「みんなで戦うって、決めたくせに」
真田を納得させるのは骨が折れた。三露は未だに口を尖らせている真田に向かい、そうじゃないと何度も首を振った。非難がましい目は何も真田の我が儘からではない。心配してくれるのだとわかるから、三露は至極真面目に否と答えた。
「違うよ。呼ばれたのが僕とミサだから二人で行くんだ。連れて行けない。仕方がないよ」
「でも……」
乙羽の寺には闇が隅々まで降り、時間と共にその色を濃くしていく。涼しい風が走り、本堂の埃を攫う。もう夜だった。影が案内役に立つと言って現れてから数十分。「二人で行く」「二人だけでは行かせられない」、としばらく押し問答を続けたのだが、これ以上相手を待たせるわけにいかない。下手をすれば総帥を宿した男を取り逃がす可能性がある。三露は何とか渋る仲間たちを説き伏せた。
「これでお別れにするつもりなんかない。あの男に会ったらまず結界を張って取り押さえる。みんなにはそれから来てもらいたい」
あの男―――三露は父が破壊した小部屋を一瞥した。部屋の一角は粉砕されてしまった。半分ほど欠落した部屋を見つめながら、果たしてあの男を結界に収めることが出来るのかと危ぶむ。だがそれが出来なければ総帥を倒すなど到底不可能だ。やるしかない。小さな不安を振り切るように、三露は本堂に背を向けた。
前を歩き出した黒装束の影。その背を見ながら不吉な格好だな、と唇を歪める。この姿はまるで死者を送り出す会葬者だ。それとも水先案内人だろうか。
「三露! ミサ!」
出際まで執拗に同行したがった真田に、三露もミサも弱い笑顔しか返せなかった。すでに影は歩き出している。宥めてやる暇もなく、しかし同道を承諾することも出来ない。そこに助け船を出したのが武政だった。武政は真田の首根をむんずと掴むなり勢いよく後ろへ引いた。力加減を甘んじないせいで、真田は足下をよろめかせる。踏み止まるのが精一杯のようだ。
「しつこいぞ悪魔っ子」
「武政」
「いいからお前らはさっさと行け。こっちは俺が頼まれてやる」
肩を竦める武政の横で、蓮や忍が強く頷く。二人の目が早く行けと訴えているようだった。
背を後押された心地で、三露は歩き出す。案内人の影に連れられ、眼前に広がる闇へと分け入った。


わかってはいるが、やはり置いて行かれたという落胆が拭えない。真田は唇を噛みながら、もう見えなくなった二人のことを思った。心配するなという方が無理だ。何かあったらどうするんだ。真田の複雑な胸中を映し出したかのように、本堂には釈然としない空気が広がっていた。
蓮も喋らない。忍も口を開かない。ただ乙羽寺のどこかで、大時計が時を告げる音を響かせる。皆が口を閉ざした寺には、不自然なほど大きな音となって鳴り渡った。
「さて」
言ったのは武政だ。
「そろそろ頃合いだろう」
何の、と尋ねる前に武政は本堂を横切った。外へ向かっていく広い背に真田は困惑した。武政がゆるぎない足取りで進んでしまい、こちらの疑問を酌もうとしない。すたすたと歩き、今にも戸口をくぐり抜けてしまうかと思われた。
しかし敷居を前に足が止まる。振り向いた武政は薄く歪んだ笑みを浮かべていた。開け放たれた本堂には星明かりが差し込み、すると逆光になった武政の笑みがいよいよいびつに歪む。
「行かないのか?」
「………え」
「後をつけるに決まっているだろう」
悪戯を思いついた子供のような顔。
武政は指を一本唇の前へ立てる。静かに、と企みを隠せない笑顔を見せ、蓮や忍を喜ばせた。「なるほど」「そうこなくっちゃ」、そう笑う二人を真田は呆然と眺める。してやられた。一人意地になって三露とミサに追い縋ったのに、なんと虚しい行為だったのか。
真田は心持ち抗議を込めて武政を睨む。しかし沈んでいた心はすっきりと晴れていた。それどころか浮かれていたと言っていい。
「……今から追って、見失わないのか」
すっかり乗り気になってしまい、戸口を前に待っていた武政に鼻で嗤われた。
「馬鹿だな悪魔っ子。これ以上近づいたらお前の気配でミサに気づかれるだろ」
「あ……」
「これくらい距離がないとあの二人は追えない。安心しろ、俺には動物並の聴覚がある。足音くらい聞こえるさ。それにこっちには"レーダー"の力を持つ術者がいる。お前だって、その気になればミサの気配を追えるんだろう」
感応能力の高い蓮が、任せてくださいと拳を握ってみせた時だった。
不意に人影が立ちはだかる。
「その必要はないよ」
本堂の扉は開け放たれていた。そこを潜って入ってきた人影に、いつの間にとしか言いようがない。
「三……っ!」
悪巧みが見つかった瞬間というべきか。真田の心臓は大きく跳ね、しばらくしても落ち着きを取り戻せなかった。戸口に立ち塞がるのは、金色の髪、冷めた表情。三露が腕を組んで立っていた。その三露があからさまに眉を吊り上げたかと思うと、不穏な声音が響いた。
「全くずいぶん聞き分けがいいと思ったら、そういう魂胆だったんだね」
三露は組んでいた腕を下ろす。かと思うと静かな足取りで歩き出す。床を軋ませる音が奇妙に響き、一歩、また一歩と、真田たちへ距離を詰めた。すると真田の後ろで小さな物音が立った。何かと訝しがると、蓮が一歩二歩と、詰められた距離と同じだけ後ずさっている。
「……お一人、ですか」
強ばった蓮の声。答えとなって返ってきたのは、三露の剣呑な笑顔だった―――正確には三露ではない。意を得た真田は躊躇うことなく後退した。そうか、そうなのだ。彼は三露ではない。正しくは三露を装った男。
「ニセモノ!」
背筋が寒くなった。
警戒して肩をいからせた真田を見、男は首を竦めた。やれやれと言わんばかりの調子だ。
「……残念。もう少し騙されてくれると思ったのに」
潮らしく嘆息する仕草が三露を彷彿とさせた。知らず知らず気を弛ませかけてしまった真田は、次の瞬間、身体の芯から震えを覚えた。気落ちしたような男はよく見ると口端を持ち上げていた。笑っている。真田はいきり立った。
「もうお前なんかに騙されるもんか!」
三露ではない。人を弄ぶことなど三露はしない。こうやって騙すことは決してしない。真田が敵意を込めて放った視線が男を突き刺した。ところが男は事も無げに視線をいなす。
「騙されない、ね。本当に?」
それどころか挑発さえする。男の楽し気な笑みが鼻についた。
「なに……」
「本当に、と訊いたんだよ。果たして君は本当に騙されない? こんなことにも気づいていないくせに? 君たちはもう僕の手の中ということに、まるで気づかないのに?」
弾かれたように真田は走った。本堂から小部屋へ伸びる道へ一目散に向かう。本堂の壁にくり貫かれた四角い空洞。寺の奥へと続く、その出入り口。しかし真田には通り抜けることが出来なかった。バシッと大きな音が上がり、障害物に阻まれる。何も見えないが、すり抜けられない壁が立ちはだかっていた。
真田は衝撃の侭によろけ、尻餅をついた。冷たい汗が流れる。
「……また、結界」
隣部屋へ続く廊下が駄目ならば、偽物が押し入って来た戸口もおそらく抜けられない。本堂を丸飲みするように、結界という壁がひしめいている。では、また閉じこめらてしまったのか。これでは何も出来ない。嫌というほど思い知っているのに、また。落胆する真田を駄目押しするように、偽物の高笑いが響いた。
「無駄だよ。僕は君たちと違う。同じ手は喰わない。この中では僕以外、術を使えないようにしてあるんだ」
武政にかけられた言葉だった。昨日結界を破ったのは武政だ。武政は結界の外で働く術を使い、施術者の思惑をかわした。まんまと結界を打ち破っている。
けれど二度目はない。高笑いを不気味に響かせる偽物は余裕綽々だった。反対に、真田は唇を噛むしかない。
「まったく気持ち悪い笑顔だな」
武政の声が高笑いをはね除けた。低いトーンの声に、キンと甲高い音が混じる。
何かと思って振り仰げば、武政はどこから持ち出したのか刀を一本握りしめていた。抜かれて邪魔になった鞘は放り投げられ、床へ転がる。乙羽の寺をいつのまに家捜ししたのだろう、そう思うほど煤けた鞘だ。しかし対する抜き身になった刃は丁寧に磨き上げられた見事なものだった。
それを勢いよく突き出し、偽物の頬に赤い筋をつける。微動だにしなかった男はくつくつと笑った。当たらないと確信していた様子で、傷をつけた武政の方が眉を潜めている。
「それで、お前。どっちだ」
武政が問うた。
「どっち? そう言われると"僕は三露だよ"と言いたくなるじゃないか」
外から差し込む星明かり。刀がきらりと煌めく。
「誰に似せてるつもりだ。ちっとも似ていない。気持ち悪いくらいだ」
「そう……君とは一度会っているからそう言われても仕方がないのかもしれない」
刀が金色の燐光を帯びる。反射したのは果たして星明かりにか、偽物の髪色にだったのか。
「やっぱり、そっちか」
男の髪は火が灯ったような金色をしていた。ならば。
「総帥」
真田は息を呑む。



落ちていた小枝を踏み、小さな音が弾けた。三露はミサと肩を並べて墓地に続く坂を歩いていた。乙羽寺の墓地を抜けると草原がある、その先に父が待つ。そう影は言った。夜陰の降りた坂道は静かで、足音以外、耳に届くのは時折聞こえる鴉の鳴き声か、足下の小枝を踏んだ音だけだった。
静寂の帳をそっと払ったのは、隣を歩くミサだった。
「私、きさらがあんなにすんなり承諾してくれるなんて思わなかったわ」
「そう?」
三露は首を傾ぐ。
「それより真田があそこまで聞き分けてくれない方が予想外だった」
真摯な青い目が思い起こされる。待て、二人だけでは行かせられない、と訴える真田の表情が今でもはっきりと浮かべられる。はじめはミサが手負いだから執拗に抗ったのかと思ったが、今からするとそれにしては頑固過ぎた。危ない、素直に行くなんて得策じゃない。そう訴えた真田はひどく不安がっていた。まるで虫の知らせでも聞いていたかのように―――。
「そうかしら。真田の方がよっぽど真田らしかったわ。私、きさらがあんなに静かだと……まるで何かを企んでるんじゃないかって思わずにいられない」
「まさか」
「まさか、よね」
「………そうだよ、まさか、そんなはず」
から笑いをあげたが、それも長くない。三露は徐々に不安を覚え、温度の引いていく頭を回して振り返った。元来た道が延びている。ただ暗い道だ。傍らに木々が並ぶ、簡素な舗装の道。もう一方の傍らには墓地。人気はどこにもなかった。それでも納得がいかず、隈無く周囲を見渡す。何度か繰り返し、ようやく三露は胸をなで下ろした。
「考えすぎだよ。武政ならあり得るけど、後を追ってくる気配はない」
「そうね……」
三露と同様に背後を探っているミサは、暗闇の奥に何か見えるのだろうか。そう思うほど往路に釘付けになっている。やがて諦めたように歩き出したが、足取りは重いものに変わっていた。
「ミサ?」
呼んでも返ってくるのは生返事だけだった。ミサは妙にそわそわとしていて、出立時の潔さはみるみると消沈していた。そうこうするうちに遅くなった足でも草原へと抜けた。しかし隣の少女の顔色は一向に冴えることはなかった。
草原は殺風景な場所だった。荒涼とした空き地。見渡す限り緑と土肌しか目につかない。ここです、と案内を終えた影に、三露は思わず眉根を寄せた。視界に入るものは数える程で、人影も見えない。耳を澄ましたところで、聞こえるのは葉擦れの音だけだ。本当にここなのだろうか。あの男はどこに、と口を開こうとした矢先、三露は言葉を失った。
「な…」
足下が急速に煌めきだしたかと思うと、星形の図が浮かび上がった。
思わず足のつま先で土草をなぞる。
「五芒星(セーマン)…!」
三露とミサの二人を飲み込むように、星形の図が寂光を放つ。結界だ。ぼんやりとした光の壁が世界と三露を隔絶していた。意識の奥底に、どういうことなのだろう、どうしてこんな、と目を背けたがる自分がいる。だがその狼狽も束の間のこと。三露に追い打ちをかけるかのごとく、後方で光の柱が上がった。
愕然とした。辿ってきた道のさらに向こう、鬱蒼とした陰樹と緑墓地を越えて、乙羽の寺の屋根が見える。否、見えた気がした。もはや光の柱が包み込んでしまい、今ではあるのかないのかさえわからない。
「嘘だろ……そんな」
隣のミサも小さな悲鳴を零す。
その声に弾かれ、三露は叩きつけるように呼んだ。
「影」
曇りガラスのような壁が影との間を阻む。壁の向こうに見える黒い人影は顔の微細が捉えられない。じわじわとぼやける影を三露はきつく睨みつける。視界が歪むのは結界のせいだろうか。それとも三露の目尻が熱いからか。
「僕たちをここから出せ、影。結界を解くんだ。お前はあの男がここで待ってるって言った。でもいない。それどころかお前は僕らを引き離してこんな罠にはめて! 今なら、今ここで結界を解くと言うなら僕らだって考えたっていい。選べ、影」
「そ……」
何事か言おうとしている。けれど影の言葉はそれきり続かなかった。三露は唇を噛んだ。噛まずにはいられない。
「お前の崇める総帥はこんな手を使う男なのか。そんな人間をお前は讃えてるんだな……。お前も一緒になって……、…さぞ僕たちを嘲笑っていただろうね」
胸が灼ける。
「お前は僕らを騙してたんだな」
影が狼狽えたようだった。けれど所詮幻想だ。結界の壁越しに確かな表情など捉えられない。
「僕を、騙してたんだろ……?」
もういい。いいのだ。
―――もうお前のことなんか、決して信じないから。



「総帥」
真田は口の中で同じ言葉を反芻した。その度、胸に広がるのは困惑だ。
「じゃあ三露の父親は…?」
思い起こされるのは三露の肉親のこと。息子を息子と思わず三露から"総帥"を引きはがした男はどうなったのだろう。三露とミサを呼び出したのは彼ではなかったか。
「君が聞いているのはこの身体の持ち主のことかい」
総帥は喉の奥で笑ったが、目だけは剣呑としていた。
「そんなの、もう私が取り込んでしまった」
「そんな…!」
「もうこの世に居ない」
真田は意味の為さない言葉を繰り返した。「そんな…、そんなの」、真田とて偽物に肩入れするつもりはない。しかし人の"力を吸い取り"、我が物にしていく総帥に嫌悪を覚えずにいられない。嘔吐感が胸までせり上がってきた。―――自分は違う。そう己に言い聞かせながら、頭から血の気が引くのを抑えられなかった。
喰う、ということ。総帥の人の命を吸い取る力は、自分の持つ悪魔、ベルゼビュート(大食公)の力と大差ない。真田は急に自分が恐ろしくなり、全身の震えが止まらなくなった。奥歯がガチガチと鳴る。こんな局面なのに、しっかりしなくては。そう奮い立たせるが、努力も虚しく、腕一本足一本自由に動かせない。それどころか瞬きすら思うようにできなかった。
「そんな…そんなの」
真田の呻きに、違う者の声が重なった。いくらか高い声が、か細いく本堂にこぼれ落ちる。忍が口元を抑え、その指の隙間から零した声だった。
「そんなの、ひどい」
忍は三露とそっくりな顔を睨みつけて言う。
「三露がかわいそう」
忍は総帥から目を離し、次に傍にいる風神レラを複雑そうに見上げた。「三露は家族円満が一番て言ってた……なのに、ひどい」、言って床に視線を落としてしまう。忍自身、偽物のことを許せないだろう。しかしそんな父親でもいるべきか、そんな父親ならいない方がましか、量りかねている。頼りない声は弱く掠れ、霧散した。「三露がひとりぼっちになっちゃったじゃない」、と。


本堂に沈黙がもたげている。真田は重い空気を破る気になれず、まんじりとしていた。どうしようか、何か切りだそうか。
しかし三露が父親のことを知ったらどう思うかと考えると、無性に居たたまれなくなり、どうする気力も起こらなかった。真田はこの陰鬱な空気の破り方を知らない。三露と同じ顔を見つめながら、困惑と動揺に苛まれていた。
その総帥に不気味に陰が降りる。細長い暗鬱な陰が、総帥を襲った。突然のことで真田が目を瞬いているうちに、陰が再び走り、空を切る音が響いた。武政が刀を薙いだ音だった。
「武政!」
真田は顔を蒼くして叫んだ。刀は先程まで総帥の首に宛てられ、大きく振れば血飛沫が飛ぶはずではないか。周囲はこぞって息を呑む。
けれど恐る恐る目をこらした先に、赤い飛沫は散らなかった。流血沙汰には至らず、いつの間にか後方に避けた総帥が、静かな笑顔を覗かせているだけだ。
「し損じたか」
武政は大きく舌打ちした。なお刀を振る。その度総帥を掠め取れない切っ先が虚しく空をかいていった。
―――すごい。
武政は剣術を学んだことがあるのだろうか。武政の立ち振る舞いも見事だが、総帥も身軽にかわし続けている。武政が一歩踏み込むと、総帥が一歩身を引く。武政が刀を振ると、総帥がひょいと避ける。奇妙な話だが息が合っているようにさえ見えて、真田の踏み入る隙もない。傍観だけで精一杯だった。そうこうするうちに二人は壁際へと誘い込まれていった。
「ところでその刀」
総帥が嘲弄した。
「まるで赤子の太刀筋じゃないか。私をなめているのかい」
武政の眉がピクリと眉跳ね上がった。「刀など使ったことがないんでな」、言って武政は、握る太刀を大きく力任せに一振りする。
あがったのは、鋭い打撃音だった。
「…っ!?」
刀が斬ったのは総帥ではない。本堂の壁だった。
二人はすっかり壁際ににじり寄っていた。間合いを見誤った武政の刀は総帥の残像を切り、壁に刺さって止まる。引こうが押そうが、まるで壁から抜ける気配がなかった。武政がサッと顔色を失う。
青ざめた武政のすぐ横に、総帥の姿がある。
「愚かだね。勝算がない、ならば手を止め、じっとしていればいいものを」
「…生憎時間が惜しかったんでな」
総帥を殺せば結界も解ける、手を拱いてはいられない。そう言って、武政は皮肉そうに笑った。次の瞬間、武政の頭が横殴りにされた。
「武政!」
真田の喉に悲鳴が籠もった。次の真田の叫びに混じる、武政の呻き声。広い背がゆっくりと傾いでいく。ついには床に横たわる。
武政が倒れ込むと、本堂の床は軋み、かすかに埃があがった。埃は夜闇の中でキラキラと輝きながら舞う。武政を横殴りした総帥の拳がかすかに光りを灯していて、ちらつく埃は何度も明かりを反射した。
おそらく術だ。ただ殴っただけではない。
武政には相当な痛手だったのだろう。無防備のまま微動だにしない。そんな武政を総帥は幾度も足蹴にした。それでは飽き足らないらしく、力強く踏みにじりさえする。
「アンタ…!」
真田は怒りで頭に血が上った。衝動のまま、悪魔を呼ぶために唇を震わせる。術を封じる結界が何だというのか。結界の中で無理に術を発動すれば、力は真田に返ってくる。身体が壊れかねない。けれど壊れてでも助けられるなら、それでいいではないか。
真田は召喚の度に口にしてきた句を言いかけ、だが、嘔吐感を覚えて口元を抑えた。みるみるうちに震え、全身が戦慄く。
いざベルゼビュートに命令しようとして、思い至ってしまった。自分はベルゼビュートを呼び出して、何を喰えと言うのか、と。武政を踏みつけている総帥を喰ってしまえ、そう命令するつもりか。人を喰らうつもりなのか。そう思った途端、足が竦んだ。
真田は堪えきれなくなり、震えながら蹲る。その様子に仲間は目を丸くし、総帥は微笑みを深くした。
―――武政を助けなければ。
そう思うのに、真田は自分が怖い。震えて言うことをきかない手足に、真田は悔しさをぶつけることしかできない。
「そう、そうやってじっとしているほうがいい」
総帥の優し気な声がかけられる。けれど声は真田を宥めるどころか、神経を逆撫でする。
「何を…ッ!」
「命が惜しければ黙って動かないでいることだ」
好きでこうしているのではない。動けるものなら動きたい。
真田は沸々とこみ上げる感情に、頭が働かなくなってきた。やるせない、至らなくて情けない。様々な感情に突き動かされ、もはや後先は考えられなかった。人を喰えと命ずることになる、それがわかっているのに再び口を開く。
が、召喚を遮る声が本堂に響いた。
「待て、真田」
苦痛に声を殺していた武政が、低い声を絞り出した。武政を助けようとしているのに、何故彼に制止されるのだろう。真田は困惑気味に、踏みつけられたままの武政を見た。武政の制止には、彼に足を置く総帥もおや、と目を丸くする。
「武政……何言って」
「待てと言ってる」
何故と問う前に、総帥が言葉を引き継いだ。
「そうとも。大人しくしていれば彼よりは長く生きられる」
彼―――武政がぜいぜいと息を漏らしていることに、真田は今更ながら思い至る。
思えば武政は総帥の身体より頭一つぶん背が高い。術の力はともかく、体力だけで言えば多少総帥の上をいくのではないか。何故大人しく踏みつけられているのだろう。真田に待てと言うくらいなら、総帥の足を力まかせにはね除けてしまえばいいのに。
それが出来ないのだと、真田は今更ながらに知る。
「私の張った結界はもう一つ意味がある。気がづかないのかい? 君たちの力を吸い取っているんだ。今この瞬間も、徐々にね。これだけ人がいれば一人ずつ命を吸うのは手がかかるから結界に細工した。この男のように動けば残りの生命力を削るだけ。だから君たちは賢明だね」
「そんな、武政は…っ」
「気にすることはない。彼は力を奪われていると承知で暴れていたのだから」
真田の喉が鳴る。刀が使えないと言っていた。時間が惜しいから手を拱いていられないとも言った。武政は結界に小細工が施されているのを知って、なお闘っていたのか。それどころか知っているから焦るがままに刀を振り回していたのか。
武政の呻き声も小さくなった。擦れて消えて、すっかり間遠になってしまった。
「弱いね」
総帥の声にも反応しない。口達者な武政の声が恋しくなってくる。何でもいい、まだ生きているとわかれば罵詈雑言だっていい。真田は何度も武政の名を叫んだ。しかし変わらず返事はない。
「武政!」
一際大きく名前を呼ぶ。仕草一つでいいからして欲しい。
真田の切望も虚しく、沈黙が続く。静寂がふと途切れたのは、総帥が「さて」と肩を竦めて水を差したからだ。今まで武政に向けられていた目が真田を見据える。声を上げなくなった武政になど興味がないかのように。
「…さて、君はどうするんだい?」
「俺…は」
「君は前に会ったとき、お礼がしたいと言ったね? 何なら今ここで示してくれてもいいんだよ。…例えば私のためにそこの残り二人を食らってくれる、とかね」
見ずとも、蓮と忍が息を詰めたのがわかる。
「二人を…喰う?」
「そうさ」
真田は冷めた心地で視線を落とす。
「……アンタは気まぐれだな」
小さく零して、召喚文句を紡ぎはじめる。「召喚(Laden)、姿成せ(Erscheinen)…」、慣れたドイツ語がゆっくりと口から滑り出ていく。
―――総帥は真田に二人を喰えと言う。そのくせ、術を封じる結界を解こうともしない。勝手気儘な男だ。人を人と思っていないのだろう。真田は奥歯を噛みしめる。身体に痙攣が走った。
おそらく、結界の中で術を使うことはこういうことなのだろう。身体が壊れそうだ。
―――身体が壊れたっていい。
壊れてもベルゼビュートを喚び出そう。喚び出して言うのだ、総帥を喰えと。
人を喰うことを躊躇っているうちに、武政は酷い目に遭ってしまった。蓮や忍までそうさせたくない。真田の悪魔は人をも喰うが、それで仲間が助けられるのなら何を嘆くというのか。そう決意をした真田だが、確かに胸は軋んでいる。
総帥の満足そうな笑みが目に映る。その表情に憎悪が抑えきれず、真田は視線を外す。すると横たわる武政が目に入った。真田は息を呑む。わずかに目を瞠る。
―――武政。
口に出して言いそうになり、真田は必死に堪える。見ると横たわる武政は指を一本、唇の前へ立てている。てっきり動かなくなったものだとばかり思われた武政は目だけで、静かに、と笑う。踏みつけられていなかった手を伸ばし、およそ足下に気づいていない総帥の足に手を伸ばした。
そして、盛大に引く。
武政の手に引かれた総帥の身体は、バランスを崩し大きく傾いだ。真田は面食らわずにいられない。さすがは武政だ、いつだって侮れない男。
真田が驚きを通り越して呆れていると、鋭い武政の声が飛んできた。
「悪魔を呼べ、真田!」
「え……」
「隙が出来た! 今だ、悪魔を呼んで結界を喰え!」
真田は慌てて頷き、大きく息を吸い込んだ。振り絞った声が本堂を劈くように反響する。
「大食公ベルゼビュート(Vielfrass)! 結界を好きなだけ喰っちまえ!」
本堂から、光の柱があがった。


人間を喰うための力ではない。
「自分や他人を助けるための力なんだろう」
低い武政の声が聞こえた気がする。
そう、いつだったか、確か自分は誰かにもそう宣言した。


* * * *


もう二度と影のことなど信じない。
「もう、いい」、三露は言って指を組む。「お前になんか頼まない。自分で解く」
言って、足下の結界を睨みつけた。セーマンの図が淡く発光し続けている。
「お待ち下さい!」
影の制止が幾度か耳についた。その全てを黙殺し、三露は意識を集中させる。結界は中の者を封じ込めるものだから、破ろうとするなら相応の覚悟が要る。結界を張った術者と、中に閉じこめられた者の力比べだった。果たして結界の仕掛け人が父なのか、影なのか、定かでないぶん三露の指に緊張が籠もる。
―――けれど、どちらでもいいことだ。
負けて自分の身体に負担があるとしても、どうでも良い。どうにでもなれ、どうせ結界を破らなければならないのだ。例え、ここで倒れても。
"これでお別れにするつもりなんかない"、出際に真田とかわした約束は、三露の脳内から綺麗に抜け落ちていた。何だかもう、どうでも良い。
「お止めください!」
一際大きく響いた影の声を、三露が意に介すことはなかった。呪を口にする。止めようとは思わない。すると懇願するようなか細い影の声が鼓膜をくすぐった。
「駄目です、そんなことなさっては…それでは…」
三露は失笑するしかない。
「僕に力が跳ね返ってくるって?」
「それは……」
力比べに負けて、結界を破れず、三露の身体に力が跳ね返ってくる、そう言っているのだろう。
「…お前に口を挟まれるのは、癪だ」
三露は睫毛を伏せる。影はぼんやりと歪む結界の壁の向こうで唇を引き結ぶ。あれだけ執拗に止めにかかったのだから、結界の主は父かもしれなかった。総帥の力を宿し、恐いものなど何一つないあの男。勝てるかな、とぼんやりと思う。負けると身体にかかる負担は生半可なものではないのだけれど。他人事のように遠くで考えながら術を紡いでいく。ところが肩に人の温度を感じ、三露はつい息を呑んでしまった。不意を突かれたことで、術が中断されてしまった。
見ると、ミサの小さな手が肩に添えられている。
「私がやるわ」
三露を押しのけるように、ミサが半歩勇み出る。共に結界に閉じこめられたミサは、居ても立ってもいられなくなったのだろう。先刻光の柱が上がった乙羽寺を一瞥してから、小さく唇を噛んだ。
「私がやった方が、きっと早いわ」
「待…」
ミサが無茶をすることはない。結界を解くのは三露自身のつとめだ。そう名乗り出ようとし、すぐに異変に気づく。三露の視界が小さく震えた。ガタガタと不安定に揺れ出す。地響きが轟いた。
「ミサ?」
ミサは揺れに翻弄されることなく、祈るように指を組んでいる。小さな背からは、六枚の白い翼が浮かんでいた。
「地天使ウリエルの力…」
足音でピキッと甲高い音が弾けた。一筋の地割れが駆け抜ける。なるほど、地割れは結界をも駆け抜け、セーマンの図を見事に崩したのか。天使と足下の地割れを代わる代わる眺め、感嘆に言葉もない。
三露たちを隔てていた壁が、地に裂け目が走るや否や跡形もなく溶けていった。あっけないほど、静かに、パッと散って消える。
残されたのは大地に残る焦げ跡のようなセーマンの図。しかしそれすら地に走った一本の裂け目が崩してしまっている。
「ミサ」
呼ぶとミサは肩で息をしている。無理したのだ。けれどミサは我が身を顧みず、勢いよく駆けだした。今まで登ってきたなだらかな坂道を転がるように下っていく。
「待…! 一人で行っちゃ駄目だ!」
蒼白な表情が残像のように三露の胸中で疼く。一目散に駆けだしたミサは、敵の陣中に一人飛び込みそうな勢いだった。三露は慌てて小さな後ろ姿追おうと翻す。けれどすぐに追いかけることができない。三露の腕を引く確かな力があった。
三露は静かに振り向いた。
腕を引いてやんわりと押しとどめる影を睨む。
「離せ」
「行っては駄目です!」
何故止めるのか。
「離せ! もうお前の言うことなんか信じないって決めた…!」
そう、決めたのだ。
三露は影の白い手を力強く振り払う。


* * * *


大きく足が振り上げられた。
それを目端に捉え、武政は白濁しかけた頭でまずいな、と唸る。止める間もなく、総帥の足が勢いよく武政の横腹に喰い込んだ。
「……つっ!」
声にならない声が喉を引きつらせる。次には肺からせり上がる苦痛に悲鳴をあげた。
「やってくれるじゃないか」
総帥は我慢がならないらしく、踏み付けてきたり、蹴りを入れたりと、まるでこちらを鞠かボールと勘違いをしてる。武政は苦痛に呻く一方で総帥を出し抜いたことが面白く、せせら笑った。
武政が隙を作り、真田が結界を喰い尽くした。雑魚と思っていた人間に出し抜かれ、総帥はさぞ悔しいのだろう。怒気の籠もった蹴りが続く。けれどそう長く経たないうちに、鋭い声が本堂を駆け抜ける。
「クダ!」
「レラ!」
蓮と忍の声に、管狐と風神が応えた。結界がなき今、総帥は応戦するしかない。じれったそうに舌打ちしながら、咄嗟に手の甲で攻撃を払った。その仕草だけで一蹴できてしまうのはさすが総帥というところで、武政は見上げながら「憎たらしい」と呟く。呟いたつもりだった。
―――まずいな。
意識が白濁する。喉を震わせることもできない。全身が悲鳴をあげていた。結界の中で動き回ったことが痛手になった。着実に命を削り、その生命力は総帥のものとなっていたのだと思い知る。
耳に、蓮や忍に加えて真田が攻撃する声が届く。総帥の皮肉の声、攻撃音。時折混じる、総帥の余裕に満ちた笑い声。
それらの音が不意にぴたりと止んだ。総帥が動きを止め、苛立たし気に戸口を振り返る。その所作がたまらなく不機嫌そうだった。
四角い本堂の戸口に小さな陰が飛び込んでくる。
まず気づいたのは総帥だ。次いで武政が気づいて息を飲む。蓮も真田も気付き、忍が皆につられるように戸口を見たとき、総帥は小柄な陰に向かって掌をかざしていた。
「もう来たか」
使えない、引き離した意味もない、とぼやく総帥が術を紡ぐ。かざされた掌が光り出す。
「…先手必勝と言うしね」
無防備に戸口から飛び込んできたミサが、目を見開いていた。



―――みんなっ!
皆の安否が心配で、たまらなく心配で、夜風が目に染みることにも構わずミサは走ってきた。走って、寺に駆け込み、本堂に人の気配を感じた途端安堵と嬉しさでいっぱいになった。無防備に、みんな、と叫びながら本堂に飛び込んだ。
考えなしだったと気がついた時には後の祭りだった。本堂へ押し入る前に、背後から三露の制止が聞こえたことも、全て終わってから気づいたことだった。
我に返ると、ミサは腰を抜かして座り込んでいた。本堂の古い床板が冷たい。対照的に膝の上には、暖かい感触があった。それがひどく重い。
重石のように重く、柔らかい感触。武政の身体だった。
ぐったりとうなだれた武政の身体がミサの上に倒れている。
「きさ…ら…?」
本堂に入ったとき、まばゆい光がミサを襲った。わけもわからず、気づけば古い床板に腰をついていた。何一つ理解が覚束ない中で、それでもミサがわかった事。
「きさら…!」
彼はミサをかばって倒れてたということ。
その身体がひどく重いこと。
つと目蓋を開き、ミサを見て微笑んだこと。
それきり目を閉じて、ぐったりと動かないこと。
寸分たりとも動かないこと。
「いや…! きさら!」
そして、呼んでも返事がないこと。

武政が、今この瞬間、息をひきとったこと。



           

 





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