遠い昔の話である。

「いい加減にしたらどうだ」
鬼は冷たい目をして言った。まだ鬼と呼ばれていない頃だった。名もあり、手足もあり、真っ黒な髪もあった。歴とした人間だった。それどころか鬼や妖し、怪奇に立ち向かっていく陰陽師だったのだ。力の程も存分で、この付近には当代無二の陰陽師が二人もいる、"二大陰陽師"さまだ、ともて囃されたうちの一人だった。
対する"二大"の片割れは、温厚な男だった。端正な顔と優しそうな目が人によく好かれた。そんな青年が、目の前にいる。
林の木立の間に佇む青年は、鬼の呼びかけに葉陰からひょこりと顔を覗かせたのだった。目が合うなり、口端を持ち上げて笑った。
「やあ久しぶりだね。唐突に何の話だい?」
いい加減にしろ、と藪から棒に振った話だった。しかし鬼が飽くほど繰り返してきた諫言で、青年も説明せずとも意を得ている話題だ。それを。
「何のことだろう?」
と何食わぬ顔で頬を綻ばせるのだった。
青年と鬼。比肩する"二大"を、年頃が近いせいだろう、周囲は甲乙をつけたがった。決まって目の前の男が「上」。ひとえに鬼がその手の外聞や人気に興味を持たなかったせいもある。しかし愛想、愛嬌、温厚、篤実。物腰柔らか。仕事も卒なくこなす。そんなものが青年の印象をより鮮やかにし、人の心を掴んでいった。
この好青年ぶりが、世間で評されるほど実のある物と思えなかった。出来た人間ならば、顔色一つ崩さずとぼけて「何のこと」とやり過ごす、こういうことはしないだろうに。
「いい加減にやめろ、と言っている。ここで何をしていた」
夕暮れの林だった。民家から離れた奥まった土地。立ち並ぶ木立のせいで人目につきにくい。
「…ちょっと人から力を分けてもらってただけさ」
悪びれない返事が帰って来たのだった。青年の肩越しには倒れている人影が見えた。林は人の出入りが少なく、時には逢引に使われる程だった。その条件を逆手に取り、今しがた悪行があったというわけだ。
好青年とはよく言ったものだ。青年はしばしば力を吸い取っていた。人目がなくなればこれ幸いと、他人の能力から生命力まで奪い尽くす。これが出来るのは卓越している証拠だが、さらに力を重ねていたのは言うまでもない。
鬼は吐き捨てるように言った。
「最近占をしても嫌な結果ばかりでる」
他でもない、彼のせいだ。頭上に広がる赤黒い夕暮れひとつとっても、最近は不吉な空模様ばかり。星を見ても、水の流れ一つとっても、吉凶を観るのが嫌になるほどだった。
「近頃ではこの辺の草原や林でも生き物を見なくなったくらいだ」
鳥もいない。鹿もおらず、野山の動物たちは我先に逃げ出してしまったのだろう。その身を動かせない草花でさえ怯えるように、ささやかな実りしかつけなかった。良くない予兆は着実に蔓延っている。
「わかっているのか。お前が不吉だと言っている」
「私かい?」
青年は笑った。穏やかな口元の変わりに、目だけが冷え冷えと光る。そんな笑い方をする青年が、後に"総帥"と呼ばれる男である。
「これはね、私の生き甲斐だからしばらくやめられそうにない」
「なら、いつまでだ。いつになったらやめられる」
「君も人が好いよ。なぜ世間は私の方を、やれ優しい、やれ好い人だと言うのかさっぱりわからない。そうは思わないか?」
一歩、青年は歩を進めた。二人の距離が少しだけ狭まると、鬼は眉を潜めた。近づく程はっきりと見える顔には、底の見えない笑顔が浮かんでいるのだった。
不吉な顔。何故この男が慕われるのか不可解でならない。
青年はさらに笑みを深くする。会話を一つ二つ交わす間に夜が舞い降り、闇が広がったが、笑顔は難なく見分けられた。闇に、何故か灯るように明るい金の色が輝いていたからだ。
鬼も目を疑ったほど。
「その髪……、お前…」
当時の日本だ。皆と違うものは鬼と呼ばれ、妖しと呼ばれていた。金の髪は人外の鬼の象徴だった。海の外から渡ってくる、悪なるもの。そのとき鬼は初めて、彼に人の言葉など通じないと気づいたのだった。
「ほんとうにお人好しなことだ」
「…俺の力を奪う気か」
「力だけじゃない。生命も、何もかも。そろそろ君も五月蝿くなってきたことだし、何より君みたいな大きな力は……最初から獲物だったのだから」
ようやく知った。遠い海の向こうでも人を喰いものにしてきた男は、悪行を咎められ、命からがら逃げてきた。力で金の髪を黒く見せ、鬼や周囲の者は騙されていた。しかし知ったところでもう遅い。
「何故!」
鬼はいつしか声を荒げていた。当時この青年に匹敵するならこの鬼。鬼に匹敵するならこの青年だけ。お互い以外、二人に比肩する者なし。そう世間に賞賛されてきたが、いくら"肩を並べる"と言われようと、当の鬼は身の程をよくわかっていた。
小差だろうと大差だろうと、差はある。最後に物を言うのは強い方。鬼は詰め寄られた距離を睨み唇を噛んだ。おそらく、この数歩程の差だ。その差で敵わない。
「何故だって? そういうのは愚問と言うのだよ」
互いに術を切った。速さも的確さも文句なしだ。だから最後に物を言うのはやはり力だった。
「私はね、常世の命と力が欲しいんだ」
そんなもののためにか。そんなものの為に死ぬとは、なんと馬鹿馬鹿しい。拮抗していた術が限界とばかりに大きな罅を刻んだ。力負けだ。新たな術を紡ぐには時間が足りず、いまにも丸飲みしようと迫る金色の光に、鬼は肩の力を抜いた。遠くでほう、と満足気なため息があった。
「諦めがいい。良いことだ。君はもっとしぶといかと思ってたよ」
「勘違いするな」
愛想など振りまいたことのない鬼が深く笑ったのは、後にも先にもこの時くらいだった。慣れていないせいだろう、笑みは皮肉に歪む。
「お前の業など叶えてやるものか。永代お前の中で生きて、お前と同じだけ生きてやろう。この世の誰が忘れようと、お前だけは俺を忘れられぬようにしてやる」
「……黙ったらどうだい」
「覚悟しておけ」
お前の中で、全てを阻んでみせよう。
生まれついた身体で青年に向かったのはそれが最後である。最期に見た青年の顔が微かに歪んだことだけが、小さな優越感だった。その後鬼は言葉通り男の目の上の瘤となる。男が長い年月をかけ徐々に力を吸い取るしかないほど、拮抗してみせたのだった。

鬼がいなくなっても、世間は変わらず青年を崇めていた。一層といっていい。周辺の陰陽師たちの憧れであり、彼らは青年を自らの上司と決めてかかったほど。そう、それがじきに組織となった。
男の中から移り変わる世を眺めてきた。鬼哭を上げることもできず、悲嘆しようものならたちまち命は吸い取られたことだろう。長きに渡るせめぎ合いがまさか、三露を救うために終わるとは思ってもいなかった。そう呟いた鬼は、最後に微かな嗚咽を噛みしめ、逝ってしまった。


* * * *


仄白い光となって、鬼は逝ってしまった。後に残された鬼の抜け殻。映し身のような父親の姿だった。気を失って横たわるその身体と、三露と真田、それだけがぽつねんと薄暗い洞窟の通路に取り残されていた。
「おい三露」
けれど振り向くことが出来ずにいると、真田が業を煮やしたように声を荒げた。おい、三露。三露、と。大きく呼ばれたその声が洞窟にこだました。それでも立ちつくしていた三露は、終いには肩を掴まれる。指に力を込める真田が嗚咽で掠れた声をあげた。
まるで縋るようだった。
「三露、そんなに見てたらアンタまで連れていかれる…!」
三露はゆっくりと肩で息をした。大丈夫だと返事をしてやりたい。けれど唇が震えてうまく言えない。そのまま紡いだ声は、いっそう頼りなく震えていった。
「ねえ真田」
肩越しに、真田の安堵の息が聞こえた。
「さっさと返事しろよ心配し…」
「僕は、皆に会えるんだよね」
意を量りかねる真田の視線を感じながら、三露は嗚咽を呑み込んだ。
「もう会えないまま逝くかと思った…」
もしかしたら喉の傷が残っているのではないか。そう思うほど、喉が熱い。


「コイツ、どうするんだ?」
真田が指差したのは気絶した父の身体だった。総帥の宿った、父親の身体。
「放っておけないよ。連れて行こう」
「な…!」
「みんなこの奥にいるんだろう。いったん落ち合って、乙羽の寺へ連れて行く。休もう」
「待てよ! アンタはどうしてそういうお人好しなことを!」
三露はあまりお人好しと評されない。それどころか冷めていると自評していた。人が好いというならむしろ真田だ。連れて行くのは危険だ、考え改めろ。そう喚く真田を制し、三露は一晩夜風でカサカサに乾いた唇を重々しく開いた
「鬼と約束した。総帥の息の根を止める。抵抗するようなら宿主ごとだよ」
「でもこいつは…この身体は……!」
「半月後には総帥になる。今はその器」
硬い呟きは闇へ溶けていった。この言い分に沿って、三露たちは皆と合流するなり乙羽の寺へ向かった。ごつごつした洞穴では閉塞感が癒えないだろう。すでに夜明けで誰しも床に就きたかったし、何より三露自身疲弊していた。身体が重く、頭の芯に軽い痺れさえある。
おそらく、この拭いきれない気怠さも手伝ってのことだ。
移動する間、痛いほど差し向けられた真田の視線を、ほとんど黙殺してしまった。三露は皆に再会してもぎこちなく笑むだけ。寺に辿り着いても口を噤んでいた。
いざ寺の本堂の床板に腰を下ろす段になっても変わらない。三露は人気を避けるようにして独り四隅の一角を陣取った。だんまりを決め込む。真田が物憂げな視線を送ってくるのは当然だ。誰も寄せつけない三露は、ついに説明を求める皆へ「真田が説明してくれる」と言い置いて片膝を抱え込んでしまった。
真田は時折物問いた気に、時折心配そうに、こちらを覗っている。それら全てに三露は一度も振り返らなかった。
「ちょっとどうしちゃったの、三露」
言ったのは忍だ。
「…いろいろあったから」
声を潜めたのは真田だった。
本堂の一角に三露、それを遠巻きにする真田、忍、蓮。危険視すべき父親は本堂から続く小部屋へと横にしてやった。一人にするわけにはいかないと、今も武政とミサが二人がかりで見張っている。いつしかついて来た影も、そこに黒揚羽の姿で羽を休めていた。
―――"父親"、か。
あれが父親と言う方がおかしい。一緒に寺へ連れて行くと主張すると、皆が反対した。抗議の声を押し切って連れてきた三露だが、内心彼を持て余していた。見張りをする勇気さえ湧かない。
同じ顔をしているのに父親だという。
我が子の喉を笑いながら斬ったのに、父親。あんなものが。
一通り説明がついたのだろう。ふと耳に忍の声が割り込んできて、ハッと我に返った。
「じゃあこれからどうするの」
真田は隣部屋まで説明が行き届くよう、心持ち大きな声で喋っていた。同じ板間に座っている三露の耳に入らないわけがない。そして答えかねる真田の困惑も目に届く。
だから応えた。
「みんなは家に帰った方がいい」
三露が話の口を切ると、部屋に静寂が降りた。予想外の言葉だったのだろう。皆が目を丸くする。
「みんな行方不明扱いだからね。忍や蓮は家族が心配してる。急いだ方がいい」
「………」
本堂は静けさに包まれた。こうして言葉を控えると、誰もいないような錯覚に襲われる。暁の古寺に似合う無音。乙羽の者を失った寺の静寂。
―――僕が一つの血筋を根絶やしにしてしまった。
少し前のこと。組織の人員不足に唸り、武政に術者探しを頼んだ。武政は乙羽の寺へ行って乙羽虚誠に声をかけたらしい。この寺の諍いは知る由もなかったが、これが乙羽の妹の癇に障った。そこにつけ入ったのが三露の父。父は乙羽実を利用し、四区の術者を攫わせた。何喰わぬ顔で三露のせいと装いながら。
これが自分のせいでなければ何だと言うのか。
「ここまで君たちを巻き込んでしまったことは悪いと思ってる。謝るよ。だから君たちはもう…」
三露の言葉尻を遮るように、不意に床の古板が軋んだ。
「いつになく饒舌で頼もしい総帥さまだ。さて口で人を倒せるのなら、だがな」
低いトーンが鼓膜を弾く。目をくれると、隣部屋にいるはずの武政だった。武政は鋭い気迫を背負いながら、本堂へ勇み入ってくる。気圧されるように三露は身を竦ませた。背を壁へすり寄せていると、形の良い足先が程近くで止まった。
「僕はもう総帥じゃ…」
「そうだった。一介の術者ほどしか力がない"三露"だったな、今のお前は。それで? そんなお前一人で何が出来るって? 俺たちを追い返して何が出来ると?」
武政の言う通りだった。今の三露はただの三露でしかなく、おそらくまるで役に立たない。
痛い所を衝かれ、三露は顔を背けた。皆を巻き込みたくないのは本心。けれど考えを絞っても、総帥をあの世に送る手立てが浮かばなかった。三露のちっぽけな脳は役に立たず、三露の力では総帥の足元にも及ばなかった。ならば決死の覚悟を決めるしかない。満月の日に総帥を引きずり出し、あの世へと"連れて"行こうか。そんなことを考えていた。
内心を読み取られてはたまらない。三露は床板に視線を注ぎ続けた。すると勢いを得た武政が、雑言を水のように浴びせた。
「何も言えないらしいな。それなのに人が黙って聞いていれば何を好き勝手に。"関係ない"? よく言ってくれる。ここまで巻き込まれた俺たちが"関係ないから帰れ"? 本当にそう思うのか。……なんとか言ったらどうだ」
「それは……」
言葉に詰まると、三露、と責め立てられた。
「ほら、何も言えない」
小馬鹿にされ、鼻で嗤われた。余裕の滲む声に、三露は少なからず投げやりになった。武政の言うことは全てが最もで、いちいち苛立ちを覚える。
「ああそうだよ。関係ないだなんて言える立場じゃない」
「認めたか」
「でも譲れない。言葉を換える。これは僕のエゴだ。エゴで君たちに関わってくれるなと言ってるんだ。……いても、煩わしいだけなんだ」
本心ではない。真実ではなかった。三露は奥歯を噛みしめ、本音を漏らすまいと堪える。目を逸らせば疑念に思われるかもしれないと、相手を睨み続けた。
視界には愕然とした仲間たちの顔が並ぶ。煩わしい、関わってくれるな。なんてひどい言葉だろう。けれど―――こうでも言わないと君たちは帰ってくれないじゃないか。
仲間が無事ならば、三露は罵られても構わなかった。そう心に決めたのに、どうして指先が震えるのだろう。三露の喉は小刻みに震えてしまうのだろう。一人でどうにかする、それは命を賭すかもしれなかった。
心の奥底では、心細く、不安だった。弱いな、と三露は自嘲する。
「勝手ばかり言って悪いね。でもわかっただろう。帰ってくれないか」
「…嘘が下手だな」
一筋縄でいかないのは、一回り長く生きてきた武政だった。三露の罵声に目を白黒させる仲間をよそに、一人超然と構えていた。三露がやり過ごせると気を緩めた矢先、それは嘘だ、と笑う。
「嘘なんかじゃ」
「そうか。ならもう一回言ってくれないか。どうもいまいち信じられないんだ、はいどうぞ」
握り拳をマイクに見立て、三露の口元へと近づけてくる。その手を鬱陶しいと払いながら、泣きたい心地だった。二度も言うのか。
「煩わしい。僕は君たちの相手をしている暇なんかないんだ」
「はいもう一度」
「………何度言わせる気だ」
「まさか言えないとでも?」
違う。否定すると、再びマイクに見立てた手を宛われる。
ああ言える、と胸を張ると、さあどうぞ、と促される。
「………迷惑だ、みんな」
「聞こえないな」
「……っ! これ以上言わせないでくれないか!」
沈黙が降りた。
「…何を?」
紡ぎきれない言葉に息が詰まり、喉が頼りなくわななく。笑って挑発する武政を、三露は全力でなじりたいと思った。
「僕は! 僕のせいでみんなを傷つけるわけにはいかないと!」
普段はこうして声を張り上げることはない。術者総帥として常に冷静でいることを強要され、三露も納得してきた。感情を剥き出しにしていると、宿した総帥や鬼に身体はおろか心まで奪われない。そう怯え、心に防御壁を作る。そうして生きてきた。
冷めた気性は持ち前ではない。ただ伝える術を、今も昔も知らなかった。
「君たちの誰もが無事でいてほしいと、だから……こうやって…」
僕のエゴで君たちが死ぬ必要がないと、どうして伝わらないのだろう。手に余る思いに奥歯を噛みしめた。打ちひしがれる三露を上から下まで検分するような双眸が一組。武政が、その目を伏せてため息をひとつ吐いた。
「お前のせい? お前のエゴだって? 俺は俺のエゴで一度死んだ親友を連れ戻してきたんだ。閉じられた世界に亀裂を作って、お前の親父が封印されていたのも知らずにな。俺はそれにヒビを入れてきた!」
武政の目元がいつになく歪んでいる。三露はそこでようやく彼のやるせなさに思い至った。目を瞠らずにいられない。迂闊だった。関係ないはずがないのに。
「関係ないと言われるのは胸糞悪い。俺は俺のエゴで責任をとる。敵討ちをする。だから帰らない。それだけだ」
敵討ち、と言った武政はちらと真田に目配せした。今は暁の頃だが、まだ真っ赤な陽が地に隠れる前、洞窟から駆け出る武政を引きとめたのは真田だったらしい。俺こそ敵討ちをするのだと息巻いた真田だが、しかし一乗寺を殺した男は隣部屋で小さな寝息をたてている。見張りをしている間、武政は屈辱を噛み締めていたに違いない。
「悪魔っ子、お前もだろう」
慎重に頷く真田がいた。
「手を出すなって言われても、俺だって残りたい」
見つめてくる青い目。梃子でも動かないとも言い出され、三露は嘆息した。ここで胸が温かくなるのは、筋違いな話なのに。
ならば残る二人だけでも。そんな思いは確かにあったが、諦めの境地でもあった。呼応するように、蓮が睨む。
「俺は京が死んだのは半分は貴方のせいだと思ってます。思ってるけど、総帥に仇討ちしたい気持ちの方が大きい。だから引き下がりませんよ」
三露も悪い。悪い三露の命令で、おめおめと逃げ帰れと言われても聞くものか。蓮はそういう心づもりらしい。
すると一同は足並みを揃えて忍を振り返った。少女は胸を張った。
「私を攫ったり閉じ込めた人間から尻尾巻いて逃げろって言うの?」
遊びじゃないんだよ。そう口を突く言葉をなんとか生唾と共に喉の奥へ押し返した。皆の強情を翻すのは骨折りだろう。三露はこれ以上誰も失いたくない。だから―――これ以上誰一人傷つけさせやしない。そう決心した。
皆で闘う。そういうことに決まった。
所詮三露だけでは力不足だとわかりきってきただけに、三露は腹を据えて思案した。深く、じっと黙り込む。不意に訪れた沈黙に皆三露を見たが、思考を中断しなかった。皆と戦う、ならば余計に考えなければならない。必ず総帥を仕留める方法を。
しかし幾らも経たないうちに、武政が急に後ろを振り返った。
「ミサ!」
唐突に叫んだ武政の声は、焦燥に駆られたものだった。その場にいた者の不安を煽ぐ声。
翻る武政の顔に、三露は一瞬目を奪われた。蒼く色が落ち、困惑と後悔がない交ぜになった顔。手に取るように感情の機微が読める。
何故一人にしてしまったのか、と。
ややもしないうちに、隣の部屋から大きな音が響く。本堂の古床を僅かに振動させるほどの音が、父親の眠る隣の部屋から轟いた。ミサがいた隣の部屋を粉砕するほどの音は、無情に鳴り渡っていった。


* * * *


もう我慢ならないとばかりに本堂へ行ってしまった武政の背を、ミサははらはらと見送った。武政の顔は憤懣に満ちていて、今にも三露の頬へ拳を叩きつけそうだった。心配に駆られたミサは、思わず追いかけることもできない焦燥感に胸を痛めていた。
しかし、事態は杞憂に終わったようだった。年季の入った建物は小さなな隙間風を通すほどで、隣の本堂での声もしっかり伝わってきたのだった。
殴ったような音は聞こえなかった。
「いつになく饒舌で頼もしい総帥さまだ。さて口で人を倒せるのなら、だがな」
耳をそばだてながら、如なら口でも倒せそうだと思った。案の定、三露は口で武政を負かすことが出来ず、事は武政の思惑通りに進んでいるようだった。まったく、困った人。
ため息と共に睫毛を伏せると、横たわる父親の姿が目に入った。今は眠りに落ち瞼を下ろしているが、目を開いているときのその顔といったらまさに三露本人だった。僕は三露だよ、と笑ったこの映し身の言葉を誰もが鵜呑みにしてしまったのだった。
三露に似せて染色したという金髪から輪郭まで、とても良く似ている。けれど三露にしては冷酷に笑い、三露にしては酷薄だった。あんなに面白そうに一乗寺の死を語り、友人のはずの真田を痛めつける。ミサの知る三露ではなかった。
隣の部屋から、エゴ、と聴こえてきた。エゴだからここに残る、という武政の言が一際大きく一枚壁をすり抜けて届いた。
「私もエゴならあるのよ」
か細い呟きは、聞き取れたとしても同室にいる影くらいだろう。影は黒揚羽の姿で羽を休めている。じっとその場から動こうとせず、隣の部屋から響く三露の声にも構おうとしなかった。ミサの独り言にも、気を配る様子はなかった。
「帰れと言われても、私だって帰らない。…そうでしょう、ウリエル様」
伏せがちなミサの目は、鋭く父親を捉えていた。今はこの身体に総帥が宿っているという。ウリエルからの返事はなかったが、次第に緊張が篭もっているのを肌で感じた。
一度、あの少年には気をつけなさいと言われた。三露を気をつけろというわけではない。―――総帥をだ。
「ウリエル様は海を渡って一人の男を追ってきたと仰った。百年前、私に八百年の契約をしたのは、九百をも生き長らえた総帥を天に召すため…」
人の命を吸い取って、力を奪って、ある男が長いこと生き長らえている。
「何故総帥が金髪か、考えなかったわけではないわ」
ミサと同じ異邦人だったからか。この島国の髪色とは似ても似つかない、その色。
三露が仲間を追い返そうと言うならば、ミサは自分の使命を掲げてここに残ると主張するつもりだった。長命であることが胸に住み着いたしこりですらあったから、原因である男に黙って背を向けることはできそうになかった。喉からせりあがってくる嫌悪に、ミサは一声うめいた。
「あなたを倒します。それが私のエゴです、総帥」
そこで、ハッと息を呑んだ。
言葉をかけたその身体の黒い双眸が、ミサを見据えていた。新月の日の暁だったが、鬼はもう浄化されてしまっていた。満月までまだ半月ある身体を支配しているのは、まぎれもなく怜悧な笑みを持つニセモノだった。
「それは御免だ」
三露の父はニタリと口端を歪めて笑った。ミサの顔面に手を掲げ、あっと言う間に何事かを呟ききってしまった。途端に白い光が迸り、轟音が耳をつんざいた。
ミサの方は、あ、と驚嘆の声を漏らすことすらできないほど僅かな間だった。
「こんな窮屈なのは勘弁してほしいんでね。ひとまず逃げさせてもらうよ」
三露たちが駆けつけたとき、小部屋はひどい有様に成り果てていた。黒い焦げ後が残るのみで、その傍らに少女の身体がぐったりと横たわっていた。


「ミサ!」
まず武政の声が聞こえた。集まった仲間に口々に名前を呼ばれ、なんとか開いた目が焦点を結ぶと、心痛そうに覗き込む真田の顔があった。その肩越しに武政や三露の顔。二人の顔が後悔を歯噛みしているように見えるのは、思い違いではないはずだった。
そうではないのに。油断したのは私なのに。しかし取り繕おうと微笑んだミサに返ってくるのは、いっそう哀憫の隠った眼差しだった。
「ミサ…心配した…。大丈夫か?」
間近で真田の声がした。再び青い瞳に視線を戻すと、結ばれた唇が震え、瞳は泣きそうに歪んでいる。心配かけてしまった、そう思って「大丈夫」と呟くと、弱々しい声が響いた。するとやはりいっそう心配されてしまうのであった。
腕にちりちりとした痛みがあった。見るとミサの両手首に包帯が巻かれていた。調達口は知れなかったが、おそらく武政が介抱したのだろう。そのおかげなのか、大した痛みは感じられなかった。
「痛いか? 生きていただけも有り難く思うんだな」
傷口を見ようと身を乗り出した武政に、ミサはゆるゆると首を振った。
「かすり傷程度よ…」
ミサは感情を高ぶらせると、ろくに呪を唱えぬままウリエルの力を使ってしまう。いつか真田と出会った頃にも同じことをした。それもとウリエルが庇ってくれたのかもしれない。文字通り天の加護だが、それが幸いなのか災いなのか、普通の人間よりはるかに長命である証だった。
「ごめんなさい。ヘマをしてしまったようね」
身じろぎをすると、起きるなと制する声と助け起こそうとする暖かい手があり、ミサは一身に仲間の心配を集めていた。しかし礼より先に喉をせり上がってきたのは驚愕だった。
「嘘……今は何時なの」
半身起こしてようよう屋外の景色に目がいったのだった。夏といえど薄闇が降り、陽が赤々と空中を染め上げていれば、もはや夕刻どころか夜は近い。昼から夜に取ってかわる境界線を今にも越えようという頃合いだった。
「だって、私……そんなに眠っていたの? 叩き起こしてくれればよかったのに!」
ではミサが記憶を手放して、半日経つではないか。
「三露、あの人は………あなたの…お父さんは今どこ?」
「とりあえず、君が無事でよかったよ」
「―――私のせいで行方がわからないのね」
取り逃がしたのか。破砕され黒い焦げ跡が縁取る壁を睨んだ。あそこから逃げられたのだ。しかし睨めど睨めど、見えるのは真っ赤な夕暮ればかりだった。千切れた雲は灰色どころか黒く染まり、灼ける太陽が神々しい光を弱めて沈んでいく。
こういう時間を、逢魔が時といっただろうか。
昼とも夜ともつかない不安定な時間には邪なものが徘徊する。不吉な時間。そんな夜を目の前にした頃に、ひたり、と古びた木目を踏む音があった。


ひたり、ひたり。とても静かな足音だった。素早く顔を上げた三露は、聞き慣れたはずの音に身震いした。
壊れた小部屋の一角から現れた人影。溶けるフィルムのごとく、闇から人の姿が象られていく。音らしい音もあげないまま、肩膝をついた、見慣れた影。
「総帥からの命を受け、馳せ参じました」
瞬きができなかった。影の声が淡々としていたのはいつものことではないか。冷めた目、丁寧な物言い。感情の隠らない影の仕草は、三露の胸まで冷やしていった。
変わらない。普段通り。けれど、黒髪を垂らして跪く影と三露の間には、明瞭な境界線が走り抜けていった。
「お伝えいたします」
男ほど堅太りしておらず、女ほど柔和でない頬が、唇を震わせるたびに柔らかく動いた。
「……よく、のこのこと。薄情だな……いや、いい。お前になんか期待していない」
影は顔を上げなかった。冷罵をしばらく噛みしめていたのか、聞き流していたのか。俯いた影から感情の機微など察することはできなかった。そして三露は数秒と待たず、心中を汲み取ることに匙を投げたのだった。
「彼はどこにいる」
「総帥はこの先の草原に居ります。墓地を抜けた、空き地に」
―――総帥。
三露の胸に湧き起こった感情は悲喜こもごもだった。「総帥」という言葉が自分を指し示さない。冷めたきった頭でそれを聞いていた。
「影は総帥にお二方をお連れするよう言いつかって参りました」
お二方? 仲間の顔が揃い、今や三露、真田、ミサ、武政、蓮、忍、総勢六名の顔ぶれがあるのに、二人とはどういうことだろう。
「ミサ様と、…三露様を案内するように、と」
―――三露。
何度「三露」と教えても、影は一度たりとも呼ぼうとしなかった。総帥、総帥、とついて回る鬱陶しい存在。今初めて、あの感情の隠らない声に名前を呼ばれたというのに、心臓はひやりと冷めきっていく。どうしたことだろう。三露と呼ばれたかったはずではないか。
冷え切った三露の身体にどっと血が流れだした。己の鼓動が耳元で聞こえそうだった。
片膝をついた影は顔を上げない。代わりに三露は穴が開くほど影を見つめた。目が離せなかった。身動きさえできなかった。
遠くで、呟きが聞こえた。三露を呼ぶのはともかくミサまで何故、と。誰の言葉かわからない。当のミサの反応さえ窺うこともままならず、三露は吹き抜ける冷風の音に聞き入っていた。



           

 





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