みは感じない。ただひゅうひゅうと空気の漏れる音が聞こえるだけだ。
やがて三露の首を押さえつけている父親の手が鬼の手へとかわり、あたりに濃密な闇が降りはじめた。自分にそっくりな父親の顔が、ニタリと大きく歪められた。今までずっと自分の身体に宿っていたものを、三露は初めて目にした。鬼は鋭利な刃物のような目つきで三露を見下ろしている。
父親も可哀想に、と三露は思った。せっかく"総帥"を手に入れたと思ったら、運悪く新月の日だ。鬼に身体を乗っ取られるなど思っても見なかっただろうに。そう考えていると、鬼が三露の首を押さえつけたままグイと顔を近づけてきた。
「考え事か? 余裕だな、宿主」
「……」
別に余裕なんてない。そう答えようとして、三露はやっと不審に思い始めた。あんなに綺麗に喉を裂かれたのに、いくら経っても痛みがやってこない。呼吸も細くではあるが続いているし、意識もはっきりしている。死ぬときとはこういうものか、と思っていたが、いくらなんでもおかしくはないだろうか。
「僕は……」
ためしに声を出してみると、掠れてはいたがしっかりと声がでた。普通なら喉を裂かれれば血に噎せてしまうはずだ。
「僕はどうして生きてるんだ?」
半ば呆然としながら三露が呟くと、鬼は喉の奥を鳴らして笑った。片手は三露の首筋に添えられたままだったが、上に乗っていた身体を退けてくれた。おかげで圧迫されていた身体がずいぶんと楽になった。鬼は三露の傍らの河原へ腰を下ろしたが、それでも手だけは三露の首にぴったりと押しつけていた。
三露が鬼の手を払いのけようとすると、鬼は小さく頭を振った。
「駄目だ、これがお前の生命線だからな。俺が触れているからお前は生きていられるんだ」
鬼の言うことが三露には理解できなかった。だが鬼からは悪意も敵意も感じられない。圧倒される気配を秘めてはいるが、心地悪いものではなかった。鬼は三露をだますつもりなどないのだろうし、だます理由もない。なので鬼の言葉を信じることにして、三露は手を払いのけようとするのをやめた。
「僕の傷口をふさいでるのか? あなたの術で?」
「俺の術じゃない、この身体だ。この身体には時間を逆行する呪いがかかっているらしい」
そこで一旦言葉を句切り、鬼は三露の背中に手を添えて身体を起こし上げてくれた。その間も片方の手は三露の喉を押さえつけたままだ。三露が上半身を起こすと、鬼は皮肉気な笑みを浮かべた。
「この身体とお前の身体は波動が似ている。だがこの身体は時間を戻り、お前の身体は進む。それが触れあうから時間が止まる。わかるか?」
三露は小さく頷いた。つまり一時的な処置ということだ。鬼の手が離れればすぐさま傷口が開き、血が溢れ出すのだろう。傷がふさがったわけではないと知り三露は落胆したが、さほどの落胆ではなかった。死ぬのが怖くないわけではないが、命が欲しいのならくれてやる、という捨て鉢な思いがあった。命だろうが総帥だろうが、奪っていけばいい。三露にとって大切なものはもっと別にあるのだから。
「総帥……」
影が河原の上をゆっくりと近づいてくる。どこかに怪我でもしたのか動きが緩慢だった。しかし三露にとってはどうでもいいことだ。"総帥"を奪われた三露はもう総帥ではないのだから、影にそう呼ばれるゆえんなどない。
三露は影を視界の中に入れないために、鬼の顔をジッと見つめた。鬼は父親の身体に宿っているから、三露と同じ顔立ちと身体つきをしている。しかし目が異様に鋭い光を放ち、髪は夜空に溶ける漆黒だった。刻一刻と暗くなる辺りの空気と自然に同化していた。
「あなたは何故、僕を生かすんだ?」
率直に、心に浮かんだことを質問してみた。鬼の考えが三露にはわからない。鬼はいつも三露の中にいたが、会ったこともなければ話したこともない。考えや目論見も知らない。三露のことをどう思っているのかもわからなかった。
この鬼は総帥が封印したと聞いている。悪い鬼なので封印しようとしたが、力が強かったので総帥の意識の中に封印したのだ、と。しかし実際に目の前にしてみると、「悪い」という印象ではなかった。鬼と言っても、角があるわけでも牙があるわけでもない。ただ髪の色が変わり、目つきがかわり、力が強くなり、存在感が圧倒的になる。
それのどこに、総帥との違いがあるというのだろう。
鬼は三露を見ながら目を細めた。三露を生かそうとする理由を考えているようだった。ややあって鬼が口を開くと、低い声がそこから流れてきた。川の流れる音と混ざって三露の耳には心地の良い音楽のように聞こえてくる。今自分が死にかかっているというのに、心は落ち着いていた。鬼のおかげかもしれない。
「お前を生かすのは、そうだな、生きたままの宿主と会話を交わせるなど、滅多にないことだからな」
「生きたまま?」
「そう。俺とあの男が憑いた人間は大抵が早く死ぬ。それに普通は一度取り憑くと死ぬまで離れない。死んだら次の器を探す」
三露はぎくりとした。鬼の用いた「取り憑く」という表現がおそらくいけないのだ。鬼の言い方だとまるで、悪いものが取り憑いて人間を弱らせているようではないか。たちの悪い妖怪だとか、憑依霊だとかに対する言い草のようだ。
「あの男というのは"総帥"でしょう? あなたの話を聞いていると、総帥が悪者のように聞こえる。でも悪いけど、僕はあなたを信じられない」
「何故?」
「あなたは悪い鬼だ。そう教えられた」
「誰から?」
鬼は間髪入れずに問いかけてくる。三露は黒目だけを動かし、チラリと影を見た。そう、影が言っていたのだ。三露が"総帥"を受け継いだ時、さまざまなことを教えてくれたのが影だった。
そんな三露の視線を追って、鬼も影へ顔を向ける。
「使い魔から聞いたか。―――あの男の入れ知恵だな」
フン、と鬼が鼻を鳴らす。そして神妙な顔つきになった。
「真実を話そうか? 都合のいいことに、まだ日は暮れたばかりだ。俺はまだ表に出ていられるし、お前はまだ生きていられる」
真実、と三露は口内で呟く。そういえば三露は何も知らないのだ。総帥や鬼が何者であるのかも、何故術者組織の指導者に代々受け継がれてきたのかも、それがいつ頃から続いているのかも。
三露が頷くと、鬼は笑った。都合のいいことに、夜はまだまだ長いのだ。新月の暗闇こそが、真実を照らし出すために必要なのだった。


いつの間にか沈々とした闇が三露と鬼とを覆っていた。日中の太陽の光で暖められた河原の石も、夜の闇に少しずつ熱を吸い取られているようだった。夏の盛りだが、夜になると肌寒くなるほどに冷え込むのだ。特に小松のこの辺りは、木々が多いし川も流れているので温度の低下が著しかった。
河原に腰を下ろしていた二人だったが、もたれかかることのできる場所がいいと鬼が言うので、移動することになった。三露の首筋に手を押しつけていた鬼だったが、これでは不安定すぎる。身体が触れてさえいればどこでもいいだろう、という鬼の意見を信じて、手を繋いで移動することにした。
何が悲しくて鬼の手など握らなくてはいけないのだ、と三露は心の中で悪態を吐いたが、一方で別の気持ちもあった。鬼の身体は父親の身体なのだ。三露は今父親と手を繋いでいる。
父親の記憶など一つも持ち合わせていないが、手を繋ぐと何故か懐かしいような気分になる。今の三露と顔も背丈もそっくりな男を、父親と呼んで良いのかのかわからない。だが三露にとっての肉親であり両親であり大切な人だった。そのはずだった。
三露はさまざまな思いを胸に馳せながらも、一言も口をきかなかった。鬼も何もしゃべらなかった。ただ黙々と二人は歩いていた。
河原の背後には切り立った岩壁がある。三露と鬼はそこを目指していた。岩壁は多少硬くて心地は良くないかもしれないが、十分な背もたれにはなる。
「……あれは?」
岩壁のすぐそばには人の姿があった。はじめは暗くて誰だかわからなかったが、すぐに判別がついた。闇夜にも目立つ銀髪は、間違えようもなく真田だ。真田は岩壁と同化するようにジッと立ちつくしている。
「真田!」
呼びかけても返事がなかった。三露は背筋が急に冷たくなるのを感じた。真田は何かおかしな術でもかけられてしまったのだろうか。三露の父親か、それとも真田を連れ去った実かの手によって、動けないようにされてるのかもしれない。
思わず走り出しそうになった三露だったが、鬼が繋いだ手をきつく握ってそれを制止した。
「早まるな」
「どうして! 真田の様子がおかしいんだ、助けないと」
「お前まで"引きずられる"。助けるなら俺がやるから、お前は極力離れることだ」
鬼は口早にそう言うと、手を繋いだままとれる最大限の距離を取るため腕を伸ばした。そのまま真田へと近づいていく。三露は不振に思いながらも、腕をできるだけのばして鬼から距離をおいた。
「"引きずられる"?」
「あぁ、死者の魂が還っていくとき、色んなものを引きずっていく。こいつの魂は引きずりかけられてる」
三露は息を呑んだ。
「で、でも、死者なんてどこに? それに……」
「黙ってろ。お前はただでさえ死にかかってるんだ、うかつなことをすると魂が抜けるぞ」
一睨みされ、三露は口を噤むしかなかった。死にかかっていると言われて反論できない。今は鬼に触れてもらって生かされてるようなものなのだ。
鬼は三露が黙ったのを見届けると、呼吸を一度深く吸い込んだ。鬼の片手が高く空中にあげられる。
一瞬訪れた静寂の中、ぱん、と乾いた音が響いた。鬼の手のひらが真田の頬を勢いよく打ったのだった。小気味の良い音だったがあれは相当痛い。三露は少し同情しながら、倒れ込んだ真田を見下ろした。
真田はしばらく地面に伏したまま動かなかった。まさか魂が抜けたのかと三露はヒヤリとしたが、すぐに低い呻き声が聞こえてきた。
「もう近づいても平気?」
確認を取ると鬼が頷いたので、三露は小走りに真田の元へと駆け寄った。
「おい真田、大丈夫か? 何があった?」
「痛ェ……。アンタ、三露か?」
真田は打たれた頬を押さえながら歯を食いしばっていたが、三露の姿を見ると突然目を見開いた。正確にいうと、三露と三露の背後にいる鬼の姿を目にしたのだ。同じ顔の男が並んで、それも手まで繋いでいれば、誰だって驚くに違いない。
とりあえず三露は混乱を防ぐために先手を打つことにした。
「僕が三露だ。後ろのは鬼で、僕じゃない。わかる?」
「え……、じゃあ後ろのがニセモノの三露?」
ニセモノ、というのは父親のことを言っているのだろう。
「うん……でもその話は後だ。とにかく、君が無事でよかった」
よかった、と呟いた途端、胸の奥がじんわりと暖かくなった。安心して身体から余分な力が抜けていくような気がする。
「他のみんなは?」
訊ねた三露の声は、危うく裏返りそうになった。あわてて咳払いをしたがうまく誤魔化せたようには思えない。しかし真田は気づいているのかいないのか、気にする様子もなく答える。
「……みんな無事だ。この奥に洞窟があって、みんな、そこにいる。ミサも、武政も、忍も、伊織も」
そこで三露は、真田が異様にこわばった喋り方をするのに気がついた。それに、みんなと言いながら足りない者がいるではないか。京の名前も一乗寺の名前もそこにはない。京のことはすでに聞いているが、まさか一乗寺まで―――
「死んだ、のか」
無事ではないというのは、そういうことだ。一乗寺家の庭先で枯れた松の木を見た時点で、半ば覚悟はできていたが、それでも口の中に苦いものを噛み潰したような毒々しさが残る。
次は自分だ、と三露は心の中でひとりごちた。もう命は半分断たれかかっているのだ。そう思うと全身の毛が逆立つような恐怖が今更のように襲ってきた。
命でも何でも奪っていけばいい、と思っていた。だが、真田と会い安心してしまい、心がゆるんだのだ。仲間たちと過ごした時間が楽しかったことを思い出してしまったのだ。
「―――僕だって本当は死にたくないよ」
語尾が情けなく震える。三露の正直な気持ちだった。


三露と真田は洞窟の内部へと向かって歩きながら、お互いの身に起こったことを話していた。洞窟は細い岩の裂け目が入り口で、中も同じく細い道が続いていた。人ひとり分の幅しかなかったので、まず真田が先頭に立ち、その後に三露が続いた。もちろん鬼も手を繋いだまま後に続いていたし、影もついてきているらしかった。
三露は自分のことを淡々と語ることができた。父親が昔三露を殺そうとしたこと、しかし失敗し、逆に呪いをかけられて封印されていたこと。最近になってその封印が解け、父親は再び三露を狙った。そして目的だった"総帥"を奪い取ったのだ、と三露は真田に語って聞かせた。
そして真田の話は、三露にとってずいぶんと衝撃的だった。虚誠は実を連れて逝ってしまったのだ。
「三露にそう伝えてくれって」
虚誠は子を慈しむような穏やかな笑顔を浮かべ、実と共に逝った。真田はそのやさしげな顔に見入ってしまい、引きずられてしまいそうになったと言う。
虚誠は実のことを憎んではいなかったのかもしれない。憎まれていても憎まなかった。そして自分の魂を賭して実の魂をあの世へ送ったのだ。
死にかかっている魂でも他人を連れて逝くことはできるだろうか、と三露はぼんやり考える。
やがて洞窟の通路がやや開けている場所に出た。みなの集まっている場所はこの先だと真田は奥を指さしたが、鬼はこの場所でいいと言った。
三露は死ぬ前にみなの無事な顔を見ておきたい気もしたが、顔を見せれば何があったのだ、どういうことだと説明を求めてくるだろう。そんな余裕はないので、三露も鬼に従うことにした。通路の奥へ目を凝らしてみたが、ただ暗闇が続いているだけで何も見ることはできない。思いを振り切るように三露は力なくその場に腰を据えた。鬼は一緒に岩壁にもたれかかるように、真田も少し離れたところに座った。
通路の岩壁はうっすらとした明かりに照らされている。岩壁の表面がわずかに発光しているのだ。高い天井を見上げると、まるで天然のプラネタリウムのように見える。
「さて……」
低い鬼の声が、洞窟内の静謐な空気を振動させた。
「話を始めようか。俺が"悪い鬼"とは、あの使い魔から聞いたんだろう」
鬼は軽く顎を持ち上げ、洞窟の入り口のほうを指した。そこには影が、こちらを睨みつけるようにしながら佇んでいた。いつも新月の日は鬼を封じるのが役目だった影だから、今こうして鬼を野放しにしていることが悔しいのだろう。―――"総帥"の言いつけを守れないことが。
「あの男は俺を悪者にしておきたいんだ。だから使い魔に入れ知恵する」
「悪者に……しておきたい?」
「本当に悪いのはあちらだということだ」
唇の片端を上げて鬼は笑った。
「あの男は自分が生きるためだけに他人に取り憑いてる。力の強い者に取り憑き生命を奪うんだ。お前の仲間にもいただろう、力を奪われた者が」
「―――え、」
三露はぎくりと肩をこわばらせた。鬼の肩越しに見える真田の表情も固く引きつっている。どうやら真田も、三露と同じことに思い当たったらしい。
花の咲くように明るく笑った女の子。精霊が応えてくれない、と悩んでいたのがまさか総帥のせいだったなんて。
京がいつ総帥に力を奪われたのかは知らない。しかし三露の思い当たる限り、京と総帥とが接触したのは、東果でコクリ事件があった時だ。あの頃から京は力を奪われ、弱り初めていたのだろうか。そんなに前から京が死に向かっていたことを、全く気づくことができなかった。
三露は強く歯を噛みしめた。自分の身体に宿していた総帥なのに、止めることができなかったのが悔しい。
「お前だって、俺が邪魔していなければとっくに力を奪われて死んでる」
鬼が淡々と言い放つ。三露は驚いて顔をあげ、鬼の顔をまじまじと見つめた。
「邪魔……って……」
「あの男が表に出てくるのを防いでいる。宿主の中で俺たちは常に争ってるんだ。だからあの男は月に一度しか表には出てこられない」
三露は知らずのうちに片手で胸を押さえていた。この身体に総帥を宿したのは三年前になるが、まさかこの身体の内側で総帥と鬼が争っているとは思ったこともない。総帥が月に一度現れるのは、初めからそう決められているのだと思っていた。実際は鬼に抑制されているせいで、月に一度しか現れることが出来なかったのか。
それなら、もしも総帥が抑制されることなく自由に表に出ることが出来たとしたら? 鬼の言うとおり、三露などとっくに存在自体を奪われてしまっていたに違いない。
鬼の言うことが正しいとしたら、命を縮めてまで総帥を宿すことに何のメリットがあるのだろう。
「なぜそんな総帥を、組織はずっと受け継いでいるんだ……?」
三露も三年前、総帥を受け継ぐことによって組織のトップに立った。幼い頃から術者として育てられた三露にとって、それは名誉なことであるはずだった。だが三露自身としては苦痛でしかなかったのだ。みなに総帥と崇められ、特別扱いされて、自分自身を見てもらうことが出来なくなった。それが嫌で堪らなかった。
「僕は総帥なんて欲しくなかったのに」
三露が吐き捨てると、鬼は薄く笑った。
「昔は、力の強い者にあの男が勝手に取り憑いていたんだ。―――つまり組織の総帥に。それがいつしか、あの男が取り憑いた人間が総帥と呼ばれるようになった。実際はただ命をむしばまれているだけなのに、皮肉な話だ」
鬼は地面に落ちていた石を拾い上げると空中に放った。その石も周囲の岩壁と同じように淡く光りを放っている。空中高く放り投げられた石を目で追いながら、三露は口を開いた。
「……許せない」
鬼の話では、総帥はただ自分のためだけに何人もの命を犠牲にしてきたのだ。そうして今まで生きながらえてきた。奪い取った命の中には京も含まれているのだ。
他人の命を喰って生きながらえているような不自然な存在を、許すわけにはいかない。これから先、そんなものを受け継がせるわけにはいかない。
「―――……僕が総帥を連れて逝く」
決心し、三露は言い放った。
どうせ夜が明け、鬼の手が三露から離されれば、三露の命は尽きてしまうのだ。喉の傷口が割れ、血が噴き出し、為す術もなく死ぬしかない。それならば、虚誠が実を連れて逝ったように、三露も総帥を道連れにしてやりたい。しかし、
「駄目だな、出来ない」
鬼は冷静にそう言って首を振った。
「あの男は今ここにいない。だから連れて逝くことは出来ない。満月の夜にあいつが出てきている時なら、可能かもしれないが」
「……」
それでは間に合わない。夜明けまででなければ、死んでしまうのだから。
三露は歯噛みをして俯いた。このまま無益に死にたくはない。総帥を、そして父親をあの世へ送りたい。しかしそれが出来ないのだ。どうしてこんなにも無力なのだろう、と三露は自分の膝に額を押しつけた。
パシ、パシ、と等間隔で音が聞こえる。鬼が先ほどから石を空中に放り投げては、落ちてくる途中で受け止めているのだ。しばらくそれが続いた後、不意に静かになった。
「―――俺が連れていってやろうか」
「え?」
「あの男を連れて逝くことは出来ないが、しかし……」
三露の手のひらを握る鬼の指に、力がこもる。
「お前があの男を殺すと約束するなら、俺はお前の傷を"引きずって"いってやる」
「傷を……?」
そんなことが出来るのか。三露は驚きに目を見開いたが、鬼は淡々としたものだった。真剣な表情で三露を見つめている。
「しかし俺がいなくなれば、あの男は野放しになる。お前が必ず殺してほしい。約束してくれ」
「……出来るかどうかわからない」
自分の手で総帥を討てればいい。しかし必ずしも勝てるとは限らないのだ。それに鬼はこれまで長い長い時間を総帥と争ってきたのだ。にもかかわらず、三露などに託して逝ってしまっていいのか。
三露は戸惑ったが、鬼は口元をゆるめて笑った。
「お前なら出来る」
何が根拠かは知らない。しかし鬼はきっぱりと言い切った。
「お前は総帥の力にも、地位にも、溺れることがなかった。信頼出来る仲間もいる。そうだろ?」
三露の手を握ったまま、鬼はもう片方の手を三露の目の前にかざした。淡く光る小さな石が握られている。それを三露の喉元へと押しつける。それはつい先ほどまで水に浸したいたかのように、ひんやりと冷たく三露の喉へと吸い付いた。
冷たさに封じ込められたように、三露は言葉が出てこなかった。喉の奥で何かがつっかえてしまっている。鬼はそんな三露から手を離し、両手で小さな石を握った。
「沢山の宿主の中で、お前が一番好きだったよ―――三露」
キン、と高い音がした。鉱石を固い物で砕いたような音に、鬼の言葉が掻き消されていく。
三露は何も言えないまま、鬼を制止することも出来ないまま、目の前の光景をただ見つめていた。鬼の身体はゆっくりと後ろへ倒れ、仄白い光が身体から立ち上ってゆく。三露の喉に押しつけられていた石は、鬼の手の中で綺麗に二つに割れてしまっていた。もう光を放とうとはしてない。
鬼は静かに死んだ。三露の傷を連れて逝ってしまったのだ。
あとに残されたのは一つの約束だった。三露は倒れた鬼の身体を見下ろしながら思う。
自分はきっと命と引き替えにしてでも総帥を殺さなければいけない。それは静かな決意だ。鬼との約束であり京の仇(かたき)だ。そして三露のけじめでもあった。



           

 





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